霞ヶ浦のほとりで

徒然なるままに

ブログの終了(お礼)

2018-05-24 20:33:52 | つぶやき
人生振り返ると、楽しかったことも沢山ありましたが、悔やまれることや消したい日も多々あります。過ぎてみれば夢だったのか現実だったのか、歳と共に段々と区別がつかなくなっていきます。
人生二度あればと思う時もありますが、この頃は人の話を聞いて二度ばかりでなく、何回もの人生を経験したつもりになってます。新聞の「ひと欄」やラジオ深夜便の「明日への言葉」、Eテレの「こころの時代」などで紹介される人達は本当に深い生き方をされていますが、そんな世界に触れられただけでも心豊かになります。
様々な人生や思いをブログなどで発信している人が、何万人いや何百万人といますので、少しでも多くの人生に触れてみたいです。
一方、心身の病気や障害を持ったり、親を亡くしたり虐待やいじめにあったり、天災や紛争に巻き込まれたりと、その渦の中にいる人達特に子供達を思うと、人生がどうのこうのと言うことすら、何とも浅く思えてしまいます。
どのような人生を過ごして来ても「自分の人生を肯定しなさい」と諭してくれた恩師の言葉が身に染みます。
こんなつぶやきでこのブログを締めて、今後は時折作品の発表などで活用したいと考えています。訪問して頂いてありがとうございました。

祝 開設一周年

2018-05-23 21:01:53 | 日記
このブログを開設して、今日でちょうど一年になりました。作品発表や思い出整理、出来事やつぶやきなど、思い浮かぶまま毎日書いてきました。
これまでは、話題が次々と自然に浮かんできたのですが、最近は見つけないと出て来なくなり、そろそろネタ切れかなと感じています。
読み返すとこのままエンディングノートになりそうで、まあ続けて良かったと思います。

喜びも悲しみも幾歳月

2018-05-22 22:22:58 | つぶやき
まだ小中学生の頃でしたが、この歌を聞く度に体の内から沸き出してくるものを感じ、こんな世界(人生)にたまらなく憧れました。
どうも自分は、都会の賑やかさよりも僻地の静けさの方が性分に合っているようです。
そんなこともあり、勤めてから「組織と個人」ということについて随分と考えさせられました。
組織は実体の無い生き物で動き出すと止められないとか、個人は組織を必要とするが組織は個人を必要としないとか、個人の理想も組織の理屈が優先して全く別の形になってしまうとかです。
リタイアした今も、こんな見方をしています。

鳥島

2018-05-21 20:50:51 | 観測船の思い出
鳥島は、八丈島と父島の中間にある火山島で、明治の中頃にアホウドリの羽毛目的で島民が住んでいましたが、明治35年の噴火で島民125名が全滅しました。
戦後間もなく気象観測所が設置され、20~40人の職員が3ヶ月交代で観測してましたが、昭和40年に火山活動の活発化に伴い観測所は閉鎖され、再び無人島になりました。新田次郎の小説「孤島」と「火の島」の舞台です。
この鳥島で実際勤務した先輩達から色々な面白い体験談を聞きましたが、男ばかりの世界(監獄?)は天国だったようです。
一度だけ鳥島へ行く機会がありました。上陸はしませんでしたが島の周りを小船でトローリングしました。持っていた縄が凄い勢いでグイッと引かれ、先の方で鰹がピチピチと勢い良く跳ね回り、何とも強い手応えでした。大型のシラマサや鰹が何匹も釣れました。

親鸞(6:自然法爾) ー 終 ー

2018-05-20 20:03:42 | 雑学
この世(自然)の真の姿(真如)は絶対無であり、人間(衆生)の存在もその外にあるものではなく、本来の姿(相)は無である(相即無相)…納得。
しかし、人間は本質的に自己の主我に執着し、現実の自己は見えないので(迷倒の凡夫)真の安心は得られない…納得。
信において主我性が断じられて執着から脱却でき、初めて自己が生死の凡夫であることを知る…納得。
親鸞は「現実の安心」ということに宗教の本質を主張した。ここが未来教と思われがちの浄土教の諸師を超えた偉大さがある。問題は、往生するかしないか、弥陀が救うか救わないかではなく、現実に信を獲て本当に安心することにある…納得。
自然=真理=真如であるゆえ、自然の道理に従順なのが自然で最も合理的、自然と私が一枚となった無の世界が、明白な真実そのもの(自然法爾)である…大いに納得。
以上、解説書による予備知識を持って「教行信証」をじっくり読んでみたいと思っています。