わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

ゲゲゲの鬼太郎

2011-09-15 | 映画など

 

 

ゲゲゲの鬼太郎【映画など】

 


『ゲゲゲの鬼太郎』(ゲゲゲのきたろう)は、水木しげるによる日本の漫画作品。また、それを原作とした一連の作品群の総称。主人公の幽霊族の少年鬼太郎が妖怪達と繰りひろげる物語である。題名の由来は、作者が幼い頃に自分の名前を「しげる」と言えずに「ゲゲル」「ゲゲ」と言ったことから着想し、もう一つゲをつけたことによる。


多種多様な妖怪が登場する妖怪漫画。アニメ化に伴い『墓場の鬼太郎』から改題された。水木しげるの代表作であり、妖怪を扱った作品としても代表的な作品。1954年の紙芝居から始まり、漫画、アニメ、映画、絵物語、ドラマ、ゲーム、ミュージカルなど、半世紀以上に渡り様々な関連作品が作られている。

漫画作品は貸本を経て1965年から1997年の間に多くのシリーズが描かれ、幼年誌から青年誌まで幅広く掲載された。初期の作品は怪奇色が強かったが、鬼太郎と妖怪の対決を主とした内容へ変化。妖怪ブームを巻き起こしたテレビアニメは、日本のテレビアニメ史上最多となるシリーズ5作、4回のリバイバルを果たす。

単行本はこれまで幾度も出版されているが、全作品を網羅したものは存在せず、出版社ごとに収録状況が異なっている。

1996年、「『ゲゲゲの鬼太郎』他一連の妖怪漫画」が第25回日本漫画家協会賞・文部大臣賞を受賞。


1933年から1935年頃にかけて、民話の『子育て幽霊』を脚色した『ハカバキタロー(墓場奇太郎)』(原作:伊藤正美、作画:辰巳恵洋)という紙芝居が存在し、『黄金バット』をも凌ぐほどの人気だった。

1954年、紙芝居の貸元である阪神画劇社と紙芝居作者として契約していた水木は、同社社長・鈴木勝丸に前述のハカバキタローを題材にした作品を描くよう勧められた[1]。作者承諾の上で、水木はオリジナルの紙芝居『蛇人』『空手鬼太郎』『ガロア』『幽霊の手』の4作を仕立てた。これが鬼太郎シリーズの原点である。

だが、奇抜な展開で評判を呼んだ『空手鬼太郎』を除き、鬼太郎シリーズはそれほど人気が出ず、それ以降は製作されなかった。この水木版紙芝居の鬼太郎作品は現存しないが、伊藤版の一部は加太こうじの『紙芝居昭和史』などの書籍で部分的に見ることが出来る。ちなみに鬼太郎が墓場から生まれた片目の子供という設定(『蛇人』より)と目玉おやじの登場(『空手鬼太郎』より)はこの頃からである。

その後、貸本漫画家に転身した水木は、1960年[2]に兎月書房発行の怪奇短編マンガ誌『妖奇伝』に「幽霊一家」を発表。ここで現在の鬼太郎の基礎が定まる。この時期の鬼太郎はまだ人間の味方ではなく、関わった人々に怪奇な結末をもたらす不吉な少年という位置づけだった。『妖奇伝』第2号には第2作「幽霊一家 墓場鬼太郎」が掲載されるが『妖奇伝』は一般には全く人気が出ず廃刊になった。ただ、鬼太郎シリーズは熱心な読者からのファンレターがあり、同年に同じく兎月書房から『墓場鬼太郎』と題した怪奇短編マンガ誌上で、「地獄の片道切符」(第1巻)「下宿屋」(第2巻)「あう時はいつも死人」(第3巻)などのシリーズ諸作が発表された。「下宿屋」ではねずみ男がシリーズに初登場している。

それまで水木は兎月書房の専属に近い形だったが、経営難の兎月書房からは原稿料が一切支払われなくなり、憤慨した水木は長井勝一の三洋社に移籍。『鬼太郎夜話』シリーズ「吸血木と猫娘」「地獄の散歩道」「水神様が町にやってきた」「顔の中の敵」を順次発表した。以前に書いた「幽霊一家」から「顔の中の敵」までは一連の物語になっており、後年、『ガロ』版「鬼太郎の誕生」及び「鬼太郎夜話」としてリメイクされている。しかし、5冊目「カメ男の巻」を出す段階で三洋社の社長が入院、そのドサクサで原稿が行方不明となり、「カメ男の巻」は幻の作品となってしまった。

一方、兎月書房は『墓場鬼太郎』の発行を続け、鬼太郎シリーズの続編を竹内寛行に描かせていた。やがて水木は兎月書房と和解し、1962年には読み切り作品『怪奇一番勝負』『霧の中のジョニー』を描く。しかしその後、兎月書房も倒産。水木は1964年に佐藤プロで、読み切り作品『おかしな奴』、『ボクは新入生』、『アホな男』を発行。桜井昌一の東考社でも『霧の中のジョニー』の続編と予定されていた『ないしょの話』を発行した。なお、鬼太郎はこの頃には、後の少年誌に登場する親しみやすいキャラクターへと変貌している。


メジャー化[編集]

1965年、劇画路線を推進していた『週刊少年マガジン』(講談社)で「墓場の鬼太郎」の「手」が読み切り掲載された。採用の経緯は、それまで『週刊少年サンデー』に連載を描いていた手塚治虫が初めてマガジンに連載を始めた『W3』に作品に似た雰囲気の『宇宙少年ソラン』の連載が始まったことで手塚が激怒し(これは濡れ衣であったが)、1ヵ月で連載をやめてしまい、ライバル誌であるサンデーに連載を移したことにある。マガジンとサンデーはともに創刊5年目であったが、マガジンはサンデーに約20万部の発行部数の差をつけられていた。起死回生の手塚の起用であったのがこうした結果になり困った編集部の内田勝は急遽、貸本世界で活躍していた水木に白羽の矢を立てた。当初は不定期掲載で人気も出ず、3話で打ち切りを検討された。だが夏休みが終わる時期に、当時の貸本読者や大学生たちからの激励の葉書が届き、打ち切りは回避された。

 

当時、『週刊少年マガジン』の編集長だった内田勝の著書『「奇」の発想』によると、『鬼太郎』はずっと読者投票の最下位で、人気獲得のためにアニメ化しようとも試みられたが困難を極め、友人である東映の渡邊亮徳(当時の東映常務取締役テレビ事業部長)に相談したところ、「妖怪もので、タイトルが墓場ではちょっと……スポンサーが付かないから、時間をかけてじっくりと行きましょう。」と説得された(結果として『悪魔くん』の実写ドラマ化が先行)。

鬼太郎とネズミ男【水木しげる】

『悪魔くん』の成功により、水木しげるが人気作家になったため、1967年からは正式な連載作品となる。内容も「怪奇物語」から「正義の鬼太郎が悪い妖怪を退治する」という少年誌向けの内容に変化。徐々に人気を増していった。妖怪という言葉がひんぱんに用いられる様になったのもこの頃からである(貸本時代にはほとんど使われていなかった)。貸本時代の作品のリメイクも多く、「霧の中のジョニー」を「吸血鬼エリート」に、「おかしな奴」を「陰摩羅鬼」に、「ボクは新入生」を「朧車」に、「ないしょの話」を「大海獣」にと、多少内容をアレンジして再執筆している。また怪獣映画さながらの「大海獣」や「妖怪獣」、「毛羽毛現」の恐竜、「白山坊」のモスラのような容姿の巨大蛾などが登場するのもこの時期の特色である。なお「妖怪大戦争」の回では、後に主要メンバーとなる、砂かけ婆、子泣き爺、一反木綿、ぬりかべが鬼太郎の仲間として初めて登場する。

やがて安定した人気を得た本作は1968年に、タイトルを『墓場の鬼太郎』から『ゲゲゲの鬼太郎』に変更することでスポンサーの了解を得て、テレビアニメ化を果たす[3]。それに合わせて1967年『週刊少年マガジン』11月12日号から作品名を『ゲゲゲの鬼太郎』と改題された。またアニメ化に伴って、少年漫画誌のみならず講談社の『ぼくら』や『たのしい幼稚園』などの幼年誌でも鬼太郎は子供たちのヒーローとして活躍する一方、貸本時代からのファンや青年向けの作品にも登場し、1968年は鬼太郎作品を5誌に渡って連載していた。

『月刊漫画ガロ』(青林堂)では「鬼太郎の誕生」の掲載を経て、「鬼太郎夜話」を連載。両作とも貸本時代に描かれた作品を、一部ストーリーやデザインを変更して新たに描き直したものである。そして、『月刊宝石』(光文社)ではベトナム戦争を題材にした「鬼太郎のベトナム戦記」を連載。ベトコンに味方した鬼太郎ら妖怪軍が米軍と戦うというストーリーだが、原案として参加した佐々木守と福田善之が思想的な部分を手伝っている。

1969年、人気絶頂の最中に『少年マガジン』の連載が終了。翌1970年の『別冊少年マガジン』7月号では、連載が終了した作品の主人公を描く「その後のまんがスター」という企画があり、南方に渡り最後は平和に暮らす鬼太郎という「その後のゲゲゲの鬼太郎」が掲載された


長期シリーズ化[編集]

連載やアニメの終了後も人気は衰えず、1971年に再びテレビアニメ化された事に合わせて、『週刊少年サンデー』(小学館)で新作が描かれた。今シリーズの鬼太郎は、砂かけ婆の経営する妖怪アパートの住人として描かれ、鬼太郎ファミリーのメンバーがこれまでよりも増えている。また、『少年マガジン』でゲスト妖怪として登場していた猫娘と設定は同様だが、容姿が微妙に違う猫子というキャラクターをレギュラーとして登場させている。なお、当時は小学館の『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』等の学習雑誌での連載も加わり、7誌同時にそれぞれ別の鬼太郎作品を発表していた。

『少年サンデー』版の最終話では、鬼太郎がヤカンズルに飲み込まれ7年は出て来られないとして終わっているが、2年後の1973年には『いんなあとりっぷ』(仏の世界社)で「鬼太郎とねずみ男」の連載が始まる。このシリーズは短期連載で終わるが、風刺色の強い作品でありオールカラーで描かれた。

翌1974年には描き下ろし長編『死神大戦記』が学習研究社から「日本の妖異」シリーズとして上・下巻で発行。『往生要集』を下にした作品であり、宮田雪が脚色担当として参加している。今作は「その後のゲゲゲの鬼太郎」の続編として描かれ、水木しげると共に鬼太郎が地獄を舞台にして妖怪と戦うストーリーである。

1976年には『週刊少年アクション』(双葉社)で「鬼太郎の世界お化け旅行」の連載が始まり、鬼太郎ファミリーが世界の妖怪を相手に活躍する姿が描かれた。なお、今作の鬼太郎は野球帽を被っている設定。また、1976年から1977年に掛けては「鬼太郎対悪魔くん」、「妖怪ロッキード」等の、単発の読み切り作品も幾つか発表された。

そして、1977年から1978年に掛けては『週刊実話』(日本ジャーナル出版)での連載が約1年半続く。同誌では3作品が発表され、1作目は「続ゲゲゲの鬼太郎」を連載。高校生になった鬼太郎の話であり、これまでのチャンチャンコをやめて縞模様のセーターを着用している。鬼太郎シリーズの中では特に異色作であり、内容的には青年向けに描かれている。当時の『週刊実話』編集者によると、かつて子供が人気を支えた鬼太郎を青年誌に連載することには不安があったようだが、「当時の水木ファンたちは今や大学生や社会人になっている。読者もきっと分かってくれるはずだ」と言う意見もあり、鬼太郎を大人の世界で活躍させることになったという[4][5]。また、当時の水木はこれまでのヒーロー的な鬼太郎からの脱却を試みていた背景もあり、この話にかなり意欲的に取り組んでいる[6]。しかし、後に水木は「鬼太郎にセックスを持ち込んだのは失敗だった。」と回想しており[7]、『週刊実話』2作目の「新ゲゲゲの鬼太郎 スポーツ狂時代」では軌道修正を行っている。今作は、超能力を奪われた鬼太郎が相撲界で活躍する「相撲の巻」、墓の下高校の野球部に入部した鬼太郎が妖怪チームで甲子園を目指す「野球狂の巻」の2話で構成された水木独特のスポーツ漫画である。そして、『週刊実話』3作目の「新ゲゲゲの鬼太郎」では再び軌道修正が行われ、かつての様な少年姿の鬼太郎が妖怪と戦う姿が描かれている。また、SFの要素が加わったことで宇宙人との対決が多くなり、青年向けの描写は控えめになっている。なお、1977年は『週刊実話』の連載と同時期に『漫画サンデー』(実業之日本社)で「ゲゲゲの鬼太郎 挑戦シリーズ」の連載も始まっている。今作は「UFOの秘密」、「太古の秘密」、「地上絵(ナスカ)の秘密」の3話構成で、『週刊実話』同様に青年向けの作品となっている。この時期の鬼太郎シリーズは当時の雑誌に「何処へ行く鬼太郎」と特集されるなど、総じて迷走していた時期とも言える[8]。

その後は『週刊少年マガジン』での読み切り作品「海坊主先生」を挟み、1980年に『月刊DONDON』(日本ジャーナル出版)の短編漫画「大ボラ鬼太郎」を短期連載する。そして同年、『月刊少年ポピー』(少年画報社)で「雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎」の連載が始まり、再び少年誌で鬼太郎が描かれる。今作は鬼太郎の妹・雪姫をメインにした作品であり、雪姫が登場する唯一の作品である。不思議な力で鬼太郎のピンチを救うなど徐々に成長する雪姫だったが、掲載誌の廃刊により連載は終わってしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%81%AE%E9%AC%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

 

 

わたしの里 美術館「索引」 我が郷は足日木の垂水のほとり【HOME】 岩水
わたしの里 美術館       わが郷 HOME

 

 

 

 

   


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。