Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現世を笑い飛ばす

2007-06-30 09:27:18 | 歴史から学ぶ


 辰野町神戸(ごうど)といえば、国道153号を北上すると警察の検問所が置かれているところだ。かつてはネズミ捕りなどといわれる、いわゆるスピード違反をする車を捕まえる行為が盛んに行われていた場所である。スピード違反でこの場所に誘導されたことはないが、検問には何度か遭遇した。だいたいが夜間の検問であったが、酔っ払い運転の検問ではない。そんな検問もとんと見なくなった。世の中平和でまずまずというところだろうか。この神戸を通過すると、右手は飯田線が走り、すぐに天竜川、左手は段丘で山になっていて、ここまで展開されていた伊那谷の風景もいよいよ終わりに近づくという印象を持つ。

 左手は段丘ですぐに山に続くと思うとそうではなく、段丘上に少しではあるが耕地が広がる。そして集落もある。そこからさらに山つけを奥に入ると、向袋という集落がある。農免道路というやつが走っていて、かつて松本の職場に勤めた際には頻繁に利用した道である。すでに30年近く前からある道で、国道153号が渋滞していると、この道へ迂回する人も多かった。それほど広い道ではないのだが、天竜川から山際までの限られた空間に、国道しか走っていない場所だけに、利用者は多かった。今もそこそこの利用者がいるのだろう。この集落の裏手に細い農道が走っていて、屋敷の裏手に何体かの石碑が建っている。先日初めてその道を通ってこの石碑に気がついた。今では前述の農免道路が表道のように感じるが、かつてはこの裏手の細い路地が集落から神戸、そして新町の方へ抜けていく道だったのかもしれない。

 木漏れ日がさして一体のお地蔵さんが目立っていた。首を補修されてかろうじて姿を維持しているが、顔には自信が漂う。お地蔵さんはこうでなくてはいけない。どんなに傷つこうが、穏やかに世の中を見ていなくては、仏様として現世を語れない。背後に青面金剛が建っていて、いかにもお地蔵さんに六臂で襲いかかりそうな顔をしていたが、そんなことはお構いなしの自信である。アンバランスさから、胴と頭部が同一なのかと一瞬考えてもみるが、そんなことはどうでもよいのだ。裏手の路地で、密かに現世を笑っているのだ。
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お役所とのやり取りから

2007-06-29 08:29:22 | ひとから学ぶ
 別の日記でも触れたのだが、息子が高校入学を前に入院したり、手術をしたりして医療費が嵩んだこともあって、高額医療費の申請をしようと役場へ問い合わせをした(実は高額医療費の申請が目的だったわけではなく、中学生までは医療費を町で負担してくれると聞いていて申請したところ、支払ってももらえなかったので問い合わせた、というのが事実だ)。そこで社会保険事務所に問い合わせてたところ、申請に応じてくれたわけだが、そこで「住所が現住所と違います」と言われたのだ。わたしの場合、今までに住所を変えたのは2回、結婚してしばらく住んだ公営住宅に移したときと、自宅を建てて現在の住所に移転したものだ。そして、ずっと同じ会社に勤めているから、それほど複雑な動きはしていない。

 会社に問い合わせると、社員から住所変更届けが提出されると会社側で社会保険事務所へ住所変更の手続きを行っているという。したがって①そのときの会社の担当者が忘れた、②会社は手続きを行ったが社会保険事務所が手続きを忘れた、③忘れたわけではなく手続き中に書類をが消えた、④すべての手続は行われたが社会保険事務所内でのデータ書き換えなどの作業時に旧住所のまま登録された、などさまざまな原因は考えられる。社会保険事務所から住所変更に伴う申請の書類が送られてきたから、どうも本当に住所が違っているようだ。住所が変更されていない、というから妻は前は住所を記載して現住所への変更手続きとして書類を作成したが、本当のところ、前住所が結婚後にしばらく暮らした住所かどうか確認したかはわからない。もしかしたらその前の住所だったかもしれないし、もっといえばわたしの知らないどこかの住所が記載されているかもしれない。疑い始めると奥は深い。とき、年金問題で社会保険庁の不祥事が湧き上がっている。疑うのも無理のないことだ。

 社会保険事務所から手続きの書類は送られてきたが、結局会社の押印が必要ということで、書類は一度会社に送られることになる。直接会社に手続きをとってもらえばよかったことであるが、会社の担当者にしてみれば、こんなことはよくあることなのかもしれない。しばらくして、役場から電話がかかってきて、「先日の保険のことはどうなりましたか」と親切に連絡をくれた。事情を説明したようだが、するとこんなことをいう。「国民健康保険になっていますが…」と。…???どういうこと…。、先にも述べたように、わたしは就職して以来ずっと社会保険である。なぜ国民健康保険になっいるのかわけもわからない。加えて国民健康保険料の請求を受けたことなど一度もない。

 さて、こんなことがあって解ることは、いや解らないことかもしれないが、いったい公的保険制度のシステムはどういうことになっているのかということだ。今まで怪しいなどと思ったことなど一度もなかったが、30年近くにして初めてその実態のようなものが見えてきたわけだ。世の中個人情報保護といって、人のことはまったく見えなくなった。ということは人の暮らしなどまったくわからないから、自らはお役所のおっしゃることを信頼せざるを得ないわけだ。役所だけではないだろう。さまざまなサービスが民営化されることによって、そうした情報は見えない世界のもので、そこでわたしたちは暮らすこととなる。いかに自己防衛が必要かということもあるが、いかに自己管理しなくてはならないか、ということがわかる。とても年寄りにはわからない世界であるし、すべてを網羅して暮らしていくには労力が多すぎる。
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地方は死なず

2007-06-28 08:27:34 | ひとから学ぶ
 南箕輪村を仕事で歩く。田んぼでは田の草をとるおじさんがいる。独りではない。広大な水田地帯だから、遠くにほかのおじさんの姿も見える。しかし、広大な割には人の姿は少ないかもしれない。先日も父の日に生家を訪れた際、植えなおしの話が出た。妻の実家に植えなおしに行ったことを話したからそんな会話になったのだが、生家の近所で植えなおしをする人は限られているようだ。いわゆる篤農家といえる人々になる。今や年をとっている人たちが必ず植えなおしをするというものでもなくなった。それほど、年寄りにとってはつらい仕事であり、いっぽうで若い者に植えなおしをするなんていえば、「そんな農業辞めたら」と言われかねない。本当に稀なことになってしまった。できるかぎり手をかけない農業、それが現代農業ということになっている。

 田の草をとる人の姿が見えるいっぽうで、農道を犬の散歩で歩く人もいる。ウォーキングをする人もいる。姿を見れば、新興住宅地に越してきた人たちと予想はつく。広大な農地が広がるものの、道路沿いを中心に点在してそうした住宅が建っている。まったくの水田地帯だというのに、以前はなかった住宅地が広まりつつある。長野県内でももっとも平均年齢が低いといわれる南箕輪村である。保育園から大学まで、それほど広くない村内に揃っている。もちろん企業もあるし、伊那市の懐に紛れ込んでいるような自治体だから、村外に通勤するにも容易である。ようは環境は恵まれている。そんな空間だから、どんなに農地が広がろうと、そんな空間を真昼間にウォーキングしていてもちっとも不思議ではない。

 夕方すでに6時を過ぎたころ、わたしはまだ現場で歩いていた。勤めから帰った人たちだろうか、あるいは帰る人たちだろうか、やはりそんな人たちの姿が目立つ。都市ではないのに賑やかだ。活気というか若い地域は雰囲気が違う。伊那へやってきて3ヶ月。長野にいたときのような現場がまったくない。長野にいたときの現場とはどんな現場なのかといえば、もっと傾斜あったり、もっと山が近くに見えていたり、もっといえば山懐に身を置いていた。ところがそんな現場がここにはないのだ。伊那とはそんなところなのか、とかつてを思い出せば、そんなことはなく、高遠とか長谷といった山間地があった。まだそんな現場を訪れていないから雰囲気が違うわけだが、そうはいってもこの地域、山間は少ない。加えて前述のようにたいへん活気のある空間を含んでいる。

 夜9時、帰宅しようと会社を出ると、伊那市駅前で親子が縄跳びをしている。「ここはマチだから」と思う以上に、この地域はちっとも不思議ではないほど人々が自由だ。そんな地域が理想だとは言わない。しかし、この地域と県内を見渡したほかの地域には明らかに違いがある。やはりこの地域には山間を含んでいるという雰囲気がないう。伊那市に高遠町や長谷村が合併してしまって、自治体の名前をみただけでもそんな雰囲気がある。南の方の伊那市から遠ざかった地域は、どうでもよいのだ、と。長野県内にこれほど実感の違う地域があるとは、わたしも甘かった。でもちょっと考えると、きっと松本平や佐久平にもそんな空間はあるのだろう。そして、合併によって山間が目だたなくなってきていることも事実だ。そう考えていくと、最後まであがいている地域が見えてきてしまう。加えて「地方は死なず」という言葉が、合併によって現実味を帯びてきているようにもみえる。果たしてその内実は不明だ。
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空間に生きる

2007-06-27 08:26:50 | つぶやき
 空間はたたずんで車窓の色は流れる。電車の中でさまざまな世界を見ることができればと思うが、常に空間は変わりばえしない。しかし、変わりばえしないから、こうしてゆっくりとキーをたたく。夜9時以降の電車は空いていて、自由きままだ。人が少ないから、隣近所の会話がよく聞こえる。耳を済ませてみよう。そこからまた違う世界が見えてくるかもしれない。

 今日は教育論議だ。年配の方が飲んできたのだろう、機嫌よく会話が続く。話の様子では教育者だったようだ。いや、だったではないだろう。きっと今でも教育者てある。教育者はいつまでたっても教育者だ。退職してもその道を抜けることはない。考えてみればだれでもそういう傾向はあるかもしれない。サラリーマンだって技術畑にいた人は、退職しても技術者だ。そういう意識を持っているから、それが人間としてのプライドになるのだろう。しかし、そうした意識を強く持つ人たちは、自信ある経験を積んできた証なのかもしれない。ところが自らはどうだったと問うまでもない。自らは退職してもそれ以前の自信を口にすることなどまったくないだろう。それは自信がないからだ、ということにもなるかもしれないが、地位も意識も果てしなくくすんでいる。

 「○○は勉強が足らん」などというフレーズが耳に入る。きっと地位を持つほどに人はそうして評価される。でもそれはこの空間での、年寄りたちの言葉に過ぎない。どこまでも人は人を口にしながら棺桶の蓋を開ける。どこかに自分の逃げる場所はないか、どこかに自分の身をおく場所はないかと、永久の空間を探す。とはいえ、あの世において自らの意識があるはずもない。

 男たちの生前の栄光は、こうして声高らかに中を飛ぶ。そんな意識をもてるのは、今までは男に限られていた。女が退職しても自らの道をくどくど言っていたら、誰も相手にしてくれなかったにちがいない。それがこれからは違うかもしれない。女たちが電車の中で生前の経験を持ち出して人を評価していたら、ちょっとたまらない。井戸端会議なら許せるが、不特定多数の空間でそんなフレーズか飛び交ってほしくない。


 自らが何処に行こうが、つまるところあの世であることに変わりはない。そのあの世で死して何を見ることができるというのだ。死して、銅像の建つ者もあれば、勇敢に戦ったとしばらくの後まで語り草になる人もいる。しかし死したことに変わりはないし、そこに歴然とした生前のような格差が存在するはずもないのに、この生前の世界は、死者にすら階級を与える。靖国とはまさにそんな存在の象徴かもしれない。いかに偉大に生きることが大事かと、人々は認識を強める。

 何も必要ないと悟ったのはこのごろだろうか。その先に何があろうと、どうされようとこの世の終わりにわたしは無言でさよならだ。

 かつて社会にたてついていたころの自分の詩とは、こんなようなものが内的なもの、そして外的にはもっと和らいだ「死」を見据えていた。しかし、内的なものこそ自噴してきた言葉であって、どこにも行きようがない若さゆえの苦しみをもっていたと思う。比較して人はものを言う。対比するものがないとなかなか人がみえなかったりするからだ。そんな比較が嫌だと逃げると、大人に嫌われた。

 さて、教育論者の言葉がどれほど意味を持つかは不明だ。誰も彼も酔いにまぎれると大きなことをいう。そして人を批評する。そんなものさ、と思うが、そんな逃げができるから人は生き続けられるのかもしれない。悩み多き時代である。自らが良かれと思っていても、なぜかそれだけでは生きられなくなったような気もする。自由を奪われた子どもたち、そして大人たち、どこか遠くへ逃げておくれ、と寒々しく言葉を吐くだけだ。


 朝、いつも近くの席で同じ駅で乗る女子高生がいた。このごろそこから一人欠けた。その前兆は以前からあった。リーダー的な投げやりな女の子、まじめそうでおとなしい女の子、そしてどちらともないがリーダー的な子に従う女の子。その先は見えてくる。狭い空間で生きるとは難しくもあり、いとも優しい構図であったりする。事実は事実としてそれ以上のものはないが、大人にはどうすることもできない空間現象である。
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円筒分水

2007-06-26 08:28:38 | 歴史から学ぶ


 上伊那郡辰野町から伊那市にかけて、天竜川右岸を流れている西天竜用水路。幅4メートル近い水路で深さも2メートル以上ある。昭和3年に完成した用水路は1200ヘクタール近い水田を潤すという。実はこの用水路の開削構想は江戸時代より始まる。安政3年(1856)に高遠藩が現在の天竜川取水口付近より取水する水路を、伊藤伝兵衛に企画させた。取水口の位置が諏訪藩の領地だったということで実現しなかったというが、辰野町境から取水した水路は、伝兵衛用水として現在も使われている。その後明治時代後半に再び動き出して、米価の下落など紆余曲折を経て大正時代に工事が始まった。もともとの構想が高遠藩から始まっているということもあるのだろうか、高遠藩の領地を潤すことになる。中央アルプスの山際には幕府直轄領があったが、それらの地域は西天竜の構想にはかかわっていない。以前〝「水枡」という施設〟で触れたように、山を越えて導水している地域もある。

 さて、この開発によって1200ヘクタール近い水田が開田された。今中央高速道路から東側に広がる水田地帯は、当たり前のように青々とした稲が植えられているが、昭和になってからの光景である。ということは、この地域の稲作はそれほど長い歴史ではない。昭和3年に完成したというものの、戦争を経て昭和40年代にはすでに生産調整に入る。期待されて造られた水路も、期待を込めてその恩恵を被った時代は半世紀にも満たない。

 『伊那市史 現代編』に記載されている「西天竜開発事業」の項に次のように書かれている。「当初分水口を百五個設置したが水利の調整に困難し、五十七個の保坂式排水池を設けて公平な分水を行った。用水の問題は対外的にも対内的にも終始数々の問題に苦しめられている。特に渇水時には水量不足と漏水によって幹線水路後半の南箕輪・西箕輪・伊那町は水不足となった」とある。ようは、当初は水路から直接分水を行っていたのだろうが、上から好きなだけ取水していけば、下流にいけば水がなくなってしまうという現象が起きたのだろう。保坂式といっている分水工は、写真のようなもので、今は円筒分水工と言われている。幹線水路から分水された水は、この円筒の中央に湧き出て、周囲にある窓の数に応じて2本とか3本の水路に分けられて流される。昭和初期に完成したものだけに、痛みの激しいものが多い。道に隣接して設けられているものが多いが、道を拡幅する際には邪魔になるから、このように水路を若干またいで拡幅されている場所が多い。この施設、平成18年に社団法人土木学会の土木遺産に認定された。施設そのものはそれほど大きくなく、それほど珍しいものではないのだろうが、西天竜用水路に点在する数は30以上といわれ、まとまって残っている場所は少ないという。
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包装のあり方

2007-06-25 08:30:43 | ひとから学ぶ
 包装紙や買い物袋は、最近は変化してきた。ご存知のように買い物の際に「このままでよいですか」とコンビニでも聞くのが当たり前になっている。レジ袋がどれだけ環境に負荷を与えているかは、情報がいろいろであるが、ダイオキシンが話題になる前は問題のある袋が多かったのだろうが、今や燃やしても有害なものが出ない袋がレジ袋では一般的だ。むしろ市販されている袋を購入したほうが、危ないといえるかもしれない。それは、レジ袋は捨てられるのを前提に作られているためで、いわゆる行き場所がある程度限定されているからだ。

 POFニュースというページにおいて、レジ袋について触れている。2003年のページだから現在とはまたデータ的には異なるのだろうが、「レジ袋が欲しい人24%」とレジ袋を欲している人も少なくない。悪の根源のように捉えられて利用しないことが環境配慮のレッテルのように言うが、それだけではないだろうと思う。レジ袋有料化が現実味を帯びてきたこのごろ、レジ袋がどう利用されているかちょっと考えて見る。自宅のどこかにレジ袋を丸めて保存している家庭は多いだろう。なぜかといえば利用価値があるからだ。発泡スチロールのトレイを保存している人はなかなかいないだろうが、レジ袋は保存する。何に利用するかといえば、人に野菜でもおすそ分けしようとすればレジ袋に入れる。ちょっとしたものをくるんでバックのどこかに入れたり、分別する際にもよく利用する。何よりレジ袋は大きさがさまざまなところがよい。これをもし店で売っていたとしたら、1枚単位では売らないだろうから、百枚単位ごと購入てなことになるだろう。そうすると規格のまちまちなものを手に入れるということはなかなか難しくなる。とはいえ、確かに何を買うにも、そして一点を買うにも袋に入れてくれると袋はあり余る。それほどたくさんのレジ袋を利用する用途はない。だから近ごろの多くの人がコンビニを多用しているなかで、コンビニのレジ袋の対応の仕方はいい感じになっていると思う。

 そのいっぽうでスーパーなどのレジ袋だ。毎日買い物をするような人はともかく、週に数回、あるいは1、2回という買い物だったら、あのでかいレジ袋は結構利用価値がある。保存してあるレジ袋の多くが、幅20センチ程度の小型のものだ。前述のコンビにでの買い物ではこのタイプが多い。もっと大きなものをと探すと、意外にも少ない。ところが野菜をおすそ分けしたり、衣類をカバンの分別して入れようとする際に使いたいような大きさのものは大型のものとなる。とすると、スーパーなどでたくさん買い物をする際は、このレジ袋が大変ありがたいのだ。確かにマイバックを利用することにこしたことはないが、燃やしても有害なガスを出さない袋を手軽に利用できるという事実もけして環境負荷の悪玉ではないと思うわけだ。POFニュースのQ&Aにも
「ごみを出す時に、スーパーなどで貰ったレジ袋を使ってはいけないのでしょうか」というものがあり、回答として次のようにある。

「レジ袋を含めポリ袋は、燃やしても有害なガスなど出しませんから、ごみ袋には適した素材なのです。使い終わったレジ袋に生ごみなどを入れて捨てるのは、衛生面や防臭等の点からもむしろ望ましいといえます。もちろん、水を十分に切ってなかったり、分別ルールに反するものを入れたりしてはいけませんよね。最近では、レジ袋をごみ袋として再利用することを積極的に認めている自治体もあるぐらいですが、ごみの行政は各自治体によって異なりますから、一度確認をしてみて下さい。 」

とある。ここで問題になるのは、やはりモラルとなる。レジ袋はほとんど白くて中が透き通らない。だからゴミ袋に入れるにもレジ袋に一度くるんで入れると中がよく見えない。ということは中身を偽る、という行為にはうってつけであって、レジ袋が悪玉に捉われる要因にもなっている。レジ袋は使わずに新聞などにくるんで入れてください、なんていう説明をすることもあるが、新聞でくるむのが果たして本当にベストなのかどうなのかも疑問はある。

 ということで、レジ袋よりも問題なものがあると思うがどうだろう。

 先日ある博物館で本を購入した。PP系のちょっと分厚いビニール袋にその本を入れてくれる。上には持ちやすいように取っ手用の穴が開いていて、もしかしたら下げて歩いても格好良く見せられるように考えているのかもしれない。透明だから何が入っているか一目瞭然である。よくみると片面に「○○博物館」とちょっと格好よく博物館をイメージ化した図柄と博物館の名前を入れたシールが貼ってある。宣伝効果を狙っているのだろうが、包装紙の原材料を示すような表示はされていない。この場合貼ってあるシールは紙だろうとはがそうとすると、うまくははがれない。たまに経験するのだが、上手にはがそうとすると、べったりビニールについている部分と表面が分離してめくれてしまう。仕方ないから捨てる場合にも分離することはせずに、そのままビニールとして廃棄することとなる。ちょっと格好のよい袋だから捨てることを前提に考えていないのかもしれないが、これは考えようによってはレジ袋以上に手ごわい問題だ。

 長野で単身赴任していた際、自宅から玉子を持ってくることを忘れ(玉子は妻の実家の地鶏の玉子)、玉子を買うことにした。常に地鶏の玉子を食べていたから、一応気を使って高級なものを買ったのだが、ケースの貼紙に容器などの材質が表示されていて、もちろんラベルは「紙」というリサイクルマークがある。ということではがそうとするが、前述の博物館のものと同様に、うまくはがれないのだ。仕方なくそのままプラスチックとしてゴミに出すことにしたのだが、せっかくリサイクル表示されていてもはがれないとなると意味をなさない。

 さて、博物館で袋に入れてくれる際に「不要です」と言えば良かったのに言えなかった。そんな経験も多いのだが、手早く作業をされていると制止しして「待った」とは言えないときもある。これもまた人の迷いの世界で経験の楽しみだ。ということでまたいつかそんなことも触れたい。
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山と雲

2007-06-24 09:40:52 | 民俗学


 子どものころは盛んにすぐ近くの山の雲の様子を見ながら「これから雨になる」とか「これから晴れてくる」ということを予想していた。子どもながらにそんな予測は結構当たっていたもので、経験からくるものだったと思う。毎日のように山の近くで雲や霧の動きを見ているのだから、その様子である程度は解ってくるのだ。もちろん大人もそんな様子をうかがいながら隣近所で話すことがあってそんな会話を聞いたこともある。だから大人から教えてもらったものもあるのだろうが、実際はそんな助言を持ちながら自ら経験を積んで実績をあげていったように記憶する。

 ところがだ、そんな予測の方法をこのごろは忘れてしまった。山に掛かる雲の様子ではなかなか天気予測をできなくなったし、その最たる要因は、山が遠くなったせいかもしれない。生家からは、すぐそこに山が見えていて、意外にもその山は雲の動きで天候が一変したものだ。ところが、今すんでいる場所から見える山の様子をうかがっても、雲の動きがよく見えないのだ。見えないとはどういうことかというと、動きが小さいせいか、全体的な雲の様子がつかめない。加えて雲の動きそのものもその山は少ないように思う。そう考えてみると、生家のすぐ東にそびえていた山は、天気変動を予測するには好都合な山だったのかもしれない。そんな山が世の中にはいくつかあるのかもしれない。


 さて、『上伊那郡誌民俗編』より山あるいは雲の動きから天候の予兆として捉えられていた事例を拾ってみる。

 権兵衛峠がすくと天気がよくなる(富県・西箕輪・辰野西)。
 権兵衛峠がくもると雨になる(富県・西箕輪・辰野西)。
 権兵衛峠に夕焼けがすると天気がよくなる(富県)。
 高烏谷山に雲がかかると雨が降る(富県・東伊那)。
 駒ケ岳が晴れると天気はよくなる(辰野西)。
 西駒へ朝日がささない時は、雨か曇りになる(東伊那)。
 守屋山の上から入道雲が出ると夕立がある(辰野西)。
 西駒ケ岳が曇ると雨になる(辰野西)。
 駒ケ岳がはっきり見えると雨になる(辰野西)。
 羽場の方に一面に霧がかかると雨が降る(辰野西)。
 大城山に雲があるとたいてい雨が降る(辰野西)。
 瀬戸へ朝霧が出ると雨が降る(伊那里)。
 双子山に雲がかかれば夕立がくる(伊那里)。
 仙丈に霧がかかって見えないときは夕立がある(伊那里)。
 戸倉山に霧がかかるとち雨が降る(伊那里)。
 霧が分杭峠に出れば雨が降る(伊那里)。
 泣きづら山に雲がかかると雨になる(伊那里)。
 駒ケ岳から扇子状に雲が出ると雨になる(西箕輪)。
 板沢へ雲の橋がかかると雨(西箕輪)。
 西山の裾を横雲が通るとその日のうちに雨が降る(竜東)。
 雲が南へ行くと天気がよくなり、北へいくと悪くなる。
 朝、西に青空がでると天気がよくなる。
 南の空が曇ると天気が変わる。
 乾の方向へ雲がいくときは大洪水が出る。
 丑寅の方向へ雲がいくときは大風が吹く。
 曇っていても北方が明るなると晴れる。
 虹が天竜川を渡ると雨になる。
 西山へ虹が立つと雨が降る。
 霧がおりると天気がよくなる(辰野西・東伊那)。
 近くの山に霧がおりると雨が降る。
 霧が上に向かうときは天気が変わる。
 山の中腹に霧がかかれば雨が降る。
 沢山に大きな雲が出ればかなず雨(手良)。
 中坪の千間山に雲がある時は雨(美篶)。
 南駒が曇ってくると雨(七久保)。
 穴山に横雲ができると雨(中沢・赤穂)。
 今なぎ山に横雲ができると雨(赤穂)。
 焼枯に横雲ができると雨(七久保)。
 三林に雲がかかると雨(上片桐)。
 小僧泣かせが曇ると雨(中沢)。
 南駒が曇ると雨。百間なぎが曇ると雨(中川西)。
 陣場形山に雲がかかると雨(宮田)。
 小八郎が曇ると雨(七久保)。
 東山の地獄谷に霧がかかると雨(赤穂)。
 岩の沢に朝霧がかかると雨(宮田)。
 烏帽子が降ると里も降る(七久保)。
 烏帽子に日がさすと晴れる(七久保)。
 高烏谷山が見えると晴れ(七久保)。
 泉原に霧がかかると雨が降る(美和)。
 五郎山の上が曇ると雨が降る(高遠)。

 このほかにも天候に関する自然の兆候から予測する事例はいくつもあげられているが、その中でも山にかかる雲の様子や霧の動きなどを中心に拾ってみた。○○山に雲が掛かると雨が降る、とか○○山の雲が南に移動すると晴れる、なんていう事例は、まさにわたしが経験したような事例となる。このごろは山が遠いからあまり山の様子で予測できなくなったと述べたが、同じ山を毎日のように眺める余裕すらなくなったことも要因かもしれない。この春からは、犬とともに毎朝散歩に出かけるようになり、朝の山の様子はこのごろになくうかがうようになった。しかし、昔は朝も夕方も、電車に乗る際の傘を持つか持たないかという判断で盛んに様子をうかがっていたようにも記憶するわけで、子どものころの方が持ち物に気を使っていて、「なるべく物を持ちたくない」「軽くしたい」という意識を常に持ちながらいたから、そんな天気予測に執着していたのかもしれない。

 撮影 2007.6.23(尖がっている山は塩見岳)
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ゴーストタウンへの歩み

2007-06-23 09:25:01 | ひとから学ぶ
 ボッケニャンドリさんが「ゴーストタウン」で、佐久市大河原峠近くにある別荘地において壊れかけた別荘が点在するいっぽうで、新たにまた別荘を建てる人もいるという話をされている。朽ちた別荘があるのが見えるのに、解っていて新たに建てようというのだから、ちょっと心配?みたいに触れているのだ。田舎、それも山間の集落に行けば、藁葺きの屋根が朽ちて、すでに屋根が落ちる寸前みたいな家の横に、新築の家が建っていてそのちぐはぐさに唖然とすることもある。そんな空家が混在している集落に住むということがどういう感じなのかは、経験がないから言えることではないが、かといって手入れされていて住んでいなくとも朽ちることはない家が点在する集落も、生活上では同じようなものだ。そんな空間は田舎ばかりのことではなくシャッター通りと言われる街中にも存在する。それでも別荘地などは景観を求めてやってくる人たちがいるから、朽ちようとしている家があるのは空き家の点在する田舎や街中とは違うのかもしれない。

 中川村の幹線道路沿いにあるある集落は、道沿いに何戸か点在している。確かに人の姿はないのだが、家の姿を見る限り夜には明かりが点るのだろう、と思い込んでいると、近くの人が「あそこの集落は一人も住んでいない」なんて教えてくれる。まさにゴーストタウンなのだが、朽ちかけた家はないから、きっと再び人が住み始めても見苦しい廃屋が目に障るなんていうことはないだろう。

 そんな意味では空き家に人が住んでくれるということは本当なら良いことなのだが、それもそれでいろいろ問題も含んでいると思うのだが、今や世の中田舎暮らしをしようと推し進めている。世の中人口減少時代に入っているというのに、いまだに田舎でも新築の家が増えていく。核家族化によって、農村地帯でも長男が家を出て、分家してしまうようなことがあちこちで起こっている。年寄りたちが亡くなってしまえば、その家は空家と化す。田舎のゴーストタウン化は間もなくなのだろうし、すでに始まっているところもあるのだろう。

 また、ボッケニャンドリさんは「新築の空家」で建って間もない空き家のログハウスについても触れている。持ち主が住むのは定年後、まだ数年先だという。ところが謎の毛虫が木に取り付いていて、新築の家は大丈夫かと心配しているのである。国は都会に暮らす人々が、都会と地方と二地域に家を持つことを推奨している。農水省の施策にもそんな言葉が登場してくる。ようはボッケさんの近所のログハウスのように、ある意味では別荘扱いとして家は存在していくわけだ。こうした家が年寄りばかりの集落にできあがったとしてどうだろう。地域はそうした人々によって確かななる継続をつかむことができるだろうか。そして、年寄りばかりの田舎だけではなく、中間地帯にもそうした人々が住むことになるのだろう。たとえば安曇野のような場所、そうしたところにはすでにそうした常時住むのではなく、別荘的な自宅を持つ人たちはけして少なくないはずだ。農業者がそうした人々とどう付き合っていくのか、あるいは付き合ってきたのか、大変興味がわく。

 さて、わたしの犬の散歩コースにも1ヶ月に一度くらいしか人がやってこない家がある。まだ建てて1年と少しというところだが、長期休暇の際にはしばらくいるようだが、そうでなければ1ヶ月に2日程度しか住まない。まさに別荘である。車のナンバーを見ると隣接県ではない。そこまでしてここらに家を建てた理由までは定かではないが、こうした家を時折見る。散歩をしていてその家の主に声をかけた。「1ヶ月に一度くらいですね」と。「草ひきに来るようなものです」と答える。そこそこの広さと庭を持っているから、1ヶ月もほっておけば草は伸びる。定年退職も間近なんだろうと想像するが、中間地帯も山間地帯も含め、ただ人を誘うだけではあとで困ることも多かろう。きれいな言葉で国は地方を都会のオアシスのように定めようとしているが、果たしてその先に何があるのか、さまざまに考える余地がある。
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正面とはどこか

2007-06-22 08:27:29 | ひとから学ぶ
 同僚と下伊那郡高森町の役場を訪れた。その同僚とともにそこを尋ねるのは初めてなのだが、飯田方面から役場を尋ねたことがないからちょっと道があやふやだという。もちろん地元であるわたしにはルートは解るわけだが、わたしの認識では、県道飯島飯田線の牛牧交差点から東へ降り、大丸山公園から高森中学校南側の道へ右折し、中学北側を役場へ左折する道が一般的だと思っていた(今は広域農道が開いて、県道飯島飯田線の牛牧交差点から降りて役場へ向かう人はほとんどいないだろうが…)。ところが、同僚はいつもは広域農道の上市田東交差点からJR飯田線市田駅への県道を下り、農協前の交差点を過ぎて役場への取付道路を登っていくのが常の道だという。加えてそれが「正面玄関へ向かう表玄関だろう」というので、わたしの認識とは異なっているのだ。でもよく考えてみると、高森町役場は、同僚の言う道から上っていく側に玄関が向いているからそれが正面といえば正面だ。玄関がわたしのルートとは反対側を向いていたのは認識していたものの、常に訪れていた東側からの道が正当な道だと思い込んでいた。加えて幹線道路からこの役場を訪れるのには、わたしが通常利用している道がもっとも最寄の道であるし、初めてこの役場を訪れた30年近く前の道もそのルートで教わった。そんな経験が長年のわたしの錯覚を呼んだわけだ。

 同僚に言われて正面とはどこかとあらためて考えてみたのだが、同僚が言う道も、けして正面とは言いがたいほど初めて訪れる人にはあやふやな空間認識を与える。まず一つに看板があまり目立たないということがある。この道を登っていってもたどり着くのは町の体育館であったり公民館である。役場はその奥にあって、役場は二の次という感じさえ受ける。ある意味でそんな空間配置はわたしは好きなのだが、役場を目的に訪れる人にはきっと解りづらいかもしれない。同僚に「それは裏道だろう」といわれたわたしの通常の道を通って役場を訪れ、帰りは同僚のいう表道を通って帰社の途についたのだが、帰り際に昔とは違い、表側にわずかな区間であるがショートカットした新しい道ができていた。いつできたのかわたしは知らなかったのだが、やはり、同僚の言う表の道もけして表らしいからぬ屈曲があったため、町で道を改修したのだ。ということは、わたしの認識していたように、必ずしも表の道とはいえない欠点があったということになるのだろう。

 確かにわたしの認識していた道も表にはふさわしくなかったが、結局この役場には表の道が今まで無かったということなのだろう。

 さて、長年の錯覚とは「思い込み」に始まったわけだが、こういうことはけして珍しいことではないかもしれい。たまにどこが玄関だかわからないような家や施設がある。そんな施設に出くわすと、一度経験した道が表の道となり、その後はその道を馬鹿の一つ覚えのように利用することはよくある。深く考えさえしなければ、「その施設の玄関はどこですか」と聞かれれば、経験している馬鹿の一つ覚えの道を答えるに違いない。ところが、それは実は玄関でなかったりする。自らが思っている場所が正面である、ということでわたしは良いと思うのだが、経験とはこういうものなのだ。
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人と行き交うということ

2007-06-21 08:27:02 | ひとから学ぶ
 駅へ向かう道、道に沿う家の老人がわたしと同じ方向へゆっくりと歩いている。後ろから「おはようございます」と声をかけ、老人を足早に追い越すと、「いってらっしゃい」と後ろから大きな声をかけてくれる。こんな経験はしばらくなかったことだ。もしかしたら、子どものころ以来の経験やも知れぬ。駅まで歩くようになると、こうして人と接する機会は多くなった。駅が野原の一軒やならともかく、おおかたの駅の周辺には家々が密集しているから、人と会う機会が多くなるのは当たり前である。田舎ともなれば、すぐそこに行くにも車を使う。隣組の内々を行き来するにも車を利用するのは当たり前である。前述のような声を掛け合うような空間はおのずと減少する。もちろん車でも立ち止まって窓越しに会話をしている姿を見るが、このようなことはよほど会話を交わす必要があるような場合をのぞけばまずないだろう。

 農村地帯における情報交換という面では、このように車を多様するようになると減少するのは必然である。知り合いと行き交っても車となれば、合図を交わすにしても会話を生むケースは前述のごとくほとんど生まれない。農村地帯が分裂してきたのにはこんなところに起因する。歩いていれば立ち止まることはあるし、会話を簡単に交わすこともある。挨拶とは挨拶だけではないのだ。そこからどう発展するかという部分を含んでいるといえよう。わたしの通勤途中にはまずそういうことはないが、挨拶なくして先には進まないという現実がそこにある。

 都会はもちろんだろうが、先ごろまで暮らしていた長野市内であっても街中を歩いていて見ず知らずの人と挨拶を交わすことはない。どいう空間から挨拶が始まるのか、微妙な心理がそこにはあるのだろうが、おそらく街中で挨拶を交わしていない人たちでも、交わさなかった人が田舎の道でも歩いていたら、知らずに挨拶を交わしているかもしれない。その微妙な雰囲気というものは、道という空間がひとつの部屋のようなものになっているからかも知れない。もちろん道と道に隣接する土地との間に壁はないが、人が行き交う場所は道だけだからだ。どんなに広い空間であっても、そこにもし二人だけ人がいたとしたら、その空気は部屋の中の空気に近いはずだ。すると会話を交わす必要はなくとも、挨拶をしたくなる雰囲気は生まれるはずだ。田舎だからこそ歩くことによる情報交換というものがあったはずなのに、そのメリットたる環境を断ち切っているのが今の田舎に暮らす人々の現実である。ようは、田舎で暮らす人々ほど歩く必要があるにもかかわらず、道が空いていて車を利用する価値観を得やすいからこうした社会を築いてきた。田舎と都会は違うんだという認識を持たずに、同じ価値観でもって同じ環境を求めるから、現実的には環境が異なるのに、同じものを欲してしまうわけだ。

 自宅からの通勤を始めてから、以前にも触れているように犬とともに散歩に出かけるようになった。そして電車通勤とともに、さらに道で行き交う人々は多くなった。とはいえ、述べてきているように、隣組を回るにも車を使う世の中だから、散居状態の農村地帯で人と行き交うことはそれほどない。いまさら何を言うんだ、と言われても仕方ないが、歩く時間を持てる余裕というものが田舎には欲しいと思うのだが、時間的価値観は都会も田舎も変わりはない。
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〝道の駅〟の悲しみ

2007-06-20 18:06:20 | ひとから学ぶ
 『生活と自治』6月号(生活クラブ事業連合生活協働組合連合会発行)に「「道の駅」を支える輸入原料」という記事があった。ちまたにたくさんできた道の駅の直売コーナーらしきスペースを調べると、実は輸入材料で加工された製品がたくさん並んでいるという話だ。筆者が全国のいくつかの道の駅で売られているものの材料を調べたが、地元の食材のみ使われていたケースは1か所のみだったという。道の駅に限らず地場産業施設の直売コーナーというものは、いまや何処に行ってもある。すべてのそうした施設を調べてみるのも面白いかもしれないが、さすがに生活クラブ連合会らしい取り組みだ。地域にとって道の駅がどう捉えられているか、という点がもっとも知りたい部分だ。

 多くの道の駅を訪れてみたし、また多くのみやげ物コーナーでも訪れては製造元などをひっくり返しては調べたこともある。おおよそみやげ物を扱っているドライブインらしき施設では、たとえばその地域の名称を冠して製品が包装されていたとしても、場所を変えても製造元は同じだったりする。なぜかといえばとくに菓子製造会社というものが必ずしもその地域に存在しているとは限らず、安い銘柄品をイメージとして提供したいとなれば、専門の菓子会社に依頼することになるだろう。コストダウンとともに品質という面でもニーズに沿わせるにはいたし方のないことである。飯田下伊那にはそうした菓子会社がいくつかある。他府県を訪れてサービスエリアで土産品をチェックしてみると、飯田下伊那の製造会社の名前を見ることがよくある。

 さて、これら土産品はともかくとして、地場産業施設においても、加工品を中心に地場ではない製品が多く見られる。あらためて言われるほどのことでもない、といってしまえばそれまでだが、せっかくの施設なのにそういう運営で長続きするものなのかという疑問はわく。「地域でどう捉えられているか」という視点が、まさにその施設の評価となる。地元の、あるいはその施設の近所を頻繁に通るような常連さんが、「道の駅は食べ物は高いしまずい、売っているものは怪しい」と思うようになれば旅のイチゲンさんしか客の対象にならなくなる。伊那市の見晴らしファームの取り組みは、テレビでも紹介されているが、地元の農家や農家でなくとも農産物なり手作り品を提供できる人は、そのシステムに参加できるようだ。そうした人々はそこへ品物を持ち込んで売ってもらうかたちになるのだが、地元の直販というメリットを十分に認識されている。だからこそ、地元の人たちが「あそこに行けば」と思えるような施設が誕生するのだ。

 地域起しの核となるために造られた施設なのに、地元の人たちが敬遠するような施設は詐欺まがいといわれても仕方ない。コンビニが盛況のこの世の中だ。なんでも揃うという店が人を集める。だから聞かれて「ない」と言いたくないからよその生産物を置くようになる。八百屋ではないのだから季節のものでないものまでわざわざ置く必要がある、と思ってしまっては道をはずしてしまう。ましてや輸入材料を利用しているような加工品は、絶対してほしくないものだ。そんなものを訪れた人が欲しいと思っているはずもない。買ってしまってあとから輸入品と気がつく消費者もいるだろう。二度とそのコーナーを訪れることはなくなるだろう。それが解っているかどうか、運営者の甘さだけが見えてくる。
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駒ケ岳

2007-06-19 08:26:31 | ひとから学ぶ


 駒ケ岳といわれる山は日本中にたくさんあるという。そのなかでももっとも標高が高い甲斐駒ケ岳や木曽駒ケ岳、あるいは北海道の駒ケ岳あたりはよく知られている。ちょっと一覧をあげてみると次のような駒ケ岳がある。

 木曽駒ケ岳 2956m
 越後駒ケ岳 2003m
 藤里駒ケ岳 1158m
 会津駒ケ岳 2133m
 秋田駒ケ岳 1637m
 南駒ケ岳 2814m
 駒ヶ岳 1356m(箱根)
 甲斐駒ケ岳 2967m
 越中駒ヶ岳 2002m
 北海道駒ヶ岳 1131m

 もちろんこれ以外にもたくさんあるようだが、これらの山が必ずしも上記のような名前で呼ばれているわけではない。わたしがブログで頻繁に紹介しているのは南駒ケ岳である。地元でも南駒ケ岳谷と呼んでいてほかの呼び方を他人から聞いたことはない。だからおおよそこの呼び名なら飯島町と大桑村の境の中央アルプスにある山だと気づいてもらえる。ところが、伊那谷一帯では、駒ヶ根市の西にそびえる駒ケ岳を西駒ケ岳と呼ぶ。通称西駒(にしこま)と呼ばれ親しまれている。しかし、外部の人たちには西駒と言っても理解できないかもしれない。いわゆる木曽駒ケ岳になる。そして、伊那谷ではいっぽうの東にそびえる山を東駒ケ岳と呼ぶ。これもまた一般的には甲斐駒ケ岳と呼んだ方がわかりやすいかもしれない。

 山に限らないかもしれないが、地域が変われば呼び名が変わるということはよくある。とくに山のようにまったく異なる空間から眺めることができると、まったく異なることは当たり前かもしれない。西に見えるから西駒、東に見えるから東駒となるが、山の西側の木曽谷からみればこれは西駒ではなく、東駒になってしまう。そして、甲斐駒ケ岳も山梨側から見れば西駒になる。そんなことを考えていて思ったのは、木曽谷では木曽駒ケ岳と呼んでいるのだろうか。

 ということで、伊那谷では西駒と呼んで親しまれていて、木曽駒といってもなじみは薄い。ところが最近は木曽駒ケ岳が標準化してきて、むしろ西駒の方がマイナーになりつつあるかもしれない。

 さて、写真は先日陣馬形山から甲斐駒を望んだものだ。ちょうどツツジが満開に咲いていて、いよいよ夏シーズンである。

 撮影 2007.6.17
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地方都市の地方虐め

2007-06-18 05:45:57 | 農村環境
 佐久地域広域連合で30年以上共同運営してきた火葬場とは別に、佐久市が単独で新たな火葬場を建設するといって、同じ広域連合内で不協和音が生じているという。同広域連合内には二つの施設が現在あるという。小諸市と小海町にあるが、この地域にはもともと南と北という二つの郡域があったことから、それぞれの地域で一箇所の火葬場を運営していたのだろう。それが郡は現在でも二つあるものの、北の中心であった佐久市と南の中心であった臼田町が合併して佐久市になってしまったということで、ふたつの地域、今は同じ地域としてとらえられているものの、全体が一つという意識は今ひとつという印象がある。それが今回のような佐久市の独り善がりな行動を生む。関係者でもないから独り善がりというのも言い過ぎかもしれないが、これから先、同じような現象は全国的に起きるだろう。

 佐久市が単独で火葬場を建設するという意図は、広域施設に対しての運営費負担を減らすためだという。なぜ広域だと負担が大きく、分散すると負担が小さくなるのか、具体的なことはわからないが、一般的には広域的な施設の方が経済的だと思うのだが違うのだろうか。火葬場というものは、自治体に一つずつあっても運営できるものではない。それほどフル稼働するほどのニーズはないはずだ。となれば、自治体の枠を越えて火葬場を運営する自治体や、あるいは広域施設に頼らざるを得なくなる。病院などの場合でもよく聞く話であるが、小さな自治体に自前で運営できる施設を設置することは財政的に無理である。となれば小規模地域は地域の中心的市部の力を借りたり、広域体を設けて助け合ったりすることが必然となる。「市営病院なのによその町の患者がたくさんやってきて、市民が苦労するようでは本末転倒」という言葉もあるが、だからといって小規模な自治体は自分でなんとかしろというのも不可能だ。しかし、いろいろな場面でこのごろはそういう言葉を聞く。そして自立を選択したからには当たり前だ、とあからさまに言う人も少なくない。「それが嫌なら合併しろ」とまで言う。自治体がそけほど大きくなかった時代には単独運営は難しかったものの、自治体が大きくなるに従い単独でも運営できる規模になる。すると佐久市のように「よそと一緒にやらなくてもいいだろう」ということになる。地域でたまたま中心にあったから立地条件は良いに決まっている。そこへ集中的に人々が集まりだしたから、たまたま隣接していた二つの地域の中心地が合併した。ただそれだけのことである。自分たちはもう一人歩きできるようになったから、あとはあなたたちで頑張ってください、みたいな行動は、やはり独り善がりというものではないだろうか。しだいに取り残された小規模自治体は身動きできなくなる。予想されたことではあるが、地方であればあるほどに大きくなった中心自治体の行動は問われると思うが違うだろうか。もしかしたら東京都と地方との関係に似ている。
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オオキンケイギクの行方

2007-06-17 08:52:16 | 自然から学ぶ


 「入れない、捨てない、拡げない」というのが特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律である。ひとつとして飼育、栽培、保管及び運搬することを原則禁止、そして輸入禁止、加えて野外へ放つ、植える及びまくことの禁止、譲渡し、引渡しなどをすることを禁止となる。おおかたは嫌われ者なのだが、今盛んに咲いているオオキンケイギクは、嫌われ者ではなかった。どちらかというと賑やかに花を咲かせることから、好んで人為的に拡げられた部分も多い。もう10年以上も前に借家に住んでいたおり、妻がこの花の種を道端にまいて、盛んに咲いていたことを思いだす。北アメリカ原産の帰化植物で、栽培されていたものが野化してちまたに広がった。野化してもきれいに咲くから草刈の際に残されたりした。

 岡山市旭川の土手のオオキンケイギクがあるページに紹介されていたが、堤防の土手にこんな具合にオオキンケイギクが咲くのは、ずいぶん多くの人が目にしているはずだ。ページでも触れられているが、「6月には堤防の草刈り作業により刈り取られてしまうが、刈り取り作業が早すぎると建設省に苦情の電話が殺到するという」。どう考えたってアレチウリのような迷惑植物とはちょっとわけが違う。それでも指定されたということは、在来の植物に対しての影響が大きいということなんだろう。

 先日伊那市西春近の国道153号線を走っていたら、天竜川の堤防がやけに黄色いと気がついた。黄色い花らしきものが一面に咲いている。遠くから見ても見事なものだ。その黄色い花こそ、オオキンケイギクである。盛んに増やされた花なのに、いきなり邪魔者扱いだからちょっと可愛そうな話だ。そういえば昨年、どこかの市長さんが地域の活動として植えたものを今になって取り除けというのも理解できない、というようなことを言っていた。詐欺にあったような話だ。それほど長い期間咲いている花ではないが、いったいこれからどうされるのか、なくすのなら種にならないうちに処分をすることが必要だろう。どこかのページで「もしかしたら、オオキンケイギクの写真は、今回が最後になってしまうかもしれません」なんて書いてあったが、それはないだろう。それだけたくさんちまたには咲いている。春先にくらべると黄色い花は減る。この季節はオオキンケイギクがもっとも黄色さをはじけさせている。
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「伊那谷の南と北」第5章

2007-06-16 09:05:38 | 民俗学

第5章 向山民俗学から

 向山雅重氏の捉えた伊那谷の南と北については、『長野県民俗の会会報』6号(S58)において発表された「伊那谷の南と北」がある。向山氏の捉えた「南と北」という部分について少し触れてみることにする。

①年取魚 年取魚が西日本ではブリ、東日本ではサケと言われるのは言うまでもない。長野県内においても、北信では明らかにサケであるし、松本や伊那あたりでは一般的にはブリといわれている。しかし、詳細にとらえていくと、サケやブリに絞られるものではなく、サンマなど別の年取魚というところも少なくはない。それはおおまかには地域的に傾向はあっても、だからといってすべてが同じ年取魚ではないという意味で、傾向としては西のブリ、東のサケという捉えは間違いではない。では伊那谷はどうかというと、松本あたりでもブリなのだからおおよそブリといえるだろう。そんななかで向山氏は、伊那のブリは権兵衛峠を越えて入り、飯田では大平峠を越えて入ったという。そのルーツはいずれも飛騨ブリに変わりはなく、送られてくるルートが異なるというだけのものではある。しかし、調理法みてみると、上伊那では酒粕煮にされるし、下伊那では照り焼きにされる。入荷ルートが違うことによって調理法が異なってきたかは触れていないが、同じブリ文化圏にあっても違いが出ることに触れている。

②雑煮 関西では餅は生のまま入れるが関東では焼いて入れる。わたしいの印象でも下伊那ではほとんど焼いて入れるというのが認識であったが、向山氏は飯田の古風な家では生餅を入れるという話を聞いているという。同じ話は上伊那では聞いたことがないということで、関西風のものが南には入りこんでいるという捉え方をしている。

③草刈鎌 掴み刈りの越前鎌は下伊那で、振り刈りの信州鎌は上伊那で見られるという。おそらく地形に適合した鎌をそれぞれ選択しているのだろうが、越前鎌は中信でも使われるというから具体的な利用上の選択は、向山氏の捉えたものだけでは判断が難しい。いずれにしても伊那谷だけをみると南と北で鎌が違うということだけは解る。

④ネコとムシロ わが家でもネコというものを使っていたが、最近はあまり聞かない。それは妻の実家の農業を主に手伝うようになったからだろうが、下伊那ではネコというものを使わない。ネコとムシロの違いはここでは触れないが、たとえば臼引きの際に敷物として利用するものがネコなのかムシロなのかという違いである。向山氏は伊那谷を南に下るほどにネコの利用は減り、飯田あたりではなくなるという。ムシロよりネコの方が厚手となるのだが、実際の作業とどう関係しているかは触れられていないが、どういう理由なのかは興味のわくところだ。

⑤田舎間と京間 もちろん京間は関西、田舎間は関東ということになる。柱芯々の関東に対して内々の京間では空間が異なる。一般的には伊那谷は関東間になるが、飯田では京間を稀にみることがあるという。いつごろからそうなったかは定かではないが、間の設計思想がどらから入ったかによるのだろうが、今では関東も京も入り乱れているかもしれない。

⑥鉄漿親と仲人 カネ親という言葉も最近は聞かなくなった。それどころか仲人すらいなくなったのが最近の結婚式である。向山氏がこのことについて書いていた時代にくらべれば結婚そのものも大きく変化をとげている。実は身近ではカネ親というシステムがなかっただけに、中信の結婚式に呼ばれて初めてその存在を知ったほどで、上伊那南部から南ではこういうシステムを聞くことはなかった。向山氏も触れているが、伊那市より北ではカネ親が存在するが、それより南ではなくなるという。

⑦花火 わたしの育った地域では、秋祭りというとどこのお宮でも花火が揚がったのでどこでもやっていることなんだという印象をもっていた。ところが駒ヶ根市より北の方へいくと花火が揚がらなくなる。そして、南へ下るとどこでも揚げる。必ずしも昔からどこでも揚げたということはないようだが、その数は伊那谷の北とは明らかに異なる。とくにわが家のあたりでも、昔は季節になると花火を作る小屋があってそこへ集まって花火を詰めたという。それほど花火に執着していたから、そのできばえに対して、毎年さまざまに言われたわけだ。

⑧方言 もっとも南と北を意識させるものとして方言がよくあげられる。その方言の南と北の境は大大田切川という。事例ではお手玉のことを宮田村ではオテンコというが、駒ヶ根市ではオタマという。また竹の小枝のことを駒ヶ根市赤穂ではヨドロというが、宮田にはその言葉はないという。方言については方言の専門分野でも触れたものが多い。

 以上の8点について向山氏は述べている。明確に伊那谷の南と北のラインが示されているものではなく、実際にそこに暮らしている人々にとっては実感はないかもしれない。しかし、今までにも触れてきたように伊那と飯田がなぜか別世界であるところは、今に始まったことではなく、長い歴史の経過からくるものかもしれない。そう考えると、南と北というものがこれほど変化していく地域は珍しいのかもしれない。とはいえ、向山氏の指摘は意識として人々の内々に育まれている本音の世界のものではなく、単に事象である。たまたま違うという原点には、当然のごとく東西に高い山があって、交流が南北しかないという現実がある。当然南には南との交流があるし、北には北との交流がある。ただ、それらが谷のどこかで接点となってそれを越えてさらに南へ、あるいは北へという形の事例を拾い上げていないから、いかにも伊那谷は接点であるという印象を持ってしまう。しかし、現実的にはそういう事例もあるはずだ。それにもかかわらず接点になりうるのは、東と西の中間点である立地が要因となっているのかもしれない。

 「伊那谷の南と北」序章
 「伊那谷の南と北」第1章
 「伊那谷の南と北」第2章
 「伊那谷の南と北」第3章
 「伊那谷の南と北」第4章

 

「伊那谷の南と北」第6章

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