Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

下長井の大日如来像

2006-11-30 08:15:00 | 民俗学


 中条村下長井の寺地というところに大日如来の石像が3体並んでいる。3体とも智拳印を結ぶ大日如来である。真言宗では呪文を唱えると諸病が治り、安産をするという仏という。『中条村の石像文化財』によると、中条村内の大日如来は7体とあり、この下長井の属する日高という地域には3体を数える。しかし、それらは下長井ではなく、ほかの集落に存在する。したがってこの寺地にある大日如来は同書には見当たらないわけだ。さらには、同書に掲載されている写真から察すると、中条村にある大日如来は、どれも文字碑のようである。どの地区にも大日堂といわれるお堂があるものの、石像の大日如来は稀だということになる。

 当初仕事で下長井地区内を歩いていて、この3体が並ぶ姿を見た折に、同書のことを思い出してそこに記録されているだろうと期待していたのだが、調べてみると記載がない。まったくの畑の中の一部にその3体が置かれているわけで、どういう空間なんだろうと近くの方に聞いてみた。すると、かなり昔のことのようだが、ここに尼さんが住む小さなお堂があったという。のちにその尼さんは正面の犀川隔てた安庭の寺に移ったというが、詳しいことは聞いた方も高齢の方だったが、かなり昔のことで年寄から聞いた話だという。

 写真の3体のうち右端の像はちょっと雰囲気が違う。普通大日如来は宝冠をいただいているのだが、この像には宝冠がない。女性的でまさに尼さんが智拳印を結んでいるように見える。約4坪ほどの敷地に安置されているが、傾斜地の畑地内であってまわりからは見えないような場所である。左端のものは下の写真のように右足の裏を上に向けていて、その足の様子がリアルに彫られている。わざわざ天衣の上にあげて誇張しているようにも見えるが、何か意図があったのだろうか。

 さて、『中条村の石造文化財』は、行政が地域の人たちを中心にまとめた本である。こうした本はけっこう地域ごとたくさん出ているのだが、同書を開くと、石仏写真を羅列して資料的に載せているところはほかの書とそう変わりはないのだが、石仏だけではなく、集落の様子や里山の様子が掲載されていて、そうした写真はその地域を語る貴重なものとなっている。石仏に関する解説がなく残念な部分もあるが、写真集として見るには良い本となっている。

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子どもたちの写真

2006-11-29 08:16:00 | ひとから学ぶ
 須藤功さんの著した『写真ものがたり昭和の暮らし』(農文協)のことに触れたが、既に発行されているものに『子どもたち』というものがある。やはり昭和30年代から40年代の写真が中心となるが、「子どもたち」のこととなるとますます熊谷元一さんの世界となる。当時教員をされていた熊谷さんが撮影した会地村(現阿智村)の子どもたちの写真は、今までにも写真集としてたくさん発行されてきた。しかし、何度見てもその時代の子どもたちの姿がおおらかに描かれていて、飽きないし、童画の実写版という感じがする。この写真集に掲載されている写真の撮影者は、熊谷さんのほか、中俣正義さんや佐藤久太郎さんといったその時代の写真を多く発表されてきた方たちである。

 「どこもみな遊び場」を開くと、わたしにも記憶にある遊びの光景が展開されている。その時代はわたしにも共通する時代にあたるから、当たり前なのだが、それでも昭和30年近辺となると、わたしが盛んに遊んだ時代よりは少し前にあたる。だから認識外の光景もあれば認識内の光景もある。その中に「よくない遊び」という写真があって、秋田県横手市の昭和30年代の写真がある。2人の男の子が、線路に耳をあてているのである。「よくない」=危ないというケースなのだが、こんな遊びはわたしにも経験がある。今でこそ線路内で遊んでいる子どもなどいないし、もしいれば置石でもしているのか、と思われてしまう。いや、置石は絶対してはいけないことであるが、わたしにの記憶には小さな石を置いて様子をうかがったというものもある。もちろん運転手からは見えないほどの小さな石である。「よくない遊び」の解説に書かれているが、線路の上に五寸釘を置いて、汽車の車輪で釘を平らにする、なんていうことをすることも聞いたことはあるが実践したことはない。鉄を平らにするために考えた末の方法なのだろう。線路に耳をあてて何をするかといえば、電車が来るかどうかを音で探ったわけだ。生家から離れたところにある田んぼは、線路を越えた場所にあった。だから線路内に入るなんていうこともよくあった。鉄道が近くにない人にはこんな遊びの経験はないかもしれないが、線路が日常に登場するような場所に暮らすと、そんな遊びを経験することもあったはずだ。

 さて、「子どもと手伝い」を開くと、幼児をおんぶした写真がたくさん登場する。おんぶするのは母であり祖母であったり、兄や姉であったりする。子どもが少なくなったから兄弟をおんぶするなんていう姿はなかなか見なくなった。せいぜい抱っこくらいだろうか。写真を見ていてもう一つ気がつくことは、皆無とはいわないが、左利き子どもの姿が少ないということである。今なら子どもたちの普段を写したら、かなりの左利きの子どもたちが映し出されるはずだ。それがないのだ。いかにしつけのなかで修正されていたかということだろう。

 余談であるが、佐藤久太郎さんが撮影した昭和30年の行水の写真は、たらいで幼子が行水しているものである。もちろん夏の暑い日に行なわれているのだろうから、母親も上半身下着姿である。容姿端麗な母親の下着姿はドキッとするような写真である。
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北アルプスと霊園、そして団地

2006-11-28 08:10:58 | 自然から学ぶ


 先日松本市内へ行く途中で北アルプスが美しかったこともあって、写真にでも納めようと立ち止まった。いや、アルプスを納めようとしたというよりは、いつも通るこの道で、通るたびに意識している風景を納めようとした方が正しいかもしれない。加えたかたちでアルプスを・・・、と思ったわけだ。その写真がこれだ。東山山麓線が松本市中山へ入ったところから松本市街方面を撮影したものである。道下から中山丘陵に向って隙間なく家々が立ち並んでいる。埴原西地籍にできた棚峯町会である。松本市都市開発部開発課が造成から分譲まで手がけた公営の団地で、中山住宅地といった。昭和62年に分譲が始まり、実際に宅地化してきたのは、平成元年のころというから、これほど見事な団地の姿になったのは、それほど昔のことではない。4百以上の戸数が、忽然と現れたのである。

 この団地となった場所は、半僧原と言われ畑やブドウ園があったりしたが、多くは野原だったという。そんな場所だったから子どもたちの格好の遊び場だったともいう。「あんな場所に造って人がくるか」などという心配もあったが、順調にことは進んだようだ。時には松本のスイスなどといわれるほどで、北アルプスを望める高台にあるため、人気があったようである。この半僧原では、かつて競馬が行なわれたといい、半僧様の社が団地内の一角に置かれていて、団地の人たちの信仰のよりどころとなっている、などという話も聞いた。

 さて、写真で右前方に見えている丘陵は中山丘陵で、南斜面は広大な霊園となっている。市内の人々にもここに墓地を持っている人たちがいて、松本市民の霊園という印象がある。「中山」という地名からイメージすると、山の中という印象があるのだが、松本市中山は、美ヶ原西麓になだらかに展開する肥沃な場所であり、ほかの地域の中山とはイメージが異なる。なぜ西側に中山丘陵が独立して存在しているか、その地形の由来は知らないがおそらく断層活動に関連するものなのだろう。この山がなければ、中山から松本市内をよく望めるし、また松本市内から中山がよく見えるわけだ。その丘陵の南側にこの団地があって、団地の東側は崖となっていて、西側も牛伏川まで傾斜している。ようはこの団地が天井のような台地になっているのだが、実はこの団地の下を断層が走っている。牛伏寺断層といわれ、危険な部類に入る活断層である。おそらく造成時、あるいは分譲時に活断層を認識してここに住宅地を求めた人はほとんどいないのかもしれないが、今では住民のほとんどは認識されているはずだ。造成して売り出した松本市が、まさかの時にどういう対応をとるかは知らないが、心配な問題なのだろう。いずれにしても、この見事な地形条件の上に、これまた見事な住宅団地ができたものだと、通るたびに感心するのはわたしだけなのだろうか。北アルプスの山々、中山丘陵、そして断層上の団地群、とみごとに調和?している風景である。
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写真でみる年中行事

2006-11-27 08:20:22 | 民俗学
 須藤功さんの著した『写真ものがたり昭和の暮らし8 年中行事』(農文協)が発行された。昭和30年代から40年代の写真を中心に、戦後日本が大きく変化してゆく時代の姿がそこには繰り広げられている。とくに写真家であり童画家である熊谷元一さんの写真が多く取り上げられていて、それらの写真にはその時代の人々のおおらかな表情が写しだされている。前作『人生儀礼』に次ぐ8巻目であるが、須藤さんとの縁で、昭和も終わりに撮影した写真を前作と今回の作に掲載していただいた。昭和も終わりに撮影されたものと、戦後の過渡期に撮影されたものは、同じ昭和というものの大きな違いがある。最も異なるのは服装である。今回の8巻に採用していただいた山梨県牧丘町(現山梨市)の道祖神祭りの写真には、この一年に夫婦となった二組の若夫婦が、オカリヤに向って参拝している姿がある。そこに写っている若夫婦は、コートあるいはジャケットを着ているのだが、今年の写真といってもなんら疑われないような雰囲気である。しかし、昭和30年代を中心に掲載されている行事に関わっている人たちの姿は、時代が異なることははっきりと感じられるわけだ。そういう意味で、昭和といっても時代の中で大きく変化していることが写真からうかがうことができるわけだ。

 さて、民俗の世界でいう年中行事というものも、体感されない形式的なもの、という印象になってしまい、年中行事そのものも廃れ、加えて「年中行事」という言葉すら人々にはしっくりこないものになってしまっている。明治5年に太陽暦に改暦され、一年の流れは行政主体に変化させられたということになるのだろう。冒頭でも触れられているが、確かに一年13ヶ月の旧暦にくらべれば、12ヶ月の新暦の方が月給は1回少なくて済むわけだから、出す方にはありがたい制度であったはずだ。行政主導の暦の変化は、その後も細かく行なわれてきた。記憶に新しいところでは、祝日の新設や祝日の月曜制である。小正月であった1月15日がどれほど地方の人々に大事なものであったとしても、無視されて変更されたのは、まさに行政主導の安易な変更といっても差し支えなかっただろう。しかし、かつての旧暦から新暦への変更は、まだ農耕が主な生業となっていた時代には大変な混乱であったに違いないわけだ。そのなかで、両者の暦が混在されて使われたというのも、必然だったのだろう。今の時代に変更されたとしたら、旧暦の必要性もなく、新暦は受け入れられたに違いない。不思議なのは、今でも二十四節季といわれるそれぞれの節目を季語のようにニュースで触れられることである。実感できない季語を使って季節を知らしめているのだが、常にそんな季語を聞きながら違和感を覚えている国民が多いはずである。須藤さんも触れているが、「七夕は梅雨の時期で」と気象予報士が言ったりする場合の新暦の七夕は、確かに梅雨の時期ではあるものの、旧暦では8月19日で、天候の安定している時期だった。暦を必要としていた農耕社会に対して、形式的に日を刻むためだけにある今の経済社会とは、暦の考え方がまったく異なるわけだ。

 環境回帰ではないが、自然を考える中の一視点として、混乱している暦のあり方を考える必要性も感じるわけだ。

 表紙カバーを飾る写真も、熊谷元一さんが昭和25年に撮影した現阿智村の節分の豆まきのものである。一升枡に入った豆を子どもたちがまいている姿であるが、ごく普通の家庭での光景であったに違いない。しかし、今や家庭でこうした豆まきがどれほど行なわれているかも疑問である。立春前日の節分にこうした豆まきを行なったわけだが、旧暦でゆけば正月前にその日があたることもあったという。
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教育民俗学の再構築

2006-11-26 00:44:03 | 民俗学
 「教育民俗学の再構築―柳田民俗学の教育観を手がかりに」は、今年度の長野県民俗の会総会における記念講演の題名である。筑波大学の宮前耕史氏の講演であるが、要旨には「教育現象あるいは教育をめぐる諸問題に対する民俗研究者の関心は、一般的にきわめて低調である。一方、近年における教育学の柳田研究の成果によれば、柳田国男の「学問」は、「それ自体が教育の問題を中心としていた」〔関口敏美 1995 『柳田國男における「学問」の展開と教育観の形成』〕。すなわち、柳田は「『郷土研究』によって『地方を本位とする学問』を興し、地方住民の主体としての自覚を喚起して、『郷土研究』の過程が同時にまた主体形成の過程でもあるような『学問』」として、民俗学を構想していたのである〔関口 同〕。そこで、柳田の「自己省察の学」「内省の学」としての民俗学に対する規定をてがかりに、いわゆる「教育民俗学」を批判的に検討しつつ、民俗学を「自己形成の学」として最構想してゆくことの可能性、課題や方法について探りたい、というのである。

 この要旨を読んでもなかなか全体像というか意図が見え難いし、民俗学がどういうものなのか知らない人には、摩訶不思議な世界にみえるに違いない。そんな要旨を踏まえて、実際の講演の内容に触れてみるが、ますます不思議な世界に陥ってしまうのである。講演資料にある意図を見てみる。

 ①「内省」とは「文化や社会」を「対象化」すること、およびその仕方と方法であり、
 ②「民俗」とは柳田による内省(「文化や社会」の対象化)の結果として存在する。であるとすれば、「民俗」とは柳田による「内省」の結果として存在するという点で、そもそも認識論的な存在であり、柳田自身が、同時代において「社会や文化」を「対象化」し、「経験を対象化」してゆくに際してのみ意味をもちうる。
 ③ところが民俗学は、そのような柳田による「内省」の結果としてある認識論的存在としての「民俗」を、外在的実在として固定化・形式化してとらえ、外在的実在として固定化・形式化された、研究「対象」、「資料」としての「民俗」から、民俗学の科学性を追求してきた。
 ④そのため研究者の主体性、研究主体の問題意識・課題意識といった事がらは問われることはなかったが、
 ⑤近年、「民俗」とは柳田による「内省」の結果として存在するという、認識論的存在として「民俗」があるということが再認識されるにつれ、研究者の主体性、研究主体の問題意識・課題意識といった事がらが問われるようになってきた。
 ⑥しかし、そもそも、研究者の主体性、研究主体の問題意識、課題意識といった事がらは、「内的生活体験」にもとづく「私的な、主観的なもの」にすぎない。
 ⑦この「内的生活体験」にもとづく「私的な、主観的な」ものにすぎない研究者の主体性、研究主体の問題意識、課題意識といった事がらが「社会性・客観性」とを獲得するがためには、歴史的存在、社会的存在としての「自己」を「対象化」してゆく必要がある。
 ⑧民俗学とは、研究主体に、「自己」を「歴史的存在、社会的存在」として「対象化」してゆくことを厳しく求めるという点で、本質的に「教育論」である。
 ⑨「教育民俗学」を、このような「教育論」としてある「民俗学」という立場から、再構築してゆく必要がある。

 以上のようである。外在的実在として固定化・形式化して捉えてきたため、研究者の主体性、研究主体の問題意識・課題意識が問われなかったというのはわかる。しかし、では社会や文化を対象化したり、経験を対象化してゆくことが「民俗」という名をつけられるものなのかどうかは、しっくりこないのである。質疑の中でもあったが、⑧に示している自己を歴史的存在、社会的存在として対象化してゆくこと=教育論というが、それは民俗学に限ったことではなく、歴史学などほかの分野も同様ではないか、ということになる。そして、さらに宮前氏は、「民俗学でいわれる伝承性とはどうかかわってくるのか」という問いに対して、「なぜ伝承性にこだわらなくてはならないのか」という。「なんでもよいのではないか」ということで、そうして対象とするものを固定化・形式化することを意味のないものだと言っているようだ。いまひとつよく解らなかった内容?、とそこにいた誰もが思う一時であった。
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TM動員なんて当たり前だろ

2006-11-25 01:01:00 | つぶやき
 タウンミーティングが動員をしたヤラセであった、なんていう報道で、教育基本法改正論議に影響があるのでは、と野党は期待していたのかもしれないが、まさに野党も民主党あたりの主張は自民党との差が見えないからヤラセ問題もなんら影響なく通り過ぎている。国も県も、そして市町村も含めてこうしたお役所が主導で行なわれる会議への動員は当たり前のことで、今更問題にしても「あなた、そんなことも知らなかったの」という印象が強い。お役所ばかりではない、企業だって意図通りの流れを創りだすためにヤラセをすることだってあるだろう。そういうものである。ただ、お役所の場合はわざわざ意図通りにならなくても、その責任問題だって曖昧だし、銭勘定は二の次なんだから、ヤラセ度は低いのではないか、と思うのだがどうだろう。ただ、そのヤラセの会議のために、くだらない銭を出してることは確かに勘弁ならないことではある。しかし、企業ならもっと銭をかけるような部分だってあるのだろうから、どこかの女性国会議員ではないが、細かい数万円のことでぐちゃぐちゃ言って「節約できるのではないか」と指摘しているのも茶番のように見えてきて、「何をするべきか」という視点で捉えると、この国の政治も片方では核保有なんていうだいそれた議論をするのに、いっぽうでは幼稚な議論で本気に与野党で言い争っていたりして、「平和だなー」とつくづく感じるわけだ。

 我が社でも動員というやつがたまにある。昔は頻繁にあった。「こんなくだらないことに銭をかけるな、時間を費やすな」なんてしょっちゅう思っていたものだ。松山市のタウンミーティングを主催した県教育委員会は「呼びかけに応じた教員らは実際に出席したと考えられる」と認めたうえで「応じたのは自発的意思のはずだ」と言っているが、「絶対嘘だね」とわたしは思う。マジメな教員の方々だから、自発的と言うかもしれないが、もし本当に自発的にこんなくだらない作られた会議に、それも100人も出席していたら笑ってしまう。さらにはその内容が教育基本法改正のために創られたものだったというから、その場にいた人たちはもしかしたらほとんど身内だったのかもしれない。さすがに国のやることだと納得してしまう。地方には銭がなくてこんなヤラセなんかしている余裕はなくなったというのに、国には埋蔵金が眠っているわけだ。

 お役所はなんでこんなくだらないことに時間と銭を使うのか、とあきれるというよりも役所なんて無くしてしまえ、と思ったりする。世の中が厳しさを増すほどに、「おまえたちは税金で食いながら、人の上に立って〝検査〟とか〝審査〟なんていって偉そうに物語を語っているが、悩みがないねー」と言いたくなる。
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ダイコン漬けの季節へ

2006-11-24 12:28:45 | 農村環境
 収穫の季節である。すでに米の収穫は終わったが、山間に行くほどに畑作物の収穫が細々行なわれている姿をみる。先日も軒下にダイコンが吊るされている姿を見た。おそらくたくわん漬けにするものだろう。水分が抜けるまで干されたのち漬けられるわけだが、最近は漬物を自家で漬ける家も少なくなった。どこでも作っているものだと思っていたのが、つい先ごろのことで、気がつけばどこの家も作っていないのである。とくにわが家の周りを見渡して、ダイコンを干している姿など見ない。もちろん漬物ともなれば、年寄がいないと漬けないくらいで、これからの年寄りは「買った方が安い」とか「買った方が美味しい」などとわけのわからないことを言って、中国の漬物を食べるわけだ。

 それこそダイコンは全国どこでも作られたものだろう。須藤功さんの著した『写真ものがたり昭和の暮らし 山村』を開いてみると、山の畑の収穫風景がたくさん映し出されている。その中に阿智村の昭和30年のだいこん干しの写真がある。茅葺屋根の軒下に葉をつけたままダイコンを干しているのだが、今はダイコンの葉はとって干しているのが普通のようだ。かつては干したダイコンの葉を煮物や味噌汁の具にしたり、ウサギなどの餌にもしたという。ダイコンの干した葉っぱなど今では食べてくれないだろう。最近は生ゴミが多くて、そんなゴミが焼却ゴミの重量を増加させている。食べ物を残さないように、なんていうが、食卓に並べる以前に多くのものをゴミとしてしまっていることに気がつくわけだ。

 ダイコンといえば煮物、というほどの印象がある。子どものころはあまり美味しいとも思わずにそんな煮物を食べていた。いや、あまり食べなかったのかもしれない。昔の煮物と今の煮物がどう違うのかわからないが、今食べると美味しいと思うのは、なにがどう変化したのか、昔の煮物を出すことができないから解明できない。子どものころの舌の感覚と今の感覚が違うこともあるだろうし、経験することでどう味わいが変化するかも正直わたしにはわからない。よくいう「昔は美味しかった」などという言葉も、わたしは明快にそう解釈できないから、あまり使わない言葉だ。昔の食卓に並んだものを、この場に出すことができないからいけないのだが、そんな方法があったら知りたいほどだ。

 さて、たくわん漬けや野沢菜漬けの準備をする季節だが、今の子どもたちは漬物などというものは口にしない。それどころか、わたしも漬物に進んで手を出すことはほとんどない。なぜこれほど日本人が漬物を好まなくなったかといえば、やはり汗をかいて働かなくなったからだろう。塩分を控えたほうがよい、なんて言う食生活改善の動きだけではないだろう。自らそんな漬物に手を出しもしないくせに、ダイコンを干す姿を見るにつけ、季節感を覚えるのは経験だけのものだ。これからの世代がわたしと同じように漬物に手を出さなくても、わたしの感覚とは異なるはずた、とそんなことを思ったりする。まさに漬物の衰退は、労働のあり方、価値観の変化と関係している。
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ダムあり宣言か

2006-11-23 16:43:30 | 歴史から学ぶ
 浅川ダムが再び現実味を帯びている。田中前知事が当選後最初に示した「ダムなし宣言」は長野県内だけではない、全国にダムなし宣言の県というイメージを与えたにちがいない。確かにその対象とされたダムは浅川ダムだけではなく、当時予定されていたいくつかのダムに共通したものであって、浅川以外のダム計画は、その方向で修正されてきた。しかし、ダムなしでもっとも影響を受けたのは、紛れもなく浅川ダムであったことに違いはなく、ダムなし=浅川ダム問題という構図を明確にしてきたことは確かである。都市部の上流部のダムということもあって、対案ではなかなか住民の理解が得られなかったということもあるだろうし、北陸新幹線の用地取得とあいまって根の深いさまざまな問題があったわけだ。しかしながら、ひとたびダムではない形で整備をする、と県のトップが触れを出し、共通認識があるなかで、再びダム建設という話になったとき、県の説明責任はとても大きなものになることは事実だろう。

 5年という歳月を要しながらほとんど進まなかったこの問題は、さらなる混迷ということも予想されるが、いずれにしても北陸新幹線問題が付属しているため、知事の判断で推進するしかない。「笑いもの」のダム建設宣言になるかもしれないが、しかたのない判断と思ってくれるか、あるいは中央のメディアのように現知事を公共事業の申し子のようなイメージで笑い飛ばし県民を馬鹿呼ばわりするかだろう。しかし、そんな中央の嘲笑など気にとめることもないが、無駄な議論であったということは紛れもない事実である。前知事の時代から5年の間、どれほどこのことのために県職員が公務についてきたか、そしてどれほど地元の人々が不安定な思いをしてきたか、こうした無駄な混迷に責任論が浮上しないことの方がおかしな話である。むしろ造ってしまったダムによって様々な問題が浮上すれば、責任問題は明確に見えてくる。しかしながら、議論することへの精神的な責任論はどこにもないのだ。日本人にはそうした精神的な部分を後まで引きずる性格がある。そんな意味では、この5年の空白は大きい。いや、空白ではない。この空白の時間に、多くの人々の歴史があったわけで、政治の汚点といわれても仕方のないことである。
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コンビニのアピール

2006-11-22 08:13:01 | つぶやき
 コンビニといえばセブンイレブン、というほどにこのあたりではセブンイレブンが一般的である。もちろん他のコンビニもあって、けしてセブンイレブンの独占ではない。長野県内では南へ下るほどにサークルKが多くなる。ローソンやデイリーなんかもあるが、あまり世話にはならない。好んで選択するのはやはりセブンイレブンである。同僚もまた、セブンイレブンでないと○○がない、などといって、わざわざそこにローソンがあっても遠くまで足を伸ばす。その気持ちがわかるのは、自らも同じことをするからである。

 そんなコンビニを見ていていつも思うことがある。正面入り口の脇の窓ガラスにずらっと並ぶ雑誌類のことである。先日も店員さんが雑誌類の入れ替えをしていて、必ずウインドー側に一冊外を向けて並べているのである。外から見える雑誌の一覧が、その店で扱っているすべての雑誌なのか、わざわざ店内の雑誌と見比べたことはないが、おそらく外から売っている雑誌がわかるように並べているわけだ。こんな売り方をするのは、一般の書店にはない。コンビニだけだと思う。こうしたやり方は、わたしがコンビニというものを意識し始めた30年近く前から変わりない。誰がこうした展示方法を考えたかしらないが、わざわざ外へ表紙を向けて示すことにどれほど意味があるのだろう。わたしも欲しい雑誌がその店にないと、ほかのコンビニへ回ったりするが、ウインドーに並んでいる雑誌を見て「この店はない」なんて悟ったことは一度もない。必ず店の中に入っていって確認する。ということは、外を向ける意味などないと思うのだが・・・。と思いながら、もしかしたら、通な人は外で売っている雑誌を確認しているのか・・・、などと考えてしまった。果たして真意はどうか。洋品店なんかが、外から商品がわかるように並べるが、あの考え方から来ているに違いない。しかし、「コンビニは何を売っている店?」と考えてみると、本が主なものではないし、ましてコンビニはかなり共通した商品を扱っているから、外から確認できることで店に足を踏み入れるなんていうことはない。むしろ弁当類が中心だと思うから、今売っている弁当類が外から一目で確認できれば、店に入るかどうかの選択ができる。雑誌の表紙を外へ向けるくらいなら、そのへんを工夫してほしいものだ。
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木曽の山々

2006-11-21 19:21:57 | ひとから学ぶ


 昨日は仕事で木曽を訪れた。事務所の仕事が忙しくて回らないのに、今年はよくよその部署の仕事をやるために出かける。今度は木曽である。今年春に開通した権兵衛トンネルをはじめて通った。わが家から木曽福島まで60キロ余である。通勤時間帯を少しだがずれていたこともあって、権兵衛トンネルの道は他の車の姿が見えないほどに空いていた。木曽街道の大型車の通行量が多いことは知られているが、意外にも木曽と伊那を連絡する車はまだ少ないんだということを知った。木曽の部署にこのトンネルを利用して通勤している同僚がいて、様子をうかがうと、通勤時間帯と観光シーズンは車が多いという。福島方面への姥神トンネルを越えると、道路は中途半端に県道に連絡する。その道を経て福島までの道のりが意外にも遠かった。伊那谷側の広域農道交差点から、国道19号まではせいぜい30分である。「ここは高速道路ではありません」という看板があるように、トンネルの前後は知らず知らずスピードが出る。それをあてこんでか、その両側でスピード違反の取締りがよく行なわれるという。夜も行なうというから、気をつけなくてはいけない。

 木曽高速といわれる国道も、通勤時間帯ともなれば、右折車がいると対向車線の車が途切れず、渋滞を引き起こす。帰宅の道は、まさしくそんな状況に陥り、福島から国道を北上し、権兵衛トンネルへの分岐点までずいぶん時間を要した。

 さて、上松町の木曽山脈側の集落へ入り込んだが、やはり木曽谷は険しい。山が急峻だというよりは、まさに山しかない。そうした山々の姿をみるにつけ、「荒れている」という印象は、ほかのどこの地域よりも強く感じる。人口が少ないのに山が広いのだから当たり前なことなのだろうが、この先のことは予想すらできない。山を見てなにより気がつくのは、倒木が多いことだ。道端から見える山々にも倒木があちこちに見える。そして、入りこんだ集落も、ほかの地区とはイメージが異なる。家々の姿を見る限り、国道からそれると厳しさが漂う。けして家が新しければよいというものでもないが、家々の周りもよそ者が入り込まないことが分かっているからか、雑然としていて、手が入れられていないことがわかる。

 写真の集落のすぐ下に、おりが仕掛けられていた。熊の仕掛にしては簡単であったが、いずれにしても獣がいても不思議ではないような環境である。地図で見ると、ちょうど普段見慣れている木曽駒ケ岳の西側である。常は東から見ているのだが、ここではその山が東側に見えるのだろうが、あいにく雨降りで山の姿は確認できなかった。

 何度も繰り返すが、口では何でも言えるが、この状況は1人や2人の努力ではどうにもならない。アレチウリの広がりをみてもそう思ったが、木曽の山々の姿を見て、同じような印象を持ったわけで、地域はどうしようとしているか、とよそ者が心配するばかりだ。
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ツマグロヒョウモンの研究から

2006-11-20 07:19:45 | 自然から学ぶ
 「高森町でツマグロヒョウモンが見られるようになったのはなぜか」という高森南小学校5年生の研究は、最近このあたりでも多く見かけられるようになったツマグロヒョウモンを扱ったものだ。15年前には見られなかった蝶が、とても増えたことを疑問に、その理由を探っている。15年前の調査報告にはまったくないツマグロヒョウモンが、生徒が昨年から今年にかけて調べたところ総計で数百を数えている。そして、越冬する幼虫がいるのかどうかについても調べてみたが、越冬したものは数が少ないということがわかったようである。ツマグロヒョウモンについては、温暖化による気温の上昇によって、南の方の蝶が北上してきたといわれている。それを実際の蝶の確認と、幼虫から成虫までの過程とともに調べたもので、蝶の生態はもちろん、温暖化という問題を実際の生物の変化から捉えることができるわけで、こうした取り組みは多様な視点を捉えることができるよい題材といえるだろう。

 増えた理由の一点として、食草であるパンジーやスミレについて触れている。ツマグロヒョウモンの食草となるパンジーが、新興の住宅地などを中心に多く植えられていることに気がつき、加えて従来よりのスミレも多くの種が咲いていることから、そうした食草が豊富なことが、ツマグロヒョウモンを増やしてきたのではないか、と述べている。こうした今回の研究を背景に、さらに①越冬の様子、②たまごから成虫までの成長の観察、③年間の気温と数の関係、④スミレとパンジーの年間の様子、⑤一日に食草の花を何往復するか、⑥昆虫以外の外的とは何か、などを課題として研究を深めてゆくという。

 まさにツマグロヒョウモンは増加している蝶の1種であるから、タイムリーな研究である。だからこそ来年に向けて更なる成果があげられることを期待したい。とくに越冬幼虫も確認されるようになっており、年を追ってそうしたデータを蓄積することで、生態系の変化がよくわかるはずだ。妻が花が好きで毎年パンジーをたくさん咲かせている。わたしは認識していなかったのだが、当然のごとく、パンジーについている幼虫のことを知っていた。パンジーに虫がつくので殺そうと殺虫剤をかけると幼虫も死んでしまうという。そんなことに気がついてからは、かなり気を使っているようだ。自宅の庭にもスミレがたくさん自生しているが、そんなところにも幼虫がいるという。まだまだ成虫にしか目をやっていないわたしだが、こうした幼虫のことも少しは認識していこうとは、妻に言われて気がついたしだいである。

 郡総合展覧会作品から
 ①交差点のモラル
 ②気温と出かける人の気持ち
 ③八幡商店街の移り変わり
 ④屋号から見る北市場の歴史
 ⑤自磨中間報告
 ⑥市街地における専業農家の秘密
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生徒がいなくなる

2006-11-19 13:00:38 | ひとから学ぶ
 南信濃で遠山中、上村中、天龍中の3校が集まって交流マラソンが行なわれたという報道がされていた。小規模校同士で大人数の行事を体験しようというのがねらいだという。かつての遠山地域といわれるそれぞれの地域のうち、上村と南信濃村はなくなり今では飯田市である。そんな環境の中で、こうした山間地域がどう継続していくかは、子どもたちの数を見る限り不安ばかりだ。3校集まっても75名である。1学年平均12人余である。最も小さい上村中学は生徒数18名、天龍中学は20名と1学年平均が6人代である。下伊那郡内には、そうした小規模どころか最低限度に達していると思われる中学がいくつもある。なかには小中学校といって、小中を一緒にしている学校もある。

 複式学級になりかけている小学校があって、そういった学校では、そうした環境を回避すべく、よそからの子どもたちを誘導することもある。複式学級とは、小学校の規模があまりにも小さい場合、1学年1クラスでなく、2学年で1クラスにするという編成のことで、1年生を含む場合は、2学年合わせて7人から8人、それ以外だと15人くらいで複式学級を編成しているという。都道府県によって数値的には異なるかもしれないが、ほぼそのくらいの人数が目安になっているようだ。中学に複式があるのかどうか知らないが、いくらなんでも先のこと考えれば、数人という人数では現場としては心細い。場合によっては少人数の欠点を補うべく、大都市の学校と接点を持つ機会を得ているという話も聞くし、教育研究のためにそうした小規模校もあるという。しかし、子どもたちは研究題材ではない。山間の過疎のなかにある学校と、都会の小規模校では違う。

 どう考えてもいずれこの地域の学校には、自治体枠を越えた編成が必要とされてくる。事実、このごろ阿智村の学校へ清内路などの学校が統合できないかという検討もされている。もともと組合立の学校は存在してきたが、小規模になりすぎて自治体枠を越えて統合する、というケースはそう多くはなかったはずだ。そんな現実をみるかぎり、自治体の枠とは何か、とそんなことを考えさせられるわけだ。子どもたちの数はもちろん、人口の少ない地域が、「自立」といっていたとしても、いずれは立ち行かなくなることは予想される。それを何が悪いか、などといっていても仕方がないわけで、議論として将来の自らの住む地域をトータルに考えなくてはならないことは事実だ。地域は、そして村は、町は、どう生きてゆくのか、そんな将来を子どもたちの環境に見出してゆかなくてはならないと思うのだが、どうも子どもたちの環境は後回しにされているようで仕方がない。その現れが、子どもたちをとりまく多様な問題である。教育基本法などを改正しても、そんな問題は解消できないし、むしろ子どもたちの環境が大人たちへ問題を投げかけている事実をみて、大人たちが何かを悟らなくてはならないのではないだろうか。どこか子どもたちに大人世界の問題を転嫁しているようで仕方ない。
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市街地における専業農家の秘密

2006-11-18 11:58:05 | ひとから学ぶ
 「市街地における専業農家の秘密」と題した飯田市鼎中学2年生の作品を見てみよう。

 かつては農村地帯ではあったものの、近年住宅が立ち並ぶようになった市街地においても、いまだに農業を専業として営んでいる家があることに、どういう農業をしているのか、そんなところに焦点をあてた作品である。①専業農家としてやっていける理由と、②市街地での農業を続けられる理由の二つを解明することを目的としており、土地利用とそれらをいつ収穫しているか、というところまでを生産暦風に一年を追っていっているわけである。倉田さんという農家から聞き取りながらまとめており、その家で作っている作物は、モモ4品種、リンゴ4品種、ブドウ4品種、柿というように果樹が主である。1町2反という土地に、こうした果樹を生産しており、前期4種の果物はほぼ同じくらいの面積に植えられている。

 考察のなかで、①価格の高い農作物を作っているのではないか、と触れているが、さすがに値段などは子どもとはいえ教えてもらえなかったようだ。しかし、生産している品種から高級品であるという印象は持ったようだ。そして、②狭い土地の有効利用をしているのではないか、と触れている。傾斜地には柿を作り、平地にはブドウを作る。ブドウはリンゴやモモに比較すると消毒による散布の気を使わなくてもよいという。三つ目として③1年間を通して作業を工夫して行なっているのではないか、ととりあげ、作業の工程の中で生産物の出荷時期がずれるように組み合わせているという。作業を分散することにより、家族労働力によって少ない人数で作業をこなしているというのである。以上は必ずしも新鮮な工夫とは見えないかもしれないが、あらためて専業農家の姿を確認することができたわけだ。最近、消毒に関してはさらに厳しい状況が課せられるようになった。収穫時期の生産物に、隣の生産物への消毒がかかってはいけないわけだ。ただでさえ消毒は飛散する。そんな状況下となれば、多品種の生産物を隣り合わせて植え付けることは難しくなる。先日も近所の方とそんな話をしたが、小規模農業者にとってのメリットであった土地の有効利用は、消毒ということを考慮すると、これからは難しいという。ますますそうした農業を営もうという人たちに追い討ちをかけることとなる。

 まとめとして、①家庭内労働、②果樹に生産物を絞る、③販売方法として直販に力を入れる、④同じ果物でも数種類の品種を組み合わせて時期ずらすことで自然災害などによる影響を最小限にする、というような方法で市街地にありながら専業として成り立たせている、という結果を得たようだ。最後にも触れているが、住宅地に隣接しているということは、第三者との作業上の諸問題を解決していかなくてはならない。前述したように果物には農薬散布がつきまとう。その環境をどう解消していくかは、市街地に限らずこれからの農家の大きな課題でもある。企業化してゆく農業、という環境を見れば、第三者への対応はますます厳しくなるだろう。そんなことを思いながら、この市街地の専業農家を話題にしてみた。

 郡総合展覧会作品から
 ①交差点のモラル
 ②気温と出かける人の気持ち
 ③八幡商店街の移り変わり
 ④屋号から見る北市場の歴史
 ⑤自磨中間報告
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尹良親王像

2006-11-17 08:14:36 | 歴史から学ぶ


 先日、上伊那郡中川村の桑原を通った。小渋川の谷から北へ四徳川という支流の谷が分かれるのだが、その分岐した西斜面を中心にその集落がある。山間地域にある天竜川以東のなかでも、険しい地域に家が点在している。桑原神社から四徳川のキャンプ場に続く横道は、等高線に沿っているが、左右とも山で傾斜地であるから、その道沿いに家があるなどと知らない人は気がつかない。かつての桑原分校跡の向こうに尾根が飛び出て家が見えるが、ほかはほとんど急傾斜な山である。ところがこの横道から下る道が時折あるのだが、そんな道を下ると人家があったりする。昼間でもわからないような人家だから夜通ったら、とても家を探すことなどできない。久しぶりに通ったのだが、猿が道端に姿を見せるほどだ。

 分校までの道端に道を背にして東を向いて石碑がたくさん立っている。向こうを向いているから何の碑が立っているかは解らない。車を止めて覗き込んでみると、馬頭観音や庚申さんが並んでいる。そんな中に写真の像があった。一見して天神さんなのかと思ったのだが、調べてみると違うようだ。これは尹良親王像だという。なかなか読めない字であるが、呼び方がいろいろある。わたしは「ゆきよし」と覚えているが、「これよし」とか「ただなが」「ゆきひら」などというところもあるという。南北朝時代、南朝方だった後醍醐天皇の第八皇子宗良親王は、北朝方と転戦し、隣接する大河原(現大鹿村)に長きに渡って滞在していた。その子どもと伝えられる尹良親王であるが、実在していなかった人物ともいわれ、定かではない。

 この像は尹良親王像と伝えられてはいるが、あくまでも伝承である。天保4年(1833)に像立されたもので、全国的にも尹良親王の像というものは珍しいという。
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川に面した斜面のムラ

2006-11-16 08:13:18 | 自然から学ぶ
 上水内郡中条村の下長井という集落から南を望むと、谷の低いところに犀川が流れていて、その向こうに長野市信更町古藤の集落が見える。古藤というよりは、もともとは古宿と藤倉というふたつの集落だったものを一つに呼ぶようになってそう呼ばれているのだろう。名前からして古そうな集落であるが、こちら側の下長井から見ると相反している集落といえる。下長井は、東南の斜面に展開していて、たいへん日当たりの良い集落である。おそらくこのあたりでは最も日照時間が長い集落ともいえる。ところが水の便は悪く、かつては少しであるが水田が集落にあったというが、現在は集落内に水田というものがない。だから畑作地帯なのだ。とはいうものの畑作でも水があるにこしたことはない。水があることにより品質の良い作物が生産できる。だからこの集落の人々は、水を欲しいがために、犀川まで降りて汲んできて水をやるわけである。その労力は大変なものだと思う。

 いっぽうの古藤は北西斜面にある。背景にある山がそれほど傾斜があって高い山ではないから、日照時間が少ない、とまではいわないが、どうみても下長井と正反対である。夏の日照時間はともかく、冬の日照時間はだいぶ違うのではないだろうか。以前「眼下に広がる町並み」において、飯島町日曽利のことについて触れた。前面に飯島町の中心街が常に見えている生活を続けていると、どんな気持ちなんだろう、なんていうことを思った。日曽利の場合は中心街がだいぶ遠くに見えるが、ここではお互いの姿が見えるほどの距離にある。ということは、今日は何をしているんだということがなんとなく、いやはっきり分かるのかもしれない。今でこそ農作業が主な仕事ではなくなっただろうから、お互いの仕事を観察するようなことはないかもしれないが、かつてはおそらくそんな意識をもって野に出ていたに違いないのだ。長野県は山国である。だから、谷を隔てて集落が相対するなんていうことはあちこちにある。谷を越えることは山を越えるよりも遠いという印象もかつてはあったかも知れないが、姿が見えるということは、かなりの親近感を持っていたはずだ。

 と、そんなことを思いながら川向こうの家々を望んでいた。谷底に生まれたわたしには、川向こうの集落など見えはしなかった。だからこそ、こんな風景を目の当たりにすると、けして寂しくない風景がそこにはあると教えてくれるのである。尾根上の家、斜面の家、谷底の家、もちろんまたくの平地の家、みな目にする風景は異なるわけだが、おそらく精神面にも何かの違いがあるはずだ、そんなことを思うのだ。

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 そう思って再び同じ集落を訪れて、1日対岸の様子を気にしていたが、意外にも日当たりはそれほど悪くないことに気がついた。やはり、山の傾斜が緩いために、けっこう日が当たるのである。加えて北西に向いてはいるものの、西日がよく当たっている。ただ、朝日が当ることが遅いことは確かのようである。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****