Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

電車人間

2007-07-23 08:27:50 | ひとから学ぶ
 不思議なもので、どこへいくにも車を使うのが当たり前だった暮らしが、通勤で電車を使うようになると、通勤でなくとも電車を使うことが〝おっくう〟でなくなった。慣れというものなのだろうが、とすればみんながみんな公共の乗り物を使えば、意識はしだいに変化するということがわかるだろう。こんなことはそこらの中学生や高校生のやっている高度な勉強よりはるかに優しく理解できることなのだろうが、意外にもそんなことを理解しようとする人は少ないし、自らの自由は保障されていると思えば、くだらない話となるだろう。歳をとったからそう思えるようになったといってはしまえばそれまでだが、若いころからそうした環境にあれば歳だけのこととも言えないだろう。空間としても車の中に1人だけという気楽なものと、すぐ横に他人がいるというものでは大きな違いがある。都会ならそうした暮らしが当たり前なのかもしれないが、田舎では違う。へたをすると会社と自宅という空間にしか人はいないかもしれない。もっといえば、自宅に誰もいなければ、人と接するのは仕事の場のみとなる。そうした暮らしが長引けば、それが当たり前だと思うのだが、人とかかわりたくなるということも事実だ。人とのやりとりがどれほど意味があることなのかという愚問はさておき、ひとが人である以上人のなかで暮らしていきたいものだ。ところが田舎ときたら、人がいない。景観や環境、そして生き物は大事だというが、人と人とのかかわりが大事だという流れはそれほどない。時代はそうした場面を持ち上げはするが、その背景にわたしの言う意図があるわけではない。みんなが「聞いた」という事実を得るために情報は公開され、またワークショップと言われるようなまがいものや、会議が開かれる。どこかのやらせとけして変わるものではない(すべてとは言わないが)。普段の暮らしの中にある自然な姿ではなく、作られたものである。

 電車に乗りながらそんなくだらないことを記録しているが、わたしの頭脳ではこのくらいがせいぜいということだ。だから車内の様子を見渡しながらいろいろくだらないことを思ったりしている。

 帰宅の車内は、昨日も降車する際にはだれもいなかった。3両編成という電車に何人乗っているかは定かではないが、わたしの乗っている空間にだれもいないということは平均的に考えてもせいぜい3人ということで、わたしが降車すれば平均で限りなくゼロに近くなる。終電間際ともなればそんなものなのかもしれないが、ケイタイを使っても人の迷惑にはならないような空間と化す。このまま、この電車は降車後も約1時間ほど走り続ける。もちろんそのままゼロに限りなく近くなっていくわけではなく、いずれは再び乗車する人もいるだろうが、おおかたはこんな空間が連続する。

 人のいない空間に、車掌が座席から集めたゴミがレジ袋に集められて床に置かれている。そのゴミの量はしだいに増え、時にはいくつもにもなる。そんな空間を見ながら降車し、必ず車掌へ一言声をかける。そんな1日の終わりがなんともいえなくなる。いよいよ電車人間になる。手間はかかるが比較的、適応性のある自分にびっくりしたりするが、わたしが適応できるということは、世の中の大方の人はできるはずだ。

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