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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

びん牛乳から考える

2007-11-30 12:09:17 | ひとから学ぶ
 『生活と自治』(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)11月号に〝びん牛乳でごみ問題解決「千産千消」も〟という記事が見えた。千葉県茂原市を中心として小中学校において給食用びん牛乳を導入しているというもので、生活クラブの関わっている新生酪農という会社が納入している。給食に牛乳びんを、という投げかけをしていたもののなかなか実現することはなかったのだが、環境問題への行政の配慮から導入へのアプローチが始まったという。たまたま採算面で他メーカーとは折り合いがつかなかったようだ。

 給食用牛乳といえば、昔はびんであった。いつごろから紙パックになったものかしらないが、合理性を重視した時代の成り行きなのだろう。なによりびんは容器だけでも重い。納入する側も負担になるだろうし、消費側としても大人ならともかく子どもたちが扱うとなれば落として割ってしまうという現象は避けられないだろう。起こりうる現象を最小限にしてゆこうとすれば、自ずとびんよりも紙の方が扱いやすい。環境面を重視した場合に、必ずしもびんが紙よりも優れているのかどうかはなんともいえない。前述したように重量によってその消費エネルギーはどうなのだろう、などとも思い浮かんでしまう。配達する際にも、また回収する際にもその重さは負担になるような気がする。紙を利用しないことで原料の消費を減らそうというものが環境という視点の原点になるのだろうが、生活クラブ連合会の記事にしては、そういうデータが配置されておらず、ちょっとがっかりである。

 ところで記事で触れられているが、びん牛乳用に用意した牛乳の味が良いこともあったのだろうが、導入後において飲み残しが減っているという。今の学校でどれほどの食べ残しや飲み残しが生じているか知らないが、わたしの時代では考えられなかったことだ。教室に配られたものは個人に配布されるわけだが、その段階でそれぞれがすべてを消費しなくてはならない、というのが当たり前であった。好き嫌いを言えば自ずと残すことになるのだろうが、残している姿が記憶に無い。わたしも好き嫌いはあったが、どうしても食べられないと、ズボンのポケットにしまいこんだものだ。気分悪くならないようにポケットに納める方法というものを思い出せないから、もしかしたら人目を忍んで庭の土の中に埋めていたのかもしれない。好き嫌いの激しい子もいて、給食の時間は最も嫌いな時間だったのではないだろうか。

 息子の教育に関心を示さなかったから知らないだけかもしれないが、現在の学校給食の現状を知る機会はなかった。もちろん食べ残しが何パーセント程度あるなどという数字を目にしたこともない。給食費を払わない家庭が多いと聞くが、学校側も現実の姿をデータとしてもっと知らすべきではないだろうか。世論の中から学校の姿を聞いても「息子の(娘の)学校は該当しないだろう」ということになりかねない。学校も役所の一施設と思うと、閉鎖的空間であって仕方ないが、もっと問題定義をしてよいのではないだろうか。
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またまた限界集落

2007-11-29 12:13:37 | 農村環境
 昨日のNHKニュース地方版において、「下伊那の88集落が限界集落」というニュースを流していた。下伊那郡の全体地区数の約20パーセントの集落が限界集落に当たるという。長野県下伊那地方事務所が調べたものといい、県は持続可能な地域作りに向けて支援を検討していくという。

 いったいどう支援していくんだ、とまたまたこんな報道を疑ってしまう。限界状態の集落への支援というから、集団活動ができなくなるからそれを補うために、緊急時の対応策とか考えていくのだろうか。しかし、「限界集落」を末期的危機感のように煽り立てるなら、限界集落をそうではない集落にする方策を考えるのだろうが、そんな方策などあるはずもない。県の職員が集団でそんな集落に住めば手っ取り早い解決策となるだろう。支援するなんていう話の前に、山間地に生まれ育った県職員はそうした地に住むことを勧めるべきだ。自分たちがそうした山間地を見捨てたのに、支援しようなんていう話は笑えてしまう。何より「限界集落」に限らず自分たちが生まれ育った地域を大事にすることが先だと思う。

 わが社にも県職員のOBが天下っているが、この人も現在の尺度でいけば限界集落にあたるムラに生まれ育った。その集落、現在は限界どころか絶滅状態である。少しは山に入ってはいるが、けして「とても不便」というような場所ではない。もちろん、その人だけの責任でもないが、県の職員の多くが、生まれ育った不便な地を捨てている。

 以前にも触れたが、生家の近所でも「こんなところは人間の住む所ではない」といってマチに近いところに住処を求めた人がいた。今はどこぞの県立高校の校長先生だ。かつては「限界集落」なる言葉もなかったし、そういう辺境の地に視点が当たらなかったから交通の便のよい場所へ移住するのも当たり前のように繰り返されたが、あらためてそうした施策が現在の限界的環境を作り出してきたことを知らなくてはいけない。かつては公務員、そしてそれに近い仕事に従事している人たちが山間では比重が高かったはずだ。そうした人たちがいなくなるとともに、限界状態を作り出してきたのだ。何度も言うが仕事だからといって無駄(そんなところに人件費をかけること)な支援をするくらいなら、県職員自らが生まれ育ったところへ回帰するべきだ。ただし、今や「遅い」という感が否めないのは、現在の県職員にはそうした地の出身者が少なくなっているように思えることだ。だからますます支援するという言葉が信用おけないのだ。
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ご当地ナンバー

2007-11-28 12:08:09 | ひとから学ぶ
 ご当地ナンバーというものが導入されて、登録台数で「諏訪」ナンバーが全国でも最下位を争うほど登録台数が少ないという。昔から合併という話しがあってもなかなか実現しない諏訪地域で、なぜかナンバーだけは県内でもいち早く合意していた。合意といっても登録台数が一定数あって、申請があれば導入されたようだが、当初から「よく諏訪ナンバーなんて導入するなー」という印象を持っていた。なかなか一つになりきれない地域で導入するとしても、「諏訪」を選択するのは登録する側の自由だから、意外に従来の「松本」を希望する人が多いんじゃないか・・・というわたしの予想だった。それを証明するような登録台数の少なさという。いずれはもう少し目にするようになるのだろうが、では誰が「諏訪」ナンバーを望んだのだろう。

 長野県内では他に「飯田」とか「佐久」なんていうナンバーの声も聞こえる。しかし、登録台数からすれば「飯田」はちょっと無理だろう。前からも触れているように伊那谷の中はまとまりのない地域。そして地域性が色濃く残る長野県だからご当地ナンバーを求めるだけのエリアがなかなか存在しないのだ。この他に上がりそうな地域名はあまり考えられない。もしかしたら「安曇野」ナンバーなんかが登場すると喜ぶ人もいるかもしれないが、これもまた登録台数の条件で難しいだろう。もっとも声をあげている飯田くらいが候補と言えるのだろうが、そのエリアに住んでいるわたしは、それを選択することはない。従来のものとの選択の余地がないとしたら、絶対反対だ。

 ご当地ナンバーの目的のひとつは、地域名をブランド化するという目的があるだろう。諏訪地域が昔から合併の動きがあっただけ、統一した意識を持てる地域といえる。だからこそ、合併が実現していなくとも申請できたナンバーだったといえる。そういう観点からすれば、まだ合併できずに、加えて飯田というところが地域のイニシアチブを取っていない証拠としての盛り上がらない現実ともいえる。まだ最近よく使われる「南信州」の方が可能性はある。

 さて、諏訪ナンバー不人気の影に「松本」ナンバーの人気度もある。昔から「松本」ナンバーはそこそこ人気があるという話はあった。「自動車保険de比較・人気・ランキング」というページに投票総数は231票と少ないが、一応ランキングされているナンバーは、1位「品川」次いで「横浜」「大宮」「神戸」「湘南」「習志野」「名古屋」「練馬」「なにわ」「川崎」「尾張小牧」「所沢」「姫路」と続き、12位に「松本」となる。とはいっても投票数が少ないから必ずしも人気度が高いとは言い難いのだが、大都市周辺のナンバーばかり並ぶ中で、地方ナンバーでは知名度が高い。「松本」という芸能関係者が多いために、その人気度を上げているなんていう話もあるが、果たして実際のところはいかがなものだろう。



 訂正 「すわじん」さんより指摘をいただきました。諏訪に住む方は、「松本」がいただけないそうです。そして、複数自治体でのご当地ナンバー申請といいますから、1自治体では不可能ということも。そんな背景を前提にご当地ナンバーを考えると、また不思議な思いが生まれてきます。ひとつは諏訪地域の人たちに反対はなかったのか。そして、現実的な説明がされていたのか、などなど。また、いつかこのことに触れるときが来るような気がします。

 すわじんさんへ〝感謝〟
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なぜ葬儀の前に火葬にされる

2007-11-27 12:11:53 | 民俗学
 調査もしないから原稿が書けるはずもないのだが、すでに「あきらめ」のようなものもある。今だから書ける、あるいは調べられることがあるのだろうが、それもできずに年は過ぎ、また正月を迎える。

 福澤昭司氏は、「長野県民俗の会通信」202号において、日本民俗学会年会の報告をされている。長らく年会なるものも縁がなく、すでに別世界のものとなりつつあるが、福澤氏もいうように、民俗学は「大学に属していない地方の普通の人が、その学問で飯を食べる人と同じ土俵で議論できる」学問である。ようは素人でも自らが生活する世界において、その自らの土俵を研究対象として捉えることができるわけで、大学にある空間はなんら学問としての土俵にはならないというわけだ。

 そんな視点で言うのなら、普段の暮らしに問題意識を持っていなければ、研究題材も見えてこないし、人に対してその問題意識を展開することもできなくなるというものだ。福澤氏は、年会の発表要旨を一覧して「なかなか聞きたい発表がみつからない」と思ったという。もちろん発表内容が多種多様ということもあって、自らの興味のないものに目が向くわけではないのだが、それにもまして、発表者の問題意識が感じられないという。

 その問題意識について、福澤氏自らの最近の生活で感じたものを事例としてあげて、「問題意識とは内なる経験と呼応するものでなければならない」と述べている。

 身内をお二人、この一年で亡くした福澤氏は、葬儀にかかわるなかで、身内とはいえ死者とともに夜を明かす経験のなかから、「生き返ってほしいと思いながら、死んだまま死者が起き上がってきて自分も死後の世界に連れて行かれるかもしれないという不安」があったという。だからこそ、通夜は大勢の近親で起きていようということになるのだろうが、死者の遺体とともに同じ空間に同居するという事実は、身内なれどもなかなか複雑なものがあるだろう。身内を亡くしたという悲しい事実、そして別次元での遺体との同居、そんな環境が正常なものでないことは簡単にわかることだ。不安定な精神世界だからこそ、福澤氏の言うように「自らも引き込まれそう」な黄泉の国。大往生ならともかく、不慮の事故で亡くなったり、自ら命を落としたような環境がますます不安定さを招くことは当然なこととなる。正常な死者とは別に、そうした不慮の事故で亡くなった者や、年少で亡くなった者を無縁仏といって別に捉えるのも、人々の精神的な必然だったのかもしれない。往生であれば、生前の逸話を取り上げて酒を酌み交わすことで、死者が安心して黄泉の国に発てるだろうし、送る側も過去を振り返りながら、あらためて故人の業績を確認することになる。世の中が死者に対して冷たくなったのも死者と生きている者のプロセスを欠いてしまったことによるものかもしれない。もちろん家族が少なくなれば近親者総体が少なくなるわけで、死者にとってのこの世は、安心して旅立てるような世界ではなくなっいる。にもかかわらずそうした不安定さを暗示してくれるような死者のいたずらはなくなった。この現代びとの精神のありようは計り知れないほど変容を続けているように思うのだが、どうなんだろう。

 福澤氏は、そんな死者と同じ部屋で過ごすなかで、「いつ死者を火葬にするか」という疑問にぶつかったという。葬式の日取りを決めるのにあたって、まず火葬場の都合に合わせ、次いで坊さんの都合に合わせたという。葬儀は火葬後という大前提があるから、最優先されるのが火葬場の空き具合となる。坊さんが都合よくても火葬されていなければ葬儀はできない、となるわけである。以前よりこの疑問を抱いていたというが、身内の葬儀に関わってより一層その疑問が大きくなったようだ。言われてみればその通りで、土葬時代には「火葬」という段階がなかったから、現在最優先されている都合はまったく気にすることはなかったわけである。葬儀の際に死者とお別れすることができないから、親しい関係で拝顔したいとなれば、通夜にでも訪れないと死者とのお別れが実現できないわけだ。この「死者とのお別れ」という言い方も不思議なもので、本来ならば葬儀において死者へお別れを告げられるはずなのに、葬儀そのものがまったく意識の中で形骸化してしまっているようにも感じるわけだ。わが家の中で、お互いの葬儀は「近親者のみのごく身内でやろう」という共通認識が生まれたのも、形骸化した儀式にやってくる形ばかりの線香をあげる人たちなど用がないという意識が生まれているからだ。葬儀の変容はともかく、土葬時代のように死者とのお別れの場であるという意識が強ければ、自ずともっとも重要な場になるのだろうが、「火葬」という形ですでに死者は「旅立ってしまった」という印象が流れていると、葬儀は仏になるための階段の一つにすぎないわけだ。

 福澤氏は、こうした大前提を覆すことなく続けられている長野県内のやり方は、全国的なものではないと述べている。よその葬儀に関わったこともなく、このやり方が当たり前だと思っていたわたしには意外に感じたのだが、確かに葬儀の後に火葬にするのが一般的なようだ。「北海道の一部、東北地方等の関東北部以北、甲信越地方の一部、中国地方や九州の一部では、葬儀・告別式に先立って火葬が行われています」というものをHPで見つけた。では、なぜ葬儀の前に火葬にしなくてはならないのか、福澤氏のいうようにこれは大きな疑問である。「今回の経験をして、自分は葬式とはいえ会葬者が死者と同じ屋根の下で過ごす緊張感と関係がありはしないかと思っている。では、他の地域の人々はそうした緊張感を感じていないのか」という。問題意識とは、自らの経験の中で見出すからこそ、より一層共感を持てるものとなるわけで、このことは以前より福澤式が述べている研究のスタンスだ。先ごろの長野県民俗の会総会において、代表委員の細井氏も、共感できるからこそ意味があるというようなことを述べた。福澤氏のスタンスは、着実にわたしたちにも伝わっているような気がする。共通の課題をそうした問題意識の土俵に載せ、それぞれが意識してみる。そこからどういう問題意識に個々が展開していくかも楽しみではあるが、また教わるものも多い。

 さて性格上こんなヒントをもらっても、そのときは意識しているがすぐに忘れてしまう。損なことをしたものだと思うのだが、ヒントを一瞬だけでも得たことが「しあわせ」だと思っている。まさに共感こそこの世界の始まりなのだ。

 追記
 前例のHPにこんなことも書かれていた。「かつての葬儀は、通夜は近親者で営み、葬儀・告別式に一般の人々が参加するというのが通例でした。しかし最近は通夜に一般の会葬者が多く出席し、葬儀・告別式よりも参加人数が多いという逆転現象が生じています。通夜の告別式化です。こうなると近親者が死者と別れの時間をゆっくりもつことができなくなります。参列・会葬者の出席の都合が夜がいいというならば、通夜は近親者だけでもち、翌日の夜に一般の人に案内して告別式を営み、翌朝は近親者だけで葬儀・火葬を営むという方式も考えられます。」というものだ。前述したように葬儀の形骸化という雰囲気が一層に強く感じられる。「葬儀が楽しくない」なんてふしだらな言葉はいけないが、いったい葬儀とは何なの?ということになる。
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火の見やぐら

2007-11-26 22:28:38 | ひとから学ぶ


 駅へ歩いていてふと目に入ったのが火の見櫓の脇にある桜の大木である。まだ陽が昇りはじめた逆光のなか、葉の落ちた桜の木がなぜか印象的だった。その背景に立つ火の見櫓、このあたりではずいぶんと高い櫓である。さすがに旧役場の近くにあるから、それなりに大きく、また地域を代表する大きさということも納得できる。「火の見櫓」といえば誰にでもわかるが、わたしの地域では「櫓」を省略して「火の見」といっていた。子どものころ遊び場の目安としてこの「火の見」という言葉がよく使われたものだ。近ごろそんな火の見が少なくなったともいうが、生家のある地域を思い浮かべると、よほどのことがなければ撤去されていない。鉄でできているからそれなりにメンテナンスをしないと錆びてしまうだろうから、維持費もある程度見込まなくてはならないのだろうが、あまり火の見の塗装作業をしている様子を見たこともない。

 火の見櫓には半鐘があって、火事が起きればこの半鐘を鳴らして人々に火事を知らせたものだ。かつての農村では半鐘は急を要するものであったことに違いはない。そしてそんな半鐘が鳴らされたことも記憶に何度もある。生家に住んでいたころには、年末警戒とか火の用心意味で半鐘が長い間隔で鳴らされたことを覚えている。ひさしくそんな音を聞かなくなったが、現実的に半鐘も含めて火の見の必要性がなくなったこともある。農村地帯といってもどこでもそうとは限らないが、長野県内では防災無線なるものが設備されていて、火事があるとその防災無線によって知らされる。どこで何の火事が起きたかというところまで解るから、半鐘に比較すれば情報量はまったく相手にならない。火の見には鐘の鳴る間隔でどういう意味があるか、といった看板が掲げられていたものだが、今やそんな看板も火の見本体からは消えている。現在の用途として、半鐘による火災予防運動期間中の防火広報などの発信、そして最も好都合ともいえる使用したホースの乾燥がある。訓練も含めて使用されたホースの乾燥は、そこらで簡単にできるものではない。高い場所から吊るすというのがもっとも乾燥させやすい方法である。そういう意味で自らのもつ施設に吊るすことができることは、意外にももっとも利用している人たちにはありがたい道具となっているはずだ。火の見なくしてどうするか、なんていう思いもある。そんなこともあって火の見が農村から消えないのではないだろうか。もちろんその背景には消防団の存在があることを忘れてはならない。

 新しく設置されるということはあまり例としてないだろうから、火の見のある場所=古い集落、そして集落の中心、そんな捉え方もできるだろう。火の見に関してはずいぶんとマニアもいるようで、火の見の写真を全国的にそろえたページがいくつかある。「火の見櫓っておもしろい!!」というページに旧美麻村の木の火の見が紹介されている。木の櫓というのも珍しいのかもしれないが、木となると鉄のもののように高いものはほとんど残っていない。半鐘と火の見の境はどこにあるのだろうというくらい、半鐘だけ木に吊るされたようなものは、長野県内でも山間に行くと時おり見ることがある。田楽のような電柱に横棒がさされた梯子の簡易的なようなものがけっこう散見できる。そんなところでは半鐘が今も何らかに利用されている可能性は高い。火災用のものばかりではなく、人呼びの意味を持つものもあるのだろう。集会所の脇に吊るされた半鐘を見たことも何度もある。大きな火の見に比較すれば、そういったものは知らないうちに消えている可能性が高い。

 写真のものは四つ足のいたってシンプルなもので、このあたりでは一般的なものである。先のページを閲覧してみると、上に屋根のないものもあるようで、「なぜないんだ」という印象を持った。半鐘が雨ざらしでは痛んでしまうじゃないかと思うが、田楽風のものもそれとは変わらないからあっても不思議ではない。さて、隣にある桜の大木、今でこそ葉が落ちてそれほど邪魔ではないだろうが、本気で火の見として利用するにはちよっと両者の関係は厳しいものだ。今だから存在しうる関係といえるかもしれない。
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危うし女子フィギュア

2007-11-25 00:06:22 | つぶやき
 スケートシーズンに入ってフィギュアスケートが毎週のように放映されている。レベルが高い日本だからこそのことなのだが、これほどテレビで放映されながら今シーズンの日本人選手に対して、誰もが「オヤッ」と思っているに違いない。ついさっきもグランプリシリーズのロシア大会がBS朝日で放映されていた。一般の放送と違ってライブの映像が見られるときにBSの良さを感じるくらいで、ふだんはまったく用のないチャンネルである。それはさておき、今シーズン、すでにファイナル進出を決めている浅田真央の得点がなかなか伸びない、といういっぽうで韓国のキム・ヨナの得点はどんどん伸びてゆく。今大会のキムの得点はショート・フリーともにパーソナルベストでダントツの値である。確かに高い得点を得て不思議ではないのかもしれないが、では浅田真央とどれほど違うのかまったくわからない。確かにジャンプのミスが目立つ今年の浅田であるが、毎年得点を伸ばすべく、さまざまな技術を取り組んでいるにもかかわらず、その失敗を補う点が出ないのだ。一方のキムの演技のどこにそんな高い得点をするモノがあるのか、ちょっと疑問に思っている人も少なくないはずだ。おそらく、ファイナルでその結論が出るのだろうが、現段階では浅田がトリプルアクセルを決めてミスなく演技したとしても、今回のキムのパーソナルベストを上回る感じがしない。それはどれほどミスなく完璧に浅田真央が演じたとしてもだ。おそらく少しのミスでもあれば大得点差で負けるに違いない。

 だいたいがトップレベル下の選手が1位になるには、トップ選手がミスするしかありえない。今のキム・ヨナにはそんな雰囲気がある。誰もがベストだったら彼女の上に日本人は一人もいけない。象徴的なのは、以前よりなかなか点が伸びない中野友加里だ。今回のフリーの技術点は3位のロシェットよりも遥かに低い。なぜそうなるのかがまったく解らない。かつて日本のお家芸だったジャンプが規則変更で奈落の底に落とされたのと同じように、どうもフィギアも得点制になったにもかかわらず怪しくて仕方ない。不安定な印象の村主の得点を見ていると、もう彼女には終止符を打たれるほどの得点しか与えられない。それもミスがそれほど目立たなくてもだ。いっぽう他国の選手はミスをしても意外にも得点が下がらない選手が目立つ。あくまでも印象であって、その背景で日本選手には見えていない得点の裏があるのかもしれない。解説者もその得点の裏ワザに気がついていない雰囲気だ。とすると、今年の得点の低さの要因をはっきりとつかまないと、来年以降さらに厳しいものになるのではないかという危惧が生じる。今年からジャンプの得点が厳しくなったというが、それを踏まえてもちょっと意外な数値が目立ち始めている。
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電車の乗車位置と駅

2007-11-24 19:23:49 | ひとから学ぶ
 無人駅が少なかった時代とは違って、無人駅がほとんどとなったホームは、どこからでも入ることかできる。そんなこともあるから、電車に乗るポジションというものも、より家に近い方向、あるいは目的とする場所に近い方向に乗りたがるものだ。もちろんどこからでもホームに入れるといっても、一応通路というものがあるから、歩く道もないようなところを入り込んでホームに立とうとするのは、よほど間に合わないようなときぐらいだろう。基本的には通路があれば、その通路に合わせて、目的に近い場所を選択する。たとえばわたしの利用する駅は、線路に沿って北側から入る通路と、駅舎の正面から入る通路がある。正面方向に家があればそちらを利用し、北方面に家があればそちらを利用するのが一般的だ。毎朝乗る電車は、ホームに着くと高校生が大勢降車して、北側通路に沿ってぞろぞろと歩いてゆく。ようは駅舎という正面玄関ではなく、裏木戸を開けて出て行くようなものだ。そんな客の方が多い駅も珍しいかもしれない。

 ということでその高校生同様に裏口を利用するわたしは、北側の端に乗車する方が歩く距離は短くなるわけだ。飯田線の駅は、どちらかというと線路に対して西側に駅舎がある駅が多い。わたしが利用している区間でも、わたしが利用する最寄りの駅は東側であるが、残りの15駅のうち西側に駅舎がある駅が11駅ある。そのうち昔からの無人駅が5駅、東側に駅舎がある4駅のうち、昔からの無人駅は2駅(記憶によれば田切駅は完全無人ではなく、電車の来る時間だけ、ちかくのおばさんが切符を売りにきたように思う)である。ようはほとんどの有人駅は線路の西側に位置していたわけだ。たまたま現在利用している駅も、生家のある地区の最寄りの駅も東側に駅舎があって、わたしには東側に駅舎がある駅に縁があるようだ。西側に駅舎があるということは、駅舎の正面も西を向くことが多くなる。無人駅のようなケースでは駅舎の入り口なるものがないから西向きということはないのだが、かつての有人駅も含めて複線化されている駅では、大方は西向き玄関といったところだ。マチの東側に線路が敷かれたから西向きになる、という印象がある。そう考えれば線路の東側に町のある宮田や飯田という駅は東側が正面玄関となる。当たり前のことなのだが、とすれば、なぜマチの東側に線路が位置しているのかという疑問もわく。

 さて、乗るポジションか降りるポジションか、その優先度は人によって異なるのだろうが、例えば帰路の伊那市駅では、乗車すればほぼ全車内がまんべんなく混雑する。ところがいくつか駅を過ぎてゆくと、その混雑度にはばらつきが出始める。ようは最も混雑する伊那市駅を過ぎると、しだいに乗客が降車し、乗客数は減ってゆく。だから早くに下車する人が多いポジションはむらができる。乗車する際は後部車両が賑わうが、それは乗車ポジションが後部者両側にあるからで、待合室の位置によっても混雑度に変化が出る。長年そんな位置情報を持って利用している人には、空いているポジション、あるいは空くポジションというものが頭に入っているようだ。知らない駅で降りるとなれば、どの車両に乗ったらよいかなどという意識はないのだが、経験を積んでくると、とくに乗り換えの駅のポジションは重要になるようだ。すでにホームに停まって乗り換え客を待っているような電車に乗る際には、乗っている車両の位置でずいぶんと座席取りに影響する。そんなことが解っている毎日の利用者は、その乗り換えポジションを重視している。
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八ヶ岳山麓の三石仏

2007-11-23 11:50:09 | 歴史から学ぶ


 昭和56年に発行された『石仏と道祖神』においても佐久地方の大日如来がいくつも紹介されている。旧臼田町下越のものは、伝承によれば元和8年(1622)、あるいは寛元4年(1246)に建てられたものという。伝承にしても約400年の開きがあって、なかなかの闇の中という印象であるが、1622年としてもずいぶんと古いものである。長野県内には江戸時代以前の石造物というものはそれほど多くないわけで、江戸初期のものといえば、古い方といって差し支えないわけだ。それが1246年まで遡るとなるとさらにすごい話である。

 旧望月町の天神にある大日如来はよく知られているものである。天神城址の北側に墓地がある。現在はその南側にバイパスができて、ここを通ることはなくなったが、かつての幹線道沿いでちょうど春日の方と分岐する交差点がある。この交差点の脇の三角地帯に墓地が広がっていて、その墓地内の一角に文化財の標柱が建てられているからすぐにこの石仏だと解る。高さにして60センチほどのものなのだが、初見の印象は後にまで残る。それほど印象的ともいえるのだが、「木に包まれた石仏」で紹介した大日如来のように、同じような雰囲気をもつ大日如来がこの地域に少なくないことに気がつく。この石仏は「万治の石仏」と呼ばれているが、それも愛好者によって付けられたものだろう。万治の石仏といえば、下諏訪町の諏訪大社春宮の脇にあるものが有名だ。万治とは左胸部に刻まれている年号からきたもので、「万治二年」(1659)とある。この像、丸彫りでありながら、体のあちこちに銘文が刻まれている。左右の胸と右の膝元に銘文が見える。火山岩のため面が粗いのに、銘文が書かれているのはしっかりと解る。ところが読み取れそうでなかなか読み取れないのだ。智拳印を結ぶ大日如来はすぐに大日如来と解る。同様の印を結ぶ大日如来はこの地方に多く建立されているが、わたしの印象では墓地に建てられているものが多いから、信仰系のものではないのかもしれない。

 これもまた、仕事で佐久に向かう際の時間調整で久しぶりに寄ってみたものだ。わたしにとっては、この望月天神のもの、茅野市芹沢の道祖神、そして旧須玉町海岸寺の味噌なめ地蔵の三つが八ヶ岳山麓の印象深い石仏三体である。
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とても不健康な田舎

2007-11-22 12:16:28 | 農村環境
 田舎暮らしを華美に飾り立て人口増を狙うが、地方のそれも田舎はとても健康な状態とはいえない。けしてそうではない地域が健康であるともいえないが、現状の田舎を、「環境が良い」とか「空気・景観・人情」などと書き立てて表現するのは、妥当ではないだろう。確かにかつての田舎にはよそ者を受け入れ難い空気があって、それをよそ者には入ることのできない空間といっていた時代に比較すれば、ずいぶんと暮らしやすくなったに違いないが、それはよそ者にとっての入りやすさという一面に過ぎず、荒廃し、すさんだ現代の田舎に好条件を掲げるのは企業的でなじめないものだ。

 このところ周辺で亡くなった人が何人もいた。高齢の方たちが亡くなるのは致し方ないことではあるが、しだいに「亡くなる」という現実に対して、周囲の意識も低下してきている感覚がある。そういう自分も、ごく身近だった人が亡くなったのに、仕事のため葬儀には参列できなかった。身動きできないほどの状況が当たり前のように言われ、自らそんな失礼な行動しかとれないことに自問自答するが、どうにもならないのだ。ちょっとした時間が取れないはずもないのに、心の余裕がなくなり、「死」という現実的には遠い世界と思っていたいような世界には遠慮してしまうのだ。多くの人々が、現実的な課題に向き合いすぎているのかもしれない。どんなに「一年ぶりの再会から」で触れたようなスローな生活をしようにも、その原点に「電車の中で仕事ができる」などという発想があると、ますます休まらない心の姿が見えてくるものだ。

 子どものころから近所で、常に顔をあわせていたおじさんやおばさんがいた。旧家であるだけに暮らしぶりは質素でありながら、どことなくわが家とは違った格式のようなものがあった。田んぼの農作業といえばわが家の前を通り、子どもだったわたしも頻繁に挨拶をすることがあった。娘さんたちがいて、世代は少し上ではあったが、記憶にはその娘さんたちとおじさんやおばさんと一緒に写った写真があった。まだカメラなるものがどこの家にもあった時代ではなく、稀なものだった。まだ小学生に上がったばかりのころだったように思う。わが家にもカメラというものがまだなかったから、そんな写真はわたしにとっては数少ない幼少のころの写真だったように記憶する。どこかにしまいこんであるに違いないのだが、そんな娘さんたちももうずいぶん前に結婚して、養子をとられていた。近ごろは生家にも足が遠のいていて、ご近所の様子などまったく解らないのだが、それでも時おりの母の顔を見ると、近所の様子などを聞かされていた。このおじさんの家でも養子さんとうまくやっていたと思っていたのだが、どうも相容れない部分があってうまくいっていないという話を聞いていた。そんな矢先(といってもそれを聞いたのはもうしばらく前のことではあるが)、おじさんとおばさんが、車の中で亡くなっていたという悲しい話を聞いた。なんでもないごく普通の田舎の話である。まったくの山間地域ではないのだが、さまざまに農村が病んでいる。とくに家、家族というものは、かつてとは想像もつかないほど病んでいるような気がしてならない。もちろん昔でもそういう話はあったし、現代の病だとは言わないが、これほど誰もが一定の暮らしができるようになったのに、高齢者のそんな話を目の当たりにすると、世代を越えた触れ合いとはどういうことになっているのか、などと考えてしまうのだ。「健康で暮らせるだけまし」などというが、世の中の家族関係は壊滅的で、精神的な健康さが見えない。
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車ありきではない生活②

2007-11-21 12:25:39 | ひとから学ぶ
 息子の入院する病院まで行くために、伊那市駅から伊那八幡駅まで約2時間余の伊那谷南下をした。金額にして約千円という行程であるが、意外にも同じ駅で乗車した人がねそのまま天竜峡行きの電車に乗り続けていった。ふだんの暮らしで電車を利用する人は少ないだろうが、それでもけっこう長距離を利用する人も多い。伊那市駅からしばらくは、最も飯田線が混雑する区間だ。途中に高校が点在しているということが、ある程度はそれを緩和しているかもしれないが、一般乗客を加えると、まだまだ伊那市周辺はピークを迎える区間だ。そして以前からも触れているように、上伊那郡境にやってくると、その乗客が極度に減少する。ようは伊那から飯田を通して利用する人は数少ないということになる。郡境を越えて下伊那郡に入っても、必ずしも乗客が増えない。郡境域にある高校はたった1校である。したがってその高校の生徒があまり乗車してこないと、そのまま乗客が増えもせずに飯田へ向かうのだ。それでも少しずつではあるが乗車客があって、飯田に向かって増えてはゆくが、伊那市周辺の混雑にはならない。伊那上郷を利用する高校が2校あることで、ようやくそのあたりからいかにも市街地の電車内の様相を見せるが、伊那市駅周辺の印象とは少し異なる。意外にも一般の通勤客と思われる乗客の顔がそこそこ見えて安堵する。

 このごろ通勤時間帯に指定席ではない席に座って気がついたことがある。駅周辺に会社がいくつも見える駅がある。そんな駅に着いてもそうした会社の社員らしき人は1人も降りない。駅近くに会社があっても、車で通勤していることは明確で、広い駐車場には車がたくさん止められている。駅の近くに会社があっても、車で通勤すねのだから話しにならないのだ。地方では、電車なりバスを利用しようとすれば、その時刻に合わせて行動をとらなくてはならない。常に時刻表と時計を意識しなくてはならない。しかし都会は違う。いつ駅へ行っても少し待てば電車はやってくる。意識すればよいのは終電と始発の時間くらいだ。都会と地方は、行動の基本的舞台が異なる。それを同じと思うのもナンセンスだし、そう願うのも自己本位すぎる。舞台の違いを認識して生活する、あるいはそこで会社を運営するのなら、そうした視点を持った運営が求められる時代ではないだろうか。駅近くにありながら、車で通勤しないといけないような始業終業時間であってはならないし、またそこで生活する人々も、車ありきな生活に陥ってはいけないのだ。
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木に包まれた石碑

2007-11-20 12:15:46 | ひとから学ぶ


 仕事で佐久を訪れた際、時間に余裕があったため、佐久市伴野の集落の脇で弁当を広げた。それは浅間山を背景にした今岡という集落の一角である。弁当を取るとすれば、あまり賑やかなところでは落ち着いて食べられない。だからこうした弁当を取りたくなる空間というものがある。昼近くなると、そんな空間に目ぼしをつけておくものだ。この日は通りすがりにそんな場所を探したわけで、目ぼしもなにもない。ようは食べやすい空間を探したのだ。国道142号から少し北側にはずれた場所に大きな木が生えているところがあって、自然とそこへ導かれた。木があれば目隠しになるものだ。加えて車を停められるスペースがあれば、格好の昼休みの場所となる。野沢と浅科を結ぶ旧街道沿いにある今岡を通ると、「鯉」を扱っている家の看板が目立つ。佐久鯉で知られるようにこの地域は鯉の生産地である。そんな「鯉」の看板で佐久らしさを感じながら集落の北側に広がる水田地帯へ足を踏み入れると、河岸段丘の上に大きな色づいた木々が見える。「知性ではない領域」で紹介した風景は今岡集落のはずれから撮ったものである。この大きなきの根元に墓地がある。

 佐久地域で石仏を見て歩いたことはあるが、意図的に石仏を目標に歩くより、こんな感じでたまたま風景に魅せられて周辺をうかがっている時の方が意外な発見があるものだ。まずこうした大きな木の根元に墓地があること、そしてそうした墓地に足を踏み入れてみると、おそらくこの地域の特徴的な墓地の雰囲気がある。必ず8/1に墓参りをするこの地域だけに墓地の空間にわたしの住む地域とは違ったものが見られる。ここの墓地には個人で建てた観音堂があり、墓地内には石塔のほかに大変多くの石仏が並立している。これほど石塔とは別の石仏が建ち並ぶ墓地は、あまり見たことがない。〝建ち並ぶ〟という表現が正しいかどうかは解らないが、石塔の裏側などに石塔に比較すればずいぶんと小型の石仏が並べられている。その多くは大日如来であったり、如意輪観音であったりする。けして新しいものでもないし、それらが石塔より目立っているものでもない。路傍の石仏とは違う墓地の石仏であるが、見ごたえのある石仏が意外と多い。墓地にこうした石仏を建てる意図はなんなのかということになるが、伊那谷でも有力者の墓地にはそうした石仏が建つことはある。しかし、それらは石塔よりもむしろ目だっていることが多い。現代とは異なり、人の手で彫られたわけだから、石像の方が手がかかる上に、石屋さんにとってみれば特長を出しやすい物体である。そんな物体が、墓地の中ではどちらかというと後部に控えているという構図に、何があるのか、などと考えてみたくもなる。

 そんな墓地の中で最も異質で目に映った石仏が写真のものである。火山岩質の石仏は、この地域でも時おり見ることはあるが、数はそれほど多くはない。目が粗くなるから、繊細な彫りを見せることはないが、単純な彫りになるだけ、実は暖かい雰囲気を与える。こうした石質のものは比較的古いものと捉えているが違うだろうか。実はこの石仏の後ろにある木に注目したい。木の割れ目のような場所にかすかに見えていてるものは石碑である。形からして墓石なのだろうが、その姿の8割くらいは木に完全に包まれてしまっている。木の生長とともに、木に抱かれてしまったのだろう。時おりこうした石碑をみることはあるが、ここまで包まれてしまっているものは初めてだ。木の生長の過程で、だれも手を加えなかったということに、なんともいえない空間の動きの無さを感じる。この集落からみると、川に近い方に墓地が点在していて、それもまたわたしの住む地域とは違う雰囲気をもたらしている。そんなことを思いながら、この場所をあとにした。
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車ありきではない生活①

2007-11-19 12:18:04 | ひとから学ぶ
 妻も呆れるほどの最近のわたしの行動だ。息子が入院している病院に明日行くというと、以前なら当たり前のように車を利用していた。ところがこのごろは車を使わずに電車を利用することが多くなったことから、妻も内心「電車で来るのでは?」と予想するまでになった。その予想通り、会社を1時間早く早退して、電車に乗る。病院の最寄りの駅まで約2時間という行程である。最寄の駅は飯田線伊那八幡駅である。ところが飯田線の飯田市内の路線は、丘の上と言われる市街地へ線路が迂回しているため、最寄りといっても一概に最寄りともいえない。息子の入院している病院には、ほかにも下山村とか鼎といった駅からもそう遠くはない。早く着く駅から鼎・下山村・伊那八幡となり、病院に近い順には伊那八幡・下山村・鼎というようになる。ようは早く着いた駅から歩いても、最も近いみ駅から歩いても、到着する時間はそれほと変わりがないのだ。

 そんなわたしの乗った電車は、飯田駅で約15分停車する。15分でどれほど歩けるか、ということもあるが、迂回しているために、例えば伊那上郷で降りて、五つ向こうの下山村の駅まで走れば間に合うのだ。駅と駅の間が近いために、「乗り遅れそうなら次の駅まで行けば間に合う」という話しをよく聞くものだ。そんな立地にあるのが飯田周辺の迂回の内側に縁のある人たちだ。

 伊那八幡で降りて徒歩15分くらいだろうか、息子の入院する病院に着く。顔を見て病院を後にするが、次の電車まで時間がしばらくあることから、帰りは飯田駅で乗ろうと市街地に向かって歩き出す。妻からケイタイに連絡があり、「自宅へ帰るところだが、どこにいるんだ」という。当初は病院にわたしがいるうちに落ち合うつもりだったようだが、わたしが予想外に早くに病院に出向いたために行き違ってしまったようだ。すでに飯田市街地へ登り始めていた。結局妻がわたしを見つけたのは、銀座である。とても自動車は早い乗り物ではあるが、歩くのもけして遅い、計算のつかないものでもない。電車で帰宅すれば午後9時過ぎだったのが、迎えてもらったこともあって、予定よりは約1時間早い帰宅となった。確かに電車に比較すれば早い。しかし、そんな時間を買おうとしなくなったわたしは、「間に合わなければそれもいいじゃないか」という決められた枠にあわせようとしている。当初電車で通勤を始めたころはそんなに電車にこだわるようになるとは自分でも思ってもいなかった。しかし、今やどこへ行くにも「電車で行くとしたらどうだろう」と考えるようになった。それが駄目なら車という選択をする。車ありきの生活ではなく、決められた時刻表にあわせる生活である。

 先日も会社の飲み会で、「飯田線も30分に1本くらいあればよいのに・・・」という言葉が聞こえた。確かに選択としてもう少し本数があれば利用しやすい常態にはなる。ところが、だからといって利用者が増えるとは思わない。基本的生活スタイルが「車ありき」である以上、どんなに利用条件を良くしようとも、乗らない人は乗らないのだ。
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いつまでも同じ看板

2007-11-18 12:51:42 | 農村環境
 長野県食と農業農村振興計画がたてられた。食と農業農村振興先進事例がその中で紹介されている。副題は「食と農が織りなす 元気な信州農業」と掲げられている。働きやすい住み良い農業・農村の中では、「災害に強い農村づくり」といって、水田や水路が持つ国土保全機能維持をうたっており、事例として〝よこねたんぼ〟が紹介されている。「よこね田んぼ」は、飯田市千代芋平にある棚田である。一時は4割が休耕してしまっていたものを、地域が環境保全推進協議会を設立して保全に力を入れたことにより、いまではさまざまな外部の人たちの手が加わってこの棚田が継続されているわけだ。先進事例としてここを紹介している意図は、「人間が生きる上で大切な食料を生産する重要な現場である」ということを地域住民や子どもたちに再認識してもらうものだという。そのサポートとしてふるさと水と土ふれあい事業のようなものを導入して、棚田保全をしていきます、と長野県の方針を示している。重点的と言われても仕方がないが、こうした代表事例地というものが地域ごとにいくつかあって、長野県はそうした場所でイベントを行ったり、広報しているが、そこからの展開がないということに気がついているのだろうか。ようはいつまでたっても〝よこね田んぼ〟であったり〝姨捨〟であったりと限られた場所で飯を食っているのと同じようなもので、もっといけないのは、そうした事例を持ち上げては、「農村農業の意義」を唱えていることだ。現実的な課題に対しての具体的な方針は見せようとしない。あくまでも住民、地域からの発信を待っているわけで、それをサポートしていくのが県の役割と言うことなのだろう。それは現在の知事のスタンスでもある。

 「長野県はいらない」と思うのは、そんな事務的な受身のスタンスでいいのなら、こんなにたくさんの職員は「いらない」ということで、無駄なサポートはしなくてもよいのじゃないかということだ。すでに地域がまとまって保全しているものなら、そこからは視点をはずして、違う地域に目をやるべきではないかと、もうずいぶん前から思っている。「いつまでたっても〝よこね〟」では、そんなことをしている間によその地域はどんどん課題を上乗せしていってしまうということだ。同じことは県ばかりではなく、自治体や報道などすべてに該当する。こぞって視点を集中させて、飾り物の姿ばかりを映す。県民、市民がそんな飾り物
に目を奪われていると思いたくはないが、県の計画にこんなものが事例としていつまでも掲載されてしまうことじたい、〝変わらない〟を実感するわけだ。

 妻の実家の周辺も棚田が広がる。幸い、地域の人々によって耕作され、そこが生活の舞台となっているわけだが、なかなか課題は多いと聞く。「それでも農家だから米作り」と思って農家ががんばっているうちはよいが、何をきっかけでその農地が荒廃するかはわからない。イベントで守られている農業を持ち上げるが、生活と農業が生きている事例は紹介されない。いや、生態系とか環境、あるいは景観という言葉にもてはやされてしまって、農業を営んできた生活者の視点にたっていないのだ。絵になるものは守っても、人々の暮らしはどうでもよいということなのだ。ようやく生態系がどうのこうのという時代にはなったが、人々の心にはまだ目が届いていない。そうしているうちに、農業という暮らしは絶滅するのだろう。
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飯島町長再選

2007-11-17 08:39:49 | つぶやき
 生家のある飯島町の町長選は、結局対抗馬もなく無投票再選となった。地方新聞にも「課題山積み」と書かれているように、郡境の町はどうみても〝こずんでいる〟。先日カットに訪れた知人も、隣接する駒ヶ根市に住むが、ここの市民にも郡境の市という印象がどことなくあって、飯田市や伊那市というこの谷にある二つの市に比較して、自地域が難しい局面にあることを認識している。地方に厳しいとこれほどまで日常的に報道されているが、多くの地方の人々は〝あきらめ〟のようなものがある。

 再選された町長は、「周辺市町村との競争になるが、企業誘致に力を注ぐ」とインタビューに答えている。「豊かな自然に魅力を感じる企業が来て、若者が働き、定住すれば、人口も増え、税収増にもつながる。そのための環境を整える」という。「周辺市町村との競争」という言葉を口にするように、このごろの首長の言葉ときたら、隣接地に抜きん出て自らの地域を、という言葉が目立つ。にもかかわらず広域的な政策は抜きにして語れない。とくに病院の医師不足問題は最も注目されている課題だ。「人のことを考えている余裕はない」といってしまえばそれまでだが、「自立の町づくり」と「競争」そして現実的な課題、とちぐはぐというか一貫性のあるストーリーは立てられない。「自立」という言葉が流行であるが、合併を賛成と一概には言わないが、足の引っ張り合いをするような自立意識が優先されるのなら、大規模合併の方が一貫性が出て、ただしい選択なのかもしれない。ただ、あくまでも自治体の首長がこんな勘違いな意識を持っているからそう思うまでだ。どうにもならないほど田舎の自治体は身動きできなくなっているのではないか。

 とそんな新聞のインタビューを拝見したのだが、11/15長野日報の記事を見て、さらにならくの底に落とされるようなコメントを発見した。「夢と現実見つめる」という再選の町長に聞くインタビュー記事に、こんな言葉が並ぶ。「町民の中にもリーダーシップを求める声と住民意見の重視が大事との声があり、この時代にどうあるべきか自問自答している。ただ、どの方向に向かうにしてもみんながバラ色という訳にはいかず、どこかでトップの判断が必要となる。トップダウンではいけないが、良い意味でのリーダーシップがないと、結果として住民に迷惑を掛けることになる」という。この人は、リーダーシップはトップダウンだと勘違いしている。いまだにこんな意識の首長がいることにびっくりする。リーダーシップと住民主導は相反するものだという意識を持っている人が、住民主導などという言葉を発して欲しくない。こんな人が町長をしている町が良くなるはずもない。そこに住んでいなくて良かった、と胸をなでおろしたくなる。まあ今住んでいるところも似たよったかかもしれないが、こんな勘違いをしている首長でないだけましだろう。
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食べ残さない国へ

2007-11-16 12:21:54 | ひとから学ぶ
 猪瀬直樹氏は『潮』12月号において、食品の消費期限などの偽装に触れて赤福のことを述べている。赤福は製造したものを急速冷凍して、出荷時に解凍したものを市場に出していたというが、残渣を出さないための一つの方法だったわけで、日付の偽装はともかくとして、マスコミが寄ってたかって虐めるような内容ではないと指摘している。生餅といえばもっとも痛みやすい食べ物である。それを残渣を出さずに消費していくということは、現代の流通のでは難しいことだろう。今やコンビニ全盛ということで、消費期限の切れたようなものは棚に並ばないわけだから、売れ残ればそのまま残渣となって処理される。近在のスーパーなどでは閉店間際になると五割引きなどといって価格を下げて売れ残りを少なくしようとするが、スーパー並みの食料販売をしているコンビニはそんなことはしない。なぜしないかといえば閉店がないからだ。随時開店しているから、日付の混在したものが随時補給されていく。したがって、境目がないからそんな作業をいちいちしていたら人手がかかるわけだ。ようはコストを考えれば一つの商品に二つの価格はありえないのだ。

 残渣が出れば無駄、いわゆる『もったいない』が生じるわけだが、そこはさすがにコンビニ業界、そうした配慮にも抜け目のない売り文句を用意している。「生活と自治」10月号において、「コンビニ弁当からの飼料作り」という記事が掲載されている。「コンビニの売れ残りを受け入れるようになって分かったのは、1店舗当たりの売れ残りが約15kgと安定していることです。また、弁当の品揃えは夏ならそうめん、冬は焼きうどんという具合に、季節によって変わります。しかし、成分的には年間を通じてあまり変化がないことに気づきました」という飼料を製造している会社のコメントを紹介している。安定的な残渣の受け入れ、そして成分変化がないということで、飼料の生産がしやすくなったというのだ。コンビニ業界では残渣の堆肥化がこれまでの主だったが、飼料化に進んでいるという。環境時代、資源有効活用という視点からゆけば、飼料化の方がより循環型に適応しているということなのだろう。しかしである。本来食べられるものを無理にリサイクルする必要はない。このごろの循環型への企業の売り文句は、〝リサイクル〟となっているが、不要なエネルギーを消費しておいてリサイクルしているようでは本来の環境社会の構築にはならない。もともとこうした分野に企業が進出して金儲けをしようとすれば、無理にでも循環サイクルを早めたり量を増やすことになりかねない。消費者も利用者も背景まではなかなか見えない。○○マークなるものが表示されていれば環境に優しい、と勘違いをしてしまってもいけないのだ。「生活と自治」において、NPO法人コミュニティスクール・まちデザインの近藤恵津子氏は、「食べられるものを余らせていることが問題なはずで、それをリサイクルしているといって大々的にアピールすることではないと思います」と同様のことを述べている。

 赤福が許されるものではないだろうが、だからといって消費期限や賞味期限に敏感になってしまうのもどうだろう。このごろ子どもたちに消費期限や賞味期限の切れたものはどうしますか、などと聞いている番組があったが、母親が気づかないと、子どもたちが「これ切れている」と指摘するなんていうケースが多いようだ。そして子どもたちは口をそろえて「食べない」という。保存状態などによっても現実的には個々の商品に差があるわけで、一概に切れた=捨てるというものではないはずだ。飽食ニッポンがいつになったら食べ残ししない意識がよみがえるのか、それともこのまま食料消費国として君臨し続けるのか、食料難の時代はすぐそこに来ている。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****