Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

イナサ

2007-08-31 08:29:54 | 民俗学
 「日本民俗学」250号に中山正典氏が「伊豆半島漁村における風の伝承」という論文を掲載している。〝風〟という視点で地域社会を眺めてみるという考えは、風に左右される生業で成り立っている集落にとっては、大きな意味があることになるだろう。風の向き、強さで生業が左右されるとなれば、毎日の気象条件を的確に捉えることになる。したがって日々の暮らしの中で、自然、いわゆる環境というものへ注視することになるだろう。そうした生業とは何かと考えてみれば、漁に出るにも天候に左右される漁村のような空間は、その代表的なムラということになる。具体的に伊豆の漁村の風を捉えながら、①地形による風位の差異、②集落における敏感な風位、③伊豆半島の特徴的風位、④地域集落における自然環境に関する認識を風に垣間見る、という4点をあげてまとめている。伝承されている風位を介在させることで、人間と自然環境との関係を集落ごとの特徴として語ることができると述べている。

 ちょうどそんな中山氏の論文を読んだころ、NHKの深夜放送で仙台平野の「イナサ」のことについて触れた短時間番組を放送していた。暖かい南東の風のことをイナサといい、このイナサが吹くと大漁になるという。伊豆半島においても、南東の風をイナサというところが多いようで、中山氏のまとめた風位一覧からもそのことが解る。ただし、こちらでは、台風時の暴風のことをそういうようで、仙台平野のイナサとは漁師に与えるイメージが異なる。仙台平野では大漁になるからこれを「情け」のイナサと呼んでいるという。太平洋に沿った松林があり、その間を縫って貞山堀と言われる運河がある。そしてこの運河の中ほどに荒浜という集落があり、ここではイナサ(風)で漁の取れ高を占うという。この場合は風によって現実的な生業を占っているわけで、海を生業の場としている人たちにとっては、風は大きな意味を持つことを証明している。

 風について中山氏は、『浜岡町史民俗編』(静岡県)のことに触れている。浜岡町では冬季の西北西の季節風が強いという。この冬の強風を利用して砂防堤を築造することを江戸時代から行ってきた。集落をあげてシバを刈り取り、砂丘にシバを立て、西北西の強風がそこに砂を付け、砂堤列が伸びる実生の松を植え、30年40年かけて砂堤列を築造していく。そして、その砂堤列間に耕地を開墾していく。この例は風の力を明確に利用することで堤防ばかりではなく耕作地を増やしていった例だ。現代なら大型機械を利用して造成していく事業を、自然の力を利用して何代もかけて造っていった。

 また、同じ「日本民俗学」250号に、三田牧氏は「糸満猟師たちの「天気を読む」知識」という論文を寄せている。沖縄では嵐を「カジマーイ(風廻り)」と呼ぶ。旧暦の2月の大嵐「二月風廻り」をどう予測しているかということを聞き取っている。とくに印象深かったのは、二月風廻りが過ぎ去ったことの指標として「カニが浜を歩く」とか「カニが海に向けて穴を掘る」というものがある。やはり、自然の変移は自然観察の中から生まれるということが興味深い。いかにかつての暮らしが自然観察の中に成立していたかということだ。しかし、こうした伝承も護岸工事が進んだ今日では、カニが穴を掘ることさえできなくなって現実味のないものとなっているという。

 さて、海端と違って山間の農業主体の地域では、なかなか風との関わりは比較にならないほど希薄だ。しかし、例えば稲ハザに稲を掛けたとしても日当たりも大事だが、風がないと乾きは悪い。乾きが悪ければ、場合によってはカビが出てしまうこともある。「干す」という作業が今以上に多かった時代には、それほど意識は強くなくとも、風の影響を被っていたことは確かだ。そういえば、かつての大掃除といえば、畳を庭に出して干したものだ。そんなことをしている光景を、もう何十年も見たことはない。いや、それどころか稲ハザそのものも珍しくなっているのだから、いかに風を利用しなくなっているかということだ。だから家も風を通すという考えではなく、技術的にカビから守るというものに変化してしまっている。人々の知恵は、そんなところからも消え去っていることが解る。
コメント

よく解らない位置情報

2007-08-30 12:13:59 | ひとから学ぶ
 ボッケニャンドリさんが、少し前に「甲府31km甲州21km」という日記を綴っていた。短文なのでそのまま引用させていただくと、「甲州街道は(ささご)付近でこんな写真を撮った。甲府31km甲州21km、山梨に縁のある俺は甲州って何処だっけと一瞬わけわかめだったけどあまり縁の無い人はこれを見て何を感じるだろう。「 別に 」 か。」というものだ。国道なんかに表示されている大きな看板、いわゆる主要の土地までの距離を表示する看板にこう書かれていたわけだ。実は「甲州」という部分は、少し前までは「塩山」だったに違いない。平成の大合併でかつての地名でイメージを持っていた人たちには、違和感のあることがたくさん湧いてきているはずだ。

 この場合なぜ「甲州」に変わったかといえば、甲州市という市が誕生したからだ。塩山市と勝沼町、そして大和村が合併してこの市が誕生した。ちなみに現在の甲州市のホームページを訪れると、この三つの市町村が合併してできた、と市長のあいさつの中に記述されているとともに、旧市町村のホームページを紹介しているからすぐにどことどこが合併したのか解る。ところがこうした旧市町村のことを触れている新自治体のホームページは少なく、いったいどことどこが合併してこの自治体ができているのか、ということをまったく表示していない自治体も多い。いかにかつての自治体を早く捨てて新しい自治体になじもうか、という意図はくめるのだが、「そんなに慌てるなよ」と思う。現実はそんなに急いで変えたからといったって、人々の気持ちと言うものはそんなにうまくはいかない。いや、そう思っているのは古い人間で、スピード時代だけに、「早く新しい看板に変えろよ」と文句を言う人もいるのだろう。そんな意見を気にしすぎているせいか、平成の合併ではまるで電車賃が改定されたときに一夜のうちにすべてを書き換えるがごとく、看板が変えられているように感じる。

 そうはいってもこの看板のケースでは、塩山ではいけないのか、というのが素直な感想だ。実際JRの駅は「塩山」だし、市役所の住所も「甲州市塩山上於曽1040番地」と塩山の地名が残っている。まったく「塩山」という地名が消えてしまったというのならともかく、残っている以上国道の看板を変える必要があるとは思わない。ましてや、急いで変える必要はさらにない。近ごろ東京まで高速バスで行ったが、甲府手前の双葉SAの近くに方向を示して「南アルプス」という看板がある。実は南アルプス市にできたインターを「南アルプス」インターというからそういう名になるのだろうが、市の名称と山脈の名称が同じだからこういう迷いの世界に陥る。広域名が先にすでにあったとしたら、狭い範囲を指して同じ名称をつけないで欲しいというのが本音だ。そういう意味で、以前にも触れたが、甲州とか山梨とか中央とかなんとなく漠然とした同様の市名というのはわかり難いのだ。

 道路の看板も広範な地域を指しているのに21kmと表示したからには、特定の場所に対して距離を示しているはずだ。もちろんこの場合は塩山のことなんだから、やはり「塩山」と表示するべきだ。もともと例えば長野市まで○○キロとしても、長野市のどこを指しているのだ、という疑問はあった。新たに名称をつけたような地名まで○○キロなんて表示したら「わけが解らん」と思う人は多いはずだ。

 昔は合併してからもしばらくの間、かつての名称がそこらの看板に残っていた。そんなおおらかさがあったのに、このごろのぎちぎち感はとても馴染めないし、そんな苦情が気になるのか、とさすがにお役人たちの対応に恥ずかしささえ覚える。笑って「すいません、そのうちに訂正します」くらい言えないのか、なんて思うのだ。
コメント

「民営化ですから・・・」

2007-08-29 12:10:56 | ひとから学ぶ
 郵便局の10月1日民営化ということで、各家庭にお知らせが届いていると思うし、新聞紙上においても大きく宣伝がされていて、いよいよ現実味を帯びてきていることは雰囲気で解る。全国的に流されているこうした民営化に向けたパンフレットを配布している案内に、それぞれの郵便局が文書を配しているのだろうが、地元の郵便局の案内にはこんなことが書かれていた。

 「これ(民営化)にともない、職員の移動、減員等が行われ非常勤職員が増加しました。また、現在○○局で実施ている機械による組立作業も行われる予定です。(中略)郵便物の住所を正確にご記入頂きたいと思います。番地、アパート名及び棟室番号、同居の場合肩書きまでお願いします。間違った住所や不完全な住所ですと配達が遅れたり、差出人にお返しするすることとなりますので特にご注意ください。尚、自治会名等を記入される方がありますが、自治会名は住所ではありませんのでお間違いのないようお願いします。(中略)事情をお察しいただき今後とも宜しくお願いいたします。」

 ここで明確に解ったことは、正規な職員が減り、いわゆる日雇いとか時間給の職員が増えたということだ。ここにもまた、地方にとっての厳しい状況が見えてくる。ただでさえ働く場のない山の中の郵便局も、非常勤でなりたつようになる。山間の小さなムラにとっては、役場、銀行、農協、郵便局、学校といったいわゆる公共的な働きの場が大事なスペースだったはずだ。しかし、ことごとくそうした場が消え、それにともなって人の動きも消え、交流と言うものがなくなってきた。交流しないとなれば停滞するから、当然のように人口は減少し、高齢化する。そして情報格差や経済格差が増幅する。そんな当たり前な動きがあって、限界集落の増加を加速させてきた。致し方ない現実だといえばその通りなのだが、それを補う手は差し伸べられなかった。

 さて、この文を読んでいるとそれ以外にもいくつかの問題というか、気になる点が浮き上がってくる。このごろ郵便局に行って局員の口から出る言葉がある。「民営化になりますから」というものだ。この文面も「事情をお察しいただき」というものがあるように、その事情とは民営化であって、お察しいただきということは「迷惑をおかけします」につながるような書きぶりである。迷惑をかけるということは、けしてサービスは低下しないものの、今までとは違うということを意識として植え付けようとしている。以前、振替手数料が変更されることについて質問したところやはり「民営化」を真っ先に口にした。まさにこの文の最後にあるように「事情をお察しいただき」ということなのだろうが、この説明はお客さんに対しては失礼な物言いのように聞こえるわけだ。(とは言うものの、わが社が財政困難になって大減員を余儀なくされたときに、お客さんには同じことを口にするかもしれないが、郵便局のような大会社とはちょっと違うとは思うのだが。加えて郵便局は財政難で民営化されるわけではない)

 もうひとつ。住所の話だ。自治会名は住所ではないと明確に言い切っている。しかし住民にとっての住所とは何か、ということになる。確かに公に示されているものとは異なるかもしれないが、地域で使われている一般の集落名というものが住所でないはずがない。わざわざ公的な住所を明記しろというあたりが、これまた「事情をお察し・・・」というところにつながるのだろうが、それなら登記されている住所を正確に書けということなになるのだろうか。国民が望んだんだからそれくらい我慢しろ、みたいな成り立ちは、今後につながるような気がしてならない。
コメント

地方の危惧するところ

2007-08-28 20:24:35 | 農村環境
 課題の多い世のなかであることに違いはなく、気がついてはいてもなかなか動けないほど、世のなかは複雑だし、余裕の無い日々を送っている。

 近ごろ地元の中学の体育館の耐震工事をしているなかで、ボヤがあった。倉庫でボヤがあったようで、耐震工事をしているなかで、その工事の火が飛んだとも言われているが詳細はわたしは知らない。その際、ボヤの元が解らないということで消防が体育館全体に水をかけてしまったと言う。耐震工事をしていて、体育館の床にはシートが敷いてあった。翌日まで予想できなかったのか、シートを敷いてあったものを翌日になってはがしたところ、床は水を含んで波をうっていたという。使い物にならないだろうから、床の張りなおしということになるのだろう。火の原因になった工事を請け負った会社が補償するのか、はたまた町がお金を出すのか知らないが、「火事」という重い事件だから一刻も争うというのなら、直ちに消火作業をしなくてはならないだろうが、ボヤ状態でどこで煙が出ているか解らないから水を全体に掛けてしまったのが良いのかどうなのか、そういう責任は問われないのだろうか。体育館にあったグランドピアノもダメになったようだ。

 妻は〝頭悪いんじゃないの〟というが、実際その現場にいたわけではないから、それに対してのコメントはできない。ただ、いろいろな動きの中で、人の経験というものも風化するし、人の少なくなった空間でどう適切な判断をしていくか、ということはこれからの地方の課題ともなると思っている。何度も言っているから「またか」ということになるが、地方と中央の格差は歴然としてきている。何より頭脳格差、知識格差である。世のなかがあまりにも早く動くからついていけない。そして人口も少ないから多用な情報を分散することもできない。地域空間が広いから、移動する時間も中央に比較すれば無駄だし、目も届かない。そんななかで限られた人たちが中央と同じ空間管理をしていくなんていうことは不可能に決まっている。加えてそんなことに時間をとられるから知識の差は開く。地方の町で頭の良い子どもたちは、みな地域には住まない。おおかたが外へ出て行く。当たり前のことで、そうした知識を、力を利用するような働きの場がない。わたしも含めてそうだが、頭の悪い人しか住まないんだから、さまざまな部分で多用な意見を出せないし、判断もできない。時間があっても〝生涯勉強〟なんていう意識で暮らす人は少ない。

 簡単に言わせてもらえば、戦後の歴史は、どんどん地方は頭が悪くなったということだ。もっとも心配なところは、頭が悪いから①騙される可能性が高まった、ということ。そして②本当にそれで良いのか、という踏みとどまるような意見が出なくなっていることだ。活力がない空間という言い方をすればよいのかもしれないが、これほど多様性を含んでいるのにもかかわらず、地方は多様性に柔軟に対応できていないのだ。そんな地域に、頭の良い中央の人が住み着けば、きっと暮らしやすくてしかたないかもしれない。本質的な問題を理解していない人たちによってかき乱されてしまうことによって、地方はさらなる退廃を続けて行ったらどうなるだろう。それだけが危惧するところだ。
コメント

夫婦別々の清算

2007-08-27 08:28:59 | ひとから学ぶ
 ある家電大手の売り場でのことだ。このあたりにはこうした店が一軒しかないから、大賑わいだ。平日に来るとさほど人もおらず、店員が目立つほどいるわけでもなく、それなりに店員の数も客数に見合っている。ところが、土日ともなると、駐車場がいっぱいで大勢の客だと言うのに、これまた店員の数も多く、客以上に目立ったりする。土日のこの店員はどこから溢れてくるのだろう、なんて思ってみる。平日にいないのだから、臨時にこのときだけやってくる派遣社員のような人たちなのだろう。土日だけ働こうとすれば、ずいぶんと仕事はあるのかもしれない、なんていうことを考えながら、レジに並ぶ。

 夫婦らしきわたしよりは年配と思われる二人連れが清算している。隣のレジにも一人の客が入っていて、どちらも〝同じ〟と思って間もなく清算の終わりそうな二人連れの後ろについた。清算が終わって、袋を手にした妻と思われる女性がレジから離れたから、次は自分かと思っていると、夫らしき男性が今度は清算だ。「???」どういうことだ、と思いながら様子をうかがうと、女性は何だろう、小さなものがレジ袋のなかにいくつか入っている。電池とか○○カードのような小物だ。男性が清算に出したものは、DVDメディアである。移り際に何か口にした。どうもお客様カードは共有しているようで、そのままカードを使ってくれと言っているようだ。もちろん清算が別だから、財布も別だ。妻の手にしたものは妻のもので、夫の手にしたものは夫のものか・・・などと考えて見る。財布が違うというところから考えればそういうことなのだろう。

 たとえば、別の領収書にしたい場合は、別清算なんていうこともあるがどうなんだろう。よくあるケースは、自営業の人は、こうしたレシートを有効利用する。わたしのようなサラリーマンには縁のない世界が、そんなところにあって、家庭で利用するようなものまでやたらと領収書を請求する人がいる。こんなときに思うのは、サラリーマンとは真面目な職業だ、嘘はつけない、なんて納得してしまう。わざわざ夫婦が別の清算をするなんていうことはそう考えて見れば不思議なことではないのだが、果たしてその真意は如何に・・・といったところだ。もう少し考えて見れば、ひとつの財布からでも別清算、いわゆる領収書を別に依頼することは可能だ。わざわざ別の財布から金を出す必要もない。では、わざわざ別に清算するとは、〝夫婦ではないのか〟などとまた考えてしまうが、これが現代の夫婦なのかもしれない。わが家のようにすべて〝かあちゅん〟に財布を握られている場合は、目的のお金だけをポケットに突っ込んで行き、清算時に〝ころっ〟と銭を出す。でもそんな人はそんなにはいないか・・・。
コメント

三色シャープペン

2007-08-26 10:34:31 | つぶやき
 筆記具にこだわることは以前にも触れた。仕事で利用している筆記具は、すべて自前のものばかりだ。かつてと異なり、仕事で筆記具を利用するのは、メモをとるる時ぐらいだ。今やPC上で文字が走るから、指先に神経を利かせて力を込めるなんていう日々はなくなった。そんな暮らしをしているのは子どもたちくらいだろう。PC上の場合は、間違えてもBSを、あるいはDELを押せば修正は簡単だ。〝消しゴム〟という道具を使って、そこから排出される残骸を気にしながら修正する必要はない。プラスチックゴミを出さないだけ、環境に優しいのか、はたまた電気を使っているからどうなのか、そんなレベルのことだ。指先に神経を使い、自らが描く文字の姿は、気になればなるほどに「字をきれいに書こう」という意識を生んだものだ。しかし、PC上で生まれる文字に人それぞれの変化はない。文字と言う形の表現はないのだ。「これは○○さんの字だ」などと古の人を思い出すこともない。

 さて、メモ程度ということで、もっぱら使われるのはシャープペンになる。研修などになると、マーカーを利用する人が多いが、あまりマーカー世代ではないため、持ち合わせていても利用しないタイプだ。なにより書き入れるタイプなのだ。いや、違うかもしれない。昔風に何も書き入れずに、教科書は〝美しく〟派かもしれない(それってただ勉強しなかったタイプ、というのが正しいかもしれない)。このシャープペンで最近多様しているのが、三色シャープだ。文字のごとく三つの色鉛筆ということになる。当たり前の黒はごく普通のシャープ、そして赤と青の二色を加える。ボールペンにくらべれば構造が複雑だから三本もまとめると太めになりがちなのだろうが、たまたま訪れた文房具店で見つけたこのシャープペン、それほど太くもなく持ちやすい。頻繁に利用する黒は、普通のシャープの芯と同じものを使うから問題はないが、赤や青の芯は汎用性がないためか、あまり性能はよくない。とくにいけないのは赤で、頻繁に折れるし詰まる。0.5mmという細い芯で色モノを作るというのも簡単なものではないのだろう。そこにいくと、青色はけっこう使える。折れるには折れるが、赤に比較すればずいぶんと使いやすい。このシャープペン、三菱のユニという商品なのだが、赤色はともかくとして〝使える〟と思ったのでもう一本欲しいと思ってその後同じ文房具店を訪れると、既に製造中止となっているようで、手に入れることはできなかった。芯そのものは普通のシャープペンに入れれば使えるとあってまだ売られているし、他の色もある。加えてほかのメーカーでも作っているようだ。いずれにしても複数のシャープを一本で使えるものを探したが、芯の太さが複数セットできるという、これもまたマニャックな製品が売られていたが、そういうものはわたしには必要ない。ということで複数色シャープペンをそれ以降探している。
コメント

道端の駆け引き

2007-08-25 08:36:26 | ひとから学ぶ
 駅への道において、屋敷周りにお年寄がいて挨拶を交わすことはよくある。それは以前にも触れたことだが、いっぼうで、わたしの姿を見ると物陰へ消える人もいる。おおむね年寄りは人が接近していることに気がつくのが遅いのだが、若くなるにつれて気がつくのが早くなるから、接近する間を想定して姿を消すのだ。その気持ちはなんとなく解るもので、わたしも自宅の周辺で草取りをしていて、見知らぬ人が接近してきたら、あまり顔を合わせたくないと思うこともある。そんな意識になりがちなのは女性よりも無愛想な男性の方が多いと思うが、このごろは女性でも気がつくと目を合わせないようにする人も多い。きっとそんな遭遇のあと、気まずく思う人となんとも思わない人がいるたろう。この差が人間性に大きく出る場合もあることは認識しておく必要がある。

 世の中〝めんどうくさい〟という意識がそのままそんなところに表れるようになった。挨拶をしないのは、単に〝めんどうくさい〟からしない、という人は少なくないはずだ。遠めに人の姿が確認できたら姿を消す、そんな行動は自然と身についてしまい、自然と時の流れに任せながら振る舞うことも意識的なものが加わってなかなかできなくなっている。ただ、その場へ進んでいく者としては、目を合わせないように、とか、姿を消すというものが意識的だと解ると、気持ちの良いものではない。「この人はいつも目をそらす人だ」と思えば、こちらも敬遠してしまいがちだ。それでも毎日通る道なのだから、とこちらもかなり近くになれば目をそらしていても、「おはようございます」と挨拶はする。その結果返答がなくとも、あまり強く意識しないことだ。「きっと気がつかなかったのだ」と思えればそれでよいのだ。それを過剰にこちらも意識すると、まず二度と挨拶をすることはない。

 田舎だからそんなことを思うのだが、マチ場に行けば考えは違う。人の波の中ではそんな意識を持つ必要もないし、人通りの少ない路地に入っても、基本的には田舎の雰囲気とは違う。さて、自宅にいるような停止している人に接近していく場合はそんなやり取りとなるが、どちらも移動していて、道端で会う場合には、また違った意識も生まれる。とくにわたしのように目の悪い者にとっては、遠いと誰だかはっきりしないものだ。目の悪い人は、じっと人の顔を見ていたりして、それでいちゃもんを付けられるなんていうことも珍しいことではない。ようは見えないから、人の顔を注視してしまうのだ。それを〝ガンをつけた〟などと言われるのが嫌なら、なるべく注視しないというのがよい。ところが逆に知人となれば話が違う。知人なのに見えない振りをして目を背けていたら嫌われることは必然だ。このあたりが目の悪い人の損な部分だ。適正に良く見える眼鏡なりコンタクトでもしていれば別だが、あまり見えない状態で世の中を歩くと言うことは、さまざまな問題を引き起こすわけだ。ということで、目の悪い人に限って、注視するか目を背けるかの極端な動きになりがちだ。目の良い人にはなかなかわからない駆け引きである。

 このごろは総近視時代であるから、かつてに比較するとそんな気分を誰でも味わっているかもしれない。両極端になりがちだとすれば、世の中に目を背けたくなる人が増えるのも納得できる。
コメント

斬首の刑

2007-08-24 08:29:57 | ひとから学ぶ
 秋風ではないが、涼しさがやってきた。やはりある程度雨が降るようになると、暑さは控えめになる。人それぞれなんだろうが、暑さと寒さ、暖かさと冷たさの境目のようなものを感じ取るものだ。衣替えというものもそんな境目を感じさせる言葉なんだろうが、現実的に例えば長袖にしたくなった、とか、半袖を着たくなったと思う時期というものがあるのだろう。必ずしもそれは皆同じ時にやってくるわけではないが、そう思わせる空気とでもいうか気温というものがあるはずだ。衣服の場合は、1日の中で温度が変化するから、半袖でいても長袖にしたいと思うこともある。そして上着で補完することもできる。気温は変化が激しいとともに、日当たりのある場所とない場所とでも異なるから、その対応がまちまちとなる。

 明確に衣類の判断をできるほどわたしの体は敏感ではない。こんな具合に迷いながら季節は推移していくのだろうが、日ごろの生活の中で、水とお湯の使い分けをはっきりと意識することがある。朝起きて洗面所で自らの顔と対面する人がほとんどだと思う。このときそのまま整髪もせずに1日を過ごせる人は少ないだろう。ボサボサ状態になっている人の方が多いはずだ。わたしも後者である。乾ききった髪の毛を文明の利器で整髪するのには手間が掛かる。すばやく整髪するには、けっきょく水の中にいったん頭だけを突っ込むことになる。洗面台に頭だけを投げだし、蛇口を開ける。真夏でもトイレがひんやりしているように、洗面器の中というものはひんやりした空間だ。そこにいったん差し出された頭は、まるで斬首の刑に伏するような趣があるのだが、ただでさえそんな雰囲気のある空間で蛇口を開くと、そこに差し出された生首はふだんとは異なり、かなり敏感になっている。だから一瞬の水との遭遇は冷たいと思うことが常だ。ところが、真夏の暑さなら、その冷やりとした空気は、けして〝つめたい〟という一瞬ではなく、眠気をはじけさせてくれる快感のようなものもあるのだ。この感覚は、そう長く続くことはなく、秋風が吹くころには、既に快感は消え、とてつもなく冷たさを感じることになる。こんな場面で、何が欲しいかといえば、お湯なのである。こう思うのも経験のなせるものであって、蛇口を捻っても水しか出なかった時代には思いも寄らなかったことだ。もちろん、蛇口を捻れば水が出る、なんていう歴史もそう古いことではない。くらしの中での経験と言うものも、かつての人では経験できないようなものを、わたしたちは日々体感しながら、文明と言うものに左右されているわけだ。あらためてそういう意識を持ちながら暮らしている人は少ないだろうが、日々の小さな動きや感じ方が、すべて今だから味あうものだと認識してみるのも必要だろう。
コメント

久しぶりのイライラ

2007-08-23 08:28:48 | ひとから学ぶ
 久しぶりに車に燃料を入れた。5月の末以来だから3ケ月ぶりぐらいになる。からっけつになったから給油したわけではない。まだ半分を下ったところだが、あまりにも乗らなくなったから、一度に1万円近く取られても大変だからと思って入れたわけだ。巷でガソリン価格高騰が叫ばれているから、とんでもなく高くなったかといえば、前回に比較して9円高である。同じ給油所で入れたからその差が実情なのだろう。飯田市下伊那ではレギュラーですら156円くらいする。そう思えばハイオクで同じ値段なのだから隣接する上伊那はまだ安い方なのか・・・。

 ということで、5月以来1日に60キロ以上走るのは久しぶりだった。それもどこまで行ったかといえば伊那市までのことで、ふだんの通勤と変わらない距離だ。かつて1ヶ月に2千キロは乗っていた者にしてみれば、ずいぶんな変化だ。毎日電車に乗っていると、ちっとも車に乗ろうという気がしてこなくなるから不思議だ。

 この3ケ月、自家用車に乗るのは山の方へ向かうときと、何度か飯田市に向かったことくらいだ。どの道のりも信号機が少ない。だからそれほど意識したことではないのだが、伊那市へ向かうとその信号機の多さは際立つ。わが家から飯田市へ向かう場合、市内まで通常使っているルートだと信号機は6個である。それも半分の信号機は滅多に赤にならない。ところが、伊那市へ向かうとどうだろう。ちょっと数え切れないほどある上に、どれもこれも「またか」と思うほど赤になる。うんざりしてくるのはわたしだけではないだろう。そんなうんざりさせられる気分になり、あらためて車の通勤を辞めたのは正しいと思ったりする。久しぶりの伊那への過程でも、思うところは多い。

 カーブにさしかかれば対向車はかなりセンターを走ってくる。そんな車は1台や2台ではない。見通しの良い少しばかりのカーブでも避けることはない。おそらくその運転が相手にとっては常識なんだろう。左に寄れない運転手が多いこと・・・。

 用事があって行くのだからおおよその目安というものもある。ところが今に始まったことではないが、遅い車が点在する。後ろにスピード狂の車がついたかと思うと、前にはのろのろの車。前の車のペースが解るから、無理に車間を詰めない。ところが後続はしっかりと詰めてきて「速く行け」といわんばかり。このアンバランスは、間に挟まれた者には気になって仕方ない。無意識のうちに、前の車を自ら煽りだす。土日といえば、急がない車が多いから、なかなかペースは上がらない。せっかちな者にとっては、車は向かないということがよく解る。近そうで遠い伊那市の存在もよく解った。それにしても世の中に車が多すぎると思うがどうだろう。一軒に1台とか規制する、なんていうことは自動車産業でカバーしているこの国の現状からして「無理」か。
コメント

再び合併へ

2007-08-22 08:29:43 | ひとから学ぶ
 知人は〝長野県市町村合併審議会「市町村長アンケート結果」〟と題してこのアンケートに対する下伊那郡内の市町村長の意向について触れている。一覧が記載されているので転載させていただく。

【アンケート内容】
①今後の行財政運営(△=やや不安、×=強く不安)
②合併の必要性(○=必要、△=未定、×=不要)
③合併を目指す時期
【飯田下伊那15市町村の回答】
飯田市  ①△ ②△
松川町  ①△ ②△
高森町  ①× ②△
阿南町  ①△ ②×
阿智村  ①△ ②△
清内路村 ①× ②○ ③3年以内
平谷村  ①× ②○ ③10年以内程度
根羽村  ①× ②△
下條村  ①△ ②△
売木村  ①△ ②○ ③未定
天龍村  ①× ②○ ③10年以内程度
泰阜村  ①△ ②△
喬木村  ①△ ②△
豊丘村  ①△ ②○ ③10年以内程度
大鹿村  ①△ ②○ ③10年以内程度

こんな具合である。清内路村はこのごろ合併前提の話を阿智村に投げかけているようだから、いずれそうなるのだろうが、この中で合併不要と答えているのは阿南町だけである。平成合併でみんなが駆け込みに走っていたころはどうだったのだろう、と考えると必ずしもその時代の回答はこの結果とは異なっていただろう。未定と答える人は、そうした怪しい解答を出すことで、いろいろ言われるのが嫌だという人も中にはいるのだろう。つい先ごろ合併終了したばかりなのに、すぐに次を考えて色目を使うのははばかるという向きの人もいるかもしれない。合併不要と答えていた高森町も、町長が変わればこんなものだ。いかにリーダーの意向によって左右されてしまうかということで、いずれ合併するのなら、自立を選択したのは何だったのかということになる。おそらく、自立という選択もそう言ってしまっているだけで、実は住民だって自立を選択したわけではなく、「まだ早い」という気持ちの人だっていたはずだ。ところが合併反対=自立みたいな風潮が、とくに長野県では強かったのではないだろうか。そういうことを口にする知事がいたことも要因の一つかもしれない。

 知人は大鹿村と松川町の合併協議に触れ、結局大鹿村に反対者が多くて松川町の住民に問うまでもなくお流れになったのに、大鹿村は自立ではなくまだ合併の気持ち強しというところに不信感を持っている。これもまた当時とリーダーか異なる。当時はリーダーが自立を主張したわけではないのだが、住民が選択したことだから当面は自立でがんばるという印象が強かった。にもかかわらずである。ところで知人も触れているが、「日本で最も美しい村」というコンセプトで九つの村が参加している。そこの主旨に次のように書かれている。


******この連合は、素晴らしい地域資源を持ちながら過疎にある美しい町や村が、「日本で最も美しい村」連合を宣言することで自らの地域に誇りを持ち、将来にわたって美しい地域づくりを行うこと、住民によるまちづくり活動を展開することで地域の活性化を図り、地域の自立を推進すること、また、生活の営みにより作られてきた景観や環境を守り、これらを活用することで観光的付加価値を高め、地域の資源の保護と地域経済の発展に寄与することを目的としています。*******


ここに参加している地域は、やはり自立が前提ではないのか、と捉えられるが違うのだろうか。まあ参加している地域をみたとき、白川村があるあたりからうさんくささを感じてしまう。観光客が満員で、加えてアンバランスな光景は、美しいという印象を持てない。それぞれの地域がどうこの連合を捉えているのかそれぞれなのだろうが、そんな典型的な白川村の存在だ。加えてすでに合併している開田村が、木曽町開田高原といって参加しているあたりから、主旨とはずれていることがよくわかる。

 もう一度アンケートに戻ろう。かつて飯田市と合併したいといっていた平谷村。その間の阿智村と浪合村が合併して、飯田市に対しては飛び地状態だ。売木村や天龍村に至っては、阿南町が合併不要と言っていたら、結局どこと合併するの?みたいな位置だ。こうしてその地域の実情なりを背景に考えてゆけば、地域のリーダーたる立場にいる市がいかに旗を振るのかということになるのだろう。同じようなことが県に対してもいえるわけで、村井知事の人任せな言動は、知人も言うように財政難の地域に対してどう対処しようとするのだろう。県に金があるのならともかく、そうではない。だからこそ曖昧な立場に終始するのかもしれないが、長野県のように小村がいくつもあるところでは、住民の意向ばかり聞いていても将来は見えない。自治のプロとして示すべきものがあるのではないだろうか。こうした状況を考えれば、この地域はすべて一つへ向けてという流れも出てくるだろう。しかし、そうした誘導に走るリーダーはいない。個人的には飯田市とは仲間になりたくないわたしだから、このまま優柔不断なまま進んでもらって一向に構わないのだが、地域の先々を考えれば、そんな検討をするべきではないのだろうか。でなければ、根羽村、天竜村、売木村、加えて平谷村は越県合併しかない。
コメント

夫婦って?

2007-08-21 08:27:36 | ひとから学ぶ
 中日新聞を眺めていると、なんともいえない記事が曜日ごとに特集されていて笑ってしまうことも多い。以前触れた火曜日の亡き人への言葉もそうだが、翌日の水曜日には生活面に「つれあいにモノ申す」という投稿が掲載される。毎回6編ほどの短文の投稿記事が紹介されるのだが、8/8付けの新聞に掲載されたものから、ちょっと考えてみたい。

①お父さーんと呼べば…
 夫と久しぶりにデパートへ行ったというのに、自分一人でどんどん歩いていってしまう。「お父さーん」と大声で呼ぶと、走ってきた赤いふくれっ面した夫に「バカヤロー、周りの人に夫婦と思われるじゃーないか!」と怒られた。「エッ、私ってアンタの何なのサ!!」と、大声で叫んでやりたい私の胸の内。(管理事務 59歳)
②♪あなたのせいよ
 胸が締め付けられ苦しいので、「救急で病院に行く」と言ったら、「連れて行くから、この大河ドラマが終わるのを待て」とおっしゃったあなた。病院に運んでくれたのはいいけれど、待合室では高いびき。ほかの患者さんからは白い目で見られるし…。もしかして、(病気の)原因はあ・な・た?(会社員 54歳)
③一枚ならぬ四枚上手
 「今夜は焼きそばがいい」と言われた。ハムを使って作ったら、「何でこんなもったいない使い方するんだ!」と夫。スライスハムをくっついたまま、一パック(四枚)使ったのが気に障ったらしい。めったにハムを使ったことがない(子どもには出すけど)ので、喜んでくれると思ったのに。そんなことでしかられるのは心外。でも、それ四パック三百九十八円だし、賞味期限が昨日で切れてるのよ。(希望の肉 33歳)

とまあ、こんな感じの文が綴られている。「つれあいにモノ申す」だから妻でも夫でもどちらでもよいはずなのに、いつも妻の言葉が多い。夫は忙しくてこんなくだないことに時間を掛けられないのか、はたまたこんな視点でモノが見られないのか・・・。日常の暮らしに多様な視点を持てるのは女か男か定かではないが、やはり忙しさでなかなか変化のあるモノの見方ができなくなるのは、男も女も同じだろう。この日の記事に唯一夫が投稿しているものがあるが、自ら妻に問うものの、逆に「そういう意味なんだ」という答えを妻からもらって自分で納得してしまっている。ところが紹介した三つの例は、夫に文句を言いたいものの夫から言葉として答えはもらっていない。夫婦間でどちらかというと夫強しという従来の関係がそこに生きていたとしたら、妻は文句を言いたくとも、自ら答えを出すことに専念してきただろう。ようは言葉で示すよりは態度で示す、という内向的な解決策を女は経験してきたのだ。そこへいくと男は外交的な立場が多いから、文句があればすぐに相手に言葉で返しがちだ。時代は変わり、必ずしも男が夫婦間で強いというものではなくなったが、こうした意識を変えられないのも男であって、だからこそ、今は言葉ではなく暴力という、やはり男の方が力がある、という先天的な刀を振ることになってしまうのだ。致し方なし、といったところだが、それも変化する過程の1コマであって、これからその関係はどう変わり続けるのかが楽しみではある。

 さて、投稿された記事を読んでいると納得してしまうことが多い。こんな関係今でもあるの?という人も多いかも知しれないし、自分には該当しそうもないこともある。しかし、納得できるということは、自分にも似たような経験があるということになるのかもしれない。年配の方が夫婦で買い物に行くという姿をこのごろよくみる。デパートなんていうところにはわたしは行かないからわからないが、田舎でも老夫婦が日常の買い物に出かける姿をよく見る。むしろ若い夫婦より時間を共にすことが多いということもあって、より一層共に出かけるという形になるのだろう。その一つの要因に、老夫婦であっても妻は免許を持っていないというケースが多い。だから買い物の運転手に夫がなっているということも考えられるだろう。これは一時の時代だけであって、いずれ総ドライバー時代の夫婦が老いてきた時は、必ずしもそういう図式は成り立たなくなる。こうした「夫婦で出かける」という〝かたち〟のことはともかくとして、「お父さーん」と大声で呼ばれるのは年老いてくるほどに嫌なものかもしれない。そうは言っても「夫婦と思われるじゃないか」という夫の言葉はどう捉えればよいのだ、と考えてしまう。夫婦で外出しているということそのものが、この男性にとっては許せないのかもしれない。ようは家を出たら夫婦は友達なのだ。でもこの気持ち、わたしにはなんとなく解るから笑ってしまったのだ。

 ②の事例なんかはわたしには絶対ない世界だが、ここからも解るように男ってこんなところが絶対あるね!というホンネの部分のように思うのだが、反論はあるだろうか。
コメント

空の変化

2007-08-20 08:28:39 | 自然から学ぶ
 ろくに動かないから、身近な空間で楽しんでいる。どう楽しむかといえば、その変化を捉えながら、何がどう違うのか、などということを考えながら暮らす。それでも充分楽しいものである。今年はこの暑さの中、雨が降らないからか草がそれほど生えてこない。いや、生えてはいるのだが、一度抜き去った地面に、次の草があまり生えてこないのだ。生えてくるものとえば、乾ききった硬い地面にも生えるオヒシバなどの類だけだ。雨が降らないとありがたいこともあるのだ。ところが、いっぽうでシバザクラが枯れてくる。これは明らかに水不足だ。乾いたところでもけして弱ることのない花なのに、一定の暑さと渇きを越えると急に枯れてしまう。土の上ならよいが、少し石の上などに掛かっていると、まずいけない。加えて今年よく解ったのは、剪定したイチイの葉が上に覆いかぶさっていると、その下のシバザクラは枯れるのである。ようはイチイの葉は刈ると見事に茶色く枯れる。ということは乾燥度が激しく、その下にあるから日陰になるものの、渇きの方が激しくてその渇きで水分を吸い取られてしまうのだろう。イチイの葉は、乾燥させるためにはもってこいの道具となるのだ。

 以前にも綴ったが、わが家にはミミズがたくさんいる。ミミズがたくさんいるということはモグラもやってくる。イチイの根本といわずあちこちモグラによって盛り上がりが目立つ。モグラが通ると中が空洞になるから、ますます乾燥する。そういうこともあって、シバザクラが枯れていくようだ。つまるところ、モグラがいなければすべてが丸く納まる。妻は昔モグラ除けの振動する器具をいくつも買ってきて埋め立てたが、電池がたくさん必要なのと、その電池がすぐになくなってしまうことで、そのうちに埋め立てまま忘れ去られた。いや、それ以前にそんなものがあってもモグラはへとも思わない。なんとかよその土地に行ってほしいのだが、除草剤を撒きまくる畑にミミズは少ない。

 もう10年もこの地に暮らしているが、まだまだ身の回りの一年が解っていない。加えて毎年同じ顔を見せない。

 さて、8/17も暑い1日だった。夕立が欲しいのにやって来ない。そんな山の姿を見ていたら、この日の山の表情は1年に何度もないほどの多用な顔を見せた。さて、そんなストーリーを紹介しておく。まず①は午後6:07、これはわが家より少し北に離れたところで撮影したから、あとの3枚とはちょっと場所がずれる。太陽が沈む頃の雲の姿だ。②それから約30分後の午後6:39の烏帽子岳を背景にしたものだ。雲は少し場所変えて散り始めたが、見事に焼け始めた。③もっとも赤く染まった時である。午後6:45。④ところがそれから3分後、すでに焼けた空は消え去り、残照を残しているだけだ。午後6:48である。これほど大きく変化していくから山の姿は楽しいのだ。後の3枚はすべてわが家からのものである。











コメント

土地改良という悪者

2007-08-19 10:05:43 | 歴史から学ぶ
 先ごろ民主党の農業政策に関連して土地改良事業に触れた。その際このことについてはまた後日記述すると言った。そこで簡単にここで触れておくことにする。ここで紹介するのは、やはり以前に円筒分水工のことで触れた西天竜用水路である。地域では「にしてん」と言われて親しまれているこの水路は、大正11年から工事が始まり、昭和3年に完成した。全長で26キロほどあるこの水路は、かつては桑園や山であった地域を水田地帯に変えたのである。主に中央自動車道に併走している水路で、この水路より西側、いわゆる標高の高いところは畑作が主体の地域になっているから、より一層この水路の上下での土地利用の違いがわかる。目に見える部分はこの中央道に併走していて開渠となっているが、実は全長のうち約半分はトンネルや暗渠となっている。素人でもわかると思うが、開渠よりは暗渠の方が工事費は高い。大正時代から昭和初期に造られたということで、それを現在のお金に換算すると土地代だけでも何億とかかっているようだ。すでに90年ほど経過しており、もちろん当初の施設のままではなく、大半は改修や補修がされてきた。おおざっぱな話として、今、この施設をすべて造り変えるとしたら、200億近くかかるのかもしれない。加えて、この施設を造成することで開田された広大な農地に、この幹線水路から支線の水路が約280キロほど枝状に流れ出ている。そうした水路も作り変えるとなると、やはり総額200億は下らないのではないだろうか。この水路の恩恵を受けている水田が、1180ヘクタールという。コンクリートの水路と言っても、耐用年数はさまざまなのだろうが、一般的に言われる40年で計算すると、1へクタールあたり年間約42万4千円が用水路費用にかかることになる。これを国の補助金、いわゆる公共事業というやつで整備したとしても、農水省の公共事業に100%税金で賄われるものはない。ようはこうした水路を利用している専門的な言葉で言えば「受益者」といわれる人たちが負担する分があるのだ。25%受益者が負担するとなれば、1ヘクタールあたり10万6千円が年額となる。実はこうした負担額も、実際は自治体が負担したりしてできるかぎり受益者には負担が少なくなるような策が講じられてきたが、今や自治体不振のなかで、ますます受益者は厳しい状況になりつつある。75%も国や県が出しているんたから当たり前じゃないか、と言われてしまうとどうにもならないが、河川や道路といった国土交通省の担当している分野とは明らかに立場が違う。

 これまで触れたのは施設建設費だけである。これだけ大きな施設ともなれば管理費に要す金額も大きい。それは毎年受益者が実際に負担してきている。そこまでしてこの衰退させられた農業者が払い続けられるかどうかが、これからの課題だろう。それならそんな施設辞めてしまえば、という意見もあるかもしれないが、この1000ヘクタール以上の広大な土地も、そのまま利用価値のないものとなる。もちろん利用価値がないというのも言い過ぎかもしれないが、食料自給率の現状などから考えれば、いかに農業の現状から将来が見えてきているかが解るはずだ。どこそのこうした幹線水路で、改修するにあたり、自然と調和した水路にしろというような話がよく出る。西天竜用水路に関していえば、水路のすぐ脇にフェンスが立ち、その上には乗り越え防止のために、釘のように尖った鉄がむき出している。なんとも味気なく、調和しない姿だと言わないのがこの地域の人々の良いところで、あくまでも農業をするためのかんがい水路なのだ。水路のすぐ脇にフェンスがあり、その外は管理道路となっているから、草が生えるようなスペースがとても少ない。だからこそ管理する手間がまだまだ少ないといえる。昭和50年代という、今のような環境を一斉に口ずさむような時代ではなかったときに多くを改修したことから、このような頑固な施設が誕生したともいえる。河川とは違うこの施設独特な目的があるのだから、この空間分けはけして責められるものでもない。

 時代は環境という名を掲げれば、それに勝るものはないほど人々は伏してしまう。だからといってこうした幹線水路にさえ受益者の負担を被せている現状で、そして農業を馬鹿にしてきた人々に、農業環境を背景としている部分に『環境』という名で圧力を加えないで欲しいものである。サンデープロジェクトは、参院選といえばこの名を冠した団体の集票を取り上げて、悪者にしてきた。必ずしも政策に振り回されたこうした人々が無駄なカネを使わなかったとはいわないが、こうした施設そのものに残された本質的な問題には触れられていない。
コメント

やたらに詳しい〝少年〟

2007-08-18 11:07:24 | ひとから学ぶ
 マニャックな子どもを久しぶりに見た。伊那田島の駅に着くと、すぐ脇を通っている広い道のことを指して〝農免〟という。この言葉そのものが既に風化してきている。それはここ10年ほどはこの名の道が新たに造られるということもないからだ。大人でもこの言葉を知らない人が多い。その言葉を小学生の口から聞くのだから意外なのだ。そしてその道が農免であると認識している人は、沿線の人や関係者くらいしか知らない。まして通行量の多い道なら理解できるが、この道路を通行する人は限られる。いわゆる「こんな道必要だったの」みたいな道だ。

 しばらく北へ進むと、今度はあの道が〝広域農道〟と母と話している。実はマニャックナ少年なのだが、ちょっとそこは違う。正確には〝主要地方道飯島飯田線〟である。伊那南部から北部までをつなぐ今や動脈となった広域農道につながっているから、意識しないと広域農道と間違える人もいるが、正確にはこの広域農道は飯島町七久保の柏木交差点でエンドであり、それより南は国道153号線の与田切橋南からやってくる前述の道となる。

 まあ、そのくらいはちょっとした意識というか認識の違い程度のことである。それすら解らない人も大勢いる。そして田切駅を迎えると〝急カーブ〟のあることを知っている。そしてその手前に作られた駅。「こんなところに無理やり造った駅」という少年の言葉は事実だ。かつて急カーブにあった駅を、安全のために移動した。普通ならこんなところに駅は造らない。的を得ている観察力だ。そしてその駅を過ぎると、中田切の谷に線路は降りていく。アールを描いて迂回する飯田線は、こんなアールのある場所がマニアの撮影ポイントだ。中田切川南側の水田地帯にアールを描く飯田線は、背景の中央アルプスをモチーフに、電車が描かれることが多い。そんなスポットもちゃっんと認識していて、「ここって撮影ポイント」と説明する。

 とまあ、それ以後ずっと飯田線を説明してくれる。昔はそんなマニャックな子どもたちがけっこう身のまわりにたくさんいたように記憶する。そういうわたしは何が得意だっただろう。友達と車の姿を見て、咄嗟にその車名が解れば自慢だった。当時は今ほど車の種類がたくさんあったかどうか、だから車名だけではない、そのグレードとか排気量なんかを確実に言うのが正解だった。少し経過して中学くらいになってもそんなマニャックな世界はけっこうあったものだ。今や○○病院の○○医長になっている当事の友人は、異様に伊那谷の山城に詳しかった。それほどマニャックなやつだから勉強もできてしっかりとした目標にそのままだとりついた。子どもたちにとっては何でもよいのだ、そんな得意なものがあれば・・・。
コメント

駅の雑草

2007-08-17 08:24:59 | つぶやき
 ふだん使う駅を盆ということもあって、少し眺めてみる。別に盆だからといって眺めることもないが、このところゆっくりと時間を流すことに専念したくなる。なぜかといえば仕事に追われているから、わずかな時間ではあるが、行き来する空間で何かを求めるくらいしか余裕がないということだ。残念なことだが、それが現実だし、その中で自分の空間や時間を楽しもうとすればそういうことになる。

 ということで、駅の雰囲気を感じ取ろうとする。駅といってもかつては何両も編成していて、その列車が停まるだけのホームが求められたから、けっこう長い。そういえばかつて4両編成の列車が来ると、時おりホームから列車が飛び出てしまい、移動しないと降りれないなんてういうこともあった。ところが今や2両が普通。時に3両編成のものもあるが、大方は2両だけである。ホームの端っぽの方で待っていると見事に振られることもある。そんな今では長すぎるようになったホームだから、その脇のあきスペースもそこそこある。そんなスペースに草丈の長くなった藪が見える。このまま誰も相手にしなければ、田舎の誰も見向きもしない道路の脇と変わらない。駅の周りの掃除といえば、その地域の学生が行うケースが多い。小学生であったり中学生であったり、高校生であったりする。人手が必要だから、そうした子どもたちのボランティアというものが不可欠になってくる。身のまわりで人のスペースに手を出すような時代ではなくなったから、問題のない子どもたちが手を出すのが最も問題とならない、という見方もある。しかしである。そういう認識で、もしこの雑草を見ていたら残念なことだ。実はわたしもそう思ってしまったからいけないが、よく考えてみれば大人がしなくなったことを子どもたちに求めるのもおかしなものだ。それでもって「そんなもの子どもにやらせろ」などと言っていたら、子どもたちも間違えた認識をしてしまう。そういうことを何度も繰り返してきたから「こんな世の中」になってしまった。

 駅を多用する集団、あるいは多用する人たちがなんとかするのが役割だと言われてしまえばそれまでだが、そんなことを思いながら、時間があれば自ら実践するべきなのだろう、という答えが見つかってしまった。翌日あらためてホームを見てみるが、やはり広大だからこれをすべてなんとかするなんて不可能だ。ということで、近くの踏み切りの警報機がなり始めてから腰を下ろし、20本ほどの草を引っこ抜いた。これでも毎日やっていったら、少しは減りそう。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****