小泉 純一郎 (こいずみ じゅんいちろう)
1942年(昭和17年)1月8日 -
日本の元政治家。
衆議院議員、厚生大臣(第69・70・81代)、郵政大臣(第55代)、外務大臣、農林水産大臣、内閣総理大臣(第87・88・89代)、自由民主党総裁(第20代)などを歴任した。
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福田赳夫の秘書を経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来連続当選を果たす。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓や加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。
竹下政権にて厚生大臣として初入閣を果たし、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。森喜朗の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年(平成13年)4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第3位。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、二男の小泉進次郎を後継指名し政界を引退した。引退後は、奥田碩、田中直毅らとシンクタンク「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務めていた。
生い立ち[編集]
小泉と家族
1942年(昭和17年)、神奈川県横須賀市に政治家小泉純也と芳江の長男として出生する。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった[注 1]。
戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。井料克己によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだ貧(まづ)しくて夕食の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまに川や海に行って魚やうなぎを釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という[1]。
学生時代[編集]
神奈川県立横須賀高等学校から慶應義塾大学経済学部を卒業[注 2]。イギリスに遊学の後、1969年(昭和44年)8月に父が急死したため帰国。
同年12月、亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。
福田赳夫の秘書として[編集]
福田赳夫の秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した[2]。横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った[2]。福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた[2]。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で靴揃(そろ)えておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り~お車ぁ~”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」[3]。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行い捲土重来を期していた
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2013 08 27 辛い物を 喰いすぎると 【わが郷】