フランチェスコ・アイエツ
『 ルツ Ruth 』 1835年,
101×139cm/Oil on canvas カンバスに油彩
Collezioni Comunali d'Arte, Bologna
ルツ記 Ruth (book of the Bible)
ルツ記(-き)はヘブライ聖書におさめられた モアブ人 女性・ルツの物語。
『 十二小預言書 』 を一書と考えた場合、 『 ルツ記 』 は旧約聖書でもっとも短い書である。
『 ルツ記 』 は、異邦人である ルツ が ダビデ 王にいたる家系の中で重要な役割を果たすことを語ることで、救いの歴史において 「自らの民」 ユダヤ人にとらわれない神の意図の壮大さを語っている。ルツは日本正教会ではルフィと表記される。
ルツ記の内容
『 士師記 』 の時代、ユダのベツレヘム出身者であるエリメレクは、妻であるナオミと二人の息子を伴ってモアブの地に移り住んだ。二人の息子はその地の娘達と結婚するが、やがてエリメレクはその妻ナオミを、二人の息子達もそれぞれの妻オルパとルツを残したまま死んでしまう。そこでナオミは夫の故郷ユダに帰ることを決意し、息子達の寡婦となった二人に対し、それぞれの故郷に帰るようすすめる。しかし、ルツだけはナオミのそばにいることを望み、こうして二人はエリメレクの故郷、ベツレヘムへと帰郷した。
a tribe in the era of the Old Testament, called Moabite
(モアブ人という,旧約聖書時代の部族) 英語の表記は、この使用例のように、モアブ人を Moabite と表す。
( 参考 イスラエル周辺の大きな地図 は、こちらをクリックすれば、ご覧いただけます。モアブも載っています。)
ボアズ農園でのルツ Ruth in Boaz's Field
画家 Julius Schnorr von Carolsfeld
1828年
カンバスに油彩 59 × 70 cm
英国ナショナル・ギャラリー
ルツ記
ルツは畑で麦の落穂を拾った(古代パレスチナでは貧しい人が刈り入れ時の落穂を拾うことは一種の権利として認められていた)。その畑の所有者は、エリメレクの遠縁の親戚にあたる、ボアズという人物だった。ボアズは姑に尽くすルツに感心して、彼女のために便宜を図る。
ナオミはボアズが請戻しの権利を有する人物であることに気づき、ルツを自分自身の代わりに請戻させるため、彼女にボアズの床に入るよう勧め、ルツはその言葉に従う。全ての事情を察したボアズは、自分よりも請戻しの権利が高いもう一人の人物がいることをルツに明かし、彼女には一切触れず、ナオミへの贈り物をルツに持たせて彼女を家に帰らせる。その日、ボアズは請戻しの権利を持つもう一人の親族に掛け合い、親族としての責任の履行権を譲り受ける。これによってボアズはルツを正式な妻として迎え入れることとなった(兄が子供を残さず、死んだ場合に弟が兄の妻をめとることで家系を存続させるこの仕組みを、レヴィレート婚という)。
ボアズの妻となったルツは息子オベデを生む。オベデはダビデの祖父にあたる人物である。
ルツとボアズの子がオベドであり、その子がエッサイで、エッサイの子がダビデである。つまりユダヤの王であるダビデの祖先には、 モアブ人 のルツがいる。
この 『 ルツ記 』 のポイントは、モアブ人であるルツがイスラエル人の慣習に従い、その律法に従ってイスラエルの子孫存続をなした、という事柄にある。神は人類を創り出したとき 「生めよ、増えよ、地に満ちよ」 と宣言しており、レビレート婚の習慣はまさに、それを実現するための手段なのである。ルツ自身は既に寡婦であり、姑から再婚の承認も得ていながら、それを謝絶してイスラエル人として生きることを選択した。これが、彼女が聖書中の一篇に名を冠することのできた理由である。聖書的な解釈では更に、その子孫がイスラエルの世襲の王となり、ひいては救世主を出す恩寵につながるとされる。
古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名をモアブと云った。死海の東岸、アルノン川(現ヨルダン・ハシェミット王国のワディ・アル・ムジブ)以南からゼレド川以北(現ヨルダンのワディ・アル・ハサ)の高原地帯に広がる地域のこと。この地域は、現在のヨルダン・ハシェミット王国のカラク高原地域(カラク県)とだいたいに於いて重なっている。( なおモアブと呼ばれた地域は、中世イスラム期にはマアブ(Maāb)と呼ばれていたと、9世紀のアラブ人地理学者ヤクービ(al-Yaqubi)の記述にある。)
旧約聖書によれば、ロト とロトの長女との間に生まれた息子モアブ(מואב ヘブライ語で「父によって」の意)に由来し、その子孫がモアブ人となってエミム人を打ち払ってその地域に定住したとされている。
成立時期
『 ルツ記 』 の成立については諸説がある。その多くは、『ルツ記』 は元々 『士師(しし)記』 の一部であったとするものである(一例を挙げると、聖書中でベツレヘムのことを「ユダのベツレヘム」と表現するのは、この両書の他は『サムエル記』上17章12節があるのみ)。また用いられている言語上も 『ルツ記』 と 『士師記』 は類似し、ここから両者がほぼ同時代に成立したと推定される。
一方、内容から 『ルツ記』 の成立をユダヤがペルシア支配下にあった初期に成立したとする説もある。『ルツ記』 は非ユダヤ人との婚姻に好意的であるが、これをエズラによる非ユダヤ人との婚姻を解消させる政策への反論ととるのである。
解釈 ユダヤ教においてはルツを聖書の他の登場人物と結びつける試みが行われている。何人かの学者たちはタルムードでルツが士師記に登場するモアブ王の娘だったとみなしている。しかしこの解釈は他の史料による裏づけが存在しないため、ダビテ王の出自を高貴なものとみなそうという志向の表れであろうと考えられている。
(wikipedia より抄出して画像を添付した。)
メシャ碑文(メシャひぶん、19世紀には「モアブ碑」として知られた)は黒い玄武岩の石碑で、紀元前9世紀のモアブのメシャ王によって作成され、1868年に発見された。34行から成るこの碑文は、古ヘブライ文字(en:Paleo-Hebrew alphabet)で記述されたものとしては、古代イスラエルから回収されたもののうち最大のものである。それはメシャによって、紀元前850年ごろ、彼のイスラエルに対する反乱における勝利とモアブの独立を記録し記念するものとして、彼の元主君であったアハブの死後に作成された。
石は、高さ124cm、幅71cmで厚みもあり、上部は丸くなっている。それは古代のディボン、現在のヨルダンのディバンにおいて、1868年8月にエルサレムのドイツ人宣教師、F・A・クラインによって発見された。しかし翌年、所有権をめぐる争いで、地元住民によって石碑は破壊されてしまった。しかしながら、チャールズ・シモン・クレルモン=ガノー(en:Charles Simon Clermont-Ganneau)によって破片の多くは回収され、また既に得られていた拓本によって欠損部を補って碑文は復元された。拓本(未公開)及び復元された石碑(多くの出版物や百科事典で公表されている)は、現在ルーヴル美術館に存在する。
(wikipedia ← こちらに、全文があります。)
ルツはボアズと夫婦になり、息子オベデを生む。オベデはダビデの祖父にあたる人物。
ダビデの父は、エッサイ。
つまりオベデ(Obed)の息子がエッサイ。