いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

2012年4月の記事一覧表

2012年04月30日 18時44分39秒 | 月別 記事の一覧表

2012年4月の記事一覧表:

河北・蔚県と暖泉


 「楡林古城・明とモンゴルの攻防戦」などでも取り上げている、明の防衛システムと万里の長城の中に組み込まれた北京郊外の町。
  町を散策しながら、防衛システムの中で担った役割を探ります。
 「楡林古城・明とモンゴルの攻防戦」と合わせてみてもらうと一層面白いですが、こちらはやや写真中心でお気楽です。

一覧表:

2012.4.1.    蔚県1、宦官王振の故郷
2012.4.2.    蔚県2、鼓楼
2012.4.3.    蔚県3、鼓楼とほうき
2012.4.4.    蔚県4、玉皇閣
2012.4.5.    蔚県5、本殿の扁額
2012.4.6.    暖泉1、「蔚県800城」の一つ
2012.4.7.    暖泉2、西古堡
2012.4.8.    暖泉3、「鬼が来た」の日本妓楼
2012.4.9.    暖泉4、特産の切り絵
2012.4.10.   暖泉5、地蔵寺の入り口
2012.4.11.   暖泉6、地蔵寺の二階
2012.4.12.   暖泉7、火花の祭典「打樹花」
2012.4.13.   暖泉8、古い写真との比較


河北・蔚県と暖泉 記事の一覧表

2012年04月15日 15時52分15秒 | 河北・蔚県と暖泉

河北・蔚県と暖泉


 「楡林古城・明とモンゴルの攻防戦」などでも取り上げている、明の防衛システムと万里の長城の中に組み込まれた北京郊外の町。
  町を散策しながら、防衛システムの中で担った役割を探ります。
 「楡林古城・明とモンゴルの攻防戦」と合わせてみてもらうと一層面白いですが、こちらはやや写真中心でお気楽です。

一覧表:

    蔚県1、宦官王振の故郷
    蔚県2、鼓楼
    蔚県3、鼓楼とほうき
    蔚県4、玉皇閣
    蔚県5、本殿の扁額
    暖泉1、「蔚県800城」の一つ
    暖泉2、西古堡
    暖泉3、「鬼が来た」の日本妓楼
    暖泉4、特産の切り絵
    暖泉5、地蔵寺の入り口
    暖泉6、地蔵寺の二階
    暖泉7、火花の祭典「打樹花」
    暖泉8、古い写真との比較


暖泉8、古い写真との比較

2012年04月13日 18時43分13秒 | 河北・蔚県と暖泉
ところで、暖泉には何年も前から何度も来たことがあり、
今回ブログを書くに当たり、古い写真を引っ張り出して来て見ると、愕然とした。

やはり格段に町はきれいに整備されている。

以下は2001年、まだデジカメも普及していなかった頃にフィルムで撮った写真との比較をしてみましょうー。


北官堡の同じ角度から撮った写真である。

    


こちらは、今回撮った写真。

    


道路が舗装されていないので、でこぼこの土道。
道行くのも、今回が豆腐の燻製なら、昔は天秤棒とバケツである。

もしかしたら、これが。。。。噂の「水屋」でしょうかね。
肥えをこんなに大量に、2人が同時に持っているのは、ちょっと多すぎ。。
この頃は、上水道もまだ各家庭に入っていなかったらしい。




城門の上を見ると、祠は屋台骨だけですかすかである。


舗装されていない道路が、どれくらいどろどろだったかというと。。。。
おそらくこの時は、雨上がりだったのだろうが。。。

  

道端に陣取る羊の群れが、泥の中に座り込んでおり。




んもおおおお、どろどろ!!!

すさまじい地獄絵図である。
羊の群れが牧歌的なんて、この図を見たら、言ってられないくらい。。。

そして、路地裏には、ブタさんたちが。

    

    

私は、奥の門構えの瑠璃タイルの影壁がきれいだと思い、撮ったのである。
しかーし。ファインダーに入ってくるのは、泥をむさぼる巨大なブタさんたち。



ブタ糞の悪臭がただよっていたことは、いうまでもない。


昔の迫力ある西部劇のような荒涼さと比べ、ちょいとこぎれいにまとまりすぎてきた観はある。
そのすごい「脳天パーンチ!!」と期待してきた私にとって、
今回は、「あれ??」と少し拍子抜けであった。



人もあまり通らない表どおり。
今はもう城内で羊を放牧させるのは、禁止されているにちがいない。
あの当時は、すさまじい「肥え」のにおいがした。

泥とともに、羊やらブタやらの糞を踏むしめて歩いてもわけわからん状態だったのだろう。






民国風の建物。


    


    





さて。昔の写真がまだいくらかあるので、ご披露。



西古堡の外ですな。この雰囲気は、あまり今と変わらないが。。。
これも数年たったら、北京の後海のようなカフェ街になって、ボブマーリーの曲が流れ、
ドレッドヘアーの白人の兄ちゃんが、ビールをラッパ飲みしてそう。。。


私がこの町で、一番好きだった看板。



「抜牙」でっせー。
抜いたら、この絵みたいにきれいな歯並びになる、ってことかしら。
シュールだぜ。




石炭コンロ。
電気で風を送り込むファンがついている。
鉄でできていて、高温になっても溶けないようになっている。

****************************************************

蔚県と暖泉の旅、本日で終了ですー。
長い間、お付き合いをありがとうございましたー。

塞外気分で盛り上がったまま、一気にアルタンハーンの物語もまとめて行きたいものである。

がんばれ、私!


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暖泉7、火花の祭典「打樹花」

2012年04月12日 13時42分30秒 | 河北・蔚県と暖泉
さて。
西古堡をたっぷりと満喫して、
再び車のおいてある、働き盛りの男どものたむろする豆腐の燻製屋の前まで戻ってきた。

そのとなりには、実はいわくつきの大きな空き家があった。


日本軍占領時代に司令部がおかれたという建物だ。
ここは一般公開されていないが、地元の知り合いが見せてくれた。







蔚県は、太平洋戦争前後、
モンゴルの徳王の作った日本軍の傀儡政権「蒙古連合自治政府」の領土に入っていたという。

ウィキペディアから引用すると、

「徳王。デムチュクドンロブ。1902年2月8日(清光緒28年正月初1日) - 1966年5月23日)は、
 南モンゴルにおけるモンゴル独立運動の指導者。通称徳王(とくおう)。
 中国語における字は希賢。1930年代から日本軍に協力し、モンゴル人の独立政権蒙古聯合自治政府の主席を務めた。」


「チャハル(現在の内モンゴル自治区)に生まれる。
 1908年に札薩克(執政官)の職を継ぎ北京政府からも認められる。
 1919年に執掌旗政(県知事)になったのを手始めに地方官職を歴任する一方で、汎モンゴル主義やモンゴル独立運動に関わる。」


満州事変勃発後、徳王は日本軍と連絡を取り合うようになり、
同じモンゴル独立運動を指導していたユンデン・ワンチュク(雲王)などともに1933年に内蒙古王公会議を結成。
国民政府に対し高度な自治を要求した。これを認める形で翌1934年に蒙古地方自治政務委員会が成立、徳王は秘書長となった。


「その後、1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると総司令・総裁に就任。
 1936年11月に徳王麾下の内蒙軍や李守信と王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、
 同省主席の傅作義軍に撃退された(綏遠事件)。

 盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月17日に包頭を占領。
 雲王・徳王・李守信はこれに応じる形で10月28日に厚和(綏遠を改称)にて蒙古聯盟自治政府を成立させた。

 当初、雲王が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。
 蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府となった。

 首都は張家口に置かれ、名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。」


古い街・暖泉には、周辺から多くの古いものを集めてきた骨董商が、何軒もあるが、
私らが日本人と知ると、必ず出してくるのが、徳王政府時代に発行された紙幣である。





    





   


このヤオドン風の、はては地下室風の部屋は、罪人を入れておくための牢屋だったという。
拷問でも行われていたのかしら、と思うと、足早に立ち去った。。。




二階部分。



さて。暖泉でもう一つ、完璧に保存されている城堡「北官堡」。



溶解した鉄をぶっかける祭り「打樹花」の行事で有名。
れんがにこびりついた黒いすすのようなものが、鉄をぶっかけた痕跡である。




これはよそのウェブサイトからお借りした写真。




「打樹花」は、「打鉄花」ともいい、毎年元宵節に行われる。
「元宵節」は、新年の最初の満月の日、春節はその年最初の「闇夜」だから、15日たったら満月である。
そういう意味で、陰暦ではきわめて重要な祭日だ。

「打樹花」の祭りは、夜中に土で作った錬鉄炉に鉄を溶解し、液状になった鉄500kgに
銅、アルミなども調合し、これを城門にめがけてぶっかける。


かけ手は羊の毛皮を逆さに着て、水でふやかした柳の木で作ったたまじゃくしで「鉄水」をすくう。
溶解した鉄は、城壁に当たると、火花を散らし、火の雨を降らせる。

宋継武氏、41歳は、北官堡に3人しかいない「打樹花」の「把式」(かけ手)の中で最も若い。
毎年、火花をかぶること20年になる。

小さい時にベテランの把式らの粋を見てあこがれ、
独学しつつ、ベテランにも習いつつ、この「技術」を実につけた。

そのどっしりした肉体には、腕、太もも、背中、腹に無数のやけどがあるという。
溶解した鉄を振りまくのである。
毛皮を着ていようと、どんなに気をつけようとも、やけどは絶えない。
「ただ顔だけは守らないとね。それだけは」と笑って言う。


かけ手のほかにも、ともに作業する仲間は、30人くらいを1チームとする。
鉄の精錬、ふいご吹き、鉄の運搬役、爆竹を鳴らして場を盛り上げる者・・・・。
かけ手は、屈強な肉体、腕力がいるだけでなく、肝っ玉が据わっており、やけどの痛みに耐えられる者でなければならない。
この20年、彼のあとに続いて、かけ手の技術を身につけた者はいないという。

それでも心配はしていない。
「誰かが続くに決まっています。数百年の伝統ですからね。ここの人はこれなしでは生きていけませんから」

動画のいくらかアップされておりまっす。
http://v.youku.com/v_show/id_XMTU1MzM2ODA0.html
http://www.56.com/u11/v_NDk4NTI2NDU.html

毎年、元宵節をはさみ、旧正月の14、15、16日の3日間行われる。
北京から遠くないこともあり、その期間中は、暖泉に入る何kmも前から、
大渋滞でまったく車は動かず、延々と歩いていかなければ、たどり着けなくなるくらいの大盛況だという。


さて。

北官堡である。ここは暖泉で一番最初にできた城堡といわれており、
つまりは明代の「軍屯」の駐屯のための城堡だった。


   


「打樹花」で鉄まみれになった城門を超えていくと。

   




古い町並みが、広がる。

当初は軍事的な目的で建てられたため、奥は山の形をそのまま利用して、防衛する。

  
    

突き出たワンコのお尻を撮ってどーするねん、と思いつつも、思わずかわいいので、手が。。





出たー。豆腐の燻製売りの流し。
もおお。ここの人たちは、どんだけ豆腐の燻製食うねん。



後ろを振り返って、城門を見る。
端の方に豆腐の燻製リヤカーも映ってるし、絵として、完璧やないか!






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暖泉6、地蔵寺の二階

2012年04月11日 15時01分36秒 | 河北・蔚県と暖泉
地蔵寺は、甕城の構造をうまく活用した、変化に富んだ間取りになっており、
それもなかなか渋いただずまいだ。

    

ちいさくて急な階段を上っていく。


二階に出ると、視界が開ける。





二階のお堂の中。







中国全土、どこでもそうなのだが、このけばけばしい、改革解放後に作ったばかりのはりぼて塑像は、いただけない。

しかし後ろの壁画は本物ですぞ。
年代は確認していないが、おそらく明代のもの。
この辺りは、軽く明代のものがごろごろ転がっているから、恐れ入る。

    


色が真っ赤なのは、窓に赤い布が張ってあり、部屋が怪しく赤くなっているからだ。
そりゃあまあ。直射日光で当てたら、明代の壁画もとんでもない損傷になりますからな。





寺の反対側にまわり、上からメインストリートを眺める。




さっき下で見た、城門の横に入り口のあった家が見える。
どうやら空き家になっているようですな。もったいないー。
でもこの位置じゃあ、毎日観光客に家の中覗かれて、生活が丸見えー。
しかし数年後に来たら、おされなカフェに変身している予感が大。




さっき通ってきた劇台が見える。




寺には甕城の端のほうに展望台もある。




    


    


    


甕城の外は、見渡す限りの畑ー。




上から見た、城内の別の四合院。こじんまりしたたたずまいが童話的。




ところで今では、すっかり変貌してしまった北京城には、
四合院が碁盤の目に規則正しく並んでいる様子は、なくなってしまったが、
この西古堡には、まだほぼ完全な形で残っている。

よそのサイトからの借用写真。







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暖泉5、地蔵寺の入り口

2012年04月10日 14時45分03秒 | 河北・蔚県と暖泉
我々がものめずらしいのか、地元のがきんちょがついてくる。
カメラを向けると、あんまりポーズはとってくれねえー。このふてくされた顔ー。

    


劇台の右に、寺の入り口となる門。

    


エントランスとなる部分は、寺の門番さんの住まいでしょうかね。
こぎれいなたたずまい。




寺の正面入り口には、影壁。




これが寺の正門。




境内の中。





一階には、おみやげ屋さん。ランタンが売っている。
中国ではいつものことなのだが、赤ちょうちんでは、日常使いの照明には使えないもので、
「白いのはないのか」と聞くと、相手がぶるぶるっと震える。




「白ちょうちん」などは、人が死んだときにしか使うものではないらしい。

最近はぼちぼちシンプルかつおしゃれな照明も増えてきたが、私が来たばかりの90年代、
ごてごての悪趣味な照明しかなかった。

悲鳴を上げた私が、シンプルな木の枠組みを作ってもらい、
そこに白い半紙を張ってランプシェイドにし、今に至っているが、
年配の中国人が遊びにくると、「薄気味の悪い家だ」というようなことをいう。

はあ。。。まったく文化のちがいはしょうがない。。。


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暖泉4、特産の切り絵

2012年04月09日 00時34分01秒 | 河北・蔚県と暖泉
城内にも再び豆腐の燻製屋。
 



外で干してます。


  


  





  
    

    
後ろを振り返って、ストリートを一望。


切り絵屋さんがあったので、入った。この辺りの特産品である。
これは清明上河図の切り絵。すごい細かい! お見事!






小さめのもの。1枚30-50元程度、と値段もリーズナブル。さすが産地の地元。


こういうもっと小さいものは、さらにお安かった。



西古堡を南の奥までいくと、甕城の中は、地蔵寺となっている。



これは一応、正式な南城門。二階部分は地蔵寺である。

    

城門の手前にある路地。城壁に沿い、生活通路が走る。


    

くぐり抜けていくと・・・・。



甕城の中に入る。大きな広場になっており、劇台がある。
祭日、縁日の日には、村で呼ばれた伝統劇の劇団などが、にぎやかに公演を行い、
村人たちの憩いの場となってきたのだろう。




左を見ると、甕城の入り口。
甕城は普通、城門を守るために作られている以上、城門とは直線上に入り口を作っていない。

甕城が破られて、そのまままっすぐで城門に突進されたのでは、まずいからだ。
少しでも時間稼ぎをするために、入り口はずらして設けられている。

甕城のの向こう側は、もう完全な畑。




一方、こちらは城門を振り返り、メインストリートを眺め見た図。






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暖泉3、「鬼が来た」の日本妓楼

2012年04月08日 00時08分31秒 | 河北・蔚県と暖泉
西古堡に入り、南北を通るメインストリート。

   

この石畳も舗装されたのは、最近。
数年前に来た時は、まだどろどろと土むき出しの道のままだった。


   
 




   


   

民家のたたずまいに風情あり。
道との段差のないエントランス。馬車でそのまま乗り入れることができるようになっている。

大家族の住む豪邸か、旅の客を泊める宿か、荷物の出入りの激しい商家か。


   

あほみたいにひたすら門構えばかり撮ってしまうが。。。






西古堡のメインストリートをさらに一路、進んでいく。





   


   



   



   

典型的な華北の建築スタイルである四合院様式が続き、ほとんどが平屋の建物の中、
ぼっこりと一つだけ、二階建てが現れた。

民国風の西洋風のスタイルである。


   

この建物、実は映画「鬼が来た」(鬼子来了)のために、ロケ隊が改造したものなのだという。
よく見ると、二階の部分だけ、色が違うのがわかるだろう。

日中戦争における日本兵と現地の農民との交流を描いたこの映画は、初めて日本兵を人間らしく描いたとして、当時話題となった。
日本人では、俳優・香川照之氏、日本人京劇俳優・石山雄太氏などが出演する。

この建物は、映画の最後、日本が戦争に負け、大陸に取り残された日本人が生活のために何でもする場面に出てくる。
女たちはすべて妓楼に身を売り、日本女性たちがこの二階のバルコニーから黄色い声を上げ、
つたない中国語で客の呼び込みをして、ハンカチを振る場面に使われたのである。

化石のように古(いにしえ)の姿をそのまま残す暖泉は、時代劇のロケにはひっぱりだこ。
今では、常に数組のロケ班が常駐するほどの盛況ぶりだという。


といっても、今のところ、上下水道のインフラがまだ完成していない暖泉では、
大人数を受け入れることのできるホテルを建てることはできない。
宿泊は皆、蔚県まで行っているのだろう。


今、暖泉では急ピッチでインフラを整備しているというが、それが完成した暁には、
すさまじい「観光地化」という通俗の波に飲み込まれ、
ディズニーランドのようなテーマパークになってしまうのではないか、と本気で心配である。

どうかセンスのいい変貌を遂げてほしい、と願わずにはいられない。



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暖泉2、西古堡

2012年04月07日 01時42分18秒 | 河北・蔚県と暖泉
さて。
まずは西古堡へ向かう。

地図を見てもわかるとおり、3つの城堡の真ん中に暖泉書院があり、そこが鎮でもっともにぎやかな盛り場である。
そのほかにも、3城堡の周囲を走る街道が、昔からの商業のための往来として、
沿道に商店、キャラバン宿などが連なってにぎやかだ。
城の中は、「寝に帰るところ」という雰囲気の住宅街。金儲けの場は、城の外が中心である。






お葬式の白い花輪の名残。


   

やや西洋風の建物。民国時代のものだろうか。




「総合商店」の文字。


西古堡も城内より城外のほうがにぎやかである。


この地方の特産、豆腐の燻製のお店。






やたらと豆腐の燻製屋さんが多い。
ここの人たちは、昼も夜もこれを食べまくるんだろうか。。。。

  

出たー! 昼間から表で座り込む働き盛りの男ども。




    


   

       
華北の農村では、これが一番特徴的。
日がなしゃがみこんではいるが、ぼおおっとしているわけではないんですな。

ここではこつこつとまじめに働くことは、あまり価値をなさない。
まじめに働いて人に評価されたい奴は、都会にでも出稼ぎにいけばいい。

こういう巷の井戸端会議に参加し、つねに村の中の動き、ニュースにアンテナを張り、
何か金儲けのネタになることはないか、と神経を研ぎ澄ますことが大事なのである。



西古堡は、明の嘉靖年間の創建である。




城前には、牌楼がある。
  

「甕城」の横から入っていく。
「甕城」は、城門が敵に破られないように、城門の外をさらに「コーティング」した城壁だ。








  


  

城門をくぐっていく。


   


   

底光りした石畳。



甕城の中を入っていくと、意外と広い。




なぜか民家もあるし。




こちらが、正式な城門。
 
  


   

やはり石畳は、底光り。

甕城が増築されたのは、清の順治年間だという。
清代は、「満蒙一家」というように、モンゴル族を「準親戚」としてまで扱ったのに、
わざわざ防衛を強化するための甕城を作るとは、どういうことだろうか、と一瞬考えた。

しかし順治年間はまだ清の建国まもないし、あまりモンゴルとの関係も安定していない。
実際に順治帝の息子の康煕帝の時代、
モンゴルの正統血統をもつリンダン・ハーンの後裔チャハール部が反乱を起こしている。

康熙帝もそんなモンゴルに睨みを利かせるため、何度も「北巡」に出ているではないか。
モンゴルが暖泉から紫荊関を突破して、一気に北京の南に出てこられたら、確かにやばい。

西古堡は、元もと「民堡」だったという。
明代、「軍屯」の組織があったのは、北官堡であり、軍人はそこに住んでいた。
ここは民間人が住むための城堡なので、防衛がやや手薄だったため、補強したのだろう。

そういえば、甕城の屈強さ、頑丈さ、分厚さに比べ、正式な城門のひ弱さ、低さ、薄さはコントラストを成す。
確かにこれでは、甕城で補強しないと、心細かっただろうなあ、と納得いくのである。


城門をくぐりぬけ、左側を見ると、城門の上に上がるための階段がある。

   



城の中に入り、後ろを振り返った城門。あまりにも低く、頼りなげ。

  







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暖泉1、「蔚県800城」の一つ

2012年04月06日 19時46分40秒 | 河北・蔚県と暖泉
本日から蔚県の旅の続き、暖泉でございます。
暖泉鎮は、蔚県から車で10kmほどの距離、やはり河北省と山西省の境にあります。






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蔚県は前述のとおり、万里の長城の内側の防衛ライン「内長城」の系列に入る。
最前線の「外長城」が破られることも多く、そのためにこの辺りはモンゴル鉄騎兵の一番最初に蹂躙される場所でもあった。

というわけで、人の住むところは、どんなに小さな村でもすべて「城」形態になっており、蔚県の領域内だけで「800城」といわれる。
90年代には、その中で300城がまだ残っていたといい、暖泉はその中のひとつである。



地図で見てわかるとおり、蔚県は、モンゴルが北京へ突破する二つの関所=居庸関と紫荊関のうち、紫荊関へ通じる道中にある。
暖泉は、紫荊関に通じる山脈の山の入り口にある。

ここが破られれば、モンゴル鉄騎兵は、そのまま紫荊関に一気にかけあがっていき、南から北京を衝くことができるのである。


逆に平和な時代、ここは山越えの前に旅の準備を整えなおすところ、もしくはハードな山越えをした後、最初に休憩するための集落だった。

戦争状態の時は軍事的な要衝、平和な時代は流通の要衝だったわけである。

ネットで調べていると、かの「土木の変」のお騒がせ宦官・王振が、蔚県の中でも
暖泉の出身であり、彼が皇帝に自慢したがった、かの豪邸は暖泉にあった、という記載が出てきた。


あまり詳しく載っていないので、よくわからぬ。

確認保留ということにしておくとしても、ほほお、王振の豪邸があったかもしれないのか、と想像するのは、楽しい。



暖泉は「鎮中三堡」といわれ、北官堡、西古堡、中小堡がある・・・という。
しかし私が判別できるのは、北官堡と西古堡だけ。

まだあまり観光整備も進んでいないため、パンフレットもないし、ネットにもあまり情報なし。
やっと以下のような地図を探し当て、自分のめぐってきた場所がわかった。。。


   

「暖泉」の地名は、暖かい泉が湧いていたことからついた名前である。
一年中16度以上に水温が保たれ、水沿いにはしだれ柳が生い茂るので、「塞北の水郷」ともいうらしい。

木が育たない、見渡す限りの草原が続くモンゴル草原の南端としては、
風に揺れるしだれ柳は、目にまぶしかっただろうと想像できる。

暖泉の本格的な建設が始まったのは、元代のようである。
王敏書院(またの名を暖泉書院)も元は、元代の尚書・王敏が立てたものだといわれる。

書院を建てるというのは、それなりに文化的な素養の発達するほどの教養ある住人と
富がなければできないものである。

元代、すでに暖泉はそういう高い文化的素養をもち、裕福な人々の暮らす場所だったことがわかる。

元代といえば、モンゴルのユーラシア大陸征服により、「大物流時代」の幕開けとなった時代。
それまでこの場所は、中華文明の最北端として、思いっきり「辺鄙」な場所だった。

中原で生産される物資をここから北を持っていこうとすると、異民族地帯に入るため、
国交の有無、治安の保証、関税のコスパフォなどのさまざまな障害が横たわり、大量に出て行かない。

ところが元代は、思いっきり「中継点」の位置となった。
北へも西へも行き放題。


暖泉から東に行けば、蔚県へ、西にいけば山西の広霊へ、南にいくと霊丘へ、北へゆくと大同へ抜ける古商道。

書院の創建はそういう経済の活発化と関係があったのではなかろうか。

王敏は講堂を建てる時、「暖泉」の前に建てた。
つまりは、湧き水が泉になっている「逢源池」の前である。
今回の旅では、立ち寄らなかったので、ネットからの写真を借用する。




泉から流れ出た水は、鎮のあちこちに引かれている。
主に3本の流れに分けられ、一本は東に流れて北官堡へ、
もう一本は西に地下渠を通って100mほどで地上に出して池となっている。
池を西龍口というが、今でも人々がここで炊事、洗濯に利用としている。
こちらも借用写真です。



暖泉は今、観光地整備を進めるため、上下水道のインフラ整備をしている最中である。
ということは、ごく近い最近まで、上水道さえもあまり整備されていなかったということである。

その当時、この西龍口から水を汲み、契約した客のところに送り届ける「水屋」もいたという。





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蔚県5、本殿の扁額

2012年04月05日 06時50分40秒 | 河北・蔚県と暖泉
本殿に上がる。

   





かつては数々の名士の扁額により飾られていたというが、戦乱のためにほとんどが失われた。


正面にかかる「玉皇閣」の額は、
1983年、当時、最高人民検察院の副検察長を勤める張蘇氏が、故郷に帰った際に書いたものという。





1991年、県の政治委員会は、県政府とともに、玉皇閣の扁林を復活させた。
そのために特別に県内外から有名な書道家に請い、扁額、対聯を掲げたものという。

ここは国ー民党との内戦でも激戦区になったところだという。
すべての扁額が改革解放後のものであるというのは、
その時の戦争でそれ以前の扁額がすべて失われたからだろう。

しかし現代でも著名な書道家や地元の名士に一筆お願いするっちゅうんは、
なんか伝統の歴史の長さが感じられて、かっちょええなああ。




規格どおりの東の鐘楼と、


   

西の鼓楼。



両側の石碑群は、明・清の2王朝に渡る修繕を記念したものだという。
合計7本あり、明の万暦年間のもの以外は、すべて清代のものである。

    




本殿の中。

   

祭られているのは、[日+天]天Haotian。雷神さまだという。
モンゴルが攻めてくる北に据えて、敵を駆逐してくれ、という願いがこもっている。


何の障害物もない草原でモンゴル人が雷を特に恐れるのは、もちろんである。
それと関係あるのだろう。




左右の明代の壁画。オリジナルが無造作に見られるのは、すばらしい。
北京に残る明代の壁画といえば、西の法海寺のものが有名だが、レプリカをつくり、本物は一般公開しないようにするという話を聞いた。

それくらい北京では、明代ものの壁画は貴重なもの。
ここでは、惜しみなくあちこちで露出させている。

さすが長城前線。明代の文物が豊富でっす。




本殿の境内の西にある扉から下へ降りると、裏の城壁へ続く階段がある。

   


玉皇閣は城壁の上に立つ。






階段を下に振り返る。はるか向こうに鼓楼が見える。



   


裏側。
 
   


横から見ると、城壁が連なる。

    

城壁の北側は川になっている。
下の地図を見ると、どうやら城壁の外のお堀の川のようですな。

私のイメージでは、お堀の川というのは、城壁の真下に隙間なく掘られるものだと思っていたので、
お堀と城壁の間にかなりの空き地があるちゅうのは、不思議な気がする。




この地図を見ると、今の市街地の中でも、旧城内の輪郭がなんとなくわかる。
城壁がなくてもお堀の川が残っているところもある。

我々が今いるのは、地図の一番上の部分。城壁がもっとも残っているところである。


あれれ? 本殿の東側にずーっと城壁が広がっている??
私は玉皇閣にくるのは2回目なのだが、2-3年前にきたときは、東西対象で横の城壁とはつながっていなかったはず。

     



新たに工事した部分!





城壁をつなげている! おみごと!





さて。

みごとな新しい城壁工事も見て、出てきましたー。
門前には、さんざし飴売りがいましたー。

この売りスタイルもこの数年で北京からは姿を消しましたな。
埃と砂をかぶりまくった商品をだんだん消費者がいやがるようになってきたのですな。

最近は、ガラスケースに入れられて店先で売られるか、鉄板を用意し、
スーパーなどの入り口でその場であめにつけてくれるか。

    


砂だらけで自分が食べたいとは思わないけど、10年前スタイルに出会うのは、やはりノスタルジー。

    


玉皇閣の横は、尉州第二中学校の敷地でした。
フェンスごしにわんぱく中学生の男子らが、
「日本人だー!」、「コニチワ」と話しかけてきてかわいかった。




カメラを向けると、「うわー! 写真!」といって逃げる逃げる。









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蔚県4、玉皇閣

2012年04月04日 12時34分57秒 | 河北・蔚県と暖泉
鼓楼のあたりで古城の雰囲気に浸った後は、北の城壁の上にたつ玉皇閣を目指し、
一路、北へ向かいます。






土っぽい道を進んでいきます。西のほうには、財神廟があるらしいのですが、今回は残念ながらいけず。
今度のための楽しみに取っておきましょうー。





はるか遠くに見えてきました。玉皇閣は北の城壁の上にあり、地形はその高さまでどんどん坂道で続いています。
城壁の上まで車で乗りつける形になります。

玉皇閣に到着。明の洪武十年(1377)の創建。
又の名を「靖辺楼」。辺境を靖(やす)らかにする楼なり。

蔚州は、明代でいえば、モンゴルとの最前線ではなく、やや内側に引っ込んだ位置にある。
大同から宣府、懐来のラインが「外辺」防衛ラインだとすれば、そこが突破されてしまったときに
さらに守るための「内辺」防衛ラインに位置する。

やや南側に東西の走る寧武、広武、老営から続くライン上だ。

とにかく敵は北からやってくる。
その敵を威嚇するような荘厳な建造物を建て、さらに望遠の役割も果たそうとしたものだろう。







なんと左側(東)を見てびっくりである。なだらかな下り坂の向こう側には、真新しい城壁が!
数年前に来たときにはなかったものである。

観光のために壊した城壁を立て直す作業を行っているらしい。











東側から中に入ると、まずは前庭がある。

   





実は、知り合いの紹介でここの門番という御年70歳のじいさまにご挨拶をした。
この一番右の人は、まったく関係ない人なのだが、まんなかの娘のような年の女性は、じいさまの「彼女」である。



彼女のお年は40すぎ。実に30歳近く年下の女性をゲットした「ちょい悪」じいさまなのだ。
「いい人」オーラを全身から出すじいさまは、見かけによらずやるもんだ、と感心していると、どうやら事情があるらしい。

じいさまと彼女がいっしょになったのは8年前。じいさまは60代前半。女性は30代。
じいさまはそれまでずっと独身だったという。

中国で男性が生涯、独身で通してきたというのは、
よっぽど耐えられないほどの欠点があるか、貧乏すぎるかのどちらかでしかない。

じいさまは五体満足だし、端正なる申し分のないお顔立ちだし、人に不快感を与えるような言動もない。
ということは、「貧乏」以外に特に欠点がなかった、と判断するしかない。

生活の糧にできるような農地がなく、がつがつとお金を稼げるほどの機敏さもなかったのだろう。
今の「仏顔」を見ると、若い頃は自ら進んでチャンスをつかんで行くようなしたたかさがなかったことが想像できる。

じいさまがお寺の門番となったのは、10年ほど前という。
つまりは市の文化局の立派な職員であり、毎月の給料を受け取ることのできる安定収入を得た。

おそらく若い頃は、エンジンのかかりの遅さのために人後に遅れをとって来たキャラが、
年とともに誠実さ、正直さ、人柄のよさがにじみ出る人相に熟成されていき、門番にふさわしい人選として評価されるようになったのだろう。

じいさまの月給は、月々600-700元くらいという。

その2年後にはこの彼女ができているのだから、どうやら30歳年下女性のゲットは、この600元の安定収入と関係あるらしい。


しかしまあ。。。

今どきの北京で600元なんて、家賃の足しにもなる値段ではない。
住み込みのお手伝いさんなら、月3000元が相場になってきたし、
2DKのアパートを4人でシェアし、2人一部屋で暮らして家賃がやっと800-1000元程度に納まる。

友人しゃおりんさんのブログでも去年の北京の労働者の平均月給は4672元になったという記事があった。

わずか300km先から来た我々にとっては、「たった600元の安定収入を得た」だけで
一生嫁の来手のなかった男が、瞬く間に「モテ男」になるとは、おとぎ話のようである。

彼女の前夫は炭坑夫だったが、炭坑事故で死んでしまい、
お金もない、働くあてもない、年老いた母親一人を抱えているところをじいさまといっしょになったのだという。

ところがいっしょになってみると、女性は気が強いわ、給料はまるごと巻き上げられるわ、で、
じいさま、どうやらしまったと思ったらしい。

そこでほかの女性と浮気をし、乗り換えようと思ったところを彼女に現場を差し押さえられ、
さんざん暴れまわられた挙句、部屋の中の持ち物をすべて焼き捨てられたという。

それはまだしも、何よりもじいさまが恐れたのは、二人が実は役所の上司に引き合わされているためなのだ。
彼女は上司を味方に引き入れて、じいさまのあることないことを言い立てて、
この職を失わせることができる立場にある。

それにしてもまあ。みごとな「もてっぷり」ではないか。二人の女性を同時に抱えるとは。
どうやら女性には、困らない立場になってしまったようだ。

そして彼女もせっかく捕まえたじいさまを誰かほかの女に渡す気など毛頭ないのだ。

この町で公務員というのが、いかに「狭き門」であるかがわかる。
そしてわずか600元であっても、一生続く安定収入があることが、いかに大きなことか。

やはり生き馬の目を抜く北京から来ると、童話を聞いているような気分になる。

しかしまあ。じいさまが「しあわせオーラ」と「不幸オーラ」のどちらを出しているか、といわれれば、
やはり「しあわせオーラ」ではないだろうか。
がっちりと尻の下に引かれても、遅く訪れた春を存外楽しんでいるのではないだろうか。




二人の「愛の巣」。お寺の境内で暮らす。





   

室内には水道口と水がめがある。おそらく水の供給は時間制なのだろう。


   

心あたたまる植木の窓辺。


   

まだ肌寒いこの季節。この地方ではほとんどがまだストーブに火をいれていた。




ストーブの煙突にタオルかけを取り付ける。アイデアですなー。



さて。
二人の愛の物語に心もあったまったところで、先へ進みまっす。

前庭からさらに上へ上っていく。


   


   


   


   




上って東を見ると、今建設中の東側の城壁が見える。まだできたてほやほや。


   


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蔚県3、鼓楼とほうき

2012年04月03日 12時34分57秒 | 河北・蔚県と暖泉
ほうき




各種ふるい。埃の多い土地柄には、特に必須。
左上のストーブは、排気の煙突穴があいていないタイプ。お庭でことことと煮物をしたり、
お湯をわかすための小型コンロ。

   


城門にたてかけられた巨大ほうきが風情ある。。




鼓楼の門洞。

   



鼓楼の右側には、移動鳥屋さん。






なんだかただのスズメもいます。こんなの、商品価値はあるのでしょうか。




町のあちこちに鳥屋さんを見かけました。どうやら鳥愛好家がおおいところのようです。


   




全体として、まったりと流れる町の生活の流れ。
生き馬の目を抜く大都会のリズムの中に身をおくと、まるで別世界です。

実力があり、自分を試したい人はすべて都会に出払い、残っている人はほぼすべて「まったり行きたい派」。
安定した仕事は公務員くらいしかなく、それ以外はすべて「自営業」。

農業をしたり、機敏に商売の種を見つけたり、臨時でアルバイトをしたり。
どちらにしても決まった時間帯、何年もかけて長期的に雇われる人はあまりいません。

雇われて働く場合、あまり休みは取れませんから、
休みたくなったらいっそのこと止めてしまうのがこちらのスタイル。
数ヶ月、数年ぶらぶら遊んで気が済み、貯金も底を尽きてから、やっとまた働きに出ようか、ということになります。

それがあちこちにやたらと目に付く鳥かごの背後にある町の内情なのかなあ、と。








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蔚県2、鼓楼

2012年04月02日 12時34分57秒 | 河北・蔚県と暖泉
蔚県の鼓楼。

屋根が三層になっているのは、西安の鼓楼よりも規格が高いそうです。(西安は2層)
宋代に最前線だった、軍事要所だったことから重視されたとか。




  


季節は新ほうれん草が旬のようでした。どこに行ってもほうれん草のトラック売りだらけ。





お値段は1斤(500g)1元。
どうやら今の季節でいえば、北京よりはやや安い感じです。

但し、田舎だからといって、必ずしも野菜が安いわけではないのは、日本と同じです。
流通量が少なく、家の庭で作れる人は、わざわざ買わないからでしょうね。



蔚県の一帯での特産品でもある豆腐と豆腐干(豆腐の燻製)






豆腐はがちがちに硬く、焦げ臭く、苦味があり、個性を強く主張。


   

豆腐干(豆腐の燻製)。
クミンや八角などの香辛料で煮込んでおり、西アジア的な匂いがします。


   

豆腐干、もう一種類。両方ともしっかりと実がつまっていて、食感がチーズっぽいです。
1-2本食べると、けっこうお腹いっぱいになってしまいます。味がついているので、おやつにいい。


鼓楼の手前で金物屋さんを発見。



手前はすきやくわの頭に犬のくさり。大型犬は、ペットではなく、実用犬です。
自分の身と財産は、自分で守るしかないので、大型犬は吠えて威嚇したり、
本当にかみついて泥棒を追い払ったり、危険を家族に知らせたりするためになくてはならない存在です。




手前の大きな何重にもまるになったものは、土で塗り固めた手作りのかまどにでも取り付けるのでしょうな。
なべの大きさにより輪を少しずつはずしていき、隙間ができないようにします。

薪、石炭のどちらであっても煙で中毒になってしまいますから。




左にある穴のあいた丸いものは、どうやら小型コンロのようです。中に少しだけ燃料を入れ、燃やすためのものでしょう。
携帯できるし、ピクニックなどによさそうだ、と思ってしまいました。

庭でちょっとだけ枯れ草を集めてきて、ちんちんお湯を沸かすなんていうのもよさそう。
しかし庭付きの家もなければ、ピクニックに気軽にいけるマイカーもない身としては、

今のところは「情報の蓄積」のみにとどめることに。。。




各種農具、いろいろ。




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蔚県1、宦官王振の故郷

2012年04月01日 12時34分57秒 | 河北・蔚県と暖泉
皆様、ごぶさたしております。
調べ物がどつぼにはまってしまい、ぜんぜん更新できません。。。
元々、明代のことはまったく専門分野ではないのに、手を出してしまったがために
あれもこれも調べないと、書けないということが判明してきて
にっちもさっちも行かなくなっています。

明とアルタン・ハーンの話題は、資料読み込みをしつつ、引き続き進めていくとして、
清明節のお休みに近場の河北省の古い町々に行ってきました。
明とモンゴルが交わりあう、縁(えにし)深き土地でもあるので、
今後の展開の中でも、風土の雰囲気の連想になれば、と思います。

歴史や由緒を調べていると、また更新できなくなってしまうので、まずはさらりと写真を中心に。
将来、背景がわかってきたところから、順々にリンクさせていきたいと思います。

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河北省・蔚県。
北京から西北方向、山西省との境界線付近にあります。




赤く囲んだところが、蔚県です。
蔚の字は、通常はWei4と発音するのですが、この県を示す地名と姓氏をあらわす場合のみ、
Yu3と発音するそうです。

北京からは高速でとばし、3時間半程度の距離です。
今回は少し無理をして、日帰りでがんばりました。

蔚県は、明代にも前線近くだったことでわかるように、
北緯35度の農業地帯と遊牧地帯の境界線にある宿命として、常に前線であり続けました。


蔚県といえば、有名なのは、「土木の変」(正統14年・1449)におけるエピソードでしょう。

皇帝(英宗・正統帝)がモンゴルの捕虜になってしまうという壮絶な結果を生んだ事件ですが、
その英宗がほとんど言いなりになるほど、精神的に依存していたといわれる宦官の王振の故郷が、蔚州です。

王振が故郷の豪邸に英宗を招待し、わが栄華を見せびらかしたかったがために
モンゴルとの前線からはやや南に位置する蔚州に無理やり進軍ルートを取り、そのために戦局が不利に動いたといわれています。

王振は、土木の変で、乱戦の間に殺されて、死体さえ行方不明。
蔚州の家族は、「滅九族」。

つまりあらゆる血縁をもつ一族が、ことごとく殺されるという極刑に遭っています。

土木の変に関しては、いずれ取り上げる機会があるでしょうが、本日は深入りせずに。。。


蔚県の県城は、新市街と旧市街に分かれており、新市街の風景は、ほかの中国の地方都市とあまり変わりません。
情緒が残るのは、西側にある旧市街の方でしょう。




遠くに景仙門が見えてきました。(地図の番号1)




鼓楼を中心としたエリアを目指します。


建物の向こう側に見えるのは、南安寺塔らしいです。
今回は時間がなく、ゆっくり見ることはできませんでしたが、また今度の機会にゆっくり。(地図の番号2)







景仙門。両側にあるパネルは、特産の「前+切」紙=切り絵ですな。


  

車から降りず、そのまま車内から撮影。門洞をくぐっていきます。




鼓楼に向かう一番の繁華街に入りました。
30年前の中国の雰囲気がまだ残る殷賑なる空気にテンションが上がります。



時々、北京は黄土高原に浮かぶ蜃気楼のごとき竜宮城かと思う時があります。
アメリカで「NYを見てアメリカと思うな」といわれるように、
北京・上海はそこだけ切り離された外国のような気がしてなりません。
特に北京の場合は・・・。

上海や広東は、長江デルタ地帯と珠江デルタ地帯を背景に抱え、周辺の衛星都市や農村も
世界中に輸出する製造業の拠点であることが多く、郊外も比較的豊かです。

郊外に数時間ドライブしたからといっても、愕然とするほどの落差に遭うことはありません。
その点、北京は落差が大きい気がします。

北京からわずか数時間移動した場所ですが、これこそが本当の中国なのではないか、と思うのです。




色とりどりの刺繍糸。おそらく「靴底」の刺繍のために使うのでしょう。


日本人から見ると、不思議な習慣の一つに、足に当ててすぐにどろどろになってしまう靴底のために
世にも美しい刺繍を施すことがあります。

数回も洗えば、真っ黒な汚れも落ちなくなり、捨てられる運命にあるものを、ちくちくと見事な作品に仕上げます。

華北の農村にいくと、軒先でおしゃべりしているばあさまたちは、大抵は靴底を手にしてせっせと刺繍しています。
はかなきながら、美しき習慣。。。






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