不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

駄目な人はひとりもいない

2007-12-31 19:18:44 | ひとから学ぶ
 仕事納めの日、部署のトップは「将来の道をそれぞれが選択しなくてはならないところにきているから、自分にあった良い道を探してほしい」(詳細な部分は違うかもしれないがおおよそこんなところ)などという言葉を発した。確かにそれが現実なのだが、出先のトップがこんな言葉を出さざるを得ないという背景が、とても疲弊している世界を象徴している。

 真宗大谷派の善勝寺報「慈窓」12月号において、「駄目な人はひとりもいない」といって教えている。歳を重ねるほどに一年の過ぎるのは早くなり、子どものころのような見るもの、聞くもの、すべてが新鮮だったという感動がなくなる。そして「何もおもしろいことがない」「毎日がつまらない」などという言葉が出るようになると危険信号だという。このごろは若い人でもそんな具合で、常識では考えられない親殺しや子殺しが起きるともいう。そしてこんなことが書かれている。


 蓮如さまは「仏法には無我、われと思うことは、いささかあるまじきことなり。われはわろしと思う人なし。」(南無阿弥陀仏の世界は、無我の世界、俺を馬鹿にするとか、私を無視するとか思って腹を立てるということは、あってはならない。それなのに世の中の人は、私が悪いのだと誰も思わない。)『蓮如上人御一代記聞書』と教えられている。近頃はみんな偉い人になり「私は絶対に正しい。他の人は間違っている」という秤にまわりの人をかけて、相手を攻撃する。そり結果、取り返しのつかない事態に追い込まれる。どんなことでも真剣に取り組めば、「こんな素晴らしいことだったのか」と、感動する世界が見えてくる。


というものである。このところ墓を、そして死後の支度を考えてきた。まるで現代の若者のように信心などおかまいなしみたいに語ってきたが、実は寺のこうした印刷物を読むのが嫌いではない。檀家でもないのに、もう20年ほどこの寺の毎月の記事を読んでいる。仏の教えに信心はないし、この寺の考え方に同調しているわけではないが、言っていることはわたしをとても納得させてくれる。表向きのことで裏のことは解らないが、宗教とはそんなものなのかもしれない。ここでも触れられているように、いかにさまざままなことを人のせいにせず、自らを戒めることができるかである。ところがこの1年の我が家は、なかなかそんな教えのような具合には行かなかった。言ってもまったくこちらの意図通りに動かないと、こっちがいらいらしてくる。それを繰り返す半年。けしてダメには育てた覚えがなかった息子は、今や手に負えないほどに母の心を痛める。自分の好きなことをすればいい、自らの人生なんだから、と父が母を諭しても、「そんなはずじゃなかった」と母は落ち込む。仕事に追われて、わたしは仕事へ、息子は別の次元へ、母はどこにも逃げられずにひたすら耐えている。そんな連続である。これからも何度も触れることになるだろうだろうことで、今までにも何度か触れてきたことであるが、子どもたちが親の面倒を見なくなったという事実は、この世の中を、いや地方を大きく変えた。もちろん昔だって自分の力を存分に発揮するために親元を離れる人はたくさんいたわけであるが、そのあたりが少子化と大きくかかわってくる。ただでさえ子ども少なくなったのに、その子どもたちは能力を発揮することが勝ち組だとごとく、旅だつことが当たり前となった。今や地方において親子同居は稀なケースといってもいいくらいになりつつある。その考えは、ここ20年ほどの間にさらに加速してきて、とまるところを知らない。確かに子どものためにと思えば、出来うるかぎりのことをしてあげたいと思うのは解るが、だからといって子は親の身の代ではない。そんな葛藤があるのは解っている。そんななかでの親子の難しい関係である。よその親子が仲良くしていると羨ましく思えてくるが、やはりよそを見てくらべてはいけない。いかに自分たちはどうその課題を解決していくか、それを悩むことが許されているのだ。許されないほどに苦境に立っている人たちだっている。まずは自ら考えてみる、そう息子にも諭すが、さすがにまだ若い、理解はできない。そんな苦労をすることで、たとえ落ちこぼれようと、その中で自らを探すしかない、そうわたしは思う。

 さて、わが家と同じように会社も下降する。それを象徴したような部署のトップの言葉。運不運はあるものの、自ら考えるしかない、それを公私共にぶつけられたこの1年であった。
コメント (2)

中央新幹線建設報道にみる

2007-12-30 08:47:20 | つぶやき
 しばらく前からJR東海が2025年に営業運転を目標にリニア中央新幹線を建設するという報道がちらほらしていて、それに向けた調査も始めたというニュースもその直後に小さく報道されていた。その際にわたしが感じたのは、新幹線ルートは直線ルートで建設される可能性が高いというものであった。その際の関連記事をストックしていずれ触れようと思っていたら、先日のJR東海の「自己負担による整備」方針である。実は2025年建設意向が表明されたときよりも、長野県内の報道記事は大きい。中日新聞の長野版には「別ルートにとまどいの声」と白抜きの大きな見出しが登場した。まるで一面トップ並みの扱いである。なぜかといえば、長野県内では山梨から諏訪を通過して伊那飯田と南下して中京圏へ入るルートを推進していて、流れとしてはそのルートの可能性大とふんでいたのだろう。ところが今回のJR東海の考えは、自己資金で建設して早期に営業を始めてかかった費用を早く回収するというものである。したがってとりあえず東京―名古屋間を結ぶことが優先であって、途中の地域のことなどどうでもよいわけである。

 「どうでもいい」というのは言い回しが悪いかもしれないが、素直に考えればごく当たり前のことという印象がある。途中の地域といっても平らな部分があるのは山梨くらいで、あとはわずかな空間を山あいに持つだけで、スピードを売り物にするのなら駅などないほうがよい。たとえ長野県内の自治体が要望していたルートが実現したとしても、そのスピードから想定すれば、駅は一つといったところだろう。そんな思惑通りにことは進まないし、その程度しか人も住んでいない。このことは、建設が遅れるほどに目立ってくる課題だったと思っている。そこへきて、このごろの東京集中化である。地方の時代などという言葉は消え、大都市への集中化は、人口が減少してゆけばさらに加速するだろう。コンパクトシティーという考えが流行るが、おなじことをもう少し広い範囲で考えれば、コンパクトな国づくりということになる。東京圏内への集中というものは、災害というリスクをのぞけば、けして悪いことではない。そして健康な高齢者が田舎に住みたいというのなら、そういうエリアを設けておけばよい。分割されているJRという環境から考えれば、営業区間でいかなる設備投資をしていけばよいか、ということになる。東海がその最たる必要性を感じているのが、東京との時間短縮といえるだろう。巨額な建設費、そしてその負担をどう賄っていくか不安は残るが、意図はわかりやすい。そんな解りやすさから考えれば、最短ルートは当たり前だし、「駅の建設費は地元で負担してもらう」という考えもよくわかるものである。反発したところで、この地域の利用者は勘定できるわけで、時代背景とともに冷静に考えれば、もしかしたら駅一つも建設できないかもしれない。

 そんななか、ひとり歓迎イメージを持っている飯田地域。まさに地域性に視点をおいてきているわたしの思うつぼのような関係である。果たして歓迎イメージを持っていても、建設費は捻出できるのか、そんな印象もある。ルート認識の違いによって、こんな狭い地域なのに諏訪・伊那といった地域からまたまた無視される可能性もある。

 さて、2025年といえば、18年後である。健康であればわたしはまだ生きている。生きている間には絶対あり得ないと感じていた中央新幹線が、果たしていかなる姿で登場するのか、そして今利用している飯田線がどんな変化を遂げているのか、ますますこの地域が奈落の底に陥っている、などという印象ももちながら、行方を見守っていきたい。
コメント (2)

行政組織の怪しい世界、ひとつ

2007-12-29 12:04:25 | ひとから学ぶ
 矢祭町で議員報酬を日当報酬にするという案が可決されて話題となっていた。現在ボーナスも含めると300万余の報酬が、3万×30日=90万で済むという。全国初というが、この「初」というのは意外であった。全国にはやまほどの議会があって、議員がいるのに、こうした意見がなかったかどうか知らないが、日当報酬制度をとるところがなかったということが意外なのだ。

 そんなニュースを耳にしたなか、知人は町議会において議員年金制度改革に関する意見書が否決されたことについて触れている。国会議員でもこの年金制度に対して議論になっているが、町村の場合は全国の町村議会議員によってその制度が成り立っているようである。常に思うのは、自治体とはいえ、市と町村が別ということだ。市の関係者にとっては町村などというものは自治体ではないと思っているのかもしれないが、もともとなぜ自治体という形式的には同じ組織のように見えるのに、それぞれはことなった組織わ組むのだろう。全国市長会に対しての全国町村会、郡に属している町村とそうでない市、という一般人にはせいぜい住所表記上の違いだけに見えるような部分なのに、実は大きく異なるようだ。そのあたりは専門ではないからわからないが、きっと市町村職員は詳しいのだろう。そもそもそのあたりからして、一般人には見えない世界で、それでいてなんとも初歩的な疑問がわく。

 そんななか、合併によって町村がしぼんでいき、市が増えていくから、そのあたりの組織的な部分は町から市の組織へ例えば議員年金も移し変えていくのだろうか。いずれにしても町村が減少していけば、議員数も減少し運営できなくなるのは必死となる。そもそも町村の方が財政的に厳しいだろうから、議員年金に自治体が補助していくのもつらくなる。果たして議員はそれを生業として生きているのか、それとも名誉職なのか、はたまたサイドビジネスなのか・・・、といった具合に人それぞれなのだろう。ただ思うのは、情報を得やすい立場であることに違いはない。だからまんざらやっていて損はないと思うのだが、議員をやっている人たちは「報酬が少ない」などと口にする人はけっこう多い。矢祭町の試算のように、せいぜい年間30日の仕事である。会社が認めてくれて、その分は給与を安くして休日をくれるのなら、議員にわたしも立候補したいところだ。地方では議員になるとすると、自営業、農業、退職後の隠居人くらいしか対象者はいない。それは生業としてやっていくにはやはり報酬が少ないからだろう。ようは専業ではない。とすれば議員をやっていたことで年金をいただくのではなく、一般人と同じ年金でよいように思うのだが、「それでは立派な自治は築けない」とでも言うのだろう。

 否決とはいえ、議論はほとんどなく採決へ進んだといい、意見書を提出した議員も情けなく思ったことだろうが、こと自分の報酬が少なくなることには口をつぐむ。そんなことは当たり前のことで、好き好んでくれる銭をいらないなどという人はいない。とはいえ、このごろ完了したわが社を展望した長期計画策定では、社員が自ら給与を下げなくてはやっていけないと計算した。自ら会社を潰さないためにどうすればよいのか、引かざるを得ない立場なら早期退職も致し方ない、などということを議論したわけだ。こと税金で報酬をもらったりすると、公的な部分なのだからそれは当然のごとく思うが、それなら議会なんているのか、などとまたまた素朴な疑問もわく。勝手に自治がされようが、財力がなければ自治は潰れてしまう。だからといって乱暴に税金を上げればよいなど考える行政当局はないだろう。勝手にやっていいから税金を下げてくれ、と言いたいこのごろである。「無駄なところに手をかけるな」である。ちなみに、矢祭町の日当の3万もいい報酬だと思うが・・・。

 余談であるが、先日帰宅の電車内でお世話になった知人に偶然あった。忘年会の帰りというなか、わずかな時間言葉を交わしたのだが、県の出先機関のある部署が、さきごろ発掘調査で発見された水路を見学にやってきた。知人はそこの発掘の担当者だったのだが、知人曰く「たいへん熱心でたくさんの人たちを連れて来ていただき、作業まで手伝っていただいた」という。ある意味感謝の意味でそれを語っていたが、別に手を出さなくてもよい仕事に手を出して、それで熱心に勉強していったとわけである。しかしである。それが本来のあなたたちの仕事とはまったく思えない。土日に趣味で勉強に来るのならともかく、仕事中に仕事と関連していることだからとはいえ、お祭り騒ぎのように行動するのはいかがなものか、と思うが違うたろうか。

 違うという人たちもきっといるだろうが、一般人が聞いたら「何それ」みたいなことはたくさんあるわけである。

 そう思っていたら、知人が先に矢祭町のことに触れて日記に記している。そんななかで「今回の日当制の導入は今後の地方議員のあり方に実に大きな影響を与えることになるに違いない」というが、わたしにはそう思えない。おそらくこの矢祭町の影響がでるには10年はかかると思っている。それほど自らの報酬に対しての意識は変化し難い。それほどみな自分のことしか考えていないということである。寂しい限りだがいたしかたない。もうひとつ、夜間議会なるものは必要と思わない。人間はまず昼間に活動するべきであって、加えて夜間に議会をもってきたところで、住民参加になるとは思えない。このことだけは地方においては現実である。
コメント (2)

死に支度を考える⑤

2007-12-28 12:21:49 | 民俗学
⑤両墓制

 前回「いつまでも残る遺骨」について触れた。かつて両墓制について盛んに民俗学では触れられていたが、このごろの葬儀の変容の著しさで、現代における葬儀や墓はどこへ行くんだろう、というところに関心が高い。米田実氏は「大型公営斎場の登場と地域の変容」(『葬儀と墓の現在』吉川弘文館 2002)において、滋賀県におけるサンマイについて触れている。サンマイはその地域において〝ハカ〟と呼ばれる場所で、地域ごと一定の区画をもった共有財産的な場所として存在している。土葬時代においては、このハカに遺体が埋められ塚を築き、墓標のほかさまざまな墓上施設が設けられる。この墓に参るのは四十九日までであり、その後は個人の墓としての性格はなくなるという。共同の埋葬地はあくまでも遺体が土に返るまでの埋墓であって、先祖を祀る場所てはないということになる。そして、サンマイとは別に集落内の檀那寺に先祖代々の石塔を建立したセキトウバカを持っていて、年忌や盆といった供養はこのセキトウバカに対して行われるという。わたしも知らなかったが、こうした遺骨の埋葬されていない墓は法的には墓地ではないという。それを認識することで、再び墓とは何のために、という問いを自らしなくてはならないが、このことは後で触れよう。

 サンマイとセキトウバカという両墓制も、土葬という埋葬方法が継続されていることで続くが、火葬が一般的になると変化を来たす。米田氏は火葬化による埋葬地の変化を滋賀県甲賀郡の事例から捉えている。それまでサンマイに埋葬していたものが、①サンマイに埋葬、②セキトウバカを墓地として石塔に納骨、③分散してサンマイと石塔に埋葬という3パターンに展開したという。これもまた過渡期のものであって、いずれすべてが火葬になり、時代か経過するとともに、さらにサンマイのの存在は曖昧なものになるだろう。事実、サンマイの利用を止める動きもあるといい、こうした動きを「墓がなくなる」と表現する人もいるという。こうした表現をすることからみても、サンマイが墓であって、セキトウバカは供養のための標ということになるのだろうか。

 さて、ここでいうサンマイという墓は、共同の墓地であって埋葬地である。こうした墓は、現代の個人ごとの納骨を目的とする墓とは異にするもので、わたしが以前にも触れた「共同墓碑」のような存在である。そうやってみてくると、もともとはわたしの望むような墓制というものがあったはずなのに、なぜか死後の世界まで垣根を作って個々を尊重するような空間を設定してきたわけである。

 遺体あるいは遺骨を埋葬するから法的に墓地でなくてはならない。そうした法的なしばりから、散骨に対して賛否がある。いっぽう樹木葬は、サンマイと同様に墓地という空間に埋葬し、そこへ木を植えようというものである。かつての墓制に近いものともいえる。しかし、そうした場所がどこにでも設定できるというものではない。開発し尽くされたこの時代、遺骨を埋める場所が隣接地にあって、それも墓石内の納骨室ではない土の中に埋められるということを懸念するわけだ。ようは産業廃棄物と同様の感覚であって、遺骨が溶けて土に浸みこんでいくことを嫌うのである。かつて土葬が当たり前であったから、そこらへんの土地には往古よりの人骨の気配があっても少しも不思議ではないのに、そうしたかつての風習は記憶から消しているのである。それは火葬から土葬に変化して長い時代を経過しているほどに意識として強くなる。歴博フォーラム「民俗の変容 葬儀と墓の行方」(2001/11/17国立歴史民俗博物館)において井上治代氏は、一関市の樹木葬の事例を紹介していて、そのなかで里山の自然を守るという観点から墓地にするのがよいのではないかとなったとき、近隣の反対を予測したという。ところがまったく反対がなかったわけではないが、少し予定地を変えたらすんなりと了解が得られたという。その背景について、「この地域ではつい最近まで土葬だったと。だから遺骨以前に、もう遺体がこの近くに埋まっていて、そこら辺には木がいっぱい植わっていたんだよと。ですから、樹木があって、そこの下に遺体が埋まっていることすら自然な風景なのです」という。土葬時代と火葬時代と何が違うのか、それほど変わるものではないのに、なぜかその後の埋葬の仕方によって、意識に変化が生まれたということになるのだろう。骨壷にしまい込んでしまうのと、土の中に埋めてしまう、その違いであり、つまるところ遺骨が後世に残るか残らないかというところに行き着く。

 法律に定められた・・・という説明に従えば、どこでも墓というわけにはいかない。とすれば遺骨の処理方法として、「遺骨も遺灰もいりません」に対する回答は、産業廃棄物的なものになっても仕方ないわけである。同フォーラムの中での話しであるが、二代前までのことはとても詳しく語られるのに、その先の話になると「そんなことは知らん」と、すでに先祖様になっている故人を語る必要はないと話者が口にしたことを紹介している。だれのものと推定できる遺骨をいつまでも残す必要性はないだろうし、かつてはそんな意識もなかったはずである。もちろん、死した者をいつまでも記憶に残してはいけない。生きている人たちは前を見て生きていかなくてはならないわけで、死した者は早く忘れられることがよいのである。
コメント

取り残されたと思うか思わないか

2007-12-27 12:29:17 | ひとから学ぶ
 少し前になるが、信濃毎日新聞に「上水内で合併論議再燃」という記事があった。平成の大合併は終わったものの、そこへ至ることのできなかった弱小町村には、「置き去りにされた」という印象を持つ人たちも少なくないだろう。とくに、平成大合併の枠組みは、従来からの地域性とか連帯性といった慣例から自然と区切ってきたもので、十分な検討が行われたうえで枠組みができあがったという印象は低い。もともとその地域は連携していたから、とか同じ郡だからという既定のものがあって、加えて隣接していてどちらも縁が深いとなれば、自ずとそうした合併協議への始まりとなっていた。まずは郡を同じくした地域、そして隣接した地域がその一歩だったわけである。

 記事でいう再燃している地域は信州新町・中条村・小川村で、そしてその合併相手は「大」長野市である。これまでの合併協議の枠組みは、同三町村にすでに長野市に入っている旧大岡村などが対象にされたが、早くに大岡は同三町村との枠組みからははずれて違う方向を模索していたようである。長野市からみれば「西山」と言われる一帯は、まさに山間地域であって、交通の便が悪いものの生活圏域でいけば長野市といって差し支えなかったわけである。そうした西山の中でも入り口が長野市という立地にあった旧戸隠村や旧鬼無里村は、同三町村とは道筋が違う、いわゆる系統の異なる地域であった。その三町村で合併協議を進めたものの、住民投票では三者三様の結果が導かれ、合併にあいならなかったわけである。その住民投票も合併するかしないか、という単純なものではなく、信州新町と中条村では、「①3町村で合併、②長野市と合併、③合併せず自立」というものであった。信州新町では①が最多で52%、中条村では②が最多で49%(ただし①も48%と拮抗)、小川村では反対と賛成とい単純な投票で、反対が60%を数えた。合併に関しては注目度も高く、住民投票という直接的な意見で結果が出るものだから、民意は反映されている、という捉え方をされるだろう。しかしながら現実的な暮らしの変化がどれほど知らされ、そしてその変化を想定したとしてどちらの選択が正しいかなどという意図的な誘導はしないもの、とされていただろう。ところが、枠組みからしてすでに誘導であって、果たして自らの地域はどうあるべきか、などと悠長なことを言っていられないほど、人々にはこころの余裕もなかっただろう。それはどこの合併協議にも等しく存在した課題だったと思う。認識度、かかわり度によって民意は必ずしも情報の上に成り立っていなかったともいえる。

 3町村はいずれも仕事で何度も足を踏み入れた。仕事以外にも「長野」という地に暮らす以前から興味を持った地域でもある。そして中条村、もっとも頻繁に訪れた村である。住民投票直前に、「長野市と合併しよう」という幟旗を町の中心街にたくさん掲げるほど、「長野市へ」という意識の強い人たちがいた。人口はそれほど多いわけではなくとも、そこに暮らす人々はまったく一様ではなく、高齢化率県内トップクラスというものの、さまざまな利害を思い育む人たちがいることも知った。そんななか、その結果だけで破綻した合併。いずれにしても合併不可欠と感じていた信州新町の中村町長は、平成18年に長野市への合併意向を表明した。もともと「長野市へ」という意識の強かった中条村は、すでに合併ありきの模索をする人たちがたくさんいた。すでに、この地域には「いつ長野市へ?」という意識がある。

 上水内郡は、長野市へいくつかの町村が合併したことで、長野市を挟んで郡部が展開している。北に信濃町と飯綱町、西に前述の3町村、それだけであって、弱小ともいえる西に位置する町村には、編成する町村が少なくなるとともに危機感というか「置き去り感」が強まる。どれほど自立を選択していたとしても、たとえば郡で編成している組織が小さくなっていき、単独でそうした組織を維持するのも困難になる。会員が減ればすべてにおいて停滞するのと同じである。そうした現実を踏まえてのことか、自立選択した小川村も、浮き足立っていることは否めないだろう。周縁部の人々とは、中心部の人たちにはない苦しみ、悩みを秘めなくてはならないのである。住民のことを思えば合併はよいことではないと、中条村の役場の方が言った。そのためにさまざまに努力をしてはみても、多様な意識のうえに、一人ではどうにもならないという現実もある。なるようになる、そんなところなのだろうが既定路線ながら、模索する人々の悩みは、まるで雪国の除雪費のように重くのしかかる。
コメント

厳しい時代

2007-12-26 12:10:18 | ひとから学ぶ
 東京外環自動車道において、マイクロバスからサッカーチームの少年が車道に落ちてひかれて死亡というニュースが流れた。運転していたサッカーチームのコーチと、後ろから走ってきて少年をひいたトラックの運転手が逮捕された。報道の仕方が正しいのかどうかしらないが、マイクロバスを運転していたコーチに対しての扱いが厳しい印象を受ける。逮捕されるということは事実として受け止めなくてはならないが、犯罪者のような扱いはいかがなものだろう。民放はもちろんだが、某国営放送の報道のニュアンスも、いまひとつ気になるところである。

 世の中にこうした逮捕劇は人事と思っている人は多いかもしれないが、これが現実の現代ともいえる。子どもたちのためにとこうした運動系に限らず団体をバックアップする人たちはたくさんいる。とくに集団スポーツの場合、マイクロバスというのは必要な乗り物となる。その乗り物を運転するのは、おおかたは専門の運転手が運転するわけではない。集団をバックアップする人たちが支えているケースは常態化しているだろう。それだけにそうした人たちの負担はあまりある場合も少なくないはずである。今回のケースがどうあれ、いずれにしても一歩間違えれば、「よきに」と思ってやっていたことが自らの人生を狂わす可能性は大きい。そんな時代への変化なのだろう、地方においては車社会は当然な社会なのだが、昔に比較すれば他人の車に安易に乗せてもらわない、という意識がかなり浸透してきている。それはわたしが子どものころと、現在の大きな意識変化ともいえる。もちろん、わたしの子どものころと、現在とでは車の依存度に大きな差があるし、そうした車社会への変化の中で形成されてきた意識、という説明もできるたろうが、それにしてもその時代にこうした地方の車事情とともに暮らしてきたわたしには、少し違和感のようなものを持っていた。ようは、確かに事故の起きた際の責任問題は、それぞれの関係に後々まで続く可能性があって、そんな可能性があるのなら、「よきに」と思って安易に人を乗せないという安全装置を自らの中に持ち続けることは必要だろう。しかし、地方は車なくしては生活はあり得ない、という意識との狭間の中で、そうした安全装置を持ちえることで地方社会は成立するのだろうか、という問いをしてきたわけである。

 昔だったらどうなのだろう、などと記憶をたどっても定かな報道の記憶もなければ、こうしたケースの対応の仕方もよみがえらない。自動車事故に対する世論が厳しくなったことは、道交法の改正ごとの状況をみても確かなのだが、その責任の所在として問われるのは致し方ないとしても、そもそもこうした背景の上にさまざまな活動が支えられているという事実を、たとえばどれほどの子を持つ親が認識しているのだろうか。

 さて、ここまで少年を乗せていた運転手のことについて触れてきたが、斜め後ろを走っていて落ちた少年を引いたトラックの運転手も、なかなか厳しいものである。このごろはアクシデントで突然ひいてしまっても「逮捕」という厳しい口調の報道がよく聞こえる。こうした厳しさを前面に出して、認識させようという意図があるのかしらないが、それぞれの逮捕後については知る由もない。人ごとではすまない、現代の厳しさがさまざまなところに見えてくる、そんな事故であった。
コメント

老人クラブの行方

2007-12-25 12:20:29 | ひとから学ぶ
 長野県民俗の会次期例会の企画のために、地元の年配の方の家を訪れた。企画している行事見学の下調べなのだが、その行事を担っているのは老人クラブの人たちである。実はこの行事、戦前から約30年にわたって中止されていたものを、老人クラブの人たちが、かつての行事の記憶をたどりながら復活させたものである。ところがその行事を中止前に担っていたのは若者たちだった。若者たちが担っていただけに、今では厄神除けというイメージが行事にあるが、違う意図のようなものもあったのだろう。若者と老人という対照的な行事の担い手に変化しているが、その担い手がこれから先どうまた変化していくか、注目されるところでもある。祭りも含めて、行事の担い手がかつては若者であった例は多い。いや、今も継続されている行事をピックアップしていくとほとんどが若者のものであったのかもしれない。

 ところで、老人クラブの存在も珍しくなっている。わたしの住む地域にも老人クラブなるものはすでにない。まとまりのない地域ほど早くにその存在をなくしていった。町の中にたくさんの集落があるというのに、現在の老人クラブの数は14クラブ(に一つ結成できないところは、複数で一つのクラブを結成している)のみである。わたしの住む地域には集落が10以上あるが、老人クラブは一つだけ。いかに「老人」という名の集団が成り立たなくなっているかがわかる。わたしが思うのは、既成の老人クラブというイメージ、そしてその多用な関わり方が固定化されていて参加し難いというものがあるに違いない。「老人憲章」のもと、奉仕活動に始まり、公共の行事に参加してきた老人クラブの役割は、どう考えても高齢者の交流という場を越えているようにみえる。体が不自由な人たちにはとても参加できないし、歴史を育んできたものへの心意気みたいなものを語る人もけしていないとは言えず、自由に欠けるという印象も否めない。定期総会の資料を見せていただいたが、研修会の数、そして協力活動という名の下にさまざまな行事に参加している。これではとても役員でも仰せつかったら大変なことになる。

 老人クラブの会員になれるのは60歳以上という。お話しをうかがった男性は、「まだ若いから10年後に」といって、70歳のころ入会したという。それ以後自分より若い人たちはほとんど入ってこないという。正直いって総会の資料を見る限り、いったいこの集団は何のためにあるんだろうと思わずにはいられない。小中学校の入学式に始まり卒業式、社会福祉協議会行事への参加、明るい選挙のための街頭啓発活動、ゴミゼロ運動、赤十字奉仕団への参加、などなど町村議会議員などと変わらない活動である。もちろんそれらは役員が中心的に関わるものであって、すべての会員に求められるものではないが、決められた会議や行事への参加のために会が結成されているようで、このような会に誰が参加を求めているのだろう。もし行政だとしたならば、こういう負担からはずしてゆかなくては、この会の将来は自ずと見えてしまう。

 「老人」という名称についてわたしが触れると、確かによそのクラブでは「老人」をはずした通称のようなものを設けている会もあるが、名前を変えたからといって「老人」憲章という名の下に活動していれば、「老人」から逃れられるものでもないという。そして名前を変えたからといって参加者が増えるというものでもないともいう。かつて飯田下伊那地域で多くの老人クラブをまとめていた「飯伊」老人クラブ連合会が、飯田市が抜けて「下伊那郡」老人クラブ連合会になっているという。確かにこうした決まりごとに負担を強いられる組織に思うところはあるだろうが、だからこそ、会の意義というものを改めて指摘するべきではなかったのだろうか。「なぜ飯田市は抜けたのか」と思ったが、それが得策と思ったのだろう。しかし、小さな地域の人々にとっては交流の場としての他地域との連携は、気持ちの上で欠かせないものであったことも事実だろう。長い歴史を育んできた老人クラブも、風前の灯というところなのかもしれない。とすれば、老人クラブが担っているこうした行事は、誰が引き継いでいくものなのか、また課題が浮かんでくるわけである。地域社会の病、そんな症状を誰が診てくれるものでもないが、この事実はこと高齢者だけの課題ではないのではないかという印象を受ける。
コメント

妙なアクセント

2007-12-24 16:13:32 | ひとから学ぶ
 会社の同僚が「飯島町」ことを「いいじま」と言う時、「いい」にアクセントをつけて呼ぶ。「なんだそれは」と初めて聞いたときは思ったものの、たまたまそんな呼び方をしたのだうと思っていたが、毎回そう呼ぶ。そんな呼び方をするのはその人だけである。かつて同じ事務所にいた際に秋の祭典にわが家(生家)に来たこともあるから、まったくの飯島町の素人ではないはずなのに、そしてわたしがそんな呼び方をしたこともなかったのに、どこで覚えたのか妙な呼び方をする。「いい」にアクセントをつける際は必ず「まち」をつけずに「いいじま」と呼ぶときである。では「まち」をつけて呼ぶ際はどうなのか、と注目しているが、なかなか「まち」をつけて呼ぶ機会がない。何度か意識しないときにそう呼んでいるのだろうが、どうもその印象がわたしに残っていないということは、「まち」をつけて呼ぶ際は、「いい」にアクセントをつけず、普通の呼び方をしているのだろう。そのため印象に残らないのだ。

 ではなぜ「いいじま」と呼ぶ際に「いい」にアクセントをつけるのか、彼は諏訪の出身である。諏訪にも飯島という地名がある。もしやそこではそういう言い方をするのかもしれない。そうはいってもここでは誰もそんな妙なアクセントで呼ばないのに、かたくなに聞きなれない「いいじま」を連発するから、出身者のわたしにはとっては耳障りというか納得のいかない呼び方である。他のことに集中していても、この言葉を聞くたびに「勘弁してほしいなー」と乱される。

 実は会社の中に「たつの」さんという人がいる。同じ上伊那郡に辰野町という町があるが、この辰野町を呼ぶ際には、アクセントはとくにどの言葉にも付けずに単調に「たつの」と呼ぶ。ところが会社の「たつの」さんは、前述した妙なアクセントの「いいじま」と同様、「た」にアクセントつけて会社の皆が呼ぶ。わたしもそう呼ばなくてはいけないのかと思ってそう呼んでいたのだが、本人確認してみた。すると「た」にアクセントをつけて呼ぶのが正しいという。日本語というのは、振り仮名もわけのわからないものがあるが、こういうアクセントの付け方にいたっては、字だけではまったく察知できない。同じようなことはたくさんあるが、とくに気になっているのは、長野県内では「佐久」の呼び方である。昨日も佐久長聖高校が全国高校駅伝で話題になったが、メディアで呼ばれる時は「さ」にアクセントが付けられる。カキ氷を食べる際の「サクサク」という響きでもなく、柵を呼ぶ際の「サク」でもない。この場合の「サク」を代表するアクセントの言葉が浮かばない。ということはあまり使われないアクセントなのだが、果たして正しいのはどちらなんだろう。一般的に「佐久市」を呼ぶ際には、カキ氷系である。そして知人もたくさん佐久長聖高校に進学しているが、わが家で呼ぶ際は「佐久市」を呼ぶ際の「佐久」と同様に呼ぶ。初めてメディアが使って気になったのは、佐久長聖高校の前身の佐久高校時代に、夏の甲子園でベストフォーに入ったときだった。そのきはメディアが間違っていると思ったが、それ以来ずっとそれは変わらないから、メディアが正しいのだろうか。
コメント

「お清めの塩」の行方

2007-12-23 16:08:44 | ひとから学ぶ
 このごろ盛んに葬儀のことに触れている。そんななか、ちかごろ会社の同僚のところで不幸があって香典のお礼状に「お清めの塩」というものがはさんであった。もちろん珍しいことでもなんでもないのだが、この塩をみなさんどうしているんだろう、などと思うのは常のことである。実は同僚の関係者の葬儀に捨て義理のように出す香典の返礼につくこうしたお清めの塩、そのまま礼状とともにゴミ箱に捨てたりする。かつては礼状をゴミ箱に捨てるなんてとんでもない、などと自ら意識していてゴミ箱に捨てずに会社の引き出しにしまっておいたものだが、そんなことをしているとたまってしまって結局は処理に困ることになる。だから、このごろはすぐにゴミ箱へ、などということが当たり前のようになっている。果たしてほかの人たちはどうだろう。などとちよっと様子をうかがってみると、やはり礼状はゴミ箱とはいわなくても、リサイクル用の紙として用意されているボックスに消えていくようだから、いわゆる「ゴミ扱い」に変わりはない。ちょっとこのあたりは納得いかない人もいるだろうが、たとえリサイクルされようと「ゴミはゴミである」というのがわたしの認識である。ゴミを減量化しようとするのなら、ゴミそのものを減らすべきだ、という意図があるし、扱いについてはどうみてもゴミと変わらないのに、エコといっている顔も醜いから、あくまでもゴミということにしておく。

 礼状ならそのまま紙のリサイクルに回せばよいだろうが、紙袋に入った塩は、分別するのなら袋を開けて塩を水に溶かしてしまうか、面倒ならゴミ箱というのが一般的ではないだろうか。まさかこうした塩をためて、家庭の調理に利用するなんていう人は滅多にいないだろうし、葬儀の場ならともかく、葬儀後に会社で渡される塩を、本来の意図である穢れを払うために利用している姿など見たこともない。明確な記憶はないが、葬儀屋が葬儀をつかさどる以前は、返礼に塩などついてこなかったように思う。

 ということで、葬儀に訪れた人に会葬後に塩で手を洗うなどということは昔から行なわれてきたが、返礼に塩を添付するなどという無駄というか、それこそ形骸化した行為は辞めるべきだと思うが違うだろうか。ほとんどが袋詰め状態でゴミ箱に行っているようだったら、即辞めるべきだろうし、葬儀屋が一律こんなことを恒例化しているとしたら許せない行為である。世の中いろいろな人がいるから「必要だ」という人もいるのかもしれないが、ぜひそういう人にはこの塩の利用方法を教えほしいものである。国立歴史民俗博物館で平成13年に開催された第36回歴博フォーラムにおける「葬儀と墓の行方」という討論で太郎良裕子氏は、やはりゴミ箱行きの「お清めの塩」について触れている。死という事実に対してそこに「穢れ」があるという意識は、現代人にはわかり辛いものだと捉えていて、価値観や生活様式の変化によるもので、「清めに対する価値観というものは、これからも変わっていくでしょう」と言っている。学術的にはそんな行為が人々の意識の変化として捉えられるのだろうが、それ以前にこんな不要な行為は辞めるべきであるという言葉が上がらないのは、いまだ「穢れ」が生きているという証にもなるのかもしれないが、ゴミ箱に捨てる人はかなりいるはずで、どうもそのあたりはちぐはぐなように見えるわけである。
コメント

死に支度を考える④

2007-12-22 17:23:22 | 民俗学
④いつまでも残る遺骨

 供養する者がいなくなれば、墓も朽ち果てていく。継続しなくなった親子関係ともいえるだろうが、この世の中では家関係に至っては親子関係以上に衰退している。したがってモノを残す必要性もないから墓地も墓石も必要ない、という考えが生まれてくるわけだが、そうした時代でも遺骨に対する意識が高い場面をみる。国立歴史民俗博物館で平成13年に開催された第36回歴博フォーラムにおいて、「葬儀と墓の行方」という討論がおこなわれた。このなかで「遺骨へのこだわり」について議論されている。とくに戦没者や遭難死者へのこだわりは強く、何年経過していようと、遺骨を探し出したいという気持ちが遺族には強い。このことについて司会を務めた新谷尚紀氏は、葬儀の完了のために遺骨にこだわっているものだと説明している。したがって一般的なケースの遺骨認識とは異なるということになる。

 確かに戦死あるいは不慮の事故で亡くなった場合、〝亡くなった〟という現実を確認する意味で遺骨に限らず遺品などが必要となる。これは〝葬儀の完了〟というよりもその人にとっての〝死の完了〟ともいえるだろう。そんななかで遺骨に対してこだわりが生まれる。

 これほど遺骨に対して意識するようになったのは、戦死者に対する遺骨意識が始まりなのかもしれない。明治以降の近代日本において、現代の元となる基本的な家族関係や社会組織というものが形成されただろう。そうした安定成長期ともいえる時代に起きた戦争という望まなかった死の場面は、人々に悲しみを与えたことは確かなはずである。まさに過渡期ともいえる一時代と今思えば見える。望まなかった「死」をどう家族が消化するか、そうした場面において遺骨が必要と思われたのはごく自然なことのように思う。ところが、現代においては家族はそのまま永遠であるという意識は持てなくなった。例をあげれば親殺し子殺しはもちろんだが、離婚率の高さ、たとえ離婚せずとも子どもたちが親元から離れて決別に近い関係になることは珍しくない。地方にいたっては、どれほど大きな家があろうと、継ぐべき子どもが家を見放すケースはざらである。そうした関係の中で、果たして遺骨に対する意識はどうだろう。不慮の事故死は望まれての死ではない。だからこそ、愛しい。しかし、死を望まれた場合は問題外として、望まれていなくとも、普通に死を迎えるケースが、どれほどの悲しみをもたらすかはケーイバイケースである。このあたりの意識は、自らが世の中をさめてみている証なのだろうか。それとも年老いたせいなのだろうか。子どものころ、祖父母が亡くなった際のような肉親への強い思い入れがどうも浮かばない。

○どこの墓に入る?
 妻と墓の話を始める以前に、かつての墓は家ごとに埋葬されていたこともあって、「あんたの家の墓には入らない」とも言った。認識不足なのかそれとも地域性なのかわからないが、生家の墓に家を継ぐ立場ではなかったわたしも死ねば入れるのだと子どものころは思っていた。祖父が分家した生家は、叔母か戦時中に亡くなり、本家の墓地の空き空間に土葬されていた。まだ墓石もなく、こんもりした山が墓だということを、子どものころ祖母とともに墓参りに行っては聞いたものである。盆といえば、我が家にとってはそこから仏様を迎えていたのである。そして、祖母の亡くなったあとか(祖母が祖父より先に亡くなった)、それとも前かはよく記憶にないが、祖父がお金を出して、そのこんもりした山のところに墓石を建てたのである。その墓地の名義が本家のものか、分筆されて生家のものになっているかは聞いていないが、墓石を別に造ったとしても、本家と同じ空間に埋葬されるものなのだと認識していた。ところが、結婚してしばらくすると、母が「おまえも墓を見つけなけりゃ」と言ったのである。そのとき初めて、「同じ墓地には入れない」こと知ったのである。しかし、よく考えてみると、おそらくそれまでの墓は、分家も本家もそう遠くない場所(隣接地)、あるいは同じ空間に墓地を設けたのではないだろうか。にもかかわらず、墓地を見つけなければならなくなったのは、どういうことなのだろう。かつて山間の土地の狭い地域では、分家に出せないということを言ったものである。ようは自らの土地を分け与えて分家させても、どちらも零細な農家になってしまって生計が立たないことになる。それを回避するには養子に出したり、奉公に出したりしてなるべく本家には迷惑を掛けない方法を見出したのである。兄弟がたくさんいても、長子以外はみな遠くへ出る、そんな時代だった。そうして出て行った先で、叔父や叔母がどういう墓に入るのかは解らない。墓というもののあり方、考え方が家ごとどう捉えられているのか、意外にもよくわからないのだ。

 こうした現実を踏まえると、やはり遺骨を残す必要性が見えてこない。火葬になるとともに、そして現代の墓石(墓石の下に納骨場所を設けたもの)が登場して以来、遺骨を納める明確な場所が誕生した。土葬であった時代には、遺体さら土の中であるから、そのまま遺骨も含めて限りなく土に返っていく。しかし、現在の埋葬方法では、遺骨はいつまでも残ることになる。古墳時代の有力者ではないごく普通の人々の遺骨が、いつまでも形として残るのだ。果たしてこうした遺骨の処理方法はいかなるものなのだろう。
コメント

ドアの取っ手の話

2007-12-21 12:09:37 | ひとから学ぶ
ハンカチとトイレ」で触れた女性は「整髪料できちんとスタイリングした髪をトイレから出てきた手でまた触って、水で整髪料がべとついた手で化粧(しかもトイレの鍵の部分は菌が繁殖している)。そう考えるとぞっとする」と言った。「鍵」とはドアのノブのことだろう。金属製のドアノブ、とくに手洗いを終えた後のその部分は、けっこう意識することがある。この女性の話の中にも登場してくるが、ハンカチを持たないとなれば、手を洗ってしまうと手が乾かない。したがってそのままドアノブを握れば、そこには水気がつく。濡れたその場所はあまり握りたくないものだ。ようはせっかく自分はハンカチで手を拭いたにしても 、またあの水気の感触に戻らなくてはならないからだ。

 女性のトイレだけのことではない。男性にいたっては、さらにハンカチなど利用しない人は多いだろう。ササッと洗った手を振りたくって水気を払ったとしてもそのままドアノブを握ればそこに水がつく。そこで考えられるのは、「洗わない」ということだ。実はわたしも時おり洗わないこともある。急いでいるとき、またドア型の扉が入り口についている時である。やはり、しっかりと拭いて乾かすのならともかく、中途半端な状態でドアノブを握るのはすすまない。

 考えてみればどんなに乾かしたところで、人の握ったあとのドアノブに水気がついていれば、気分は低落する。洗った意味があったのかないのかと問われることになる。だからトイレの入り口のドアは無くして欲しい、などと思うものだ。もちろんそれは不特定多数の人が利用する空間に限られるが。そして同じような部位というものは別の場所にもる。それが手洗いのノブである。昔と違って上下左右で開閉できるものが多くなったから、取っ手を握って左右に廻すなどということは少なくなったが、それでもそういう水栓はまだ多い。洗う前に雑菌がついていて取っ手を握り、洗った後にまたその取っ手を握って閉める。中には水栓を洗う人も見かけるが、びしょびしょに濡れている取っ手を後の人が使うのも、あまり気持ちのようものではない。まあそのためにハンカチを持っていて〝ぬぐう〟わけなのだろうが、そのハンカチを持っていないとなれば、やはり〝洗わない〝になるのだろう。自動水栓ならそんな心配もなく、水の無駄な利用もないのだろうが、〝自動〟の登場はそんなちょっと意識を突いた道具なのだろう。ところがトイレのドアに〝自動〟が付いたものは、地方ではほとんど見受けられない。
コメント

死に支度を考える③

2007-12-20 12:43:45 | 民俗学
③問う、墓の必要性

 口で言っていることと現実のこととは、実際その場に遭遇してみればうまくはいかないだろう。それは自らも認識している。とくに肉親の死に遭遇したともなると、慌てる部分もたくさんあるはずだ。そういう意味では、自ら葬儀に対していろいろ考えている以上、さまざまなパターンを想定しておかないといけないだろう。もちろん、それを現実的に「遺言」として残す必要性も感じている。妻とふたりで「それでいいよね」などと簡単に口約束したからといって、親族もいるのだから、際どい状況下で生前に思っていたことを実践することはできないだろう。だからこそ、考えたことを実践できるような基本的なことは、記録して残しておくことが必要だろう。そんなことを生きているうちに考えるのも、「どうなんだろう」などと自問自答する。子どものいない家にとって、自らが死すということはどういことだろう。誰かが埋葬してくれるだろうが、きっとそんな人たちにとっては死すことはとてもつらいことのように思うのだが、わたしには解らない。

 『葬儀と墓の現在』において「葬儀の行方」を著した福澤昭司氏は、この1年に自ら関わった実父と義父の葬儀を経験して「父の葬儀のことども」の中で感想を述べている。「石塔の建立について、死後の供養の永続性が保証されない現代社会にはそぐわないとの理由で疑問を呈した。客観的に考えればこの考えは間違っていないと思うが、今回は当事者として現実的な問題に立ち会って、気持ちが揺れているのも事実である」という。現実的に遺骨となったものを土に返して無にしてしまうには、故人が消えてしまうようで忍びないという。たまたま墓地を用意してあって墓石もあるから、遺骨はそこへ納めることができる。その墓石は父が用意したもので、いざとなって感謝しているという。この気持ちは、わたしが現実的にその場に遭遇したら、生前の考えなど飛んでしまうとういうことを証明するようなものである。だからこそ、自らの死後の支度をしておかなければ、などと考える。前回に触れた藤井正雄氏の言葉でいうなら「厳粛ないのちの引継ぎがない」から葬儀を演出することになる。なぜそれが演出になってしまうのか、そのあたりの感覚は人によっては納得いかない意見だろう。演出ではなく自らのことは自らでするという「優しさ」と捉える人もいるだろう。しかし、「家を継ぐ」という意識を自ら望まないことを主張しているようなもので、しいては地域社会への貢献度も無くすことになる。このあたりも異論は多いが、すでに地域社会と言っているわたしの指す空間は、地方においても空間割合は多いが、人口割合でみれば、極度に限られた部分に過ぎなくなっている。地方の市部を中心に地域は流動するものという現実が常態化し、流動化してもそこに住む人たちが考えること、継続していくものということになる。あきらかに親が子にという家の継続性は重視されない。この感覚は、まさに死に支度の意識から始まっているのかもしれない。あるいはその逆で、死に支度をせざるを得ないという環境を引き起こしている。そういう意味では、わたしもまた地域をさまざまに斬るが、つまるところ地方を見捨てた人間といえるのかもしれない。ただ、このことはわたしの家における親子関係について触れなくてはならないが、このことはまたあらためて触れたい。いずれにしても社会構造の変化、そして意識の変化をみるにつけ、すでにかつての社会を回顧して参考にしたとしても、あくまでも参考程度で、あまり意味がない状況にあるのではないかなどと考えるこのごろである。

 さて、本項で掲げておかなくてはならないわたしの死に支度、それは福澤氏が考えていたような墓石の必要性というものだ。死後の供養が継続されないとなれば、やはりモノを残す必要はなくなる。そういう意味でも「老い支度、死に支度」で触れたような共同の墓碑という考えはひとつの方法なのだろう。
コメント

現代における「ものをくれる」

2007-12-19 12:31:24 | ひとから学ぶ
 「よそ者のみた駒ヶ根の暮らしⅣ」のなかで、「野菜はくれても米はくれない」ということに触れた。農家が野菜や果物を隣近所にくれることはあっても、米をくれることはあまりないという事実に触れたもので、米に対しての特別な思いがあるのではないか、と駒ヶ根で暮らした都会びとは述べていた。その意見は確かによそ者にはそう受け取ることができるかもしれないが、よく考えてみると、別の視点もあると気がついた。

 妻の友人に専業農家が何人かいる。すべてではないが、農業で都会のサラリーマン並みに稼ぐとなると、大規模農家か高付加価値の商品を生産している農家に限られてくる。またそこに近づこうとしている小規模の農家もいるだろうし、農家ごと多様であることに違いはない。この季節になると、自宅の周辺が果樹園ということもあるし、リンゴを生産している親戚もあったり、そして妻の友人がいたりと、リンゴをもらうことが多い。そんななか、どういうリンゴを「人にくれる」かはそれぞれの意識の違いでもある。もともとは土地がなかった人で、苦労して農地を増やし財を成したような農家は、人に「ものをくれる」といっても商品価値のあるものをそうやすやすとは選ばない。ところが人のよさそうな農家では、「それでも」といって市場に出荷するような商品を選択したりする。確かに農家ごと商品に差があることは当たり前なのだが、そうはいっても歴然とするほどの違いがあるはずもないのに、いただいたモノには大きく差が出る。

 このあたりをもう少し精査してみると、その家にサラリーマンがいるかいないかによっても異なってくる。確実に農家として生を立てると意識している専業農家においては、やはり商品価値の高いものをただで「人にくれる」などということはしのびないはずだ。それでも「親しければ」また違うケースもあるが、生産者意識によっては、親しくともそう簡単にはくれるわけにはいかないと考える農家も多い。ということで、人にものをただてくれてやれば、収入が減るわけで、商品にならないものなら「人にくれてやる」ことができるのだ。この意識を前述の米の話しに合わせてみると、稲作が中心だったというかつての米神話もあるが、米はそれほど商品のばらつきが出ず、基本的にはすべて出荷可能だった。果樹や野菜のように見た目の傷がはっきりするものではない。一粒で商品として売れるものでもなく、野菜や果樹とは商品としての形が異なる。ようは商品として出荷できるものは「人にくれる」というわけにはいかなかったのだ。

 ではなぜ、「人にくれる」という行為が昔も今も続けられているかということになる。やはり副産物的なモノに対して、思い入れが低下することは否めない。それでも複合的な商品を生産している専業農家において、米以外のものでも人にくれる」という行為は簡単にするべきではないと思っている人はいるはずである。ようは商品として出荷する予定のないモノは、「人にくれる」対象となるのである。

 さて、さきほど「サラリーマンがいるかいないか」によって異なると述べた。農家の農外所得率が高くなるほどに、生産物に対する思いいれは低下するということにちなむ。最近のようにほとんどがサラリーマンになってしまった農村地帯において、「人にくれる」という意識、そしてどういう品質のものを選択するかはさまざまだろう。いずれにしても、家で消費できないからとただで人にくれてやっては、そうした商品で生計を立てている人たちにとっては迷惑な話である。考えてみればただの物と、そうでないいものが市場に出回っていたら、ただの物の方がよいに決まっているわけだ。このごろは同じような比較がさまざまなところでできる。人に頼まずに自らモノを作るというのならまだしも、人に頼まなくてはならないことで、ただでやってくれる人がいれば、それこそその方が良いに決まっている。そのへんを行政側が履き違えないことを望むが、このごろの行政にはそんな場面が見受けられる。かつての「モノをくれる」と今の「モノをくれる」はどこか違うと思うのだがどうだろう。
コメント

死に支度を考える②

2007-12-18 12:10:59 | 民俗学
②子に託せない時代

 寺の役割は何なのか、そんな問いはわが家でも何度も繰り返してきた。家を持ったら墓を用意しなくてはならない。そして寺はどうするんだ、そんな考えはごく当たり前の地方の人々の感覚だった。なぜ死期が近くもないのに死に支度をそんなに急がねばならないのか、不思議に思う人たちもけして少なくないはずなのに。わたしの隣組は、戦後に開けた比較的新しい地域である。ここへ住むようになってから、何度も隣組の葬儀に関わってきたが、どの家も一応は墓地を持っていた。ある家では墓地は用意してあったが、寺を決めてなかったため、父親が亡くなった際に、急遽近くの寺の檀家となった。しかし、まだ整備はされていなかったが、墓地は所有していて、墓掘り担当だったわたしの居場所は用意されていたわけである。

 前回にも紹介した大正大学の藤井正雄氏は「厳粛ないのちの引継ぎがないという事実は、「生前の子供や孫たちに迷惑をかけたくない」と「最期の幕引きは自らの手で」と自分の葬儀を演出したり、お墓を生前に購入したりすることに繋がる」という。親子の信頼感というところにつながるのだろうが、死後のことをしっかり準備をしておかないと、子どもたちに迷惑をかける、という意識の表れである。それが親子の断絶とも言い切る藤井氏であるが、「子のために」と思ってしている死後の準備も、裏を返せば親は子に自らを託せないほど、信頼感を失っていると暗に示している。わたしが「そんな選択もいいか」と思った生前葬も、子どもとは縁を切った独りよがりなものなのかもしれない。生きているときには、もちろんそれぞれの人生があるのは当たり前であるが、死後のこともしっかり自らで道筋を付けておこうなどという意識は、このごろのものなのだろうか。果たして現代の死に支度の意識は、何がそうさせたのか、奥の深いものである。

 藤井氏はこんな最近の葬儀の様子を指摘している。かつてなら親の葬儀の喪主は息子、養子さんならその養子が担い、葬列では位牌を持ったものだという。しかし、このごろは喪主はもちろんのこと、位牌を持つのも長年連れ添った奥さんが担うという。家を継いで行く子どもに託さない現代の葬儀の変化なのだ。地方ではまだまだ喪主を務めるのは長男、長男がいなければ次男、そして男子がいなかった家なら養子が担うというのは当たり前だ。しかし、寺からの離脱、地域社会からの離脱、そして少子化という現実は、明らかに地方における葬儀へも波及しかねない変化だろう。「この子が家を継いで行く」という意識をあらわにするために行われる地域の行事は多い。そうしたものも、家と地域社会という関係が必要なくなれば、なんら意味をもたなくなる。たまたま葬儀という場を例にとって、継承のできない時代を捉えているが、もしかしたら地域社会すべてがこうして継承できない構造を求めているのかもしれない。葬儀だけではないのだ、この社会の変容は・・・。
コメント

納得できないこともある

2007-12-17 20:32:41 | ひとから学ぶ
 の総会があった。長い時代「」という呼びかたをしていたから、わたしの印象では「」の方が合っている。しかし、このごろは「」という人は少なくなった。年寄りの人たちもほとんど使わない。世の中の流れというものはそんなものなのかもしれない。昔は「乞食」という言葉もよく聞いたが、そんな言葉も消えた。差別用語に対する意識はある程度の年月を経ると自然と消えていくものなのだ。

 今で言うなら「自治会」の総会、年度末であったかつての総会は「年末総会」と名を変えた。以前にも触れたように、行政の希望に応じて年度が4月から3月に変えられた。それでも一応年末という時期を意識する。理由とすれば従来の年度末であること、そして従来なら年明けに新年総会なるものもあった。そうした季節的な、あるいはけじめの時期という面で、この季節に対する意識はいまだ変わらないということもある。年度末を12月から3月に変更してまだ間もない。3月4月という時期は、役所の年度末年度初めという時期で、そうしたかかわりも多いからみな忙しい時期である。従来の12月や正月という季節の方が地域にとっては節目としては適合しているんではないかと、改めて感じる。とくに飲み会をするには、この季節が合致していると思っている人は多い。だから年度末年度初めには飲み会はしない。本当ならそちらの方が節目のはずなのに、従来方式を望んでいる。

 伊那市では、自治会の年度末は今でも12月である。変えるという動きはまったくないようだ。役所にしてみれば、年度の途中に区長さんが変わったりするのは困るのだが、そうは簡単に変える雰囲気にはならない。大きな行政域だからこそ、よけいにそういうことを変えにくいということもあるのだろう。そこへゆくと、小さな行政区域では、どこかを崩せば、なだれるように「隣が変えたから」といって変化していく。お役所にはやりやすい崩し方かもしれない。そんな動きがあるから、自治会の総会で役員決めの話になると、「役場では役員が一年毎変わるのは困る」みたいなことを本当に言ったかどうかは定かではないが、口にする人がいる。なかなかのもので、その時はそれほど意識しなかった言葉でも、どこかにそんな雰囲気が蔓延していき、住民はけっこう流れに乗ってしまう。自治会の雰囲気が、ますます役所の言うなりみたいになっていくのは納得がいかないのだが、それを批判する人も少なくなった。言われないとやらない、という子どもじみた関係かもしれないが、住民の自治も自らの生活が成り立っての上のことになる。しかしながら、状況は人によって大きく異なる。自治会の会所を建て直すという話があって、いかにも賛成多数のように役員は話を進めるが、本音のところは大賛成とまではいかない。なぜなら高齢者世帯が多く、一戸当たりに負担金を平均的に分散されるとなると、将来のことも考えればなかなか簡単に賛成とはいかないはずだ。それを越えてみんなに納得してもらうということは、それなりの努力も必要だろう。年度末がどうのこうのという問題とは異なり、身に降りかかる問題である。家ごとの事情などというものは昔もあったことだろうが、なぜこうも顕在化しているかは、いろいろな要因もあるたろう。昔だったらみな一律社会ではなかった。そして小さな集落には必ずお大臣様のような家があった。平等社会は、格差があろうとすべて平等である。大きく意識の変化があったと言えるかもしれないが、それだけ貧乏人にはつらい時代である。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****