Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

店員の対応

2006-10-31 08:09:48 | ひとから学ぶ
 「いらっしゃいませ」と連呼する店もあれば、無言で迎え入れてくれる昔風の店もある。あまり買い物というものをしないから、店の対応のさまざまをあまり認識しないわたしではある。「いらっしゃいませ」をやたらと連呼されると、口だけだということは自ずと認識してしまう。店の対応というものは多様である。子どものころのイメージなら、子どもがやってきたとしても「いらっしゃいませ」なんていう言葉はなかった。無言であった。子どもだから、あまり意識的に迎えてくれるとものおじしてしまうものだ。だから、「無言」が一番だった。そんな経験があるから、店に入っても「いらっしゃいませ」と言われるのは好きではない。

 「いらっしゃいませ」という言葉がそれほど連呼されなくとも、近くに寄ってきて近くにある製品をから察知して「○○をお探しですか」なんていう言葉を盛んに言うのが電気屋さんだ。これもまた、勘弁したいもので、聞きたいことがあればこちらから聞くものだ。話したくないのにいろいろ言われると、店を変えたくなったりする。そんな客の心理的な部分を、大型店なんかは研究しているのだろうか。とはいえ、人によってその捉え方は違うし、客が何を求めているか、あるいはどういう雰囲気なら納得してもらえるかを、客の顔や態度をみながら接することになるのだろう。

 さて、先日飯田市にある専門店を訪れた。この店には無言でカウンターに立っている若い女性の店員がいる。無言は良いのだが、物をカウンターに持っていってもほとんど会話もなく、加えて愛想が悪い。「何が気に入らなくてそんなに無愛想なんだ・・・」と言いたいくらいに無反応だ。若い女性ならなんでも良いというものではない。だから、この店を訪れると、できればその女性がいないで欲しい、いるとすれば他の人の対応をしている間に違う人に「これをください」と言ったりする。最悪なのは、そう言ったにもかかわらず、無愛想な女性に案内されてしまうと、買うのを辞めたくなったりする。店もよくこんな人をカウンターにいさせると思ってしまうが、そのくらいならその店で買わなければよい、ということになるが、専門店だからそこに行かないと「ない」ものがある。

 もうひとつ、喫茶店でオーダーしたところ、店員が間違って違うものを持ってきた。中にはそんなことを嫌味にいう客はいるだろうが、わたしにはそんな店員の方が接しやすい。つまるところ、弱いところを見せられてしまうと、逆にこちらが優しくなってしまうものだ。そうならない人もいるだろうが、性格的にわたしはそんな部分がある。ある意味「損」をするタイプなのかもしれないが、それだけ客というものは同じではないということだ。
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山作業

2006-10-30 07:12:25 | 農村環境
 昨日は区有林の山作業であった。一年に一度、区会に入っている者は必ず割り当てが来る。区会に入っているというよりは、自治会に入っているとそのまま区会にも入ることになる。自治会にくる割り当てが年に6回余ほどである。その割り当ての日に、隣組ごとに割り当てをするもので、平均的な隣組なら割り当てに隣組から1人宛てぐらいである。これに出られない人は出不足金となる。また、予定していた日に出られない場合は、隣組の中で変わってもらったりする。

 前日の夜にだいぶ雨が降っていて、この日の予報も必ずしも良いものではなかったが、午前8時の開始時間には天気は良くなっていた。その後もしだいに日が当たるようになって、寒かったらつらい、と思っていたが割合温かい日で山作業日和だった。この時期の雨降りは、寒さが身にしみる。だから、この時期の山作業は、例年天候だけが気がかりなのだ。とくに山の作業といっても枝打ちなどが主な仕事になるため、上を見ながら行なう枝打ちは雨に向って作業をするため、カッパを着ていてもつらいものである。加えて雨の中の仕事となれば、体の動きは鈍くなる。30分くらい作業をしては15分ほど休むのだが、雨の中で休むのもこれまたつらいのだ。だから天候が良いことがなによりで、そんな日に割り当てだったら幸運といってもよい。

 さて、この日の作業は比較的まだ丈の低い檜の枝打ち作業であった。昨年は丈の高い檜を雨の中で枝打ちをするというまさしくつらい作業だったのだが、今日は昨年に比較すれば楽だったということになる。しかし、8時から3時までひたすら枝打ちということで、体の同じ部分だけを使っていると楽ではあるが普段にない疲れを感じるものだ。そんな山作業に参加するのは、10代から70代まで広範である。同じ仕事を両者が同じようにするのだから、高齢の方たちは大変なはずだ。後継ぎが家にいなければ、高齢でも出ないわけにはいかない。ある程度体が不自由だといって免除される人もいるが、大抵の家は免除ではない。わたしのように40代でもけっこう身体にこたえるのだから、高齢の人たちは大変だろう。今日も同じ自治会から80歳に近い人も参加していた。誰でも平等という観点はわかるが、高齢の家庭に対しての賦役の緩和というものがあってもよいのではないか、ということを少し感じたりしたわけだ。

 ちょうど紅葉が降りてきていた作業現場は、標高で千メートルほどである。枝打ちする前は暗かった木々の空間が、見事に明るくなった。

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右折方法

2006-10-29 00:23:32 | ひとから学ぶ
 交差点に限らず、右折する際の方法としてセンターライン側に寄って右折するのは常識である。右折する際には、30メートル手前で合図を出し、センターラインから50センチ以内に寄せていく。交差点で中央にマークがあれば、そのマークの内側を左前輪が通るように右折し、方向指示器は曲がり終わるまで点滅させる。というのが教習所で教わる曲がり方だっただろうか。交差点に限らず、目的の店とか家に入ろうとしてもセンターライン側に寄って右折するのは、わたしには常識だと思っている。時に前を走っている車が右折しようとして左に寄っていたりすると、気分はよくない。

 とそんなことを思うのは、こうしたセンターラインがあるような道路の場合、そこそこ道が広い。だから、センターライン側に寄ってさえいれば、その左側を後続の車がすり抜けることが可能だからだ。センターラインがある道路となれば、片側1車線は、2.75メートルはある。ということは乗用車なら、車幅1.75メートルくらいあれば、その横に約1メートルの空きがあることになる。もちろんこの隙間では車は通ることはできないだろう。しかし、時にそのスペースは広いことも多々ある。交差点ともなれば、当然横を通過するだけのスペースは余裕で生まれるはずなのだ。軽自動車同志であれば、2.75メートルあれば交差点でなくとも横を抜けられる可能性は大きい。渋滞を引き起こさないためにも、曲がろうとする車が後続の車のために、できうる限りのスペース、あるいは環境をもたらせてあげるのも思いやりというものである。

 おそらく警察でも教習所でもそんな運転の思いやりなど教えはしないかもしれない。しかし、車がこれだけ世の中に多くなれば、そんな気持ちがなくしては渋滞ばかりである。なにより心がけなければならないことは、右折する際に対向車があって停止して待つ場合は、車体を傾けることなく、まっすぐ正面を向いたままセンターラインに沿って待つ。交差点であれば、なるべく前進して待つ。そんなところだろうか。余談であるが、左折する際に右に身体を振って曲がろうとする人がけっこういるが、これも後続車や対向車からみれば身勝手な動きであることに変わりない。大型車であっても左折する際に右に車体を振ると教習官に叱られる。交差する車線が狭くて入れないのならともかく、そうでないとすれば自分の身の大きさを認識して、左折する側の道路内で調整していくのが普通なのである。大型車ならやって良いのだとわたしは勘違いしていて、大型車の教習の際に見事に叱られたものだ。

 参照「もっとも安全な右折方法
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消えた村をもう一度⑪

2006-10-28 13:25:59 | 歴史から学ぶ
 自治体が合併してつけられるすっとぼけた名前は勘弁して欲しい、というのは当事者じゃないんだから無関係なわたしが言うのは筋違いではあるが、そうはいってももうすこし考えてほしいものだ、という気持ちがあることは以前触れたことがあった。かつて小県郡東部町という町があった。今風に言うなら、山梨県にある中央市に近いイメージである。ようは、名前だけ聞いてもどこにある自治体なのかまったくわからないわけだ。平成の大合併によってそんな意味不明、いや、位置不明な自治体名がわんさかと生まれた。かつての自治体名を使って「旧○○町」なんていう表現をしてもらえればすぐに位置がわかるのに、今や大きな枠の一部になってしまってなかなか見当もつかない。加えて新しい自治体名をつけた場所は、頭の中をスーッと通り過ぎて行くだけだ。経験というか長い間生きていると、まったく知らない地の自治体名でも、なんとなく「あの辺にあったなー」なんていう認識ができていたものだ。まるでかつて教わった地理が白紙になったみたいである。

 さて、そんな東部町は、上田市の東にあったからそんな名前になったのだろうか。昭和31年の合併の際の旧町村は、田中町、弥津村、和村の3町村だった。「東部」などという名前が出てくる背景はどこにもないわけだ。そして、平成の大合併において、郡を越えた隣接地にあった北佐久郡北御牧村と合併して「東御市」となった。3万人を少し越えている小さな市が誕生した。名前のごとく二つの町村の一字をとってつけたという、ありがちな名前である。読みもそのまま今までの読みをとって付けた「とうみ」である。

 昭和60年に送っていただいたパンフレットは、A5版16ページのもので、北国街道海野宿の写真が表紙を飾る。そして、湯の丸高原である。町名には似ず、興味深い空間があって何度も訪れている。また、江戸時代の名大関といわれる雷電為衛門の生まれ故郷としてもよく知られている。21年間の勝率が96.2パーセントといわれているから、今で言うなら朝青龍なんていう比ではない。ちょうどこの雷電の生家のある金子から湯の丸を経て群馬県の長野原に通じる道沿いには百体観音といわれる石仏が建てられていて、そんな石仏を今は亡き上田の知人と一緒に歩いたこともあった。

 写真は「金井の火祭り」あるいは「石尊の火祭り」といわれる祭りの写真である。この祭りは、金井地区の北のはずれにある「石尊大権現」の碑(寛政9年建立)の前の辻でおこなわれる。毎年7月27日に行なわれていたもので、祭りに参加するのは村の10歳から15歳の男の子に限られていた。石尊の辻に、高さ10メートルほどの三角錐状のやぐらをつくり、この中にワラなどをつめておく。そして、この火をもやそうとする青年と、この火を消そうとする子どもたちで攻防がくりひろげられるのである。そんな攻防の一場面である。この火祭りは村の水利が悪く、火災よけを祈願したものとも、かつて水害で集落が流された時になくなった人たちの慰霊の意味、あるいは虫送りの意味もあるという。この日、家々では「おやき」をつくる習わしになっているという。撮影したのは昭和61年の7月27日である。午後6時過ぎ、石尊の辻から集落の下のほうまで藁の束を立てかけていき、今度は下の辻からその藁の束に火を点けて石尊の辻まで太鼓と鉦を叩きながら上って行くのである。午後7時ごろから付け合いの攻防となるのだが、この年は攻防の時間が短く、すぐに火が点いてしまったことを思い出す。点きが早い年には、藁の積み方が悪いなどということをいわれるようで、毎年の攻防の様子でその年が占われているようにも見えたものだ。



 消えた村をもう一度⑩
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リンドウ

2006-10-27 08:18:27 | 自然から学ぶ
 近くのため池にリンドウが咲いていた。リンドウを県花とする県は長野県だけなのかと思っていたら、熊本県もそうだという。県花とはいうものの、ちまたでリンドウを見ることはとても少なくなった。妻の実家の裏にあるため池でも数年前に見たが、最近は見ていない。管理のために草刈をする時期によっては、姿をみないまま秋が過ぎてしまうようだ。田んぼの土手でこの花を見た記憶は、子どものころのことで、もう何十年とない。やはりため池周辺がもっとも生育環境としては良いようだ。

 リンドウはリンドウ科リンドウ属の多年生植物であるが、品種がいろいろあるともいい、園芸種なんかも宅地の庭に咲いていることもある。しかし、自生しているものが少ないことは確かだ。山が紅葉を始めると、青紫のリンドウが咲き始めるわけで、赤や黄色の野山に映える。同属植物の根および根茎を乾燥したものを竜胆といい、苦味健胃薬としてヨーロッパ産のゲンチアナ同様に用いられるという。この竜胆に由来してリンドウと呼ばれるようだ。

 先にも触れたように県花であるということから、子どものころから覚えさせられた花である。だから、かつてなら長野県人ならリンドウのことをみな知っていたが、今の子どもたちにはどうなのだろう。里山ばかり長野県だから、リンドウがイメージとしては似合うのかも知れないが、その現物を目にできなくなると、親しみは薄れるのだろう。県花と同様に県鳥として指定されているライチョウにいたっては、名前は知っていても見たこともない人がほとんどかもしれない。ちまたには県○○に限らず、町○○とか村○○なんていうものもそれぞれ決められていたりする。その意図がどういうものなのか、大方の人たちは知らないことだろう。象徴としてそんなものが指定されているのも、大切にする、あるいは親しみを持つという意味では良いことなのかもしれないが、指定している以上は、例えば希少になるのなら保存する活動が必要だろうし、またいずれ希少になるのならあらかじめ認識を高めていくくらいのことはあって当然なのだろうが、現実的にはなかなかそんな活動は行なわれていない。では、何のための指定なのかということにもなる。どこにでもあるそんな県○○なるものの意図を教えて欲しいものだ。
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教育が悪いのか社会が悪いのか

2006-10-26 08:12:59 | ひとから学ぶ
信濃毎日新聞10/25付に「いじめへの取り組み 県教委が徹底を通知」という小さな記事がある。不自然な内容というものはよくあるし、どういう数字なのか不明な数字が新聞に並んでいることは、さして珍しい話ではない。 2004年度に、長野県教委が小中高校30校(3818人)を抽出して行ったアンケートによると、2学期になって、「仲間はずれや無視、かげ口を言われる」と回答したのは36.4%、「嫌がらせやいたずらをされる」は2.3.3%、「お金や物をとられたり、ひどくたたかれたり、けられたりする」は12.2%だったという。3818人の12.2パーセントというと、466人になるわけだが、記事にはこんなことが書かれている。

 「県教委によると、2005年度、県内の児童・生徒に対するいじめは、小学校が40件(前年度比12件増)、中学校72件(同9件減)、高校19件(同4件増)の計131件。」

 計131件の「いじめ」という件数とは何か、ということになるわけで、もし、前述の「お金や物をとられたり、ひどくたたかれたり、けられたりする」が「いじめ」とされればこの数字の誤差は何なのか、ということになる。もちろんここでいう「いじめ」の件数というものが、教育委員会などに報告されたものなのだろうが、新聞紙上にそんな説明などまったくありはしない。どれほどこの件数といって取り上げている数字がこの記事に必要なのかよくわからないが、記事の中身からそれらを理解することはできない。

 安倍首相は教育改革を主な施策としてとりあげている。加えてちまたの世論でいけば、教育基本法の改正は「あたりまえ」のような流れさえある。はたして教育はどこへ行くのか、ということになる。知人は「教育改革とは何か」のなかで、「現政権は、そもそも今の教育の何に問題があり、改革しなければいけないというのだろう。初めに改革ありきで、問題が後からこじつけされていないだろうか。そもそも、社会現象としてある問題点を、これまでもそうであるが、教育という狭い土俵の中に囲いこみ、その中だけの責任と問題として処理しようとしていることが、教育現場に携わる者としては我慢がならんのである。定職につかない若者の増加を教育の責任と言う前に、魅力ある正規就業と企業に正規就業を促す努力を政治がしてきたかを問いたい。目先に都合のよい政策を執行しておきながら、そこから生じた矛盾を教育の責任に帰するのは、あまりのご都合主義ではないでしょうか。」と述べている。世の中が教育へ責任転嫁しようとしている気配は確かにある。加えて、このところの教育現場での問題発覚に関する報道である。まさに安倍首相の方向性を正当化していくための世論付けのような報道の流れである。「もう教育改革しかない・・・」というような雰囲気を作り出している。

 息子は数年前までは教員という職業がひとつの将来の目標でもあった。ところが、今は「なりたくない」という。中学生くらいになれば、教育現場の問題を肌身で感じている。加えて、「生徒の中で先生の悪口ばかりで、そんな先生になりたいなんて思えない」ということになる。当初は性格上教員が合わなくてそう言っているのかと思っていたが、どうもそうではなく、あまりの生徒と先生の不理解で、教員に嫌気がさしているのだろう。祖父やおじさんが教員であるということから、良いイメージを持っていたのに、そのイメージは地に落ちてしまったわけだ。もちろんそんな考えを持つ時期もあるのだろうが、それを乗り越えて再び教員になろうなんていう環境は、その先にはまったく見えないわけだ。

 学校評価はもちろん、教員の免許更新制度なんていうものが出てきた際に、まともな人間関係が教員の世界に成り立っていくとは思えない。今でも教員と聞いただけで抵抗感を持つ人は田舎には多い。「教員なんてろくなもんじゃねー」なんていう言葉を口にする人も、昔ほどではないが今でも時にはいる。それは教員だけに限ったことではなく、何の職業に対しても気に食わないことがあればそういう物言いで語られることは珍しいことではない。だから、そんな抵抗感を気にしていては何もできはしない。しかし、これほど教員を取り巻く状況が変わってきたら、教員のなり手がいなくなるだろう。教員はわたしの会社環境に比較すれば転勤が少ない。もちろん偉くなればそれなりの転勤というものがつきまとうのは仕方ないが、それでもわが社の環境に比較すれば、地元に暮らせるという印象がある。だから、地域に暮らすには教員という仕事はよい仕事だと思っている。今や郵便局や農協は消えそうだし、かつて地域に分散していた多くの公共機関が消えてしまっている。だから地域の仕事が限られてきている。そういう視点に立てば、教員も数少ない地域に必要な職業なのだ。しかし、どう考えてもこのままいったら産婦人科医と同じ道を歩むに違いない。いや、精神的にもたなくなる職業になり、それこそ奈良市であった病欠職員ではないが、まともな教育現場は保てなくなるかもしれない。そんな環境への危機感など、今の教育改革路線にはないようだ。教育が悪いわけではない、社会が悪くてこんな状況を作り出しているのだ。
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烏帽子岳

2006-10-25 08:07:32 | つぶやき


 烏帽子岳という山は全国にいくつもある。最も知られているのは北アルプスの烏帽子岳(2,628m)だろうか。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にも「烏帽子岳」という項目があって、そこで紹介されているものは北アルプスの山である。

 烏帽子とは、平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のことをいう。この烏帽子のような形をしていると「烏帽子岳」と名づけられるため、あちこちにそうした山が存在するのだ。北海道の道央にある烏帽子岳は1,110mほど、阿蘇にある烏帽子は1,337m、群馬県の榛名山は別に烏帽子岳といわれるようで、1,363mである。蔵王の烏帽子には後烏帽子(1,681m)と前烏帽子(1,402m)があるという。このほかにも佐世保富士といわれる烏帽子や、鈴鹿北部の烏帽子などたくさんある。

 さて、我が家からも烏帽子岳がよく見える。もっとも近いところにある2,000mを越える山である。上伊那郡飯島町と下伊那郡松川町の境にある山で、この頂からさらに奥へ入ると念丈岳、越百岳を経て南駒ケ岳の嶺まで続く。2,000mを越える山であるが、比較的短い時間で登ることができる。とはいえ、優しい山ではない。この山への登山道は、飯島町側と松川町側とからあり、一般的には松川側からの道がよく利用される。それは、車で1,150mまで登れるからだ。鳩打峠といわれる峠まで車で上がることができ、そこにある駐車場から登山道を登るわけだ。それでもゆっくり往復すれば、7時間近くはかかる。とくに山頂近くには烏帽子岩といわれる岩壁があって、鎖のお世話になる。

 すぐそこに見える山なのだが、この山に登ったことは一度だけである。地域の行事に参加して登ったのだが、あいにく山頂ではガスが出てしまい、下界を望むことができなかった。息子と登ったのだが、まだ小学生3年か4年のころだった。いつかもう一度と思っているうちに何年も経過してしまい、今ではいつ次に登れるかはまったく予想もつかない。それでも間近に見えている山だから、登ってぜひ我が家を望みたいのだ。日帰りの山としては手軽なようで、土日というと愛知方面からの車がやってきては登る人がけっこういる。鳩打峠からの最初の頂が小八郎岳という山で、この山頂なら1時間余で往復できる。烏帽子岳の前山のようなもので、この山も見晴らしがよい。途中にササユリの自生地があったりする。

 写真はそんな烏帽子岳をバックに山ラッキョウを撮影したものである。この烏帽子岳は、中央自動車道の松川インターを北に進むと、まさしく烏帽子のように尖った山が見えてくるからすぐにわかる。
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地域にとって必要なこととは?

2006-10-24 08:14:18 | 農村環境
 先日「県境域の山間の村」でも触れた信濃毎日新聞の〝民が立つ〟と題した記事は、下伊那南西部の根深い問題を日々綴っている。あたかも特殊事情ととらわれがちなこの地域であるが、果たして本当に特殊なのか、あるいはどこでも同じなのか、客観的な目で見ても難しいことと思う。

 10/22付同新聞において、知事が変わって再び始まった県庁詣でに出向いた下伊那南部地区町村議長5人の、知事陳情について触れている。陳情内容は地図上で難所などを示して国道改良などの提言をしたというが、知事の反応は意外だったという。「選挙の時、サーと入っただけですが、割合よく整備された部分が大きい地域ですね。長野市の近くでも、走るのが命懸けというところが山ほどあります」という知事の反応に、恐らく「そー言うの・・・」くらいにびっくりしたに違いない。ご存知の通り、山間部と平地部では、まずもって空間感覚によって道路イメージが異なる。同じ幅でも平地の方が広く感じるのは当たり前で、より広く整備をしないと山間部の道は安全だと言う印象に至らない。とくに運転する側の差は、山間においてこそ出る。慣れている人は山間の道でもすばやい走りをするが、そうでない人はゆっくりである。当たり前のことではあるのだが、それほど山間の道は、人によって印象が違う。整備がされているのかそうでないのかは、歴然な差がなければ捉え方は微妙である。だから、村井知事の口から出た印象もけして間違いではないだろう。

 下伊那郡という地域が香川県を越える広さがあるということは、よく比較として利用されている。その地域をほぼ理解しているわたしは、長野県内の他地域にも勤務したし、仕事以外にもほぼ全域を歩いている。だから県内の事情はほぼ認識していると思っている。そんなわたしの経験で道路事情に触れてみよう。幹線道路、いわゆる国道の整備事情からいけば、県内それほど差はないだろう。ただ、国道に昇格していくそれまでの県道というものもあって、そうした昇格したばかりの国道はどうしても整備は進んでいない。それもまた当たり前のことである。各町村役場までの道路事情はどうか、と捉えた場合、村井知事がいうように、長野市周辺でも下伊那地域より事情が悪いと思われる地域は確かにある。たとえば信濃町に向う道は、一般的には坂下トンネルをくぐって旧牟礼村の山麓よりを走って行く道である。もちろん信濃町にはインターがあることから、必ずしもその道だけではないのだが、長野市からの最短の道は、前者である。その前者の道は、今でも片側1車線が確保できていない道がずいぶんあって、峠は二つ越える。夏場はともかく、冬季の道路事情はさらに悪化する。現在は長野市に合併してしまったが、旧戸隠村や鬼無里村に向う道も同様に必ずしも整備済みとは言いがたいものがあった。下伊那郡内において役場までの道が片側1車線確保されていない町村は、局所的にはともかくほとんどない。よく整備されているという印象を受けても仕方ない。県内を見渡したとき、そんな視点でみると、他地域にはそういう町村がまだある。

 では、役場からの生活道路はどうか、とみてみれば、これもまた必ずしも下伊那郡域だけ特殊であるとはとてもいえない。中条村にしても信州新町にしても、幹線である国県道から町村道に入れば、とても狭い。木曽谷の各地域が険しいことは言うまでもない。そしてそういう村々が財政的に困難を来たしていることは同じである。ただ言えることは、受け皿としての大都市が近在にあるかないか、ということになるのだろう。結局は将来の財政的な背景が影響してくる。中条村も信州新町も、長野市への合併という最終手段を持っている。そこにいくと下伊那郡域はどうだろう。この財政的に厳しい広大な地域を受けて立とうというほどの力が、飯田市にあるだろうか。ないからこそ、みな不安を感じている。地域ごとの背景、環境が違うからこそそれぞれの特殊性となるのだろう。それを認識した上で、他地域と違う道路事情を語らなければ、村井知事の反応に答えられないのかもしれない。

 長野市で通った歯科医の助手さんがこんなことを言った。「お家は下伊那ですか。いいところですね。よく売木村のオートキャンプ場に行きます。とてもよいキャンプ場で何度も行きました。」と。このキャンプ場は県で造成した星の森オートキャンプ場のことで、飯田インターを降りてキャンプ場までの道は山間の道ではあるものの、片側1車線がほぼ確保されていて、快適にこの県境域の場所までたどり着くことができる。なかなかそうしたすべての面でよく整備された施設は見当たらない。山間地域であるということとともに、そこはけして雪が深くなく、温かい地域という好印象が、北の人たちには持たれているのである。現実的にどうなのか、ということはあるが、必ずしも道路整備が地域事情を好転させて行くとは限らない。道路を造ったために、みな地域を出て行ってしまったという話をやまほど聞いてきた。地域ごと事情は異なる。そんな異なった環境の中でどう生活基盤を維持整備していくか、それは長野県内どこも同じ課題なのだろう。
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丸尾のブナ

2006-10-23 12:39:13 | 自然から学ぶ


 陣馬形山登山道の途中に大きなブナの木がある。ブナそのものがこの山では珍しいのだが、その中に忽然と大木が現れる。胴回り6.45メートルというブナの木はそうあるものではない。日本の巨木百選に選ばれているブナの木からみると、1位の秋田県「日本一のブナ」が8.60メートル。2位の同じ秋田県「あがりこ大王」が7.62メートル。3位の飯山市「森太郎」が5.34メートル。4位の秋田県「白神のシンボル」が4.85メートルということで、それらに引けをとらない大きなブナの木なのである。「丸尾のブナ」と呼ばれるこの大木は、樹齢600年と推定されている。木の横に建てられている看板の由来には次のように書かれている。

 文明元年(1469)丸尾村、宮澤播磨源宗長の代 このブナの木を御神木と定め、根元へ祠を建立す。
 諏訪大社の御神体として薙鎌をこの祠へ祭りブナの木明神と称して毎年三月初めの酉の日を祭日として祝い祭ってきたが、明治初年、丸尾熊野神社へ移奉す。

 宮沢家は、山の麓にあたる丸尾村のオヤカタさまだった。文化期に山の境界争いが起きて訴訟になり、その検分にきた幕府の役人を案内して陣馬形山へ登った折に、このブナの木の元で休息したといわれる。

 標高1280メートルにあるこの木は、現在でも目の良い人がみれば遠くから確認できるのかもしれないが、周辺の木々に混ざってしまっていて、わたしには山の中からこの大木を見つけることはできない。かつては芝刈り山だった陣馬形山には、現在のように木がたくさんなかったという。そのころには、麓からもこの大木を確認できたという話をよく聞くことができる。

 宮沢家所有の土地、木であったが、戦後に丸尾地区の共有物になった。その後中川村へ所有権は移転されている。息子が小学生だったころ地元の山が治山工事で登れないということで、自分たちの家が見られる山へ登りたいと、この山へ地区のPTA活動で登ったことがあった。その当時は木に登ったりして記念撮影をしたものだが、現在は木の周辺に柵が張られ、木の保全措置がとられている。

 陣馬形山の紅葉が始まり、今はこのブナの木のあたりまで下りてきている。それほど奇麗な紅葉ではないのだが、時折真っ赤に染まった木々を見ることができる。林道黒牛折草峠線という道が整備されていて、その道沿いから上ると100メートルほどのところにこの大木がある。だから登山道を下から登らなくともこの木にたどり着くことはできる。その車道からの入り口に、赤く染まった木があった。そして山椒の実が赤くなっている。



 撮影 2006.10.22
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ため池を見に行こう

2006-10-22 09:44:38 | 自然から学ぶ


 ため池というものは、本当に興味深い施設であるということを、あらためて実感している。近在にあるため池を三つほど廻ってみた。この時期ともなると、水を落としているため池がほとんどである。普段なら水面が高く、あまり目の届かないような空間を観察すると、意外な一面が見えたりする。飯島町本郷にある本郷堤も、斜樋の最低部にある栓が抜かれ、ため池内に足を踏み入れることができる。当然満水面から上にしか草花は咲いていないのだが、そのすぐ上あたりにセンブリの姿が何株もあるのだ。先ごろセンブリのことに触れたが、意外にも人家が近くにあるようなため池でその姿を見ることができた。あまり長い間姿を見なかったこともあって、世の中から消えてしまったのかと思うと、そうでもないということを知り、しっかり探してみるとけっこうまだまだ生育している場所があることを知った。とくにこの堤にはまだ丈は小さいが、株の数はけっこう多い。思わず採りたい、なんて思ったが、控えた。

 ため池を廻ってみて驚いたのは、どのため池にもワレモコウが咲いているのである。本郷の堤からそう遠くない針ケ平の堤は、堤体の上が道路になっていて、そこそこ自動車が通る。そんな道端のため池法面にも、ワレモコウが数は多くないが咲いていて意外であった。その近くにはセイタカアワダチソウが賑やかに咲いていて、どうみても外来種が目立っているのだが・・・。ワレモコウそのものも巷から姿を消している。いや、これもまたわたしの認識不足で、実は観察力の低さなのかもしれない。

 三つのため池に共通して見ごろの花は、このワレモコウとヤマラッキョウである。こちらもまたそれほどどこにでも咲いているというものではない。ため池に、なぜこうも田んぼの土手では少なくなってしまった植物が残っているかということが気になるのだが、明らかに管理の仕方にあるのだろう。田んぼの場合は、草の丈を伸ばしていると稲が病気になったりしてしまう。そういうことを回避するためにも伸びれば刈るということを繰り返す。そしてその刈りかたも、草刈機を利用するから丸坊主に近い。あまりに管理しすぎれば、植物相は単一化してくる。仕方のないことではあるが、そんな環境の差が、ため池との違いになる。ため池の土手草が刈られるのは、年に2、3回程度だろう。その程度の草刈が、植物を多様にするにはちょうど良いのかもしれない。

 写真は左から本郷堤のマツムシソウ・同ヤマラッキョウ・針ケ平堤のワレモコウである。
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屋根上のツメレンゲ

2006-10-21 13:11:49 | 自然から学ぶ


 ツメレンゲについては何度も触れてきた。『秋の花百選』(山と渓谷社)によると、ベンケイソウ科のこの花は、日当たりのよい海岸の岩場や屋根の上、野山の岩などに生える草で、花茎が伸びるまではロゼットになっている、という。今まで触れてきたツメレンゲは、石垣の合い間に茎を伸ばしているものであったが、ここで紹介されているように屋根の上に生育しているものもある。写真はまさにそんなものを撮影したものである。真新しい瓦屋根に生育することはないが、古い建物の、少し土が隙間に溜まっていたり、苔がつき始めたりすると、そんな場所に茎を伸ばしていたりする。この写真の場合、瓦がセメントで造られたもので、以前はセメン瓦といわれてよく利用されていた。今ではこんな瓦は製造されていないのだろうが、かつては安いということもあってこうした瓦が使われた時期があった。とくにそんな瓦屋根を注意深くみてみると、ツメレンゲの姿を見ることがある。

 この写真のツメレンゲは、下伊那郡松川町の天竜川宮ケ瀬橋の生田側に渡ったところに咲いている。この宮ケ瀬橋を利用することが多く、川西から川東に渡る際に、ほぼ正面左より小さな建物があって、その建物の屋根に咲いているのである。急カーブの外側の道沿いに建物が面しているため、目にしやすい場所にある。だからもう何年も前からこの建物の屋根にツメレンゲが咲いていることは認識していた。ところが、ことしはその姿がなかなか運転しながら見えないので、どうしたのだろうと車を止めてわざわざ確認してみた。株の数は明らかに減っているが、数株を確認した。割合日当たりの悪い場所で、まだ花が咲くまで至っていなかったが、建物の北側の屋根まで観察してみると写真のような少し花が開いた株があった。数年前は道端の屋根にたくさんのツメレンゲの姿が見えていたが、減ったのはどういう影響なのだろう。本来なら日当たりのよい場所に咲くのだろうから、環境からいけばあまり良好とはいえない場所なのかもしれない。1から3年の生育後に花が咲くというから、毎年同じように咲くわけではないようだ。

 ■ニョキニョキとツメレンゲ咲く
 ■ツメレンゲ咲く
 ■道端のツメレンゲ
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県境域の山間の村

2006-10-20 08:17:49 | 農村環境
 最近信濃毎日新聞において、〝民が立つ〟と題した記事で「自立という問いー下伊那南西部」を特集している。合併したくとも財政状況が悪すぎて、あるいは立地が悪すぎて合併できない地域が、どう自立していけばよいのか、その現実の姿を追っているわけだ。合併してもしなくても先が見えている。大規模な郡下統一の合併ならともかく、部分的に合併したとしても、結局こぼれてしまうような村、地域がどうしてもある。小さく合併しても倒れてしまうのが見え見えで、悩みは奥深い。

 10月18日付の記事では、天龍村の事情に触れている。現在の下伊那郡を見渡したとき、中心部にある飯田市からもっとも時間がかかるのが天龍村だろう。同じくらい遠かった南信濃村は飯田市に合併してしまった。似たかよったかの時間を要する村が根羽村、売木村、大鹿村あたりだろうか。このうち、根羽村は名塩国道といわれた153号線が通過しており、名古屋と飯田を結ぶライン上にあるとともに、その道は山間地を通過してはいるものの、快適な山岳ドライブを醸し出してくれる。そのライン上にはないものの、売木村も根羽村隣接していて、名古屋方面からの利便性はよい。いっぽう大鹿村は飯田市に合併した遠山谷と同様、行き止まりの村という印象は否めない。同様に行き止まりという印象があるのが、天竜村なのだ。現実的に行き止まりではなくとも、名古屋方面からの道をたどると、阿南町新野から険しい道を入るか、飯田市側から向かうぐらいが一般的だ。なぜそうなるかといえば、通過して県外に通じる国道がなかったということに起因する。根羽方面の村々、いわゆる下伊那郡西部とはここが大きく違うのだ。天龍村に隣接する愛知県側は、豊根村である。それも最近までは島しょを除いてはもっとも小さいといわれた富山村がそこにはあった。現在は豊根村と合併してその村もなくなってしまったが、この一帯、いわゆる奥三河のまた奥まった地域は、行き止まり感が強い。結局県境という立地から、県境域より手前の地域の人たちには、それより向こうとの交流を必要としなかったことが、そうした行き止り感を創っていったわけだ。県境域の人たちが、そんなことは当たり前だと思って、自ら行き止り感を解消する行動を昔からとっていたら、こんな閉塞感は生まれなかったかもしれない。

 愛知県にあって、奥三河がどういう存在であったのか、ということも今思えば重要なポジションとなってくる。愛知県を標準的に言えば、長野県のような山国ではない地域である。確かに奥三河は長野県にあっても類まれなほど山国であるが、愛知県にとっての山国だったのだから、もっとその山国向かう道路が贅沢に整備されても良かったのではないか、という印象を受けるわけだ。そんな意味で、天龍村のような閉塞感のある地域は、当初より長野県を向くのではなく、愛知県を向いていたら、この閉塞感は解消されていたのかもしれない。今となっては想像にすぎないわけだが、では、これからどうするべきか、という問いに対しても、結局長野県の財政状況からみたとき、県に頼ってもどうにもならないという答えしか見出せない。

 こんな言い方が適正か疑問ではあるが、こうした地域の進むべき道は、①将来の道州制を前提にやはり南へアプローチする(道州制の枠組みが県単位で決められたとき、この地域は関東に入る可能性もあるため、その時は長野県を離脱することも視野に入れる必要がある)、②現在は無理でも、浜松市、あるいは奥三河圏への合併を視野に今から考えておく(県境域であるという実態から、南も北もそれほど方向性でいえば代わり映えしないかもしれないが、長野県の一員である飯田市よりもそうでない大きな地域圏の一員の方が、将来性は高いとおもわれる)、といったものではないだろうか。それほど県境域の山間には思い切った行動が必要なのではないだろうか。
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消えた村をもう一度⑩

2006-10-19 08:12:49 | 歴史から学ぶ
 上伊那郡での唯一の合併を成し遂げた旧伊那市・高遠町・長谷村は、新設合併という形で新たなる道を歩んでいる。しかしながら、もともとは3市町村に加え、辰野町・箕輪町・南箕輪村を加えた6市町村の合併協議から始まっている。ただ、立地上塩尻松本方面や、諏訪地方とも縁の深い辰野町や箕輪町にとっては、南に位置する伊那市を中心とした地域との合併は、気分的に違和感があったに違いない。これこそが、上伊那郡という地域に横たわっている方向性という問題だとわたしは認識している。一郡に二市がある地域は、どうしても一つにはなりにくい。加えて隣接地域とのかかわりが重要なポイントとなってくる。「北を向いていれば、とりあえず生活ができる」、そんなイメージがこの上伊那郡にはある。けして南は向かないし、南を向いていたら生活が後退していくような印象で捉えられていたりする。簡単に言えば南は馬鹿にされている、そんなところなのだ。

 必然的な3市町村の合併であったのだろうが、大変広範囲な地域であることには違いない。合併後の面積では、松本市、長野市に次いで、県内3番目である。なにより広大な長谷村を手中にしたということが面積を大きくする要因になっている。最高地点が、それまでは中央アルプスの将棋頭山(2730m)だったのだろうが、今では南アルプスの塩見岳になった。我が家から遠いことは遠いが、まっすぐ東側に見えている塩見岳が伊那市だと聞くと違和感を覚えるのはわたしだけではないだろう。

 6市町村合併協議の際の意向調査で合併反対が上回っていた高遠町は、同協議会解散後の南箕輪村を交えた4市町村合併協議の際の意向調査では圧倒的に賛成が多かった。そんなことがあって3市町村合併へ大きく進んでいったわけだが、新市の名前を決める際の投票でも「高遠市」が「伊那市」に迫るほどの得票をしていた。それほどこの「高遠」という名前が、伊那市の人々にも身近だったということ、また良いイメージで捉えられていたという結果だったのだろう。

 子どものころから、この高遠町には思い入れがあって、何度も訪れている。もちろん社会人になった後も、何度となくこの地を訪れた。その最たる目的は、昭和57年に送っていただいたパンフレットの表紙の片隅にも見えている石仏師「守屋貞治」の作品を訪れることであった。さかんにパンフレットでも触れられる田山花袋が詠んだ「たかとほは山裾のまち古きまちゆきあふ子等のうつくしき町」は、この町をよく著わしている。ご存知の通り、高遠小彼岸桜で有名な高遠であり、南信にあっては珍しく観光の町という印象は強い。桜がすばらしいことは言うまでもないが、いっぽうでその時期以外は観光客は少なく、この町を好んで訪れる人々にとっては落ち着いた印象がこの上ないのである。観光地といえば、よそ者によって風紀が乱されるということが多いのだが、この町はいつまでたっても田舎の町なのである。

 さて、石仏師守屋貞治は、明和2年(1765)に現在の高遠町長藤の塩供というところに生まれた。天保3年に亡くなるまで、生涯に336体の石仏を彫ったといわれている。その技術は類まれなもので、全国を見渡しても、同時代にこれほどの石仏は見られない。そんな貞治仏にひかれて、あちこちをめぐったものである。そして地元であるだけに、この高遠の地にたくさんの貞治仏が現存している。写真の石仏は願王地蔵尊といわれ、町の中にある建福寺という寺の本堂前にある。仏道の師匠と崇めた諏訪温泉寺の願王和尚が逝去された折に、和尚の霊にささげるような気持ちで彫った作品だといわれている。貞治最高傑作ともいわれている作品である。この写真を撮影したのは、昭和50年代のことである。当時はこんなイメージで写真を撮ることができたが、後に守屋家の後継といわれる守屋商会が風化を防ぐために、雨ざらしであった石仏の上部に架け屋根を設けたため、今ではうまい具合に写真は撮れない。なお、貞治の石仏を扱った「守屋貞治の石仏」というページがある。



 ついでに平成5年ころに、もう日が落ちる間際の高遠閣の二階から満開の桜を撮影した写真も載せておこう。夕日に逆らうような撮り方をしたのだが、濃いピンクが一段と深みを見せてくれていた。



 消えた村をもう一度⑨
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たった一輪のツリガネニンジン

2006-10-18 08:08:02 | 自然から学ぶ
 しばらく前から咲き始めたツリガネニンジンが見ごろなっている。キキョウ科のツリガネニンジンは、根が太くなって薬用ニンジンに似ている。そんなこともあって名がついているようで、実際薬用として利用されるようだ。加えて、若芽、若葉、花とそのほとんどが食べられるという。実際食べたことはないが、若芽なら春、花なら秋が旬ということになるのだろう。試してみたいものだ。山野に普通に見られる花ではあるが、それほど多く見ることはなくなった。淡い紫色は、とても控えめな雰囲気があっておとなしさを感じる。そのためだろうか、写真に納めるとなかなかその淡い色が表現できないのだ。これまたカメラのせいもあるのだろうが、デシタルカメラともなると、この淡い色はなかなか難しいのだ。「タムラソウ」でもそのことに触れたが、ツリガネニンジはさらに難しい。今も持っているものの、故障して完璧な機能を出せないでいる古いデシタルカメラ(フジ)で撮った時はその淡い紫が表現できたが、今使っている息子のカメラ(キャノン)では紫が飛んでしまい、白くなってしまう。単なる価格の違いかもしれないが、使ってみないとなかなかわからない部分である。

 ちなみに「日々を描く」No.7で紹介しているツリガネニンジンの写真はフィルムカメラで撮影したものをスキャンしたものだが、なかなかうまく撮れていると思っている。微妙な表現を細工なしで見せるには、やはりフィルムカメラかな、と思わせる。とくにこうした接写、あるいは光の表現というケースでは、近ごろはどうやっているのだろう、そんなことを思う。

 さて、写真は上伊那郡中川村の陣馬形山で撮影したものである。たった一輪しか花がついていないので、最初は花が咲いていることすら気がつかなかった。なぜ一輪しか残っていないのか、というところも疑問なのだが、周りにはほかにツリガネニンジンらしき姿はなかった。笹の間に顔を出していたのだが、里に咲いているものに比較すると茎が茶色っぽく太いので、ツリガネニンジンと断定することはわたしにはできない。しかし、明らかに花が輪生してついていたであろうことはうかがうことができる。その輪生していた花が取られてしまったということなのだろう。何段かにその輪生していた花は、この一輪を残してすべてなくなっている。何者かに取られてしまったという印象なのだが、おそらく人の手によって取られたということはないように思う。とすると何かの動物ということになるが、何かはわからない。1445メートルの頂上から少し下ったところの笹薮の中にあった一輪であり、すぐ横を頂上目指している誰もが、この花に気がつくことはなかった。それほど敷き詰められたような笹薮の中に溶け込んでいたのである。
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核武装から

2006-10-17 08:08:01 | ひとから学ぶ
 北朝鮮での核実験の問題が明らかになるとともに、「日本も核武装」なんていう言葉が該当インタビューで流れたり、ちまたでそんなことを言う政治家もいる、なんていう噂が流れていたので、いずれはそんな言葉をあからさまに言う政治家が表に出てくるだろうと予想していたら、意外にも早く中川自民党政調会長が「核武装〝大いに議論を〟」と語って、当然のごとくそれ対する批判の言葉もあがっている。非核三原則をうたっている日本が、戦争放棄どころか核までも自由な議論に載せようとしているのだから、大変なことだと思うわけだ。

 中川政調会長の語った「日本が攻められないようにするために、その選択肢として核(兵器の保有)ということも議論としてある。」という部分は国の先頭に立っている者としては、なかなか思い切った発言としか言いようがないわけだ。北朝鮮が国民がどんなに不幸になっても核を持つことが重要だと思う原点には、この中川政調会長が言葉と同じ意味を持っているに違いないわけで、核を持っていること=手を出せない、という意図があるわけだ。考えようには、明らかに武力には武力をもって抵抗する、という戦争ありきの姿が見えてくる。こんなことが通用する国だったとしたら、とても北朝鮮を批判する立場ではない。

 わたしがもっとも懸念するのは、そうした改憲も含めて核武装を肯定する世論が大きくなっていくことだ。
 「Reformers.jp」というページで核保有の是非についてアンケートをとっている。約9割の否定回答に対して1割の肯定回答がある。実はこのページに限らず、どこかのニュースでも報道されていたが、世論の流れでは現実的にこの程度の肯定者がいるようだ。かつて憲法9条を守ろうとした国民が多かったにもかかわらず、時代は改憲が当たり前という段階までやってきた。その多くは、攻められた時に何も抵抗せずにやられてよいのか・・・という論理にたどり着く。まさしくこの国の諸問題となんら変わらない。どんどん端的な、直結した理論にまとまっていく。悪は悪、そんな風潮だ。そしてその悪には武力を(その場合の武力には法整備も含む)もって抵抗する、そんな気風がある。それも致し方ない部分がある。多様になった意見は、白黒はっきりさせた対比にしか結論を出せなくなった。だから曖昧なものは必要ないのだ。核によってあれほどの被害を被ったのに、すでに核というものを利用しようとする国がそこには見え隠れするのだ。

 武力には武力を持って・・・という意見が大変強くなってきている以上、核武装を肯定する意見は増え続けるのだろう。同ページのコメントを少し読んでみても、肯定意見を寄せ集めれば、戦争肯定論になる。おそらく世界を見渡せばそんな意見は珍しいものでもないのだろう。懸念したところでどうにもならないほど、この国の民は自分本位ということになるのだろう。盛んに報道番組がそうした問題をとりあげながら、肯定論者を批判するが、否定すれば否定するほどその反対に民が向かっているように思えてきて仕方ない。


 改めて追加記事

 こういう内容のブログってけっこう多い。そしてトラックバックが来るようにそうした問題への意識もけっこうある。逆に言えば、「核武装とはなんだ」なんていう人たちは意識が低いか高いかといった二極の人たちなのかもしれない。だから、議論を交わせば交わすほどに、核武装肯定論はおそらく大きくなる。まず小さくなることはない。それを嫌がっているわけでもないが、言い換えれば「平和ボケ」といわれても仕方ない。そう考えれば核武装議論があっても良い、ということを思ってしまうのが平和ボケの国民なのかもしれない。

 しかし、被爆国というカードがなんら意味を持たない、というような意見が出る背景には、「今の世の中なんでもありで、そのための武装をするのは当たり前」という雰囲気がある。そんな風潮は、わたしには合わない。そんなにふだんの暮らしと世界事情を共有して語ることなんかできはしないし、いや、そんなことを常々考えている人たちに違和感を覚えたりする。

 考えてみれば、なし崩しばかりではない、必要あって軍備を整えてきた日本である。言葉と行動に矛盾が生まれて当然だし、それをなるべく訂正しようとする意図もあたりまえかもしれない。ただ、わたしの考えは、たとえやられてもそれが運命だと思えるくらいの意志がなくては戦争放棄も非核もありえないと思っている。力でお返ししようなんて思うのなら、常々その力を100パーセント発揮できるような訓練が必要だし、そうすればよい。だが、わたしはやられても力で返すなんていうことはちっとも考えていない。「上には上がいる」自分の力はこの程度、と認識している。それができないのなら戦争は絶対しない、という言葉は通じなくなる、そんな世の中になってきている。日本だけではない、世界の将来も、すでに見え始めている。わが社の命運と同じかな・・・。

 子どもたちに託す未来はない、なんてときに話すこともある。「子どもたちのために」なんて思っても、そんな世の中が先にあると、誰が声を大にして言えるだろう。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****