1940年代から欧米では、水着が小さくなって、肌を露出する傾向が進められました。綺麗に日焼けするには、なんと言ってもオリーブオイルを、ぬりましょう。と言うことで宣伝がさかんになりました。
ビキニの水着はフランスのデザイナーが、考案したとのお話しが流布されています。ファッションはやはり、フランスからなのでしょね。皆さんに最初に紹介したのは、Louis Reard というデザイナーで、1946年の7月5日の事だそうです。レアードが発表した、その後になって、水爆のような破壊力と言うことで、ビキニの名前の理由付けにされたようです。ところが水爆実験がおこなわれたのは、かなりあと 1954年 のことでした。
ビキニ水着の考案者は、フランスの Jacques Heim (ジャック・エイム) というのが一般的です。何故かといえば、レアードの本業は自動車の技術者で、たまたま母親がランジェリーの会社をやっていたので、ほんのお手伝いでビキニを考案しただけ。エイムはデザイナーとして活躍していて有名でした。それでビキニが流行ったのは、エイムだといわれることが、しばしばなのだそうです。 ( 参考資料 Bikini )
お披露目された水着は肌の露出が、この時代にしては大胆すぎました。
それでアメリカ等では、1960年代の初めまで、普通の海水浴場では着用するご婦人はいませんでした。
ビキニ環礁での原水爆実験
ビキニ環礁 ( Bikini Atoll ) の礁湖は広さが594.1平方キロメートルです。
今は マーシャル諸島共和国 に属しています。このマーシャル諸島、戦前は日本の信託統治のもとにあったのが、1944年にアメリカに奪われました。1986年にアメリカから独立しました。23の島嶼からなっています。
1946年から1958年の間に、米国は核実験を67回もやりました。
2010年に第34回世界遺産委員会で、UNESCOの世界文化遺産に登録されましたが、放射能汚染で人が住めない土地が、『 文化遺産 』 でもないと思いますが。
日本人の平和主義は近世から現代にかけて、二度も日本国を深刻な危機におとしいれました。江戸末期にはアメリカや欧州によって、蒸気船とか近代式銃の威力に、脅されました。明治維新はよいことも多かったのでしょうが、よくないことももたらされました。
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支那畜とは 断交すべし 【わが郷】
( それでどうなったかというと、アメリカの商人とか外交官は、1ドルの銀貨でテヅマを使い、
最後には夫れを、3ドルに化かした。)
貨幣の管理は江戸幕府がおこなっていましたが、明治になって銀行が多く作られました。藩札の代わりに、紙幣が発行されましたが、「 銀行による紙幣発行の危険性 」 を解明する研究は今もって少ないのです。世界史的な視点からの、兵器の性能と同じように、貨幣発行・管理権の考察は、文化人類学的な把握力からは、はみ出たままです。原子爆弾の製造は、非核三原則を止めるまで、出来ません。貨幣の発行管理権は、どうしたわけか、最近の日本政府は行使していない、というより出来てません。
いまの日本は、このふたつの脅威に、なすすべが無いようにも見えてしまいます。
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ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ
シチリア語で、Villa Rumana dû Casali と表記される、古代の遺跡が発見されたのは、
19世紀になってから。そして本格的な発掘がなされたのは、20世紀に入ってからでした。
この別荘には「貴婦人の間」と呼ばれている部屋があって、そこには何とビキニ姿の女性が、モザイクで描かれていました。
4世紀のはじめ頃に、ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ の建設がはじまったと、考えられています。古代ローマの奴隷労働をもととした、広大な農場 ( ラテン語:latifundium ラティフンディウム ) などの経営の、その中心的な建物として、使用されていたのでしょう。(参照記事 : wikipedia )