霞ヶ浦のほとりで

徒然なるままに

聖典

2020-05-05 01:51:04 | サピエンス全史

経典や聖書やコーランなどの聖典はいずれも宗祖ではなく、神の言葉とか奇跡などの記述も後年の人の手によるものだということは容易に理解できそうですが、ハラリ氏は歴史資料を調べあげて丁寧に根拠を示した上で解説をしています。


科学や医学が未熟だった頃は、自然災害や疫病など原因の解らない事象は神という人間の能力を超えた存在を信じ畏れ敬い、この世界を造ったのは神とする宗教が誕生するのも当然の流れと理解できますが、科学技術の進歩によりこれらの原因や仕組みが解明された現在においても宗教の教えが神や天国の存在を前提にして入ることにミスマッチ感を覚えます。


現在にはもう宗教は不要かというとそれは別問題だと思います。現在でも「心」という最も根元的な事象はよくわかっておらず、この心という厄介(?)なものが解明されるまでは宗教が不要とはならない気がします。ハラリ氏は脳の働きについて分かっても心の仕組みを解明することは可能かどうかは分からないと述べています。


先日参列した葬式でのことですが、導師を勤めた若いお坊さんの法話で「旅立たれた先はどのような世界なのかは私達には全く分からないだけに、この最期の別れの時を大切にしましょう…」との言い回しが現在にマッチングしていて素直に受け入れられました。


若い頃から「宗教」はよく把握できずに曖昧なままで来てしまいましたが、ハラリ氏のホモ・サピエンスの認知革命の結果というアプローチにより納得のいく整理が出来ました。


十字軍の騎士道

2020-02-25 14:53:31 | サピエンス全史

新年早々アメリカとイランで緊張が高まりました。中世の十字軍を現在も引きずっているようです。

ハラリ氏は「自由」と「平等」は元々矛盾なのだと述べてます。同じように十字軍も最初から「神の教え」と「騎士道」との矛盾を含んでおり、例えとして誇り高い貴族に育った若者が十字軍に参加する時に、その折り合いをどのようにつけたのかを興味深く説明し、時を経ればいかに価値観が変わるものかを述べて歴史の見方を教えてくれます。

若者は前回の十字軍に参加し戦死した祖父の剣を前に我が家の英雄談を聞かされて育ち、教会からは天国に暮らせるということで十字軍に参加し、親戚や街の娘さん達に派手に見送られ意気揚々とイスラム遠征に出発するのですが、戦場で背後から斧で頭をぶち割られて戦死する話です。

そして幾世紀が経ち、いまではイスラム圏の内戦の避難民にキリスト教圏の若者や娘達がボランティア支援をしている現在を眺め価値観の変遷を解説し、宗教はホモ・サピエンスが作り上げた虚構だと結論しています。


これを読んで、先の太平洋戦争で召集されて戦地に行った兵隊さん達、特に若き特攻隊員の事を思い浮かべました。こちらは敗戦と同時に昨日まで軍神と崇められる存在から特攻隊員の身分を隠すようになる社会の価値観の変化をどのように受け止めたらよいのでしょうか。


宗教は天国とか極楽という死後の世界を語り、十字軍も戦争もテロもそれを信じさせて死に向かわせるのは共通しています。筆者の言う日本は神国との当時の教育もまた宗教であるとの説明に納得させられました。


仏教はイデオロギー・・・

2019-12-19 22:55:37 | サピエンス全史

分かっているつもりでいても、じゃあ説明せよと言われて窮するものに「哲学と宗教の違い」というのがあり、ずっと曖昧でした。

ハラリ氏は宗教を『超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度』と定義できるとして、宗教の持つ様々な側面を幅広い視点から取り上げてホモ・サピエンスの歴史への影響を解説しています。読み進めるうちに哲学との違いについても自分なりの答えが見つかった気がします。
それは、哲学は物事の疑問から入るのに対し宗教は信じることから入るという違いです。宗教は神とか極楽浄土とかの存在を信ずることで心の安心を得るというものとの理解です。
仏教は代表する宗教の一つですが、ハラリ氏は仏教に関してゴーダマ(釈迦)が何に悩みどう悟りに至ったのかを2~3頁で見事に解説しています。さらに一神教とは原理が違っていること、仏教はイデオロギーとも言えると述べてます。

そう言えば、仏教で不思議に感じていたことがありました。同じ仏教でも浄土教と禅宗とは全く違うように見えるのです。これまでは大乗仏教と小乗仏教の違いなのかとの理解でしたが、今回浄土教は極楽浄土を信じることから始まっているので宗教そのものと言えるのに対して、禅宗は生きる意味を問うことから始まっているのでむしろ哲学ではないかということです。修行により自分なりの答えを得たなら、それがイデオロギーかも知れません。
さて、我が家にも時折り宗教を説く人が来られますが、元々神の存在を前提にして説かれますので、話が噛み合わないのも当然なことだったのです。
とは言うものの、この私もあり得ないとは分かっていながら強く信じていることがあります。それは、父や母の臨終に間に合わなかったこともあってか、自分の死後に亡き両親や先立った人達に会えるというものです。それで心の安堵が得られるので不思議です。


アニミズムから一神教へ

2019-12-06 22:19:09 | サピエンス全史

万物に霊が宿っているとするアニミズムから農業革命を機に雨乞いや戦の勝利など様々な願い事を聞いてくれる神々を崇める多神教へ、その神々の中で自分の守護神を唯一とする一神教が芽生えました。
その一神教の中でイエスキリストの福音をパウロが世界中に広め、その後の歴史に大きな影響を及すことになりました。続いて同じく一神教のイスラム教が誕生して世界に広まり宗教間の争いの歴史も始まりました。

どの宗教も慈愛に満ちた教えなのに、何故殺し合う程の争いになるのか不思議でなりません。これまでの私の解釈は、組織が大きくなり教会や寺院を造ったりすると組織維持の理論が優先される結果、教えとはかけ離れた方向に進んでしまうというものでした。この書を読んでからは、神は一つならば他の神は偽りであるので排除しなければならないという排他的な性質が一神教には元々内在しているとの思いに至りました。

排他的な性質はそれに止まらず、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントでは神の解釈の仕方の違いだけで凄まじい争いが繰り返され、ローマ帝国がキリスト教を迫害した300年間での犠牲者は数千人ですが、16~17世紀にカトリック教徒とプロテスタントの争いで何十万人も犠牲になったとのことですから驚きです。特に1572年8月23日のサン・バルテルミの虐殺はカトリック教徒の襲撃で一晩に女子供も含む5千人~1万人のプロテスタントが犠牲になりました。
『右の頬を叩かれたら左の頬を出しなさい』というイエスキリストの教えを信仰する者同志が殺戮し合うなんて、宗教とは何なんだろうと思わずにはいられません。

宣教で思い出したのですが、小学校低学年のある日、校門の前で外人の宣教師が生徒を前にして神様の話をしていました。地面に棒で大きな円を描き「神様を信じた人だけが天国に行けます。信じる人はこの中に入ってください。信じない人はあっちへ行きなさい。」と何人かを無理矢理円から追い払いました。私は急いで中に入り何だか助かったと思ったのと、追い払われた友達が自分達とは違う人間になってしまったように見えたことを覚えています。
今思うと排除(差別化)することで自分達の正当性を示めそうとしたのでしょう。一神教には排他的な要素が確かに内在していると思わせられる出来事でした。


21Lessons

2019-11-24 14:14:49 | サピエンス全史
待ちに待った書物が発行されました。早速本屋さんに行くと新刊コーナーにうず高く積んでありました。求める人が多いのでしょう。こんな片田舎でさえこうですから、日本さらに世界ではどれ程印刷されたのでしょうか。

先日このブログに「神の存在」について呟きましたが、この本にも『神』という項目があり、ちょっと開いてみただけでもアプローチの仕方が一段と広く深いことがわかります。

カバーには『サピエンス全史』は過去を、『ホモ・デウス』は未来を、この書『21Lessons』は現在に焦点を当てているとのことです。21の項目全てにその本質や捉え方に興味があり、その知見を得たい衝動に駈られています。しばらくの間この本に釘付けにされそうです。

もっと早くこの書に出会えたなら、世の中をきちんと理解して迷うことも少なく、人生に自信と誠実さを持つことができたと思います。宗教ではありませんが、何だか私はハラリ教の信者になってしまったみたいです。