Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

見ず知らずの会葬者

2006-09-30 09:50:25 | 民俗学
 同じ部署の同僚の父が亡くなったといって、葬儀があった。ちょっと前なら会社関係の会葬者が多いとあって、受付なり駐車場整理なり人手が必要で、同じ部署のものが借り出されるということはよくあった。それでも仕事を空けるということもなく、部署から必要な人数が手となって加わったのがわたしの印象である。

 しかし、葬儀も大きく変化してきた。自宅でする葬儀などというものは、会社に入ってから経験していないが、公民館とか寺での葬儀は何回か経験した。必ずしも立地が良くなければ、やはり人手が必要だった。しかし、今は大方が葬儀場だから立地も良いし、葬儀場がいろいろしてくれるから人手はいらない。だから会社の人手もそれほど必要とはされない。人減らしで部署の人数が減り、中には全員で関わらなければならない部署もあるのだろうが、わが部署は人手が多い。葬儀があればそうした関わり方指示してくれるものなのだが、最近はなかなかそんなこともない。しかし、みんな会葬に行く。今までいた部署で、全員で葬儀に関わったことなどただの一度もない。前にも述べたような受付や駐車場係が必要なケースではない。そして今回の葬儀にも、特別用事がなければほぼ全員会葬した。どうもわたしには違和感がある。だからわたしは留守番をしていた。

 昔の田舎のイメージでは告別式なんていうものはなかった。葬儀は葬儀なのだ。会社勤めの人も多くはなかったから、会葬者といえば、親類縁者、地縁関係者ぐらいだった。しかしながら、親兄弟が多かったから、それだけでも賑やかなものだった。しかし、今はそうした関係者が少なくなったし、地域とのかかわりも少なくなった。いや、個人によって差があるといった方が正しいだろうか。だから、寂しい葬儀は本当に寂しいものだ。その分、会社の関係者がやってくる。以前知人が、会社の同僚の父親が亡くなったからといって香典を出すなんて言うのは納得できない、などといったことがあった。みんなが出すから出さざるを得ない。一度も会ったこともないのに、義理をしなくてはならないのか、そういう観点なのだ。それまで自分もみんなと同じように香典を出し、それが当たり前のように思っていたが、冷静に考えてみればおかしな話である。もっといえば、故人もまったく知らない人が葬儀に来てくれたとして喜ぶのだろうか。最後だからこそ、身内や親しい人たちによって送って欲しいものだ。

 もともと葬儀なんか身内だけでしかやらない、と遺言を書こうと話している我が家だから、義理を広めるつもりもない。加えていつ今かかわっている人たちと縁が切れてしまうかもわからない。無理に義理をして、あとあと相手も困惑するような関係を作ってもいけない。今は今なのだから、会葬したからといって義理を果たしたなんて言う間隔を当たり前のように持ちたくはない。

 さてこうした会葬者のあり方のようなものは、民俗関係の報告書には出てこない。『葬儀と墓の現在』(国立歴史民俗博物館編)に、関沢まゆみ氏が「葬送儀礼の変化」を書いている。血縁的関係者=A、地縁的関係者=B、無縁的関係者=C(葬儀の職能者)という三者の葬儀への関わり方を述べていて、湯灌にしても葬具作りにしてもCのかかわりが高まっているという。葬儀を商売とするのなら、当たり前の現象だろうが、亡くなる方も寂しい限りだ。他人、それも銭で動いている人に世話をしてもらわなければあの世にいけないわけだ。そんな考えが古いといってしまえばそのとおりで、介護されるのが他人が当たり前の時代なんだからなるべくしてなったことなのだろう。だからこそ、わたしのように人の世話になりたくない変人は、死に方も考えておかなくてはならない。
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フジバカマ

2006-09-29 08:12:38 | 自然から学ぶ


 フジバカマは、人の背丈くらいに伸びて小豆色の花を咲かせる。この花には自生型と栽培型があって、日本在来のものなのかそれとも帰化したものかはっきりしないようだ。帰化したとしても奈良時代以前というから、日本にはしっかり定着している花といえる。栽培型の方が色が濃く、背丈が低く、いっぽう自生型の方は色が淡く、背丈が高いという。かつては日本各地の河原などを中心に咲いていたというが、このごろその姿は見なくなった。フジバカマという花を知らない人も多いかもしれない。

 妻の実家の周辺で盛んにこのフジバカマが咲いているが、実は自生のものではなく、育てているものである。仕事柄、ほ場整備をした土手に在来の草花を蒔くのにどんなものがよいだろう、と聞かれ詳しくないわたしは植物の先生に相談してみた。その答えはオミナエシやフジバカマといったものがよいということであった。そうはいってもなかなかそうした植物の種もそうたやすく手に入るものではない。先生からたくさんの種をいただき、増やそうということで妻は実家の周りの畑の周辺や荒れている土地に蒔いたわけだ。そうした草花が何年かたって、けっこう増えてきた。そんなひとつにこのフジバカマがあるのだ。

 フジバカマが増えたことで、近年は渡りチョウのアサギマダラがやってくる。今年はまだ少ないが、これからやってくるのではないかと期待している。匂いが強いということがアサギマダラを呼び込むようだ。アサギマダラに限らず、花の時期にはさまざまな虫がやってくる。蜂の類はもちろん、チョウも多い。写真はヒメアカタテハがフジバカマにやってきているところである。別ブログで紹介したスジボソヤマキチョウもやってきている。

 ちまたに少なくなったということもあって、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧II類(VU)に指定されているフジバカマである。

 撮影 2006.9.23
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消えなかった村①

2006-09-28 08:24:09 | 歴史から学ぶ
 「消えた村をもう一度」と題して今までにも紹介しているが、いっぽうで消えなかった村もある。もともと古いパンフレットを見ているうちに思いついたものなのだが、合併しなかった町村のパンフレットも、この機会に思い出してみようと考えた。そこで「消えなかった村」と題して、合併に至らなかった町村や合併しても相変わらず小さくて、これからどうなるのだろうというような町村にも触れてみようと思う。

 北設楽郡設楽町は、長野県に接する町である。愛知県内でみると、平成の合併後にいまだに市に至っていない地域は、周縁部に集中している。とくに長野県境に近い山間部に町村が残っている。そんな町村のひとつにこの設楽町がある。初めてこの名前を目にすると、読めないかもしれない。「せつらく」とくらいしか読みようがない。実は「したら」と読む。かろうじて合併しなかったため、北設楽郡という郡が残っている。いや、合併をしなかったわけではなく、隣接していた津具村と合併して新設楽町となった。合併はしたものの人口は6千5百人余ということで、小さな町である。山間にあっても一次産業比率は低く、20パーセントほどで、三次産業に従事する人が半分を占める。

 設楽町というと田峯というところに田峯観音という寺がある。2月に田峯田楽という祭りがあることで知られている。設楽といえば田峯という印象が強い。

 昭和55年に送っていただいたパンフレットは、封筒大のもので、表裏を開いた状態でスキャンしたものが写真である。紹介されているのは、①設楽町立奥三河郷土館、②仙境添沢温泉、③名勝岩古谷山、④祭り、⑤石仏公苑、⑥キャンプ場、⑦東海自然歩道などである。三河に入ると、この東海自然歩道という看板をよくみる。いや、最近のことは知らない。かつてこの地域を訪れた際、盛んにこの看板を目にして、東海地域を結ぶ長い歩道が整備されているのだと思った程度なのだが、その印象は強い。愛知県内に186キロの自然歩道が整備されていて、そのうちの32キロがこの設楽町にある、とパンフレットで触れている。鳳来町から足助町(現豊田市)まで連絡しているようだ。パンフレットの最後に主要都市からの案内がされている。名古屋から足助経由で自動車で110分、浜松から本長篠経由で自動車で90分、飯田から豊根経由で100分と記載されている。ようは名古屋、浜松、飯田というトライアングルのほぼ中央にあるということになるのだろうか。三市とも県が異なるのだから、簡単に言えば愛知県の中では周縁部ということになる。

 さて、わたしにとっては設楽町といえば田峯田楽も印象深いが、それ以上にさんぞろ祭りがイメージが強い。11月の第3土曜日に現在は行なわれている祭りで、津島神社を舞台に七福神の舞が繰り広げられ、問答のやり取りがある。この問答において「何者にて候」と問われ、「参候、それがしは○○にて候」と答える場面があり、そこからさんぞろ(参候)祭りと呼ばれているようだ。

 写真は昭和61年11月15日に撮影したもので、七福神のうちの福禄寿である。



 消えた村をもう一度⑨
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アレチウリ再び

2006-09-27 08:05:54 | 自然から学ぶ
 「アレチウリ」について最近何度か触れている。なぜ今なのか、といえば、やはり目立っているからだ。しかしながら目立ち始めているということは、駆除するにはもう遅いようだ。あの大量なアレチウリの姿を見ると、駆除活動そのものも既に遅いようにも思えてくる。

 このアレチウリを駆除するにはどうしたらよいのか、なんていうとよそのページにそんな駆除の方法が記載されている。
 ①抜き取る
 ②機械で刈り取る
 ③除草剤で枯らす
 ④天敵を使う
 どうも①くらいしか有効な方法はないようだ。②や③では生態系に負荷がかかる。そして天敵は見つかっていないともいう。それでもいまの時期、これほどのアレチウリのすがた見ていると、除草剤でもいいから散布したくなる。ところで、除草剤が効くのかどうかはよく知らない。本当に効くのなら、小さいうちに枯らすような除草剤の散布方法を広めるのも手である。どうなんだろう。

 いずれにしてもすで10メートル以上にも伸びて蔓延しているアレチウリを駆除するなんて、全国民で総出でやらなきゃ不可能だ。

 発芽した個体は、5,000から20,000もの種子を付けると言われ、種子を付ける前に抜き取ることが大切だという。さらにいけないのは発芽の期間が長いということで、一度抜き取っても土壌の中に残っていた種子が再度発芽するという。この途方もなく蔓延しているアレチウリだけにそんな手を掛けていたら、世の中大変なことになってしまう。もちろん特定外来生物と指定した以上、国もそこそこの対策を考えているんだとは思うが、おそらく地方の田舎の、どうでもようようなところに手を差し伸べてくれる可能性はまったくないだろう。

 いけないことは駆除せずともそのまま枯れてしまったアレチウリを、秋だから片付けようなんて思っても容易ではない。木々の高いところまで伸びたものを除去するのは難しい。加えて除去しようとすれば種子がばらまかれてしまう。

 ウィキペディアによれば、1952年に静岡県清水港で確認されたといい、アメリカやカナダからの輸入大豆に種子が混入し、豆腐屋を中心に拡大したという。まだ発見されて50年余でこのありさまだ。

 さて、妻の実家から自宅に帰りながら、山道を走っているとなかなか見事にアレチウリが草木を覆っている(写真)。飯田市松尾の弁天橋から遠山に向かう道筋は、ここ20年ほどで道路がだいぶ整備されて2車線になった。とくに弁天橋に近づくほどに、この道路沿いにアレチウリが大量に繁茂している。この姿を見るにつけ、「どうにもならないだろう」と思うしかない。河川沿いなら国有地だろうが、道路を少し離れれば民地である。そんな民地の雑草をやたらに駆除などできるものでもない。盛んに駆除活動を河川でやっているが、それ以外のところでどんどん広まっている。国道153号線の高森町吉田から山吹の間では、ガードレール越しにアレチウリが姿を見せている。河川だけではないのだ。
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そばの花が咲く

2006-09-26 08:14:34 | 農村環境
 そばの適地は、排水の良い畑だという。かつては田んぼなんかにそばを蒔くなんていうことはしなかったが、今は盛んに田んぼに蒔いたりしている。いわゆる減反政策によって、そばがたくさん蒔かれるようになった。長野県は信州そばなんていってそばが盛んなところに見られているが、もともとはそんな平らな場所には蒔かれなかった。このごろの田んぼにそばの花が一面咲いているなんていうのは、本来なら昔にはなかったはずである。だから古くからの風景ではない。山間の米も作れないような傾斜の畑に、そばの花が咲いていたのである、かつては。

 先日実家を訪れて、家の周辺が真っ白になっているのに驚いた。もちろんそれはそばの花が咲いて白いのである。ほ場整備されて3反から4反もあるような優良農地にそばが蒔かれているのである。集団で転作しているから、今年は本当にそばばかりである。今やこうした水田地帯は、黄金色の絨毯のようになることはない。そばはそこそこ人気であるから良いものの、そんな風景があたりまえなどとは思いたくない。なぜ米が作れないのか。そう思うばかりだ。余ったら余ったで米価が下がるなんていう昔のような、政府が価格を統括するような時代でもない。これだけ転作されていると、米を作ることも忘れそうなくらいである。

 その実家から中川村飯沼へ回った際に、飯沼橋から飯島町本郷の島河原を撮影したものが写真である。ここにもそばが蒔かれていて、盛んに白い絨毯を見せていた。この改良された道路はふるさと農道といって、県が主導で造られたもので、まだ完成はしていない。この道を登って行って、JR飯田線伊那本郷駅の南で道は止まっている。最終的にどことどこをつないでこの道が完成になるのか知らないが、撮影している飯沼橋は拡幅しないのだろうか。とすればこんなに広い道を造っても、飯沼の人たちにはどうなのだろう。いや、飯沼というところはそれほど家がない。全部でも20軒ほどではないだろうか。むしろ橋を広げるとか、集落内の県道を広げるとか、違うことを優先にした方がよいのでは・・・なんていう勝手なことを言ってしまったりする。

 この拡幅された道路の擁壁のあるあたりに、昔は一軒家があった。もう20年以上前にその家は移転してしまった。現在この平らにはただ一軒だけある。しかし、この平、増水すると農地にまで水が浸かる。だから、水害のことを考えると苦労の多い場所だ。擁壁の上の法面を草が覆っている。近くに寄ってみると葛の葉が道路にまで伸びようとしているが、中にはアレチウリの姿が見えている。やはり最近紛れ込んだようで、これから猛威を奮いそうだ。
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無責任な世界

2006-09-25 06:30:25 | ひとから学ぶ
 災害が出て仕事柄忙しくはなった。だからよその部署の応援といって仕事を手伝ったり、内部でもほかの人たちと仕事を調整したりしているが、なかなか仕事が回っていないのが現状だ。人に手伝ってもらうように段取りをしていると、それだけで時間が過ぎてしまう。そんなことなら自分でやった方が早い、なんて思ったりするのだが、それでは暇な人たちは忙しい中でも暇なままだ。このごろは率先して仕事をやろうという意識が少ない。当たり前のことで、いつなくなるともわからないような会社であっては、率先して苦労などするはずもない。だから、人にやってもらおうと思うと段取りが面倒くさいし、やってもらえば「人の仕事だから」とまったく責任感を持ってくれない。それを悪く言えば、それまでだ。会話もなくなる。どうしてみんなこんなに自分のことしか考えなくなったのだろう。

 まるで子どもたちの世界と同じである。

 息子が世話になっている先生の講演を、妻は聞きに行った。子どもたちがいかに自分たちで行動するか、という時に、親が手を出すことを辞めるべきだと説く。わたしも含めて、このごろの子どもたちを取り巻く親たちは、自ら子どもと関わりながら楽しもうというところが多い。ちょっと考えれば放任であった昔とくらべれば、親はずいぶんと子どもたちと接している。にもかかわらず、子どもたちは荒れるし、親からは遠い。地域での活動といえば、子どもたちを介しているものも多い。育成会といえば、大人がお膳立てして行事が行なわれる。公民館活動もそうだ、PTA活動もそうだ。どんなときも子どもたちは親の設営した舞台で動いているだけだ。自ら行動しないから、統一した行動もできない。それぞれが相手を思うこともないし、周りを見ようともしない。

 わたしが地域のPTAの役員をした際、あまりに子どもたちに主導権がないのに驚いた。子どもたちの行事なのに、子どもたちにも年長がいて頭がいるのに、親たちが挨拶して親たちが子どもたちを動かし親たちが片付けをしていた。これでよいの・・・と思っても周りの大人たちがそうなのだから、わたしが1人何を言おうとどうにもならない。子どもたちがどう思っているか、などということはどうでもよいのだ。大人の考えがそこには反映されている。そんなことを繰り返しているから、子どもたちは常に自分たちで考えて行動しない。子どもたちの頭も形ばかりで、誰も行動の先頭に立とうとはしない。疑問にも思っても一年は流れた。

 講演を聞きに行った妻は、先生のこんな話を印象的に語った。かつて先生が子どもだったころ、野球を盛んにやった。その後そんな盛り上がりから、地域の指導者に指導を乞うようになった。それが子どもたちの社会の終焉たったという。それまでは子どもたちだけで工夫していたものが、「指導者」という大人が交わることで、子どもたちが自ら動こうとしなくなったと言うのだ。先生は、育成会に関わった際、大人たちは行事に出てくるなと言ったという。しかし、親たちからは一緒に楽しみたいという意見が強かったというが、聞き入れなかった。

 より以上のことをしよう、とか、自分たちで物事を考えようという気持ちが子どもたちに限らず、大人にもなくなりつつある。だからこそ子どもたちにとって何が必要なのかも見えてこない。無責任な社会を形成する素地がそこにはあるように思う。
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獣道

2006-09-24 12:56:47 | 自然から学ぶ
 今年は盛んに熊の被害が報じられている。飯田市の伊賀良から山本まで走っている西部山麓線という農免農道沿いにも最近熊が出没しているという。山の麓ではあるが山中ではない。ずいぶん住宅も多い。そんなことで、おちおち山にキノコ採りに行くのも危険含みである。

 先ごろ「ヨケの観音さん」に触れだが、天竜川左岸の山間の県道からこの観音さんの場所まで登る道沿いには、明らかに獣道とわかる跡がたくさんあった。県道から観音さんまでは距離にして300メートルあるかないかである。その間の坂道は幅3メートル弱の幅で、その道から山側は傾斜地となっている。その傾斜地は草や低木が生い茂っているが、そうした草むらに人が分け入ったような筋が何本もある。ひとつや二つではない。数メートルしか離れていないのにそうした道筋ができていたりする。いったい何をしたんだろう、と思うほどその数が多い。近寄ってその道筋を観察するが、人の足跡らしきものはない。しかし、どう見てもここ1日ほどの間に分け入ったことはすぐにわかる。人の足跡がないのだから獣の道としか考えられない。足跡はあまりはっきり残っていないが、よく見ると小さいが足跡がところどころ残っている。イノシシかニホンジカなのだろう。ちょっとイノシシにしては足跡が小さいし、傾斜地にしては足跡の残影が弱い。印象としてはニホンジカっぽいが、爪あとが開いている感じもするのでイノシシかもしれない。

 この道沿いに一軒の人家があるが、そんな立地ではあるがおびただしく山の中に向って道筋がつけられている。県道から上がる道の進入路の北側は、岩場となっていて県道上に落石防護ネットが設置されている。そのネットを抑えているアンカーが県道から10から20メートルほどの直上に設置してあって、山へ登る道の脇からこのアンカーが設置してある場所へ人が歩く程度の幅で入ることができる。その道を横にたどって行くと、獣道というよりはそこいらじゅうが獣が歩いたように土が起きているのである。まるでネットを張る工事を最近したような、工事現場のありさまなのだ。

 観音さんまで上る道の上にも傷をつけたような跡がいくつも見える。足跡とは明確には言えないが、いったい何が起きているのだろう、そう思うほどあたりには生々しい土の色が見えている。人通りもまずないそんなところにひとりたたずんでいると、熊でも出てきたら・・・などとちょっと気になってしまう。

 先ごろ妻の実家へ向う広域農道を走っていたところ、道の真ん中をつがいのニホンジカが歩いていた。わたしと目が合って、しばらくこちらを見ていたが、車をゆっくり近づけていったら山の方へ逃げて行ってしまった。車を止めて山の様子をうかがっていたら、ゴソゴソと藪が揺れる音がして、さらに奥へと入っていってしまった。この道、車が通らないからシカたちも安全な道なのかもしれない。近くに家があるのだがそんなことはおかまいなしだ。天竜川左岸には、明らかにニホンジカが多いという印象がある。

 撮影 2006.9.18
 写真は獣道、右下は足跡であるが、これは横にふくらみがあるからタヌキとかキツネ系のものかも。
 
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1人で稲刈り

2006-09-23 10:09:58 | 農村環境
 先週のことである。「わが専用道路」で触れた広域農道を走って妻の実家に向っていた際、道の脇の田んぼでおじさん(歳からいけばおじさんというよりはおじいさんになるだろうが)が1人で稲を刈っていた。ほ場整備された田んぼだからそんなに小さい田んぼではない。飯田下伊那地域では、まだまだ刈ってハザ干しする家が多い。とくに天竜川左岸の山間地域となれば、ハザ干しが一般的だ。だからおじさんも、1人でバインダーで刈って、干す準備をしていた。

 話は変わって同じ日、妻の実家のある周辺の田んぼも、あちこちで稲刈りをしている家があった。そんななか我が家も稲刈りを一部したわけだが、妻と息子、妻の弟と父と5人での作業であった。刈った田んぼはというと、せいぜい5畝程度の小さな田んぼ1枚だが、5人でやるから2時間もあればハザ干しまで終わる。周辺でも稲刈りをしていて、高台にある我が家の田んぼからは下の方にある田んぼの様子がよくわかる。子どもたちも加わって賑やかに稲刈りをしている家が多い。どこも小さな田んぼだか、家によっては10人くらいが集まってやっている。みるみるうちに稲刈りは終わり、ハザができ上がって行くのだ。山間地とはいえ、これだけ人出があって賑やかだと、楽しいものだ。普段はあまり手伝わなかった息子も、この日は2時間程度ではあるが、よく働いた。自らでき上がったハザに稲を架け始めたの。ぬかって排水性の悪い田んぼだったから稲が畦の上に置かれている。ちょっとハザまで遠い。そうでなければ違う場所からわたしも架けはじめるところだったが、息子の架ける稲をとってやった。息子もわたしがハザ掛けのプロだと知っている。だから意識してか、素早く架ける。わたしは架けやすく稲を割って架ける方向に向けて取ってやる。わたしが普段1人で架けるよりは遅いが、それに近いくらいの速さで架け終わっていく。久しぶりの親子の共同作業だった。

 妻の実家に約4時間くらいいたのだろうか、再び来た道と同じ道を自宅に帰っていく。するとさきほどの広域農道沿いの田んぼで、相変わらずおじさんが1人で稲を刈っている。よくみると、すべてを刈り倒してあるのではなく、田んぼの一部を刈り倒してあるだけだ。それを見て、おそらく自分ひとりでその日に片付けられるだけを刈り倒したのだと気がつく。この田んぼの周辺も天竜川左岸だから、それほど平らでもなく山間ではあるが、すぐ近くに宅地造成がされて何軒か新しい家が建っている。だから割合この広域農道沿いの中では家が多い集落である。しかし、おじさんは1人なのだ。家族はいないのか、手伝う人はいないのか、そんなことを思うのだが、いずれにしても1人で稲刈りをしている姿に複雑な思いを抱いた。
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土手草を考える

2006-09-22 08:15:48 | 自然から学ぶ
 ほ場整備された土手も、整備されて30年もすると、だいぶ変化してくる。かつて土手にあった木は整備の際にすべてなくなってしまい。炎天下の田んぼの中といえば、日陰などと言うものはまったくなくなってしまったが、意図的に木を植えたりする人もいて、若干の日陰ができている田んぼもある。それでも木を土手に植えると、隣接地の日陰になったりするから、喜ばれるものではない。日陰になるということは稲の生育に影響するからだ。単に景観がよいからとかいう視点だけでは、なかなか語られないそこには背景があるものなのだ。

 だから整備をすることにより植生から多様さがなくなってしまったとはいっても、さまざまに人が関係しているから、他人様がいろいろ申し上げることもできないのが現実である。北条節雄氏は、ほ場整備された田んぼの土手とそうでない田んぼの土手を比較して、整備された田んぼの土手には、スズサイコ、オミナエシ、キスゲ、ヘラオモダカ、イトイヌノヒゲ、ミヤコグサ、ノハナショウブ、ヒメミカンソウ、ヒメナミキ、ワレモコウ、ヤナギタデ、ミズオオバコ、キキョウ、タヌキモ、アシカキなどの希少なものがなくなっているという(「土手草が消える」『伊那』893 伊那史学会 平成14年)。これらの植物は、整備をされていない土手でも、すでになくなりつつあるもので、むしろその姿を田んぼの土手で見ることは珍しい。大規模な整備がされて30年もたつ飯島町の土手を見ると、確かに多様ではないものの、意図的にそうした草花を刈らずに残している土手を見ることがある。いや、意図的なのか、たまたま残っているのかは聞き取っていないのでわからないが、整備して間もないころにくらべると、土手によって差はあるものの、多様な草花を見せる土手も中には見受けられるのである。

 先日飯島町本郷の第一という地区の土手を眺めていた。なぜ眺めていたかといえば、かつてそこに自家の水田があったわけで、そのころの姿を思い出しつつ、懐かしんでいたというのが事実である。今は集団化されてそこに我が家の土地はないのだが、かつて我が家の水田があった近くの土手に、盛んにツリガネニンジンが咲いているのである。周辺にはカワラナデシコやゲンノショウコなども生えていて、整備された土手でも昔の姿を残しているんだと気がついたわけだ。それでもその近くに盛んにセンブリを取りに行った覚えがあるが、そんなものはどこにもあるわけがない。希少なものはやはり消えているわけだ。先にも言ったように、必ずしも整備されていなくてもそうした草花は消えている。とすれば整備が影響したということも事実ではあるが、それ以上に草刈の仕方が変化したということはいうまでもない。
 
 先日も稲刈り前ということもあって、妻の実家の田んぼの土手草を刈ったのだが、刈るのはまだしもその草の片づけが大変なのだ。整備されていない田んぼだから畦が狭く、1輪車へ載せるが大量には載らない。何度もいつも積み重ねている場所まで運ぶのだが、ただただ腐るのを待つだけの草を集めるのは、生産性がなくて意欲を失う。昔なら、背負いビクやセイタ(セイタ)につけて家まで運び、家畜の餌にしたのだろうが、今はその家畜がいない。草の処理をしながら毎回思うのは、この草が有効に利用できることを考えるべきだ、ということである。やはり家畜を飼うというのが一番かもしれない。


 さて、飯島町本郷第一のかつての我が家の田んぼのあった土手の近くで写真のように奇麗に草が刈られた土手に遭遇した。土手草の多様性を考慮しなければ、土手草は奇麗に刈られているのが見た目は一番である。ほ場整備された土手があちこち見事に刈られている姿を見ると気持ちがよいものだ。しかし、土手草を刈るといっても土手が大きければ、その苦労は知らないものにはわからない。写真の土手は水路から畦の上まで5メートル以上はあるだろう。整備された際にはこの大きな土手に小段は何もない。だから草を刈るとなればこの傾斜地に足を踏ん張って刈らなくてはならない。そうした体勢を維持するのは若者には簡単かもしれないが、歳をとれば簡単なことではない。この田んぼの所有者は、約1メートルごとに足場を設けたわけだ。それが横に筋になっている。草を刈るには一様な面の方が刈りやすいことはわかっているが、草を刈る人の安全を考えればこういうことになるのだろう。

 土手草に関しては、以前ホームページに記事を載せている。
 「田んぼの土手に見られる草花
 「田んぼの畔に撒く金のなる木
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ヨケの観音さん

2006-09-21 08:11:46 | 歴史から学ぶ
 中川村飯沼の三間畝(さんましょう)というところに石造物が集められている。実はわたしがここを最初に訪れたのは、もう30年以上も前のことである。実家から見て天竜川の対岸に道があって、当時はまだ吊り橋であった飯沼橋を渡ってはその対岸を何度も訪れていた。飯沼神社の中に入ってはこっそり遊んだ覚えもある。行政区域は異なっていたが、庭みたいなものだった。当時はその三間畝といわれる場所に松があって、対岸からも目立っていたのだ。そんなこともあって、少し山を登るのだが、そこに石造物があることを知っていた。

 ちょうど「アレチウリ」で触れた場所を通ったこともあって、先日敬老の日に実家を訪れたついでに登ってみた。30年ぶりぐらいになる。当時はその場所まで歩く道程度しかなかったように記憶するのだが、今は軽トラックくらいなら通れる程度の道が行っている。ちょっと狭いから軽トラックでもなかなか登っていく人はいないだろうが、その道端にその石造物群はあった。

 この飯沼と現在は飯島町になっているが日曽利(ひっそり)という集落を結ぶ道は、天竜川への急傾斜地を通ると言うことで難所であったという。日曽利側ではヨケミチと言うが、「中川村の石造文化財」によると、ヨケヤマミチと記述されている。これは別名で通称は善光寺道と言われたようだ。安政年間に日曽利と飯沼の人たちがこの道沿いに三十三観音を点々と祀ったという。その後道が荒れたこともあったのだろう、それら観音さんを日曽利と飯沼に半分ずつ分けて集めて祀ったようだ。その当時はカッコ沢という現在も北側にある沢から西150メートルほどのところだったというから、現在地よりもう少し北にあったのだろう。ヨケミチはその後も利用されていたようだが、南向発電所の送水トンネルのために造られた川沿いの道が開けてからは利用されなくなった。そして、昭和8年に現在地にヨケの観音さんも移されたという。

 三間畝には三十三観音のうちの一番から十七番までが祀られている。半分ずつというから、日曽利側に十八番から三十三番まで祀られているのだろう。一番の如意輪観音の台座「安政七申年三月十八日」とあるから、安政年間に祀ったという言い伝えと通りのようだ。この一番と十七番が特別大きな碑となっている。道沿いに点々としていたのではなく、もともとここに祀られていたのではないかということを思わせるがどうだろう。十七番の台座には、「仲谷塩沢隠居 日曽利香坂隠居」とある。飯沼と日曽利の有力者の名が刻まれているのだろう。

 さて、かつて訪れた時は、この場所から天竜川対岸の様子がよく見えていたが、今は木が大きくなってしまって何も見えない。昔にくらべるとどこもかしこも木が覆い尽くすようになっている。これから先、さらにこうした山間に人がいなくなったとしたら、山はどう変化していくのだろう、そんな不安を覚えるばかりである。
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賑やかに飛ぶツマグロヒョウモン

2006-09-20 08:09:04 | 自然から学ぶ


 地球温暖化の影響で北上しているといわれるツマグロヒョウモン。自宅のあたりではまだ未見だが、妻の実家のあたりにはたくさんこのチョウが飛んでいる。ちょうど一年前にもこの「ツマグロヒョウモン」について触れたが、そのころはチョウのことはよく知らなかった。ブログを始めて何が一番変わったかといえば、身の回りの出来事や、環境に対して敏感になったということだ。仕事に追われ、変化のない毎日を絶えず繰り返すとともに、銭もなくよそへ出ることもない我が家にとって、せめて身の回りの出来事、あるいは環境に目を向けるぐらいがブログのネタ、いや日記のネタなのだ。公開もしてない従来の日記なら、誰も見はしないから、どんなにてきとうであろうと、3日坊主に毛が生えた程度でも、気にもしなかったが、一応見る人は少なくとも、公開しているから身の回りのことを気にとめるようになった。せめてもの「効果」というところなのだろう。

 さて、ウドの花にツマグロヒョウモンが盛んにやってきている。メスのほかオスが何匹も飛んでいる。オスはほかのヒョウモンチョウと似ていて、ヒョウ柄である。この手のチョウはいろいろいる。ただ、ツマグロヒョウモンは後翅の縁が黒いので他の種類と区別できる。いっぽうメスは斑点の柄はほぼ同じだが、前翅の先端部表面が黒色地で白い帯が入る。チョウにあまり関心がなければ、同じ種だとは思わないくらい雄と雌は異種に見える。

 世界ではアフリカ北東部、インド、インドシナ半島、オーストラリア、中国、朝鮮半島といった温暖な地域で生息し、日本では南西諸島、九州、四国、本州の南西部に生息していた。1980年代まで本州では近畿地方以西でしか見られなかったというが、徐々に生息域が北上し1990年代以降には関東地方南部、富山県・新潟県の平野部で観察されるようになった。長野県では以前より確認はされていたものの、越冬はできなかったという。しかし、最近では越冬したという事例も報告されている。今まで珍しかったということもあって、貴重なチョウなんていう認識があったようだが、生息域を広めるとともに、そんな認識も変化してきている。このチョウ同様に、北へ生息域を広げているチョウがあるという。クロコノマチョウやナガサキアゲハなどもそうしたチョウの一種と言う。ちなみに信州昆虫学会が『信濃の蝶』を発行した際の長野県の蝶は146種だった。1972年から1979年にかけてまとめられたものだが、すでにその際に、それまでは信濃の蝶として仲間に入っていなかったアオスジアゲハやモンキアゲハも仲間入りしたという。そしてクロコノマチョウが確認されたのが1980年のことといい、こうした温暖化の影響は最近始まったことではなく、もうずいぶん前から進行しているのだと気がつく。

 撮影 2006.9.16
 右側がメス、左側がオス
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ホウキグサ

2006-09-19 06:08:17 | ひとから学ぶ
 妻の実家の畑の隅にあるホウキグサが赤くなり始めた。我が家ではホウキグサと呼んでいるが、和名はホウキギというらしい。また、コキアとも呼ばれ、宅地の庭木として植えられている場合はこのコキアと呼ばれるのが一般的なのかもしれない。ホウキグサじゃオシャレじゃないかもしれない。

 アカザ科の一年草で、中央・西アジアの原産という。古い時代に中国を経て日本に入ってきたようだ。高さ約1メートル余になり、種が落ちるから毎年同じところに芽を出している。夏の間は緑色で円錐状に茂っていて、まさしく庭木のように見える。ホウキギと言われるのも木のように見えるからかもしれない。雰囲気として似ているものにハーブがある。ハーブが紫色なら、こちらは見事な赤い色である。紅葉し始めると、緑色に混じって赤い色が点々と現れ、完全に赤くなるホウキグサよりも、緑色に赤色が点在するホウキグサの方が、わたしには美しく見える。

 ホウキグサというように、箒にされた。「ホウキグサ」で検索すると、「昔は箒として利用された」なんて書かれているが、今でも我が家では箒にしている。畑の隅を利用してずいぶん昔に植えられたもので、10月末にとって2週間くらい干して束ねておき、必要なときに箒にしたという。この箒の先にホウキグサの実がついていて、使ったあとに箒をはたくと一緒に実も落ちて翌年に芽を出すという。植えたのは一度だけなのだろうが、毎年ホウキクザが芽を出して箒として利用されていたわけだ。まさしく自然とそこに循環の世界があった。

 ホウキグサで作った箒は、箒に実がついていて最初のうちはちょっとゴミっぽい感じはする。しかし、土の上を掃いたり、あるいはコンクリートなど舗装面を掃くのにちょうどよい。竹ボウキなんかにくらべれば、ずっと扱いやすいし奇麗になる。今ではホームセンターなどでコンクリートなどの土間用の箒を買うのが当たり前になっているが、一度ホウキクザで箒を作ってみるとよい。実がごみごみして嫌なら、よく実を取ってから作ればよいだけのことだ。

 さて、以前ホームページでホウキグサを扱ったことがある。久しぶりにその記事をあらためて読んでみたら、かつてのホウキグサは赤くならなかったと書いてある。すると、現在畑の隅にあるホウキグサは、その後再度蒔いたものかもしれない。まだ妻の実家には大昔のホウキグサを干したものが屋根裏に置いてあって、箒を作ろうとすればそれを利用する。HPで紹介している写真は、息子が小学校5年ころに自ら箒を作った際のものである。束ねたホウキグサを専用の束ねる台に載せて元を締め、針金で縛っている。このとき作った箒が、今でも我が家でいくつか使われている。犬のウンチを取る際にも、この箒を使う。利用価値は高い。でもこんな箒を近所で使っている人はいない。
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消えた村をもう一度⑨

2006-09-18 10:56:20 | 歴史から学ぶ
 平成17年3月31日新生豊後高田市に合併した旧真玉町は、旧豊後高田市の東隣にあった町である。さらに東隣にあった香々地町とともに新生豊後高田市を構成する。国東半島という名はよく知られているが、どこから国東地域になるのかは、あまり遠くの地にいる者にはよくわからない。もちろん半島に飛び出た地域はその地域とは解るが、根本のあたりはどこから、と聞かれてもよくわからない。昭和58年に真玉町から送ってもったパンフレットに、「宇佐・国東半島」というものがある。この地域の広域的なパンフレットで、それには宇佐市から院内町、安心院町あたりから半島にかけての案内がされている。文化圏というと国東と宇佐は一帯という印象もあるから、観光では宇佐地域も含めた取り組みがされていたようだ。

 真玉町の人口約4千人。新生豊後高田市は2万6千人で、合併してもけして大きな市ではない。国東半島がいかに過疎化の進んでいる地域かということもわかるが、それだけにわたしには魅力を感じる。

 国東半島といえば仁聞菩薩が養老2年(718)に国東の谷や峰を巡遊して、多くの寺院を建立したと伝えている。この地域が六郷満山といわれる所以は、この際に建てられた六郷山寺院に由来する。そんな国東半島には多くの石造物が残る。とくに国東半島を含めた北九州地域に多い磨崖仏や、石造仁王は独特なものである。そんな国東半島を、一度は訪れたい、というのが念願だった。

 パンフレットは変形版の12ページ立てである。「仏跡と出湯」とあるように、町内の寺院と国東半島唯一の温泉を紹介している。当時の温泉施設は真玉荘といい、総合集会所と老人憩の家が併設されていた。名前からは観光目的の温泉施設という印象は薄い。実は昨年の2月、念願の国東半島を訪れた際にこの温泉施設に宿泊した。今は改修されて観光目的に変わったのだろうか、名をスパランド真玉という。国東半島という知名度の割には、半島には宿泊施設が少ない。近隣には別府温泉や湯布院があったりと、一般観光客にはそちらの方が好みなのだろう。それだけにこうした宿泊施設もなかなか空いていない。宿泊施設の空きにあわせて目的地を変えたほどである。


 真玉町では福真磨崖仏と応暦寺裏山の堂の迫磨崖仏、そして清臺寺などの石造仁王を訪れた。写真は堂の迫磨崖仏である。大岩屋にある応暦寺の本堂の左横から奥の院へ通ずる山道の崖の上に、横に細長い3つの龕が彫られ、左から六観音・十王像・六地蔵・施主夫婦像・倶生神(司録像)を半肉彫りしている。像高50センチほどの磨崖仏で、室町時代の作品だという。堂の迫磨崖仏からそれほど遠くないところにある福真磨崖仏も同じ室町時代の作というが、こちらはなかなかわかりにくい場所にある。加えて暗がりにあってさらに覆い屋根があったりと、なかなかうまい写真は撮れなかった。



消えた村をもう一度⑧
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飲酒後の運転

2006-09-17 10:13:57 | ひとから学ぶ
 飲酒運転による事故が連日のように報道されている。飲酒運転撲滅といって世論が高まってもなかなかなくならなかった行為である。「少しくらいは」という意識がそうした行為をなくすことができない、くらいは解るが、その「少し」というのは人の計りによって異なる。だから酒気帯びと酒酔い運転の違いは曖昧だ。田舎では飲み屋に必ず駐車場がある。なければ客の足は向かない。宴会に集まる際は車で、帰る際は別の手段で、なんていうけじめがつけられる人ばかりではない。しらふの時と、酔った時では意識が違う。飲んでしまえば「少しくらい」が増幅して「こんなくらいなら」と変化し、さらに酔いが回れば、しらふと酔いの境界は取り外されてしまう。多く発生する飲酒運転による事故に、普段はそんなことをする人でなくても「たまたま」というケースもあるのだろうが、おそらく大方の事故の背景には、日常的な飲酒運転が存在しているに違いない。

 ここ数年車で通勤していないから、そんな飲酒運転に駆られることはない。しかしながら、若いころ、会社での飲み会が多かったころには、そんな状況になることは頻繁にあった。とくに飲み会というやつが多い会社では、そうした飲酒しての運転が皆無だったとは言いがたい。同僚をみていても、飲酒して車で帰る、という現実を雰囲気ではわかっていた。もちろん個人的な飲み会でも、そうした環境は多くあったのだろう。田舎ではそれしか帰宅する方法がない、とまではいえないが、若く給料が少ない人たちにとっては、とても何十キロもタクシーで帰るなんていうことはできないし、加えて翌日どうやって会社までたどり着くか、ということで常に葛藤したものだ。そんなことを葛藤というだけ、わたしもそんな経験は何度もある。そして、現実的には飲酒したあとに運転をしたことは何度もある。しかしながら、自分から率先して飲んだあとに運転したことはあまり記憶にない。どういうことかといえば、会社の飲み会で「飲め」とか「飲むのが当たり前」という雰囲気の中で、仕方なく飲んで、セーブしながら帰宅するというのが飲酒運転への筋道だったのだ。かならずしも嫌々飲んだわけではないが、運転するんだと自分の中で確認した際には、口にしてもかなりセーブしていたし、飲んだふりをしては、コップの酒を、あるいはビールをよその器に流し込む、なんていう経験は常にあった。それほどかつての酒席というやつは、「飲むのが当たり前」という世界があまりに強かった。そこにいけば無理強いしなくなったこのごろは、それぞれに判断が任されている。だからこそ、こうした事件性の高い飲酒運転は、わたしが経験した飲酒運転へのシチュエーションとは全く異なる。明らかに意図的だろうし、日常的な出来事だろう。

 飲酒した乗らない、という意識が高まるとともに、かつてのような飲酒運転への道筋はなくなった。飲む時は飲む、運転はしない、という意識は日常的にある。そうした意識を持たせる、あるいは訓練がされていない環境が、事故を起す背景にはあるのだろう。おそらく、わたしの周りでも完全にそんな意識がすべての人たちに整ったとは言い難いが、100パーセントに限りなく近づけていくことが必要だろう。そうはいってもわたしのように酒に強くない者は、飲んでもフラフラになるようなことは皆無だ。そこまで飲むことができない。しかしながら、酒に強い人たちには、きっと「運転なんて何ともない」という意識が、今でもあることだけは確かだ。

 いずれにしても、無理強いをするような環境はもってのほかだし、可能性としてそういう行為が生まれるのなら、酒席を設けて懇親なんていう感覚はもうやめたらどうか。とくに田舎では。
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チガヤを植える

2006-09-16 09:44:59 | ひとから学ぶ
 ある名称指定地の隣接地にビオトープを造るといって、ここ何年か整備をしている。なるべくコンクリートの構造物はやめ、自然な姿で改修を、あるいは整備を、という意図で造られている。大変今風な考えではある。しかし、そこへ持ち込まれる例えば石積の石は、よそから持ち込まれる。当たり前といえば当たり前で、そこから石を採取して石積を造るといったら、莫大な手間がかかるし、形のよい石積を積むことはできない。例えれば無農薬野菜が虫を食っていたり、形が悪かったりするのと同じだ。にもかかわらず価格は高いときたら、なかなか選択することはできない。

 そん補助金を使った整備が、今は普通になりつつある。わざわざ昔に戻すような整備(?)なのだ。池を造って周りには植栽をするというが、設計屋さんが考えたものは、チガヤを植えるというものである。イネ科の植物で、花が終わると種子に付いた毛が生長して綿毛となるやつだ。そこらの野にはけっこう生えているのだが、金を出してわざわざ購入する。それもそんなものを売っているところはなかなかないから、もしかしたら遠く県外からやってきそうだ。

 チガヤはススキとともに草原の代表的な種である。チガヤの芽は地表面直下にあって地上部を刈り取ると地下部に蓄えた栄養分を使って速やかに葉を回復するという。なかなか強い種である。いっぽうススキは茎があって刈取りに対してはチガヤよりダメージが大きいという。草丈がチガヤより高いことから、管理をしないような草原だとススキが優先種となり、頻繁に刈り取っているとチガヤが優先するようだ。ウィキペディアによれば、「匍匐茎があるため、大変しつこい雑草である」なんて記述されている。種子は遠くまで飛ぶというのだから、なにもしなければ草原にはどんどん増えていくのだろう。にもかかわらず「植える」のだ。

 このチガヤとともにタチツボスミレやゲンノショウコなどを混植するという。そんな背丈の低いものを混ぜるというが、なかなか管理が難しそうである。草を刈る時期とかけっこう計画的になってくるのだろうか。かつてのように草を家畜に使うとか利用ができた時代はよかったのだろうが、今では刈るだけで草は邪魔者である。草刈さえある程度すれば、背丈の低いものが伸びてくるのだろうから、管理される草原には、チガヤが良好なのだろう。

 いずれにしてもよそ者を移入してまで、過去の風景に戻そうというのも、不思議なものである。しっかりした事業を取り込んでやるからそんなことになってしまう。やはり植えるものは地のものを少しずつでも増やしていく、というようなやり方をしないと、まさしく造られた世界になってしまう。
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