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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

選挙を終えて

2007-07-31 08:27:04 | ひとから学ぶ
 別日記で「期日前投票」について触れた。総務省が29日に発表した今回の参院選の期日前投票の投票者総数は1079万8997人だったという。前回を大きく上回ったというが、前回の期日前投票者も約717万人いた。今回の数字は有権者の10.3%ということで、10人に1人が当日ではなく前日までに投票を終えている。有権者数に対してだから、投票率が約60%だったというから投票数の2割近くが事前投票ということになる。期日前投票は公示翌日から始まる。ということは選挙戦を戦うとは言うもの、何のための選挙戦なのかと気が抜けてしまわないか。

 2003年の公職選挙法改正により、それまでの不在者投票制度とは別に設けられたものという。「不在者投票制度が廃止されたわけではなく、この制度の代替制度というわけではない」という解りづらい説明もある。印象としては不在者投票制度がわずらわしかったこともあって、投票しやすいように、ようは投票率アップを目的に期日前投票が始まったと思っている。また「きじつぜん」が正確な呼び方だというが、世の中では「きじつまえ」と呼んでいる人が多い。お役所の「きしづぜん」に対して、庶民の「きじつまえ」といった感じだか。そんなことどうでもよいと思うのだが、これがなかなかこだわる人はこだわるのだ。この期日前投票ができるのは、 ①投票日に仕事や学校がある場合、②レジャーや旅行など、投票日に出かける場合、③病気、出産、身体の障害などのために、歩くのが困難な場合などという。そして、期日前投票制度で簡素化された手続きは、投票日当日と同様に直接投票箱に投票できること。わたしも前時代に不在者投票をしたことはあるが、それほど面倒であったという記憶はない。確かになぜ投票日に投票できないかということを聞かれはするが、それは期日前投票だって基本的には同じだ。

 世の中が、必ずしも日曜日にに投票できるとは限らないからそういうことになるのだろうが、それほど選挙が大事なら、国民全員が投票日に投票できるようなシステムを考えるべきだ。むしろ安易な感じの期日前投票は、許せない感じがする。そして選挙管理委員会は、期日前投票を投票率を上げるためのシステムのように説明しているのもどこかおかしい。

 牛歩村の村長さんは、「信毎の出口調査に追いかけ回されたり、嫌ですね。立会い人に、「アソコの息子が来てない」とか言われるのも嫌だし‥。」とコメントをくれた。最近はいかに出口調査で当確を早く見極めるか、という報道合戦もあったりするから、確かにそれも嫌なものだ。乱暴な意見だが、不在者投票だけに戻すべだというのがわたしの気持ちだ。それができないなら、期日前投票が公示日の翌日から始まるなんていうのを辞めてほしいものだ。だいたい決まった日にできないというのが許せない。だからこんな収拾のつかない世のなかになってしまっている。

 さて、自民大敗という結果であるが、いずれ地方の姿が消えていく以上、自民党に今までのような一方的な勝ちはなくなるだろう。ただ地方を民主党が救えるとはとても思えない。加えて企業はもう政治には期待しない。するとますます力優先の時代になる。政治と世のなかの動きはちぐはぐに動き出すかもしれない。この混迷こそが地方終焉への道なのかもしれない。
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ワンマンカーを堪能する

2007-07-30 12:02:36 | ひとから学ぶ
 トラブル続きの1日の始まりだ。駅に着くと電車が来ない。ところが反対側のホームへ定刻どうり上り線の電車がやってくる。「どうしたんだ下り線は・・・」そう思っていると場内放送が入る。下り線の常に使っている電車は32分遅れで元善光寺を出たという。放送が聞き取りにくいから理由がよくわからないが、遅れていることだけは確かだ。そのうちに伊那大島駅始発の電車は、定刻どうりに出たと言う。ようは1本後の電車が先にやってくる。ワンマンカーである。たまたま高校は夏休みに入っているから、この通常使う電車の乗客は少なめではあるが、ワンマンカーが通勤時間帯に走るというのも、なかなかつらいものがある。運転手が雨の降る中、顔を出しては前から降りてくださいと言っている。乗客が少ないからワンマンカーで良いだろうが、多いときにはきつい。放送をするのも運転手である。車両前部分のドアしか開かないから、乗客も混乱するだろう。

 そんな電車に乗ってから気がついたのは、日記用に持ち歩いているメモリーディスクを自宅に忘れてきた。ということで、今日一番に記録しようとしていた日記は、帰宅後になる。そういうわけで、ちょっと落胆しながら最新の日記を書いている。たった20分ほどいつもと時間が違うだけなのに、車内の雰囲気は違う。とくに前述したようなワンマンカーだという放送が頻繁にされるからもあるだろうが、ウィークデーの昼間の電車のような雰囲気がある。もちろん20分遅れということは会社には遅れる。電車の中からでは電話はまずいと思い、同僚に乗車前に連絡をとってある。まるで1時間くらい遅いような雰囲気の中、落ち着かないワンマンカーを堪能する。駅に到着するごとに、乗客が車内を前の方に向かってぞろぞろ歩く。不思議な風景だ。降りようとしていた高校生が急にドアが閉まってしまって声をあげた。すぐ前の運転席に乗務員がいるから出てきて対応してくれたが、運転手さんも大変だ。いろいろ気を使わないとお客さんに迷惑がかかる。雨が降っているから輪をかける。やはり満員だったらこんなことはできない。

 さて、わたしのこのごろの日記は、電車の中で書かれている。そのため小さなメモリーにそのための下書きデータも保存している。ということで、今日は帰宅の際もそれように用意しておいたデータは使えない。さてさてというところだ。
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草刈のホンネ

2007-07-29 11:09:35 | 農村環境
 日本農業新聞の7月13日紙の「本音のホンネ」において、山下惣一氏が草刈のことについて触れている。草刈については今までにも何度も触れているし、自らその苦労に思うところも多いので、さまざまに考えている。とくに山間地域における草刈がどうなっていくのかというところは、悩み多き問題だと思うが、世の中はそんな非生産的な世界をあまり考えてはいない。そうした空間をどう維持していくかということを農政がまったく考えていないわけではなく、しばらく前から行われている中山間地域の直接支払いといい、今年から始まる農地・水・環境・・・もそうした地域維持に向けた施策であるとは思う。ところが、具体的に何もしなくてもお金をもらえるわけではない。とくに集団的維持という流れが強く、集落とか団体とか、個人を対象にしたものではない。というのなら集落が機能しているうちにこうした施策をするべきだったと思うのだが、今や機能しなくなった、あるいは機能させるだけ若い人がいないという状況に陥っている集落も少なくない。そうした集落維持のために、外部の手を借りようとするが、果たしてそんなにうまくいくのか、という印象は強い。

 山下氏は佐賀県に住んでいる。「田んぼの畔畔に除草剤を撒く人が急激に増えている」という。これもまた、わたしも何度も触れてきているが、わたしの周囲のように果樹園の多いところでは、水田地帯と違って、除草剤が撒かれて茶色に変色している姿をよくみる。山下氏も言うが、電気柵(イノシシの防御のため)を設けた場所は除草剤を使っているという。草刈の際に難儀をするのは、石があったり鉄線があったり、支障となるものがある場合だ。だからどうしても除草剤を使いたくなるものだ。それを避けるともなれば、手で刈ることが必要になる。自宅の庭に芝でも植えていると、障害物の際が機械で刈れないのと同じである。

 新潟県で「みどりの畦畔づくり運動」が行われていると聞いて、その実施要領を送ってもらって笑ってしまったと山下氏は言う。その内容には触れていないが、新潟と言えば平らな水田の畔にも除草剤を撒くということでよく知られている。高級なコシヒカリの裏で、大量の除草剤が撒かれているということで、最近話題の危ない中国の農産物ではないが、けして自国の状況も安心できるものではない。何より「緑の畦畔を」と言わなければならないほど、緑ではない畦畔が当たり前になっているとしたら、大変なことだと思わないだろうか。

 さて、集落への手の施しは遅いのではないか、と述べたが、きっともっと早い段階に策がとられていたとしても、農村の人々が留まったとは思えない。それはあくまでも今年から行われようとしている施策の代価を、現実のそこで暮らしていくために必要な代価と比較してみてのことだ。山下氏は、最後に一級河川での草刈の費用について触れている。堤防の草刈は坪3万円という。1ヘクタールにすれば、30万円ということで、施策として支払われる代価がいかに少ないかということになる。しかし、現実的にそんなに高い代価を支払うことは財政難の国ができるわけがないし、そうした行為に対しての無関係な人たちの批判も少なくないはずだ。いかに「美しい国」という言葉がまがい物かがよくわかるたろう。いっさたいどこに「美しい国」を築こうとしているのだ・・・。
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電車の混む日

2007-07-28 10:10:39 | ひとから学ぶ
 今まであまり意識していなかったが、だいたいウィークデーの電車内の様子はそれほど変化のないものだと思っていた。朝の通勤時間帯は、わたしが乗る駅では乗客があまり乗っていないから、おおかた定位置に座ることができる。いつもの場所に人が座っていたとしても、その前後は空いているから、少し違う程度なのだ。先ごろおばさんたちがあい向かいに座席を占拠していて、いつも通りにいかないときがあったが、それでも定位置とそれほどの変化ではなかった。電車で通い始めた6月以降、定位置から大きく(といっても左側か右側という違い程度だが)場所を変えざるを得なかったのは1度だけである。そのときも特別違った雰囲気の乗客がいたわけではなく、通勤者風の人影が多かっただけのことだ。そのときはそれほど意識しなかったのだが、この水曜日、同じようにいつになく乗客が多かった。定位置は空いていたものの、その前後の席がすでに満席なのだ。

 ふだんから、こうして公共交通機関を使えば無駄なエネルギーを使わないのに、という意見をしているのに、いざ電車がいっぱいだったりすると「なんで」ということになる。ようは空いている方がわたしにとってはありがたいということになる。

 なぜこの日乗客が多いのだろう、と初めて考えてみたのだが、それはすぐに解明した。ふだん乗らない人が乗っているからだ。それはどういう人たちかと考えると、公務員、とくに県の職員だったりする。県の人たちとは、飲み会というと金曜日にはあまりやらない。なぜかといえば、単身赴任のような人たちが多いから、翌日が休日という金曜日には飲み会をしないのだ。とするとまったくのウィークデーが飲み会の対象日となり、とくに「ノー残業デー」なんて日を設けている水曜日は、飲み会を設定しやすい日になる。わたしも長野に暮らしていた際、金曜日に飲み会をやるなんていう話を聞くと、絶対に誘いにはのらなかった。仕事で仕方なく飲み会になるときは、もちろんアルコールは飲まずに、ウーロン茶三昧だった。まあ、そんな時に飲めない人の気分がわかって、それもよし、と思ったものだ。

 さて、電車が飲み会のためにだけに使われているとしたら、わたしのようにふだん利用している者には情けない話になる。「あの人また今日も遅くに電車に乗るけれど、毎日毎日よくお酒飲む人だこと」なんて言われているかもしれない。このことに気がついて、またいろいろ策を考えなくてはならなくなった。案の定、この日の夜遅い電車は、いつになく乗客が多い。それもいつものなら高校生なのに、そうではない。サラリーマンだ。そしておおかたが飲み会帰りという感じである。そこで思うのは、水曜日はまだ飲み会の一次会が終わるころの電車に乗ればもっとも空いているに違いない。まあ高校生は多くなるだろうが、飲み会のあとの集団に紛れることを思えば、その方が良策というものだ。いずれにしても、飲み会の日だけに電車が使われるのは、そうした利用をしていないものには、気に入らない話である。

追記 実はこの日のあとも木曜日も金曜日もふだんになく混雑していた。どうもこの暑さで、飲み会が増えている、そんな感じ。景気がよいということかもしれない。
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食生活と農業政策

2007-07-27 08:24:47 | 農村環境
 食料の未来を描く戦略会議というものが、この7/17に初会合を開いたという。安倍首相が出席して食料の未来を描くということだ。有識者10人をメンバーに来年3月までに国民に向けてのメッセージをまとめるようだ。初会合ではメンバーが共通認識を持つために、日本の食料事情が話題とされたという。食料自給率40%代を低迷し、なかなかあがらない現状を踏まえて、これを上げることが第一の目標となるのだろう。農水省の考えでは、「国内供給力が高まるような食生活の改善であり、これを国民に広く理解、実践してもらう」ためのものだという。7/20付け日本農業新聞によれば、その真意は「日本型食生活への回帰など、食事体系全般の見直しである」らしいが、格差があって当たり前だという認識の今の政治、そしてそういう考えがけして少なくない国民の中で、どれだけそんな過去への回帰みたいなことが実践できるか疑問は多い。もちろんわたしの今までの一貫した考えは、かつての基本的な生活スタイルにどこかで戻さない以上、これ以上の前進だけでは行き詰るというものである。だからスタイルはけして正しくないとはいわないのだが、では農業政策をどう捉えているのか、というとその一貫性のなさでよく解ってくる。

 日本の人口は1億以上を数える。その中に格差があれば、低所得者は安いものを供給せざるをえない。ではそうした低所得者が自給率をあげるような食生活をするとなると、民主党のいうような小規模農家への所得補償が必要となる。ところが自民党の政策の基本は、いまだに大規模農家への転換、そうした農業者の担い手育成に走っている。コストダウンさせて国内農産物の価格を下げる。そして自給するという考えになるのだろうが、外国から輸入される農産物並みに単価を下げることで自給率をあげるという考えは、果たして確実なのかどうか、ということになる。そのラインを4ヘクタールの個人農業者と踏んでいるのかどうか知らないが、今までの農業政策は、それが適わなければその数字を変更してきた。政策の多くもそなのうだろう、適合しなければ変えざるをえないことは解るが、とくに農業は工場生産物のような早急な対応はできない。そして土地という大きな空間を舞台とするし、山とは異なり周辺には人が住み、さまざまな環境との葛藤がある。そうしたリスクを負いながらその空間でことを進めるというのも簡単なものではない。

 ではどうしたらよいのか、ということになるのだろうが、もっとも簡単なものは国民の所得が高ければ、安全なものを消費するという意識はあがるだろう。ところが安倍首相にしても自民党にしても、今の考えはそうではないし、現実的にも無理?かもしれない。では次の考えはこうだ。低所得者に農業を展開してもらう。もちろん一定の所得があることは前提となるし、今までのような単一品目への特化を奨励するような施策はないものとする。加えて民主党の言うような所得保障もないものとする。その環境としては、ある程度の経済至上主義は控え、環境政策との整合を図れば、もっとも具体化しやすい施策だと思うし、その時期にあるようにも思う。大変良いと思うのだが、これは低所得者層が反対するというよりも高所得者や大企業が反対するだろう。なぜかといえば、自給的生活は、経済を衰退させるこてとは必死だからだ。

 そんな現状でありながら、ここにきてバイオエタノールが話題になっている。安易にバイオエタノール生産を目標とした農業復活策を口にする人もいるが、こと食生活事情とトレースすると問題が多い。世界的な環境問題時代に、どう食糧事情と整合させた方針を見出すか、注目したいものだが、この「食料の未来を描く戦略会議」もどこかパフォーマンス的な雰囲気が漂うが違うだろうか。
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ヌマトラノオ

2007-07-26 08:27:10 | 自然から学ぶ

 今、里と山の境界域から山へ入ると、その周辺にはオカトラノオの白い花が盛んに咲いている。サクラソウ科トラノオ属の花なのだが、咲いている花はおおかたオカトラノオである。トラの尾のように花穂の先が細くなるとともに横に垂れ下がるように曲がっていく。トラの尾というよりはネコの尾を想像した方が雰囲気は合っている。小さな花をたくさんつけるのだが、これもまた可憐な花のひとつだ。

 このオカトラノオと同属でよく似たものにヌマトラノオというものがある。字のごとく丘のトラノオに対して沼のトラノオなのだ。湿地に生えるもので、草丈は高くても1mには満たない。どちらかというとオカトラノオの方が草丈は長くなる。そういうこともあるのかヌマトラノオを見かけることは稀で、このトラノオ系の花をこの季節に意識するようになってのち、ヌマトラノオというものにお目にかかったことはなかった。簡単にいえば今まで見たこともなかったということになるのかもしれないが、草花に興味を示すようになってからまだ数年程度だから、昔のことはまったく認識の中にない。だから今以上に整備されていない水田地帯をフィールドに遊び、また移動していた時代に、もしかしたら目にしていた可能性は大きい。だからちょっと初めて見たものとも言いがたいところがある。

 このネコの尻尾のような雰囲気を持つオカトラノオに対して、尾を曲げないタイプのヌマトラノオが身の回りにないものかと実は昨年から探していた。オカトラノオを見かけるたびに、立ち止まっては確認していたのだが、なかなか見つからなかった。妻の実家の裏にあるため池にもたくさんのオカトラノオが花を咲かせるが、沼のような湿地帯にもかかわらずその姿はなかった。最近ノカンゾウで触れたため池の堤体の上でそのヌマトラノオを見つけたのだ。丈の長い雑草の中に一株見つけたのだが、よく見るとオカトラノオと花の大きさが異なり、花のつき方もちょっと違う。オカトラノオとの区別は尾の曲がりがあるかないかなのだが、実はオカトラノオも花の咲き始めは尾が曲がっていないものが多い。だから真っ直ぐなものを見つけたからといって、それがオカトラノオとは限らないのだ。そのあたりを自分で確認したかったわけだが、今回花の様子でその違いが確認できた。ただ、堤体の頭に咲いているということで、湿地帯ではない。わたしの印象ではオカトラノオの方がどちらかというと湿地のようなところによく咲いているという印象がある。

 撮影2007.7.22

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自然の残る電車道の脇

2007-07-25 08:28:46 | 自然から学ぶ


 ノカンゾウについて別の日記で触れた。ヤブカンゾウばかりでなかなかノカンゾウが見えない、とそんなことを思いながら車窓から橙色の花を追ってみた。電車の通る空間と、そこに隣接する水田地帯との間に、こうした橙色の花の姿が見える。七久保駅の南側、そして北側など飯島町から伊那市までのJR飯田線沿いにはそのあたりに多く見られる。ではこの空間から離れた水田の土手に咲いているかというと姿はない。なぜかというと、飯島町の場合はほとんどのエリアで昭和40年代から50年代を中心にほ場整備が行われた。だからいじられた土地には、なかなかその姿を見せないのだ。そこへゆくと電車の通る空間と、水田地帯の間にはそこそこの手がつかなかった空間が残っていたりする。そんな空間に橙色の花が咲いているのだ。車窓をあっという間に流れていってしまうから、なかなか正確にヤブカンゾウかノカンゾウか判断はできないが、花の様子からノカンゾウらしき姿は見えない。ヤブカンゾウである。それでも整備された空間にはそのヤブカンゾウですら姿を見せないのだから、手の付けられなかった空間に咲くヤブカンゾウも貴重なものだし、意外と線路沿いにそんな空間があることを教えてくれる。

 七久保駅から南、しばらくの間は線路沿いに耕作放棄地が目立つような空間がある。そんな耕作放棄された水田に丈の高い草が伸び放題なのだが、そうした雑草の中に、ユウスゲが姿をのぞかせている。それもわずかではなく、けっこうたくさん咲いている。ユウスゲはカンゾウとは異なり、夕方から花を開く。これもまた手の付けられていないような空間に姿を見せる。七久保以北ではちょっと線路沿いにユウスゲの黄色い花は見ない。群生しているところはけっこう多いが、どこにでもあるというほど多くはない。山口県では絶滅危惧II類だという。ニッコウキスゲに似ているが、花の色はこちらの方が透き通るほど黄色い。レモンイエローと紹介している人がいるが、そんな感じだ。

 夏の夕方というのは、どことなく夏の終わりを思わせるほど切ないときがある。翌朝再び暑い日ざしがやってくると、うんざりしてしまうが、だからといってそれがやってこないと夏の終わりを感じてしまって寂しいものだ。知らす知らずそんな日がやってこなくなるわけだが、そんな意味でユウスゲは明日も再びやってくる夏の日を確実に印象付けてくれるのかもしれない。夏の陽が落ちる空間に、ユウスゲはとても似合うのだ。

 写真は、犬の散歩に出かけた際に、時おり訪れるため池で撮影したものだ。ユウスゲの姿はけっこうため池に行くと見ることができ。近くにある二つのため池はもちろんだし、妻の実家の裏にあるいつも訪れるため池にもユウスゲがたくさん咲いている。
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フードマイレージ

2007-07-24 08:27:55 | ひとから学ぶ
 中日新聞の7/20朝刊社説において、ウナギの話が登場していた。「食文化というのなら」節度ある消費をしてこそ「文化」というものだろう、というのが主旨のようである。日本では「文化」という名の下に、伝統的に習慣づけられてきた食材も遠方から輸入している。日本の商社が欲したものか、それとも外国の売り手が欲してそういうことになったのか知らないが、もともとはどちらも銭になるから始めたものだろう。遠くても安く手に入るから、どんどん消費量も上がる。そうなれば種が尽きるほどに銭勘定の世界に陥る。鯨がそうてあったように、マグロの漁獲量が制限され、銭勘定でネタを手に入れていた日本人は、世界で笑いとばされるほど文化をかざして食べあさってきたのかもしれない。

 遠くのものではなく近くのものを食すという話は、もう昔からのわたしのポリシーだ。身近の誰でも食べられるものは贅沢という名のものにはならないたろうが、だからといって、遠洋のものや高級な豚肉が贅沢だとは思わない。ときには違うものを食べたいという気持ちは誰にもあるだろうし、わたしにもけしてないわけではないが、消えてなくなるものに銭をかけてもどれほど記憶に残っているかは定かでない。唯一ビールを飲むことぐらいがもしかしたら贅沢というものなのかもしれない。ふだんの食材のなかで、遠いものといえばそのくらいだろうか(穀物類が大きな割合を占めていることから、食材として認識せずにかなりの外国産物を口にしている可能性は高いが)。それでも時おり妻が夜遅くに値引きになった刺身を買ってくるが、「チリ産」なんて書いてあるから、ずいぶんな遠さである。

 さて、そんな距離と重さをかけて数値化するフードマイレージという言葉があることを最近知った。その数値でどれほどエネルギー消費量が多いかということもわかるわけだが、その数値だけでは測れないものもあると思う。ちなみに、2001年における総量(食料輸入量×輸出国から輸入国までの距離)は、日本で約9003億、韓国で3172億、アメリカで2958億(いずれもトンキロメートル)ということらしい。日本は韓国の2.8倍、アメリカの3.0倍ということになる。前年値3.4倍、3.7倍というから少しよそに接近してきているが、総量そのものは前年値に対して倍近い。この値2001年と言うからもうだいぶ前のデータである。フードマイレージで検索すると、おおかたが2000年か2001年のデータである。たまたまこの2年のデータだけでとらえているが、現在の数値はさらに大きなものとなっているに違いない。それは日本だけではなく世界的にそういう傾向はあるはずだ。経済至上主義にまい進すれば、望むものいれば自ずとその流れは止まらない。『ウィキペディア(Wikipedia)』で確認すると、日本では、当時農林水産省農林水産政策研究所所長だった篠原孝氏によって2001年に初めて概念が提唱されたという。だからきっとこの時代のデータが流れているのだろう。篠原孝氏といえば衆議院北信越ブロック選出の民主党議員である。農水省のお役人だった流れからいくと自民党議員だったとしても少しもおかしくないが、長野県1区から2度出馬して2度とも地盤の強い小坂憲次氏に負けて比例での復活当選をされている。政界に少なくなった農業通としてさらなるこうした問題に焦点をあててほしいものだ。

 ところで、フードマイレージというが、本当はフードだけの問題ではない。検索しているとウッドマイレージなる言葉も見える。木という重いものを、遠く海外から運んでくるのもエネルギーとしては大きなものだ。いや、木ならまだ軽いほうで石などもけっこう輸入されている。結論的には前述したように、望むものがいれば自ずとそこにビジネスが生まれる。もしこの輸送距離を短くすれば、そこて働く人々の暮らしを脅かす。ではそうした均衡をどうとっていくのかということになるのだろうが、パズルをはめていくようなうまい具合にはいかない。答えを出せない計算不能の人間社会の問題と捉えられるかもしれない。ただいえることは、そうした経済の中に身をどれほど置いているかという度合いによって、もしものときに被災を受けるか受けないかという違いが明確になってくるのだろう。
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電車人間

2007-07-23 08:27:50 | ひとから学ぶ
 不思議なもので、どこへいくにも車を使うのが当たり前だった暮らしが、通勤で電車を使うようになると、通勤でなくとも電車を使うことが〝おっくう〟でなくなった。慣れというものなのだろうが、とすればみんながみんな公共の乗り物を使えば、意識はしだいに変化するということがわかるだろう。こんなことはそこらの中学生や高校生のやっている高度な勉強よりはるかに優しく理解できることなのだろうが、意外にもそんなことを理解しようとする人は少ないし、自らの自由は保障されていると思えば、くだらない話となるだろう。歳をとったからそう思えるようになったといってはしまえばそれまでだが、若いころからそうした環境にあれば歳だけのこととも言えないだろう。空間としても車の中に1人だけという気楽なものと、すぐ横に他人がいるというものでは大きな違いがある。都会ならそうした暮らしが当たり前なのかもしれないが、田舎では違う。へたをすると会社と自宅という空間にしか人はいないかもしれない。もっといえば、自宅に誰もいなければ、人と接するのは仕事の場のみとなる。そうした暮らしが長引けば、それが当たり前だと思うのだが、人とかかわりたくなるということも事実だ。人とのやりとりがどれほど意味があることなのかという愚問はさておき、ひとが人である以上人のなかで暮らしていきたいものだ。ところが田舎ときたら、人がいない。景観や環境、そして生き物は大事だというが、人と人とのかかわりが大事だという流れはそれほどない。時代はそうした場面を持ち上げはするが、その背景にわたしの言う意図があるわけではない。みんなが「聞いた」という事実を得るために情報は公開され、またワークショップと言われるようなまがいものや、会議が開かれる。どこかのやらせとけして変わるものではない(すべてとは言わないが)。普段の暮らしの中にある自然な姿ではなく、作られたものである。

 電車に乗りながらそんなくだらないことを記録しているが、わたしの頭脳ではこのくらいがせいぜいということだ。だから車内の様子を見渡しながらいろいろくだらないことを思ったりしている。

 帰宅の車内は、昨日も降車する際にはだれもいなかった。3両編成という電車に何人乗っているかは定かではないが、わたしの乗っている空間にだれもいないということは平均的に考えてもせいぜい3人ということで、わたしが降車すれば平均で限りなくゼロに近くなる。終電間際ともなればそんなものなのかもしれないが、ケイタイを使っても人の迷惑にはならないような空間と化す。このまま、この電車は降車後も約1時間ほど走り続ける。もちろんそのままゼロに限りなく近くなっていくわけではなく、いずれは再び乗車する人もいるだろうが、おおかたはこんな空間が連続する。

 人のいない空間に、車掌が座席から集めたゴミがレジ袋に集められて床に置かれている。そのゴミの量はしだいに増え、時にはいくつもにもなる。そんな空間を見ながら降車し、必ず車掌へ一言声をかける。そんな1日の終わりがなんともいえなくなる。いよいよ電車人間になる。手間はかかるが比較的、適応性のある自分にびっくりしたりするが、わたしが適応できるということは、世の中の大方の人はできるはずだ。
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ガソリン価格に一喜一憂

2007-07-22 11:11:19 | ひとから学ぶ
 長野県政タイムスの最新号に「ガソリン価格に一喜一憂する深層の気持ち」という記事があった。とても共感できたので触れてみたい。ガソリンが高騰し続けている。記事を書かれた扇田さんという方は、大町に住んでいる。その地域ではガソリンが140円代で常態化しているという。今までは地元のガソリンスタンド、それも店を変えずに同じところで入れてきたというが、このところの高値でいよいよ遠いところの安いスタンドに変えたという。その値段が10円近くも違うから、満タンにすればずいぶん差額が出るわけだ。たまたま埼玉県に所用ででかけることがあって、昔の記憶で長野県よりさらに安いという認識をしていて、今回はどのくらい違うだろうかとわくわくして出かけたのだ。地元では141円だったガソリンが、130円代前半で価格表示されていることで、きっとうれしくなったに違いない。そして130円を割るような店もあって、そろそろ入れようと決心し、129円という店で給油したわけだ。地元より13円も安いということで600円以上の差額を計算し、意気揚々と出発した。すると127円という店が現れ、「先ほどの高揚感がミルミル萎んでいきました」という。

 扇田さんは、「ガソリンに限って、数円の格差に一喜一憂する傾向がある」とドライバーのことを評しているわけだが、うなづける部分は多々ある。「やったー」と思っていたらそれを上回るくらい気落ちさせる事柄っていうのは、意外にも細かいささいなことで経験するものだ。扇田さんがいう「ガソリンに限って」については、ガソリンばかりでなくほかのものでもあるかもしれないが、実は店の外に大きく価格を表示させて客を呼ぶ典型的な商売だから、ドライバーは一喜一憂してしまうわけだ。これが長野県内みたいに価格表示していない店が多いと、あまり意識しないのかもしれないが、その商売が批判されて表示している店がちらほらしてくると、やはり一喜一憂する世界にのめりこんで行く。

 実は記事でも触れられているが、10円違っても、60リットル入れて600円である。毎週60リットル入れたとしても月にすれば2400円である。ずいぶん高いと思う人もいるかもしれないが、リッター10キロ走ったとして600円は50キロも走れない。ということは買い物のついでに遠くで入れるのならともかく、わざわざ行くには時間とリスクを考えれば得策とは思えない。加えて25キロ範囲程度に10円安い店があるかないかということにもつながる。最近はセルフの店が多くなって、地元のフルサービスに比較すれば10円くらいはすぐに差が出るかもしれないが、セルフの店が一般化してきたせいかセルフもフルもそれほど差を感じなくなってきた。何ごともそうだが、安いところを探す労力に力を注ぐくらいなら、行きつけの店の方が気楽で得した気分になれる、というような感覚が欲しいものだ。もちろんそういう利点を考慮した地元の店の意識も必要だろう。

 さて、このごろは電車通勤をするようになって自家用車はまったく使わなくなった。土日といってもかつてにくらべると出歩かなくなった。1年に2万キロ以上は走っていたものが、しだいに減って長野暮らし時代には1万台に突入。現状なら月に1度も燃料を補給しない。前回燃料を補給したのは、5月の末である。へたをすると2カ月に50リットルも使わなくなる。とすれば、リッター200円したって月に5000円程度になる。というわけでこのごろはまったく一喜一憂しない暮らしをしているから、どんどん値上がりしてもあの世の話てある。いや、この世の話で、わたしがあの世にいるのか・・・。
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不器用な子どもたち

2007-07-21 08:24:09 | ひとから学ぶ
 数学者の秋山仁氏が、こんなことを新聞に書いていた。

「ゼミの学生がカッターナイフでけがをし、指を何針も縫う事故が最近二回も立て続けに起きた。(中略)工作としては、いとも簡単なものなのに、ナイフの使い方に慣れていないことが原因だった。彼らは、学業的にはとても優秀な学生だが、どうも不器用だ。(中略)自分の頭の中で考えるだけで、それを具現化することができないと、思考の末に得られた産物が砂上の楼閣に終わってしまったり、背後に潜んでいる問題点に気づかなかったり、新たなアイデアも浮かばないことが多い。手を動かし、ものをつくることによって知識が活性化して、応用の効く知恵にまで深化するものだ。」

 わが子もたいしてこのゼミの学生と変わらないかもしれない、と最近ことに思うようになった。妻もわたしも農家育ちだということで、農業には今の子どもたちにしては多くの時間携わらせてきた。だからそこそこのことはできると思っていたのだが、それが違うのだ。一緒に同じ作業をしていたとしても、それを1人で実行することはなかなかできないし、もっといえばその応用がきかない。わたしの世代は、農業を捨て去る一方の時代だったから自家の手伝いはしたものの、父は自らが行うことを糧としていて細かい作業を息子たちにやらせなかった。そんな環境だから息子たちも自ら進んで技術的なことを覚えようとしなかった。ということで、今の息子とたいして変わらないのだが、息子はその父の世代と直接かかわりながら育った。わたしたちよりはずっと身になっているはずで、わたしのできない縄なえさえできる。ところがではそれを今も確実に体得しているかといえば、ちょっと怪しいわけだ。子どものころに行った体験も、「やってみる」程度では確実なものになっていない。縄をなうともなれは使える縄をなわなくてはならないが、当時の息子のなった縄は、丈夫ではなかった。

 そんな技術的なことはともかくとして、ある一定の時期に入ると偏った行動しかとらなくなる子どもたちは、明らかに偏りが見え始める。ペンは持つが指から体まで微妙な力をかけながら行うモノヅクリ的行動が極端に減少する。息子はそんな流れに乗って今がある。小学生の中ごろまでよくやった農作業なり体を使った遊びはなくなり、机上の運動だけに変化する。確かに学校では体育をし、部活でスポーツを楽しむが、思考と体、そして体の微妙な感覚までを考えながらゆっくりと認識していく経験がなくなる。息子の場合はまだ経験としてはどこかに残っているかもしれないが、パソコン世代ともなると、指は使っても叩くだけの作業となる。このごろはマウスの先を使って見事な絵を描くようなこともよくあるわけだが、それをとても技術だとは思えない。カッターナイフでものを削るというような微妙な手先の感覚は皆無だ。技術屋さんの仕事はまさにPC上での仕事になる。かつてのように手先の描きではない。考えて絵にしていくことは変わりがないかもしれないが、それはかつてのやり方を知っているからよいが、これからの人たちは最初からPC上に絵を描く。見事としか言いようがないが、その先に一抹の不安はある。今や技術という言葉は、体を使ったものではなく思考力によって成すものとされている。器用だと思っていた息子ですらこのごろの不器用さである。不器用さが目立ち始めると行動も思考力も不器用に見えてくるのは連鎖というものなのだろうが、これほど不器用な人たちばかりになって不安は募るばかりだ。かつて宇宙人といえば頭ばかりが目立つ異様な体型で描かれたものだが、この体型を考え出した人は予言者ともいえる。みごとにこれから先を描いているわけで、頭脳だけが技術の先端だというこの時代を宇宙人から教えてもらったような気がする。

 秋山氏は、「カッターナイフの使い方は、大人になっても練習できるが、自分で何か作ろうという気になる心を持てるか否かは、子どもの時にその体験があるか否かに大きく依存するからだ」という。ちょっと違うのは、作ろうという気になるか否かより、必然的にそういう場面があるかないかという暮らしの中の問題のように思う。「体験」が目的ではなく、必要として行う、そういう現実的な暮らしがない以上、衰退やむなしというところなのかもしれない。
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なり手のいなくなる世界

2007-07-20 08:29:15 | ひとから学ぶ
 教員の志願者が過去10年で最低というニュースがあった。「子どもたちと接するのは楽しい。でも、保護者との付き合いといったことに時間を割くのは予想以上に大変そうで、自信が持てない」という信州大学教育学部の学生のコメントを見たが、はっきりいって正直なところだろう。教員を目指していた若者たちの多くが、このところの教育世界の動きに不安を抱いていることは確かだと思う。それほど「教育」とはかけ離れた部分で現実世界では時間が割かれていく。「忙しすぎて準備が間に合わなかった」という小学校の講師は教員試験をパスしたという。学校という世界、みんな正式な教員だと思うとそうではない。こんなことを知ったのはこのごろのことだ。学校という空間では、子どもたちにとっては、みんな同じ「先生」だというのに、その身分が異なるということも、よーく考えてみるとちょっと納得のいかないものがある。そうした身分の人たちでも担任を受けることもある。にもかかわらず同じように暇なし状態だったとすれば、身分はともかくとして、正式に教員になるための試験すら受けられなかったり、その気持ちすら失ってしまうだろう。現実を知っていれば知っているほど、踏みとどまってしまうこともある。

 将来は教員になればそれほど転勤もなく安定している、という印象を持っていた。加えて教員の仕事場はどちらかというと多くの時間は1人で自らの方針で実行できる。裏を返せば、ひどい先生がいたら子どもたちにとっては最悪なのかもしれないが、人と関わる、人とともに喜怒哀楽を感じられるというどちらかというと、人が好きな人にはうってつけな仕事かもしれない。実際を知らないわたしにはそんな印象があるだけで、実際は違うよという声が聞こえてきそうだが、1人の力で周りの人が変化していくということは確かだと思う。身の周りに同じような立場の人がいたりしたこともあって、息子にもそんな将来が良いかもしれないと思っていたが、周りからいろいろ言われたり、現実を認識してきたようで、今やそんな気はさらさらなくなった。特徴的な「人とのかかわり」という部分が自分には向いていると思えなくなれば、それも仕方のないことだろうが、どこかに冒頭の学生がコメントしたような背景も起因しているように思う。

 さまざまな考えがあるから、その個人的な思想までどうこう言うことはできないが、忙しいと言われる教員の世界でも、必ず定時に帰ることを優先している人もいる。それが本来の姿であるべきなのだろうが、いっぽうでは父兄との対応で日々追われる人もいる。それはどこの世界でも同じだろうが、教員が敬遠され始めるということは、ますます教職の場の雰囲気は変わっていくだろう。負担の重い人はもしかしたらもっと負担を負うことになるかもしれない。どこかで同じような現象が起きている。医師の世界だ。

 知人は「大阪市阪南市の財政再建団体転落危機の話」の中で、市の運営している病院の内科診療が医師が辞めてしまったことで閉鎖に追い込まれ、それが要因で市の財政を圧迫し財政再建団体に陥る可能性が出てきたことについて触れている。知人が紹介してといるように、これは一つの要因に過ぎないようだが、医師不足が活発に論じられるなか、人事ではないという現実が多くの自治体に迫っているともいえる。とくに病院の場合は、大きな運営費が必要であり、機能しなくなれば大きな財政負担になることは確かだろう。それほど地方自治体が背負うには重いサービスだということだ。知人が紹介しているブログに踏み入ってみると、医師の手当てが低いために医師が辞めていってしまい、結果的に閉鎖に追い込まれるという。それなら手当てを倍にするなりそうした手立てを立てるべきだったということになるが、果たしてそれが策となるかどうかも怪しそうだ。現実的な話として病院を自ら抱えている自治体には、ひとつの参考例となるのだろう。聖職と言われるような職業がかつてはあった。そうした聖職が人々に認識されなくなったことで、聖職者自らがかつてとは違った対応をしなくてはならなくなったし、新たにそこに就く者は当初から聖職などという意識ではいられなくきなっているはずだ。すべてが訴訟問題にかかわってくるこの世の中で、こうした職業に就く人たちがかつてとは意識が違うということを、わたしたちも認識しなくてはならなくなったということだ。悪循環はこうして変化を重ねていく。

 自らが住む地域に大規模な運営施設があるかないかということは、ひとつの地域指標になるということをちょっと考えてみたいわけだ。ということで、なり手のいなくなる世界は、ますます奈落の底に落ちていきそうな気配を感じさせる話である。
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建築確認申請手数料

2007-07-19 08:27:56 | つぶやき
 この6月20日から全国いたるところで建築確認申請の手順が変更された。姉歯建築設計事務所の不正行為のおかげで、建築確認がずいぶん面倒なことになったようだ。何が変わったのかおおまかなところは次のような点という。

(1) 構造計算適合性判定制度の導入
構造計算書の偽装等を防止するため、高さ20mを超える鉄筋コンクリート造の建築物など一定の高さ以上等の建築物については、第三者機関による構造審査(ピアチェック)が義務付けられます。
(2) 構造計算適合性判定制度の導入に伴い、建築確認の審査期間が延長されます。
(21日間→35日間、ただし、詳細な構造審査を要する場合には最大で70日間)
(3) 建築確認や中間・完了検査に関する指針が告示で定められ、建築主事や民間機関の確認検査員はこれに従って適正に業務を行うことになります。
従来、設計図書に関係法令に適合しない箇所や不整合な箇所がある場合には、建築主事等が申請者にその旨を連絡し、補正させた上で確認するという慣行がみられましたが、こうした慣行が偽装問題等の一因となっていたことを踏まえ、指針においては、誤記や記載漏れなどを除き、図書の差替えや訂正がある場合には、再申請を求めることとしています。したがって、申請前に設計図書のチェックを十分に行うことは当然のこと、あらかじめ建築計画の内容を確定した上で、確認申請を行う必要があります。
(4) 3階建て以上の共同住宅については、中間検査が義務付けられます。
(5) 確認申請に係る建築設計に複数の設計者が関わっている場合には、責任を明確にするため、確認申請書の設計者欄に全員の氏名等を記載することとします。

というものである。ようは、一定規模以上のものについては審査や検査が厳しくなるというものである。加えて申請手続きに時間がかかるとともに、今までは審査中に差し替えなり訂正が行われていたものが基本的な部分の訂正は、書類の再提出が義務化されるというのだ。偽装があらゆる世界で当たり前のようになると、きっと同様な審査形態はあちこちに波及するかもしれないが、そうしないとお役所がだまされてしまうというところに大きな問題があるわげた。人命にかかわるような重大な問題だと思えば、そんな偽装のできないような体制をつくることは必要なんだろうが、まさにこの国らしい国民性が失われた場面だと思うわけだ。

 こうした改正はともかくとして、あれほどこの問題が報道され続けていたのに、建築確認申請の変更についてはどれほどの一般人が認識しているだろう。もっともわたしが問題にしたい点は、この機会に建築確認申請手数料が変更されることだ。お役所側が今までの手数料ではまともな確認申請ができないと認めたようなもので、「それでい良いの」と思う人はいないのだろうか。この手数料に関して検索してみると、この機会に手数料全体を見直している自治体もある。はたしてこれまでと比較してどうなのか、そこまで調べては見なかったが、一定規模以上というやつは手数料が上がるわけだ。もともと手数料とは何に使われているものなのか疑問はあった。世の中のお役所の手数料というものがすべてそういうように見えてくるが、ではお役所とは何のためにあるのか、ということにも発展する。税金で補われているサービス業なんだから手数料なんてなくて等しいくらいのもので良いように思うのだが、そこまでは言わないものの、偽装があったから手数料をあげてよく審査します、なんていう流れはちょっと許せないなー。
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選挙が嫌われるわけ

2007-07-18 08:27:25 | ひとから学ぶ


 「選挙のお願い電話」という知人のブログを見ていて、同じように思う人はかなりいるだろうと思う。その内容とは、


夕方の忙しい時間に電話がなりました。
「はい、○○です」
「こちら、○○の選挙事務所の者ですが」
あ、来た。選挙のお願いだ。
「○○候補をお願いいたします」
(中略)
電話をもらって、それで決める人っているのでしょうか?
選挙のお願い電話は、キャッチセールスと同じで、とても迷惑です。
(中略)
選挙の時の無差別にかける電話作戦
その候補者へのイメージダウンになることはあっても
プラスになることはないと思いますので
・・・・


とまあこんな具合だ。

 この場合電話帳から無作為に拾って電話を掛けているという内容のようだが、無作為でなくとも電話で頼まれたといっても地域密着の町村議会議員選挙のようなものならともかく、国政の選挙ともなれば逆効果ということは絶対あるだろう。わが社でも先行きの見えないなか、いつもながら支持団体になっていることもあってめったに拝んだこともない人をこのときだけ応援するのだが、現実的には本気に支持して応援しようという雰囲気はそれほどない。もちろん組織選挙だから後援会の名簿のようなものを提出して、きっとその名簿をもとに電話作戦に入るのたろうが、はたしてどれほど効果があるかはわからない。電話作戦なんていうのは辞めて、確実に組織のそれぞれの者が票固めをした方が確実だろう。とはいえ、そうした選挙そのものもうんざり状態に陥っていることは確かだ。身近で選挙に出る人がいると大変なことだ。それは国政に限らず、身近な選挙でも同様だ。

 少し前に選挙の映画のことが報道されていて、国外で不思議にとらえられているようなことを言っていたが、参議院選挙が始まって改めて不思議さを感じるわけだ。「○○です。今回は本当に苦しい。○○をぜひお願いします」と名前を連呼しているが、どれほどあなたのことをみんなが認識しているか知らないが、こうしたやり方そのものが有権者を馬鹿にしている。党名も何も言わずにただ連呼している。選挙カーでは何を訴えているということを言わないのが流れみたいで、認識していない人はまさに名前だけを耳にしている。どれだけの人がマニフェストなり、その個人の主張に耳を傾けるかしらないが、たとえばわたしが今までの選挙で、個人の主張を真剣に読んだりしたことはない。なぜかといえば個人ではどうにもならない力が作用すると知っているし、なによりそこに書かれていることがどれほど信用のおけるものかという疑問もある。有権者の1人として「そんな考えで良いのか」と問われれば自信をもって「良いのだ」と思う。それほどリーダーたちに失望しているということだ。

 電話をかけることが選挙運動として認められている唯一の個人へのアプローチとしたら、それも仕方のないことかもしれない。しかし、電話をもらって気分の良いのは、親しみがある知人くらいのもので、めったにお目にかからないような世界の違う人に、それも電話をしている人は本人ではないのだから、電話をもらったくらいで投票する人はいないだろう。そういう下々の気持ちがわからない人たちが選挙を誘導しているのだろう。そういう人たちは落選してもその方法が正しいと思うのかどうなのか・・・・。


 写真は本文とはまったく関係ないが、中越沖地震があった日の久しぶりの夕方の焼け具合だ。
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せっかく入れたんだから飲めよ

2007-07-17 08:28:50 | ひとから学ぶ
 会社なんかでもよくみる風景で、そして客を迎えたときも客として訪れたときもみる風景がある。とくに親しい客でなくとも、ちょっと長い時間その場に相対するようなとき、お茶を出すことがあるだろう。とくに親しくないなんていう際にお茶なんかを出すと、客が帰ってから茶碗になみなみとお茶が残っていて、それをこぼさないように運んで捨てるという経験は誰にでもあるだろう。そのくらいならお茶なんか出さなければよいのに、と思うのだが、そこが日本人らしいところだ。ただし「もったいない」と思うような人は、お茶を大事にしている人で、意外にも多くの人は、それをもったいないとまではなかなか思わないだろう。それはあくまでもお茶だからで、すでにお茶の色も出ないほどのお茶だったらまったく価値観がないだろう。そのいっぽうで、そんなお茶を出すということは、相手にとってみれば、ありがたくない客と捉えられるだろう。

 さて、昔にくらべるとそんな「お茶を出す」という行為が減ったと誰もが認識しているだろう。人々がそれほど忙しくなったことと、今までお茶を出す作業を担っていた女性の地位向上によって、ようはお茶を出す人がいなくなったからそうした行為が減ったわけだ。出してもお茶を飲まないから出さなくなったのではなく、出す人がいなくなったから出さなくなったというところがなんともいえなく情けないところだ。実は田舎でもお茶を出すという行為はとても少なくなった。昔なら隣の人がやってくれば「まあお茶でも飲んでいきな」なんて言われたものだが、今やそんなことを言うとなにやら意図があるんではないかなんて思われたりする。いや、もっといえば、例えば学校の先生が家庭訪問に訪れたとしても、お茶すら出さないなんていうことも今で珍しいことではないようだ。日本人らしい、と言ったように、客が来れば誰でももてなすという意識は、けして悪いことではなく、そんなゆったりとした空間とやり取りがあってよいと思うのだ。ただでさえ、人とのかかわりはなくなったわけだが、こうしたどうでもよいところで人をもてなすという行為があったからこそ、常に相手を思う気持ちが体に染み付いていたように思う。

 だからこそ、お茶を出されても飲まずに帰るのが失礼とは思わなくなるのだ。「どうせお茶だから」と思えば口など付けるはずもない。その程度のものなのだ。ようはお茶の価値の低落なのだ。なみなみと残っているお茶をみながら、「せっかく入れたんだから飲めよ」と思うのはちょっといただけないかもしれないが、それほどこのごろの人たちは、人の気持ちを理解しなくなったように思うのだ。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****