史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東京農業大学創立125周年記念シンポジウム「創設者榎本武揚を再評価する」 主催 東京農業大学 日本経済新聞社クロスメディア営業局

2016年10月29日 | 講演会所感
新聞に東京農業大学創立125周年記念「創設者榎本武揚を再評価する」シンポジウムの広告を発見し、早速申し込んだ。申し込んだ時点では受講できるかどうかは不明で、確定すればメールで受講券が送られることになっていた。特にくじ運が強い方ではないので、半ば諦めつつ期待せずに待っていたところ、一週間前になってメールが届いた。会場である日経ホール(千代田区)は八割程度の入りであった。午後一時に始まり、午後六時に終わるという長時間、しかも講演が四本とパネルディスカッションという濃密な構成で、さすがにオシマイまで聞き通すと疲れた。ただし、最後まで残っていると、東京農大特製のジャムと榎本武揚が留学先のオランダから持ち帰ったレシピをもとに復元された石鹸をお土産としてもらえるのである。これが効いたのか、途中で会場を抜けた方は少なかったように思う。
榎本武揚というと、箱館政権の総帥というイメージが強いが、その後、明治政府に仕え、逓信大臣や文部大臣、農商務大臣などを歴任している。この日、最後の講演で東京農大の高野克己学長が、榎本武揚は①武士②政治家③外交官④技術者⑤教育者⑥国際人⑦科学者という7つの顔を持ち、それぞれの分野で才能を発揮した万能人だと紹介されていたが、まさにそのとおりである。一方でシンポジウムの質疑応答で、聴衆の一人が質問されていたようにその功績の割に過小評価されている。この質問に対し、パネラーのお一人である同大学の黒瀧秀久氏(生物産業学部長)が「箱館戦争で生き残ったことが『命を惜しんだ』とされていること、加えて福沢諭吉の『痩せ我慢の説』に代表されるように二君にまみえたことが不人気の理由だろう」とコメントされていた。「敗者の精神史をもっと学ぶべき」という発言に期せずして会場から拍手が起こった。
大学の創設者を再評価しようというシンポジウムなので、登壇者は口々に榎本武揚を賞揚したが、これで本当に再評価したことになるのだろうか。高野学長のいう7つの顔のうち、少なくとも武士(軍人)としては成功しなかったのではないか。箱館戦争の敗戦の責任はそのトップである榎本が負わなければならないし、江差沖で開陽丸を沈没させてしまったことや、宮古湾海戦の失敗など、榎本武揚のリスクマネジメント不足が招いた失策である。軍人として全く無能だったと言いたいわけではない。本来であれば派手に箱館に乗り込みたいところ、鷲ノ木から上陸させ被害を最小に食い止めた判断は非常に的確だったと思う。
冒頭の基調講演は、北海道出身の作家の佐々木譲氏による「私の榎本武揚」。佐々木氏は、文庫本上下二巻に及ぶ「武揚伝」を上梓しており、さらにその後の研究成果を反映して、近年「決定版 武揚伝」を出した方で、榎本武揚への思い入れは並大抵ではない。作家がひとりの歴史上の人物を小説の主人公に選ぶとき、生半可な思いでは書けないだろう。佐々木氏が榎本武揚に惚れこんでいるのはよく分かったが、「榎本武揚の生涯を描けば幕末から明治にかけての日本の近代史を書くことができる。そのような人物は榎本武揚をおいてほかにいない」という発言には少々違和感を覚えた。榎本の前半生を描いても、幕末の複雑な政局は見えてこない。むしろ大久保利通や伊藤博文の方が「日本の近代史」への関与の度合いは高いと思うが…。
佐々木氏は、蝦夷共和国「幻説」に異論をとなえる。当時、英書記官アダムスが榎本政権のことをRepublicと表わし、米副領事ライスもEzo Republicと記述したことがその根拠となっているが、そのことをもって欧米各国が公式に榎本政権を独立した共和国とみなしたかどうかはもう少し検証が必要であろう。さらにいえば本当に我々がイメージする「共和国」であったかどうかという点についても議論がある。入れ札(選挙)によって総裁以下の役職が決められたことを以って「共和国」とされているが、榎本が自ら共和国と主張したことはないし、いずれは徳川家から盟主を迎え入れようという意思を持っていたというから、彼が決して今日的な意味でいう共和国を目指していたとは思えない。
この日、二人目の講演者は、榎本武揚の曾孫榎本隆充(たかみつ)氏である。飄々とした語り口ながら、先祖への敬意の感じられるお話しであった。隆充氏は明治八年(1875)の千島樺太交換条約の締結に際して、榎本は全権を委任されたと強調されていたが、とはいえ千島と樺太を交換するといった重大事は榎本一人が決められる案件ではなく、事前に政府との下打ち合わせがあって条約締結に結びつけたのだろう。千島樺太交換条約の締結を榎本個人の功績とするのは違和感があるが、いずれにせよ、榎本の本領は武人・軍人より、外交官や政治家としての手腕にあったのだと思う。
続く登壇者は、田坂広志氏(多摩大学大学院教授)。「天才と凡人の違いは、あと五分頑張れるかどうか」「戦争・大病・投獄を経験することは脱皮のチャンス」「人は必ず死ぬ、人生は一回しかない、人は何時死ぬか分からない」「だけど人生の密度は己で決められる」「思想・ビジョン・志・戦略・戦術・技術・人間力という七つの知性を統合するのが垂直型天才(榎本は垂直型天才の典型)」「才能とは人格である」「野心と志は違う」と面白い話が続いたが、基本的に榎本武揚について論じたというよりは、田坂氏の御高説を賜ったという印象が強い。
次に「榎本武揚の実業精神と国利民福」と題して、三名のパネリストが登壇した。榎本武揚が官営八幡製鉄所の開設に深くかかわっていたとか、東南アジアの植民地解放運動にも熱心だったという話も興味深かったが、個人的にはメキシコへのエノモト移民の存在がもっとも興味をひいた。しかし、スピーカーである山本厚子氏(フリージャーナリスト、スペイン語通訳)の句読点の無い、一体何時話が尽きるのか見えないような話し振りが惜しまれる。時間的な制約がある中、もう少しポイントを絞ってお話しをされたら、もっと聴衆も耳を傾けたであろう。
さて、お土産に頂戴した復元石鹸であるが、現代の石鹸には当たり前に使用されている香料が含まれていない(その代わりに米ぬかが使われているらしい)。だから、石鹸特有の良い香りはしない。榎本隆充氏によれば、その代り、「幕末・明治の香りがする」のだそうな。

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