Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑩

2006-10-19 08:12:49 | 歴史から学ぶ
 上伊那郡での唯一の合併を成し遂げた旧伊那市・高遠町・長谷村は、新設合併という形で新たなる道を歩んでいる。しかしながら、もともとは3市町村に加え、辰野町・箕輪町・南箕輪村を加えた6市町村の合併協議から始まっている。ただ、立地上塩尻松本方面や、諏訪地方とも縁の深い辰野町や箕輪町にとっては、南に位置する伊那市を中心とした地域との合併は、気分的に違和感があったに違いない。これこそが、上伊那郡という地域に横たわっている方向性という問題だとわたしは認識している。一郡に二市がある地域は、どうしても一つにはなりにくい。加えて隣接地域とのかかわりが重要なポイントとなってくる。「北を向いていれば、とりあえず生活ができる」、そんなイメージがこの上伊那郡にはある。けして南は向かないし、南を向いていたら生活が後退していくような印象で捉えられていたりする。簡単に言えば南は馬鹿にされている、そんなところなのだ。

 必然的な3市町村の合併であったのだろうが、大変広範囲な地域であることには違いない。合併後の面積では、松本市、長野市に次いで、県内3番目である。なにより広大な長谷村を手中にしたということが面積を大きくする要因になっている。最高地点が、それまでは中央アルプスの将棋頭山(2730m)だったのだろうが、今では南アルプスの塩見岳になった。我が家から遠いことは遠いが、まっすぐ東側に見えている塩見岳が伊那市だと聞くと違和感を覚えるのはわたしだけではないだろう。

 6市町村合併協議の際の意向調査で合併反対が上回っていた高遠町は、同協議会解散後の南箕輪村を交えた4市町村合併協議の際の意向調査では圧倒的に賛成が多かった。そんなことがあって3市町村合併へ大きく進んでいったわけだが、新市の名前を決める際の投票でも「高遠市」が「伊那市」に迫るほどの得票をしていた。それほどこの「高遠」という名前が、伊那市の人々にも身近だったということ、また良いイメージで捉えられていたという結果だったのだろう。

 子どものころから、この高遠町には思い入れがあって、何度も訪れている。もちろん社会人になった後も、何度となくこの地を訪れた。その最たる目的は、昭和57年に送っていただいたパンフレットの表紙の片隅にも見えている石仏師「守屋貞治」の作品を訪れることであった。さかんにパンフレットでも触れられる田山花袋が詠んだ「たかとほは山裾のまち古きまちゆきあふ子等のうつくしき町」は、この町をよく著わしている。ご存知の通り、高遠小彼岸桜で有名な高遠であり、南信にあっては珍しく観光の町という印象は強い。桜がすばらしいことは言うまでもないが、いっぽうでその時期以外は観光客は少なく、この町を好んで訪れる人々にとっては落ち着いた印象がこの上ないのである。観光地といえば、よそ者によって風紀が乱されるということが多いのだが、この町はいつまでたっても田舎の町なのである。

 さて、石仏師守屋貞治は、明和2年(1765)に現在の高遠町長藤の塩供というところに生まれた。天保3年に亡くなるまで、生涯に336体の石仏を彫ったといわれている。その技術は類まれなもので、全国を見渡しても、同時代にこれほどの石仏は見られない。そんな貞治仏にひかれて、あちこちをめぐったものである。そして地元であるだけに、この高遠の地にたくさんの貞治仏が現存している。写真の石仏は願王地蔵尊といわれ、町の中にある建福寺という寺の本堂前にある。仏道の師匠と崇めた諏訪温泉寺の願王和尚が逝去された折に、和尚の霊にささげるような気持ちで彫った作品だといわれている。貞治最高傑作ともいわれている作品である。この写真を撮影したのは、昭和50年代のことである。当時はこんなイメージで写真を撮ることができたが、後に守屋家の後継といわれる守屋商会が風化を防ぐために、雨ざらしであった石仏の上部に架け屋根を設けたため、今ではうまい具合に写真は撮れない。なお、貞治の石仏を扱った「守屋貞治の石仏」というページがある。



 ついでに平成5年ころに、もう日が落ちる間際の高遠閣の二階から満開の桜を撮影した写真も載せておこう。夕日に逆らうような撮り方をしたのだが、濃いピンクが一段と深みを見せてくれていた。



 消えた村をもう一度⑨

コメント    この記事についてブログを書く
« たった一輪のツリガネニンジン | トップ | 県境域の山間の村 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史から学ぶ」カテゴリの最新記事