Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

それぞれの道へ

2007-03-23 08:24:50 | ひとから学ぶ
 先ごろ、長野県の公立高校の一般入試の合格発表があった。県内での受験者数は12,166人で、合格者は11,170人だったという。ということで不合格者数は966人である。都市部の高校へ志願者が集中することもあって、松本市や長野市といった地域の高校は不合格者が多い。今に始まったことではなく、以前より松本市周辺の学区では不合格者が多かったものだ。いっぽうで長野の山間部には志願者数が定員を大きく割るような高校もある。再編が叫ばれているなかで、そうした学校では統合やむなしという雰囲気さえある。二次募集でもなかったら、そうした学校は学校が成り立たないほど生徒数が少なくなってしまうだろう。

 息子も今年は入試であったが、前期選抜で決まっていたから、親の気は楽だった。しかし、友人たちの試験結果が気がかりでしかたないようだ。妻の友人の娘さんは、最初に行なわれた国語の試験で〝難しい〟と思った途端にその意識が後にまで引きずってしまった。帰宅して〝できなかった〟と落ち込んだと言う。ふだんは明るく元気な子なのに、それからというもの〝落ちた〟という気持ちが増幅していき、食が進まなくなったという。よほどできなかったと思ったのだろう、気持ちは〝落ちた〟あとの次のことも考えていたようだ。経験的に、こういう場合はけっこう不合格というケースが多いという。試験に慣れていればともかく、こうした本番で実力を発揮できる人は少ないだろうが、あがってしまってまったくできないという子どももいるという。必ずしも試験がすべてではないし、中には勉強はいまひとつでも、実社会向きの将来性豊かな子どもたちもいる。しかし、こうした選抜ではあくまでも点数が基準となるから、点数以外の部分で合否が決まることはそうはない。田舎では中学受験とか、小学受験などというものはないから、生まれて始めての試練ともいえる。

 そんな心配事が発表日まで続いたが、〝落ちた〟と思っていた友人の娘さんは、合格だった。わが子の合格よりも〝ほっ〟としたものだ。それでも息子の同級生で仲の良かった友人が不合格だった。田舎だからとはいえ、昔にくらべればそれぞれの道がある。わたしたちのころにくらべれば〝落ちる〟ということがそれほど〝恥ずかしい〟というほどの重石にはならなくなった節もある。それは、みなそれぞれの道へ歩むようになったことによって、「こうでならなければいけない」という道がなくなったからだ。不登校もいれば、将来を見据えて進学しない子どももいる。まさにさまざまである。

 息子の世代は、教育指導要領がもっとも手薄な時代であった。残念ながらもっとも勉強のできない世代かもしれない。何を目標にしてゆくか、いまだに見えていない息子を見ていてはがゆいばかりだが、果たして社会でバカ扱いされなければよいが、と思うばかりだ。

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