わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

ダビデ

2008-09-23 | 神仏や 神話の人物

 information 

ダビデ【わたしの里の美術館・神話】ルーベンス ダビデ ルーベンス

 

 

ダビデ

(ヘブライ語: דוד‎ Dāwīḏ (ダーウィーズ),   ギリシア語: Δαβίδ,  ラテン語: David,  アラビア語: داود‎ Dāʾūd  英語 David
古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。
ダヴィデ、ダヴィドとも。

 

羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に着くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となった。旧約聖書の 『サムエル記』 および 『列王記』 に登場し、伝統的に 『詩篇』 の作者とされてきた。イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。
(wikipedia)

 

イスラエルの最初の王であったサウルは、アマレク人との戦いで主なる神の命令に背き[1]、その寵を失った。

神の命をうけたサムエルは新たな王を見出して油を注ぐべく、ベツレヘムのエッサイなる人物の元に向かった。そこでサムエルはエッサイの第八子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注いだ。主の霊がサウルを離れたため、サウルは悪霊にさいなまれるようになった。そこで家臣たちが竪琴の巧みな者を側に置くように進言し、戦士であり竪琴も巧みなダビデが王のもとに召し出された。ダビデが王のそばで竪琴を弾くとサウルの心は安まり気分がよくなった。[2]

 

その頃、サウルとイスラエル人たちは ペリシテ人 人との戦いを繰り返していた。ペリシテ最強の戦士でガト出身のゴリアト(ゴリアテ)はしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返したが、イスラエル兵はこれを恐れた。従軍していた兄たちに食料を届けるために戦陣をおとずれたダビデは、ゴリアトの挑発を聞いて奮起し、その挑戦を受けることを決意した。サウルの前にでたダビデはサウルの鎧と武器を与えられて身にまとったが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と石投げだけを持って出て行った。

ゴリアトはダビデを見ると「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮ったが、ダビデは お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。

ダビデ像 ダビデ像

と答えた。ダビデが石を投じるとゴリアトの額にめり込み、ゴリアトはうつぶせに倒れた。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアトの剣を引き抜いてその首を落とした。ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大いに勝利した。


 


その後、ダビデは出陣の度に勝利をおさめ、人々の人気を博した。サウルはこれをねたみ、ダビデを憎むようになった。サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようとたびたび戦場に送り込んだが、ダビデはことごとく勝利をおさめ、サウルの娘ミカルをめとった。ここにいたってサウルは家臣たちにダビデ殺害の命令を下したが、サウルの息子ヨナタンはダビデを愛していたので、ダビデにこれを告げ、ダビデは死地を逃れた。その後もサウルは幾度もダビデの命を狙ったが、すべて失敗した。

サウルの手を逃れて各地を転々としたダビデであったが、あるとき、エン・ゲディの洞窟に隠れているときにサウルがそこに入ってきた。ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるように勧めたが、ダビデはこれをせず、ひそかにサウルの上着の裾を切り取った。ダビデは何も気づかずに洞窟を出たサウルに裾を示し、害意のないことを告げた。また、別の機会にサウルがダビデを討つべく出陣したときに、ダビデがサウルの陣内に侵入するとサウルと従者が眠りこけていた。ダビデの従者は再びサウルを討つことを進めたが、ダビデはこれを拒み、王の槍と水差しをもって陣営を出た。ダビデは再びサウルに害意のないことを告げた。

その後、神の寵愛を失っていたサウルはペリシテの軍勢の前に敗れ、息子たちとともにギルボア山に追い詰められた。ヨナタンを含む息子たちは戦死し、サウルは自ら剣の上に身を投じて死んだ。サウルの死を聞いたダビデは衣を引き裂いてこれを嘆いた。ダビデは神の託宣を受けてユダのヘブロンへ赴きそこで油を注がれてユダの王となった。

ユダの一族を率いたダビデは、サウルの後を継いだサウルの息子イシュ・ボシェト率いるイスラエルの軍勢と戦いを繰り返した。イシュ・ボシェトは昼寝中に家臣に殺害され、その首がダビデの元にもたらされた。ダビデはイシュ・ボシェトを殺害した2人を殺して木につるした。ここに至ってダビデは全イスラエルの王、指導者になり、エルサレムに進撃してそこを都とした。

 

 

ダビデ王の治世とその晩年

エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げた。ダビデがヘブロンで即位したのは30歳のときであり、7年6ヶ月の間ヘブロンでユダを治め、33年の間エルサレムでイスラエル全土を統治した。ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も打ち破り、これを配下に収めた。

 

ダビデは晩年、家臣ウリヤ (ヒッタイト)(英語版)の妻であるバト・シェバ (Bathsheba) を見初め、彼女を妻にするために謀略によってウリヤを戦死させた。預言者ナタンはこれを知ってダビデを責めた。ナタンがダビデの犯した罪をたとえ話で語るとダビデは自分のことと思わずに激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」といった。ナタンがそれがダビデのことであると明かすと、ダビデは自らの罪を悔いた。神は罰として、バト・シェバから生まれた子供の命を奪った。次にバト・シェバから生まれた子供が次の王になるソロモンである。また、ダビデの長男でマアカから生まれたアムノンが妹タマルを犯し、それに怒った次男のアブサロムがアムノンを殺し、やがて父ダビデに対し謀反を起こした。ダビデは一時都エルサレムを追われた。ダビデはなんとかアブサロムの反乱を収めたが、アブサロムはダビデの意に反して家臣によって殺害され、ダビデはアブサロムの死を嘆き悲しんだ。

Bathsheba バテシバ

 

 

ダビデは、中央集権的君主制を樹立し、傭兵の軍隊を組織した。そして、税を徴収するために人口調査のような改革策をいくつか実施した。これらの改革案が人々に衝撃を与えた。ダビデは、いつの間にか王国をヤーヴェの神のものでなく、自分のものとしていた。

年老いたダビデ王は体が暖まらなかったのでシュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせた。 そんな折ハギドの子アドニヤがダビデを差し置いて自ら王を名乗るという事件が起こった。ナタンとバト・シェバはこれを聞いてダビデのもとに赴き、息子ソロモンを次の王にするという誓いをたてさせた。祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ、ここにソロモンがイスラエルの3代目の王となった。ダビデはソロモンに戒めを残して世を去り、ダビデの町に葬られた。

 

 

参照資料

 ダビデ 【聖書の人物の紹介

 

わたしの里 美術館   旧約聖書
美術館の索引  わが郷 HOME 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。