Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

好奇心とやる気を伸ばすには

2006-01-31 08:08:12 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞の1/30朝刊の科学面「フロンティア」に後藤道夫先生が記事を載せている。後藤先生はNHKの科学番組を担当されていたこともある。飯田市にできた「かざこし子どもの森公園」がオープンした時から、理科実験ミュージアムで講師をされている。息子が小学校のとき、担任の先生が極めて危険な実験をしていると、妻が参観日に行って驚いてきた。とても実験の仕方を認識しているとは思えない、と感想をもらしていたが、学校の現場での理科離れは歴然としていた。それは今も変わることはなく、中学になった息子の話を聞いていても、実験の少なさを感じる。そんな意味で、かざこしの森の実験ミュージアムは、理科離れ、実験離れをしている子どもたちに、その興味を沸かせてくれるよい場所だと思っていた。事実、息子もオープンまもないころから何度か訪れては実験を体験していたが、いかんせん、飯田市まで毎週通うという立地ではない。近くに住んでいる子どもたちには、うらやましい環境であった。
 記事には、今年飯田東中学を卒業する3名の科学部の生徒が紹介されている。彼らは、このかざこしの森を毎週のように訪れ、その魅力にはまり、のちにここのおもしろ科学工房のスタッフにもなった。そして、科学の研究で実績を作った。その一人、北林君は息子の友だち(友だちといっても、小学校のころ阿南自然の家で一緒になって、のちにこの科学工房に誘ってもらったりしたが、今は年賀状をやり取りする程度だ)でもある。北林君のお母さんがオープン当時からのスタッフだったということもあって、そのころから催しに誘ってもらったりした。そして、このおもしろ科学工房を、学校に出張して開いてくれるということを知った。ちょうどそのころ、息子が通っていた小学校では、参観日のあとの親子参加の催しが映画ばかり続いていたということで、PTAの役員をしていたわたしは、このおもしろ科学工房を学校に呼んだらどうかと提案したことがあった。平成15年、わたしは既に役員を去っていたが、この年に後藤先生をはじめとした科学工房のスタッフに、学校でさまざまな実験をしていただいて、盛況であったことを思い出す。毎年同じことをしていても・・・と思って提案した科学実験教室であったが、それから毎年のようにその科学工房にお願いしているようだ。ちょっとわたしの意図とは違うことになっているが、科学実験すらまともにできていない学校の姿をみると、「それでもいいか・・・」と残念だが納得している。記事に後藤先生も書いているが、「好奇心とやる気を伸ばすために、地域社会が学校と協力することがいかに大切かを示す実例として広く知らしめたいと私は思っている」という。
 前段でも述べたように、うらやましい環境もあるが、同じ環境がどこにでもあってもうまくいくとはいえないだろう。学校の方針というものもある。飯田東中学という学校の環境に、地域と学校を結ぶだけの素地があったとわたしは思う。北林君は、科学実験だけに力を入れただけではない。習字の県展では、常に作品を出展し、特選をとるほどの腕前である。息子にとって彼は大きな目標だが、とても手の届かない目標でもある。そんな環境に少しでも触れさせてもらっていることに感謝である。
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フィルムカメラ事業の撤退によせて

2006-01-30 08:18:10 | つぶやき

 「カメラ業界 フィルム事業縮小…愛好家に波紋」というトップがYAHOOのトピックスに見えた。ご存知のとおり、世の中はデジタル全盛というよりも、扱いやすさからデジタルがあたりまえという時代になった。ファインダーからのぞく世界は、デジタルもフィルムも変わりない。とすれば、写し出そうとするイメージは、どちらでもよいことになる。扱いやすさや経済性を考慮すればデジタルだけになっても致し方ないことである。デジタル化、そして携帯のカメラ化は、明らかに画像を身近にしてきた。それほど古い時代のことでもないのに、もうずいぶん昔からデジタルだったような錯覚に陥る。本当に世の中が早い移り変わりをするから、記憶にある世界が昔なのかいつのことかも忘れられてしまう。
 先ごろニコンが一眼レフの製造を2機種のみに縮小するという報道があったし、コニカミノルタがフィルム・カメラ事業から撤退という残念な記事も見えた。もともとコニカといえばフィルム会社として富士フィルムと争っていた。富士の市場割合があがるとともに、コニカのイメージは薄れていき、ミノルタと合併した。そのミノルタも、カメラ業界に一時代を築いた。とくにミノルタが全盛であったのは、オートフォーカスカメラを発表してからの数年であった。α7000というカメラの発売は、世の中を驚かせた。一眼レフといえば、手で焦点を合わせるのがあたりまえだったそれまでの常識をひっくりかえしたのだから。これを機会に、一眼レフカメラは誰もが持てる時代に変わった。動く被写体、あるいは一瞬の出来事を的確に写し出すには、焦点を合わせる時間は、絶好のチャンスを逃す要因になっていたが、自動焦点方式は、そうしたロスをなくすとともに、誰もが撮ってもそうした要因に左右されずに差のない写真が撮れるようになった。わたしも撮りたいときにすぐに撮れるということが魅力で、α7000をいち早く手に入れた。一時は品薄になるようなカメラであったが、世間がそんなカメラに目を向ける以前に購入した。昭和60年のことである。また、今でも手元にあるレンジファインダーカメラもミノルタのものである。以前にも書いたが、働き始めて最初に手に入れたカメラである。カタログも、カタログに付属していた広告も、今も大切に持っている。「男の拘泥り」と字が躍る広告には、次のような文がつづられている。

 近頃、クセが無さすぎる。皆が、群れに溶け込んでいる。
 自分であって、しかも自分でないような、曖昧な気分が多すぎる。
 私は、せめて自分だけの色、自分だけの道を持っていたい。
 ただし中身が無ければ、たちまち見透かされてしまうだろう。
 頑固というのではなく、もちろん我が儘というのでもない。
 自分は自分、と言い切れるだけの信念を持ちつづけたい。
 そこに、いまを確実に生きている私の意義があると思う。
 だから私は、時流に流されるのは好きじゃない。

 この「時流に流されるのは好きじゃない」は、まさしくわたしへの贐のように思った。広告には、鈴木清順、小沢昭一、大島渚、鮎川誠がカメラを構えているモノクロ写真が並ぶ。
 当時、レンズ交換のできるレンジファインダーカメラは、国産にはこの一台しかなかった。まさしくミノルタの拘りだったのである。その拘りを手にしてから、わたしはそのまま今に至っているような気がする。だからわたしにとっては、わたしの身代わりのようなカメラである。大事なカメラではあるが、かつて祭りの撮影に頻繁に使ったこともあり、傷だらけである。
 
 カメラだけではない、フィルムそのもののこれからも、衰退の一途だろう。とくに白黒フィルムを多用したわたしにとっては、残念でならない。いつごろまでだったのだろう。カラーより白黒の方が経済的だったのは。お金の無い若者にとっては、カラーで写真を撮るということじたいが、思い切りが必要だった。わたしがカメラを持ち始めたころは、すでにカラーが一般化してきていたが、それでも白黒の方が、現像も焼き付けも安価であった。ところが、白黒の需要が減るとともに、逆転し、今ではリバーサルの焼き付けより時間がかかる。地方では歴然としている。国内最大手の富士写真フイルムは、「需要減と原材料の高騰」などを理由に、2月1日から白黒フィルムと印画紙、プロ用カラーを最大21%値上げするという。今以上に、白黒写真は高値の花となる。しかし、わたしにとっては、白黒の世界は基本でもあるし、人間社会を表すには白黒しかないと思っている。

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畑を起こす

2006-01-29 01:11:17 | 自然から学ぶ
 だいぶ雪が減った。しかし、雪の下の探し物をするには、沈んで硬くなった雪なのでなかなか大変なことである。現場で雪を掘るが、表面はよいが、地面近くになると凍っている。結局探しきれなかったが、あたり一面の雪の下には畑が広がっている。しかし、その一面の畑も、冬場には利用できないという現実がある。
 以上は先日長野市近郊へ行っての体験である。
 昨日は、妻の実家に行って畑を起こした。猫の額ほどの小さな畑が並んでいる。そこへ一年中さまざまな野菜をつくる。あまりに小さいから、そうした畑は耕運機で起こす。かつてあった耕運機は、義父があつかって後進する際、足が巻き込まれるという事故をおこした。それ以来、豆トラを使っている。体が小さいから自重が軽い。そのため、冬場ということもあり、土が緩んだ午後をねらって起こすのだが、凍っているところがあると体が跳ねる。50m2程度の場所でも、けっこう時間がかかるが、一応起こすことはできる。跳ねないように少しずつ起こしていく。4枚の畑をこうして起こした。起こした畑には、たまねぎ、ねぎ、レタス、里芋などが、これから3月までに蒔き、植えられる。
 長野県内でも、こうして冬場にも畑をまんべんなく利用できる地域は少ない。先の長野市近郊では、とうてい考えられないし、妻の実家と同じ郡内でも、わたしの自宅あたりの土は凍っている。凍っていても耕作は可能ではあるが、ほぐれた土もすぐに凍ってしまう。気候によってこうも違うのかと認識させられるとともに、同じものを作っていては勝負にならないということがよくわかる。短い期間しか利用できないのなら、その短い期間に高収入を得られる作物をつくらざるをえないわけだが、そううまくはいかない。流通が発達して、一年中野菜がスーパーに並ぶように、ほとんどのものがどこかで作られている。気候に左右されるとはいうものの、その気候を利用できるというところが、農業の面白みなのかもしれない。
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自動車学校通い

2006-01-28 00:17:43 | ひとから学ぶ
 同僚が大型自動車の免許を取得するために自動車学校へ通うと誘ってくれた。以前より大型を取りに行くときは誘ってくれと話しておいたのである。久しぶりの自動車学校通いが始まり、運転のイロハとでもいったらよいのだろうか、長年の癖をさまざまに指摘され、運転の上手下手ってなんだろうと、つくづく考えさせられた1ヶ月余だった。すでに免許には「大型」と記載されている。そうはいっても夜間割増など含めて19万円ほど使っているのだから、どんなに下手でもなんとかもらえるとは思っていた。ちょっと取得までの経過に触れておこう。
 第一段階は8時間の講習である。大型とはいっても、ロングボディーの4トンあまりの大きさだから、ちまたに走っているような車ではない。一時間目に基本的な操作方法を教えられ、教習所内をとりあえず走ってみるが、細かいことを何も言われずにとりあえず動かすから、縁石に乗り上げたり、右左折の際の車の感覚を盛んに注意される。もともと2トン車などのトラックというものを経験していないから、いろいろ言われても仕方のないことである。いろいろ教わっていたらそれだけで時間がかかってしまうので、動かしながら叱られて覚えていくしかない。大型に乗って最も違和感を覚えるのは、教官も指摘するが、ブレーキである。乗用車とちがって重い。そして、止めなくてはと思って踏み込むと急激に〝ガクン〟という感じに止まる。最初のうちは、効いているのかいないのか、踏んでもよくわからなかった。そうしながら、坂道発進、踏切、S字、クランクと教わり、縦列駐車と方向転換を一応やった程度に覚える。
 この間、カーブ手前ではしっかりブレーキを使って減速する。S字、クランクなどではアクセルを一定に踏んで、クラッチでスピード調整をする、などがわたしの大きな課題であった。こうした課題の原点に、普段乗用車を運転する際の癖がある。普段はマニュアル車に乗っていて、車の速度調整をブレーキではなく、シフトのアップダウンで行なっている。なぜそうした運転をするかといえば、ブレーキが嫌いなのである。わたしは胃が弱い。したがって車酔いというやつにかかりやすい。子どものころは、必ず酔ったものである。とくに酔うのは、ブレーキをキューッと踏むときのあの感覚である。そうした幼少のころの悪いイメージがいまだにある。今でも、バスなどに乗れば酔うことがある。もちろん、遠山谷に向かう赤石林道のようなカーブの連続の道で助手席にすわると、100%酔う。自分で運転していても、軽い酔いを覚える。
 第一段階が終わると仮免許を取得するための修了検定となる。この検定のために、第一段階の終わりから2時間は、修了検定用のコースを走り、一応検定コースを覚える。第一段階も終わりになるころ、ようやく人並みの運転ができるようになったが、相変わらずの癖でブレーキの踏みが弱く、シフトに手が行ってしまう。修了検定には、縦列駐車と方向転換は入らない。基本的に前進のみであるから、注意が必要なのは、S字やクランク、そして坂道発進だろうか。踏切を渡ったすぐを左折することもあり、踏切に入るタイミングは、本線を通行する車がいない時を見計らって発進する。本線に車がいて、曲がりきれずに停止すると、ボディーが長いため、車体が踏切に残ってしまう。こうなると不合格である。
 さて、そうはいっても運転し始めてまだ8時間程度で検定ということで、緊張する。そこが落とし穴なのである。S字が最後にあったため、緊張で半クラッチ状態を続けているのが苦痛で、足が震えるほどであった。検定後、始動の際にニュートラルに入れること、降車する際には半ドア状態で後ろを眼で確認すること、と2点を指摘された。一応合格であった。
 第二段階は14時間、いよいよ路上である。へたくそなやつがいきなり路上に出るのだから危ない話である。とくに、仕事の終わったあとに乗るということで、帰宅の車で道路には車が多い。加えて、視力がよくないから、夜間は良く見えない。路上1時間目は、それまでのどの時間より緊張の連続であった。路上へ出て2時間くらいは、教官の方はほとんど指摘をしなかった。だからこんなものでよいのか、と思っていると、厳しい教官が登場して、スピードの出しすぎ、カーブで減速する、などたくさん指摘を受ける。そして、運転の三原則は何か、この道路の制限速度は何キロかなど、いろいろ質問する教官が登場し、運転するのに精一杯なのに、その対応で頭の中がこんがらがっていると、運転もばらばらになってきて、「この段階でこんなに下手な人は初めて」とまで言われる。そんなの無理だろ、と思いながらもただただイエスマンを装う。第二段階14時間中、12時間は路上講習である。交通の流れにあわせた走行、適切な位置取り、進路変更、信号や標識表示に従う、交差点の右左折、そして歩行者への対応、危険予測と、それなりの路線が選定されている。ところが、今冬の雪である。12月というのにたくさん雪が降る。何度も雪道へのトライがあった。
 第二段階の最終2時間は、教習所内での卒業検定に向けた講習となる。卒業検定用は路上ではなく教習所内で行なわれる。ふたつのコースが設定されていて、ひとつは縦列駐車、もうひとつは方向転換である。どちらかというと、わたしは縦列駐車の方が苦手である。単純に講習時間内にあまり練習の機会がなかったことと、厳しい教官があたって、いろいろぐちゃぐちゃ言われて、それが影響している。
 さて、全22時間が修了すると、卒業検定である。偶然にも同僚と同じ日に卒業検定を迎えた。
 この日も昨夜から雪が降って、教習所内は真っ白である。検定官が坂道が登れるかさかんにトライしているが、むりらしい。チェーンを装着して検定ということもあるというが、結局塩カルを撒いて、雪を融かして検定となった。修了検定の際よりも落ち着いて受けることができた。それだけ運転に慣れてきたということだろうか。

 さて、同僚ともども晴れて合格だった。教習開始から9ヵ月以内に全教習を修了しなくてはならないが、慣れない人は、長い期間をおいてしまうと、運転のイメージを忘れてしまう。したがって、受けはじめたら、なるべく間を空けずに教習をしたいところだ。もちろん、修了検定、卒業検定ともに、前日には教習して慣れておきたい。
 なんといっても教官によって言うことが違うこともある。それはそれで、教官ごと異なった視点で見ていてくれているわけで、さまざまな意見を受け入れながら、安全運転を考え直すよい機会である。長年自分流にやっていたことを再確認するには、よい経験であったと思う。首になったときに役に立つだろうと思って取得したが、このままペーパードライバーで終わるかもしれない。よい経験ではあるが、経験だけで受けるには、高い教習料である。
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若者を救えない社会

2006-01-27 08:14:54 | ひとから学ぶ
 雇われているだけなのだから、雇い側の方針にあれこれ言っても仕方の無いことだし、ましてや、雇う側に明確な指揮者がいないとなれば、どこか意図がふらつくのも致し方ないのだろう。その程度の会社なのだから。仕事の減少という現実を痛いほど知らされ、高齢化していく会社に、高卒で10年以上も在籍しているというのに、いまだに使い走りをされる中堅社員の集合。にもかかわらずその現実を認識しない高齢者たちは、自分の首がつながることしか考えていない。
 来年度に向けて、目標の数字を示してここ何年も計画的に減員してきたにもかかわらず、一転、その方針を業績に明かりが見えてきたがごとく説明してその目標数目前にして、希望退職の方針を変えた。黒字に好転したというのならいざしらず、あいも変わらず赤字で、ここ何年も従来の蓄えで補填していることに変わりはないのに、さらに蓄えを補填して高齢化社会をみんなで仲良くやろうなんて考えている。まさしく高齢者優遇会社であり、そして今の日本社会を象徴しているような施策である。高齢者(中高年)は、「若い者は意見を言わない」、「身勝手だ」というばかりで、ニートとかフリーターのごとく定職を持たず、活力を示さない脱落者を軽蔑する。まったくわが社の中身となんら変わらない。まだ、社会にはさまざまな異論を発する者がいるし、そうした若者への施策をと主張するものがいるが、この会社には誰一人としていない。形ばかりの組合は、われが成すこと間違いなしとばかり組合を私物化している。
 入社以来10年以上も自らの仕事量と、会社内での一人前の仕事量を天秤にかけながら葛藤し続けた社員が、今年、会社から退く。目標数字へ向けて減員する会社の中で、自分がどう会社に位置づけられ、また、自分はどうあるべきかと考えた末の決断であった。もちろん背景では、目標数に達した際の残った人材に自分が必要かどうかを、自ら判断したものであったが、果たして、そこまで真剣に自分の内部に宿るそんな天秤を常に計っていた人が、この会社にいただろうか。そこまで、自分のやるべきことを、常に頭におきながら自問自答したやつがいただろうか。それほどまでにして、目標数を前提に決断した彼の気持ちを、踏みにじるような高齢者優遇措置に、「相変わらずだ」と納得することしかできない自分も、高齢者のひとりでしかないのだろう。この措置を聞いた彼の瞳の奥を見極めたのは、わたし一人しかいない。しかし、彼は、これ以上その天秤に振り回されることを望まないと、「割り切る」と言葉にしたが、この悲惨な会社に栄光などありえない。
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地方制度調査会の道州制について

2006-01-26 08:13:23 | ひとから学ぶ
 政府の地方制度調査会の専門小委員会が、道州制答申の素案を協議して、3案を答申に盛り込むという。9、11、13という分割案であるが、どれも従来の地方の分割区域を基本にしており、自然な分割区域なのかもしれないが、道州制導入後に、従来の都道府県の区域を行政区画として残すことも盛り込んでいるという。だから分県して分割するという案が出てこないのだろうが、この県の行政区画を残すことに異論もあって協議は続くという。
 この分割案、分割数が違う三つのものであるが、9と11の違いは、9では中国四国が一つなのに対して11ではそれを単純に分割、9では福井が近畿、石川・富山が中部、新潟が北関東信越というように北陸区域が分割されているものに対して、11では三つに分割されたそれらが「北陸」として一区域とされている。ここで二つ増えて11ということで、単純なる数字合わせであることがわかる。
 そして、11と13の違いは、九州を南北に二分割、東北を南北に二分割して二つ増えて13なのである。どう考えても、小学生でもできそうな分割案である。合併促進により、県の意味合いが薄まれば、必然的に広域圏を目指すのは道理である。行政区域は、長年広域化を繰り返してきたのだから。この数合わせの分割は、とくに中央にあって同一区域ながら分割されがちな「北陸」がどう扱われるかが課題であって、あとは単純割なのである。日本の中央にあって、大規模な区域を持つ長野県が、どの案でも北関東と同一の区域に含まれている。まさしく長野市中心に考えられた分割案にほかならない。北関東に接しているのは、長野県の外周のせいぜいあって25パーセント弱である。もっとも大きく隣接する東海区域は、50パーセント程度ある。にもかかわらず、どの案も関東なのである。
 こうした案は、道州制により分県されると騒いでいる某知事にはうってつけなのだろうが、果たして小学生でもできる分割案が、地域に住む人たちのためになっているかどうかは、大いに疑問がある。北九州の中心域である福岡に隣接する山口が、どういう生活圏なのか、仙台より遥かに南にあって関東に隣接する福島がどういう生活圏なのか、隣接区域に暮らす人々にとっては、身近な市町村合併にも浮かぶ隣接地域問題と同様に、複雑な思いはあるはずだ。北関東域だといわれて、長野県南端がどんなに外れた雰囲気を持つか、そんなことは思いもよらずに考えられているに違いない。県の行政区画を残すというのなら、致し方なく納得する部分もあるだろうが、それがないとなったら、従来の県域など意識しない分割案があって当然ではないだろうか。かねてから中部圏域の県で道州制案を模索していることも報道されていて、この地域の一員にもなっている長野県であるが、長野市中心型県であるために、そんな案には反対が多いのは予想される。しかし、何度も述べているように、この県は南北に長い。本当に道州制が導入されるというのなら、そこまで議論されるべきである。
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顔の見えない隣人

2006-01-25 08:12:21 | ひとから学ぶ
 赴任先で住んでいる家の横で、新規にマンションを建てている。マンションということもあるが、基礎工事からコンクリート工事と、けっこう振動や騒音がする。もちろん、施工業者の工事担当者は、周辺住民への説明会に始まり、振動や騒音が起きるような工事の前には、各戸にチラシなどを配布して、迷惑をかけることをお詫びしている。それはそれでよいのだが、わたしなどはそこに定住するわけではないから、「あー、そー」程度で捉えるが、もし、定住していたとしたら、やはり気分はよくない。
 わたしは自宅を知らない土地に建てたわけであるが、分譲地ではなかったので、周辺の方に造成する際にも、建てる際にも、それぞれ家に出向いてお願いをして歩いた。もちろんそこで永住する予定だから、つきあいという面で最初から汚点を作ってしまってはいけないから、それなりの気持ちをこめてのことである。ところが、集合住宅であって、建築時には誰が住むともわからない状態で建てられるとなると、住む人の顔が見えないということは、不安の始まりなのである。たとえ、工事担当者が良い人で、気分が良かったとしても、その人が住むわけではないのである。そして、そこに住むようになる人は、わたしが経験したような周辺への気遣いは、ほとんどしないまま住み始めるわけである。あとから住み着く人はよいが、古くから住む人たちには、いまひとつ晴れないものがあるに違いない。
 分譲地へ済みはじめる人と、旧来からある集落の人たちが仲良くやれないという例はいくつも聞いたことがある。いっぽうでうまくやっているという事例も知っている。古い地域に一軒だけ入り込むことにくらべれば、分譲地というかたちで入り込む方が、同じ境遇の仲間がいることで入りやすい。受け入れる地域の規模や、分譲地の規模などが、微妙にその後の地域形成に影響したりする。日々のつきあいは、後までも負担となっていく。そうした現実を踏まえながら、どう地域に入っていくかということで葛藤する。戸建て住宅というものは、分譲であってもそんな悩みがある。マンションができるまでの空白は、人の顔が見えない不安の世界である。そんな周辺に誰が来ようと自由だという意識が強い町場では、なかなか生きていけないわたしである。
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学生服はいつ使う

2006-01-24 08:16:08 | つぶやき
 教育懇談会の話をしていて、家でこんな話もあった。昔は中学生といえば学生服を着ていた。今も学生服が私服に変わったわけではなく、学生服というものを持っているが、あまりその姿を見なくなった。とくに学校生活ともなれば、学生服など着ていない。ご存知のとおり、ジャージ姿なのである。いつからそんなことになったのだろう。昔なら、学生服で授業を受け、体育の時間、あるいは運動系の部活ならそのときだけジャージに着替えた。ところが、今は、学生服で通学したとしても、学校に行くと、体育でもないのにジャージに着替え、そのまま一日中いる。人によってはそのまま帰宅する。まあ、わたしなんかも着替えるのが面倒くさいから、家を出て帰るまで、一日中作業着を着ていることが多い。なにしろ着替えるのが面倒くさいから、そのままの姿でいられれば、それにこしたことはない。しかし、中学生が体育もないのになぜジャージ姿なのか、不思議で仕方ない。「学生服なんていらないじゃないか」とは、わたしの言葉であるが、しかし、入学式、卒業式はもちろん、音楽会、生徒会などあらたまった時に、ジャージとはいかないのだろう。そうしたときのために学生服が登場してくる。
 わたしの予想では、学生服を着ていて、体育だといって着替えるとなると、時間がかかって授業時間がなくなってしまうということがその要因ではないだろうか。息子を見ていても思うのだが、なにしろとろくさい。簡単なことなのに手間がかかる。だからといって、大人が手を出してしまっては、ますます何もできなくなる。どんなにスローモーだろうが、我慢をして待つ。それも大事だと思うのだが、そうはいっても「なぜ」こんなに遅いのか、と思うことはよくある。息子だけかと思うと、どうもそうでもない。
 わたしは知らなかったが、妻が言うには、今は剣道着をつけるときには、手ぬぐいを前からかけて後ろで縛るという。剣道独特の後ろからかけて前で縛り、上へ捲り上げるというまき方はしないという。さらに剣道着は縛らなくても良いように、マジックテープ方式になっているという。今の子どもたちに昔の防具をつけさせると、それだけで時間がなくなってしまうともいう。びっくりである。
 弱いものを見るといじめる。思いやりなどない。好きなことしかやらない。我慢しない。わかりきっていることではあるが、こうもひどいとどうにもならない。かなり地域差、学校格差もあると聞くが、これが田舎の子どもたちの現実である。都市部、あるいは都会の子どもたちはどうなのだろうと思うとともに、田舎の子どもたちでは、都会の子どもたちに太刀打ちできるものがほとんどないことに気がつく。だいたい田舎には、十分に土があり、空間があるにもかかわらず、公園が無いとか、遊び場が無いとか、わけのわからない贅沢を言う大人がもっといけない。なぜ自然と親しむ場をわざわざ作らなくてはならないのか、そして、なぜ今の環境で工夫させることをさせないのか。
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教育懇談会から

2006-01-23 08:16:52 | ひとから学ぶ
 21日、地元の町で○○子育て・教育懇談会というものが、同会主催、教育委員会後援という形で開かれ、妻が聞きに行ってきた。話題提供者の先生は、不登校の子どもたちの相談役になったり勉強をボランティアで教えていたりする。もともと妻の父親の知人ということもあったり、息子がいじめられていた時に相談に乗ってもらったりしてお世話になっていた。その後も不登校ではないが、勉強を教えてもらいに毎週通っている。そんな縁もあって妻は参加したのだが、この先生の話を聞くのは、2回目である。以前聞きに行った際も、参加者は少なかったので、今回もきっと少ないだろうという予想で行ったようだ。行ってみて気がついたことは、教育委員会が後援とはいうものの、教育委員会の関係者はおらず、やはり一般の参加者は10人余程度だったという。主催者側関係者がそこそこいたので20人くらいはいたようである。そこで知ったことは、主催者側の母体は「憲法9条を守る」人たちで、簡単にいえば共産党関係者と等しいようだ。後援として教育委員会がかかわってはいるものの、共産党関係ということが足を遠ざけているようにも思う。むしろそうした教育の場の関係者がいないというシチュエーションもたまには大事かもしれないが、いっぽうで教育関係者には、本当に悩んでいる人たちの生の声を聞くには、よい機会といえるのかもしれない。
 わたしは共産党とは縁もないが、その行動や考えについて共感する場面も多々ある。ただし、党として締め付けるというケースは、自民党などと同様に共産党にもあり、そうした締め付けの雰囲気を漂わせる主張をするときは、唖然とすることもある。まあ、そうしたイメージはともかくとして、今回は共産党主催ではないのだから、そこに集まる、あるいは主催する人たちで他人がイメージを作ってしまっているとしたら、それは残念でならない。地域を、子どもたちをどうしたらよいかということは、そうしたイメージを抜きにして、さまざまな場面を提供して考えていかなくてはならない、社会の第一の問題ではないかと思う。
 さて、妻からその内容についてすべて聞いたわけではないが、話題になったことについて触れる。
 ①かつては、中学で不登校になっても、高校に行って再び学校でがんばろうと、入試に向けて努力する子どもたちがいたという。ところが、今の16歳くらいから変化が現れているという。高校に行ってがんばろうと思っても、入試が近づいて、その現実が間近に迫ってくると、高校に行ってもまた不登校になってしまうのではないかと、不安が大きくなってがんばれなくなっているようだ。
 ②学校に求められていた人間関係の形成という部分が機能しなくなった。そしてもうひとつの機能である勉強という部分ができない子どもは、学校へ通う必要性を失っている。
 ③子どもたちが少なく、地域で人間形成を育むことができなくなった。「○時になりました。小中学生のみなさんは遊びを止めて、家に帰りましょう」と防災無線を使って流しているが、遊んでいる子どもがいない。
 ④先生が子どものころは、天竜川で泳いだ。その際、波に乗って泳ぐことを教わった。泳ぐ場所が10段階に分かれていて、段階が上がるごとに難しくなる。4段階目入るときは、一人では泳いではいけないと決められていたという。そしてその際には、慣れた子どもが先に泳いで、それにならって泳ぎ始める。すると、あとからも一人泳いでくれて、先生をはさむように泳いでくれる。初めてということで水を飲んでしまったりして溺れそうになるが、「俺たちがいるぞ」という感じに守ってくれるおかげで安心できたという。
 ⑤④につづくが、正月飾りを焼くホンヤリの準備は、そうした子どもたちによって準備され、自分たちではできない紙の飾りだけは、大人に頼んで切ってもらった。そうした大人に頼みに行くのも子どもたちで、作ってもらったらお礼をしなくてはならないということを、認識していたという。すると、各家から米ひとつかみ持ってくるようにと上級生が指示して、それを集めてお礼に渡したという。

 ③の話を聞いて妻とこんな話をした。あの放送はどこがしているのだと。すると妻はほかの村でも流しているから、県の教育委員会が指導しているのではないかという。確かに子どもたちが遊んでもいない空間に放送だけ流れるのは滑稽でならない。ましてや、中学生は部活、そうでない不良たちは聞こえるところにいはしない。
 ④や⑤は、子どもたちが自ら決め事をし、またそれを教わっていくという、人間関係を養っていくための機能的な世界がかつてあったことを示している。
 いずれにしても、子どもの世界に多くの問題を抱えながらも、こうした場に人が集まっていないことが残念でならない。妻が言うには、その場に集まった一般の人たちには、不登校の児童を抱える子どもの親もいたという。話題提供後に、意見がいくつか出たというが、かつて息子が不登校であったというおじさんがいて、良い話を聞いたと感想を述べ、よい話なのに参加する人が少ないことを残念だといっていたという。そして、今中学でいじめられているという母親が意見をのべて、そのいじめが部活の内部だと聞いて、妻は「まさか」と思ったという。その予測どおり、うちの息子の部であったのである。相変わらず、お気に入りの子どもを優先させて、好き勝手にやらせている先生にも腹がたっているが、そんな空間にいると、人間関係が悪くなるのは目に見えている。やはり参加していた母親の子どもは、かつて小学校のとき、学校を代表するようなスピードランナーのこどもにいじめられていたという経験を持つ。学校は、そうしたヒーローに対して、いじめをしても可愛がることしかしなかったという。本来、人間関係を育む場所である学校が、差別をしていてはどうにもならない。
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大六天

2006-01-22 00:30:47 | ひとから学ぶ
 「モノクロの彩り」に〝万治の石仏〟を更新しながら、以前のデータを探していて、下諏訪町のあたりの資料上を徘徊していたら、大六天についてかつて触れた資料があった。諏訪大社下社秋宮から国道142号を和田峠方面に向かうと、右手に来迎寺がある。この西側に車道があって右折して30メートルも登ると東明館という建物がある。この裏に男性器を象った道祖神がある。写真はだいぶ以前に撮影したもので、解像度が下げてあって見にくいが、真中の石碑に「道祖神」と書いてあるのがかすかに読み取れると思う。高さ75センチ、径は30センチほどのもので、向かって右には新調された男根も祀られている。向かって左隣には「大六天」と刻まれた碑がある。一般的には「大」ではなく「第」があてられるが、修験道で山伏、とくに聖護院を中心とする本山派の人々の信仰したものといわれる。三界のうちの欲界の最高所第六天に住む天魔といわれ、身の丈二里、人間の千六百歳を一日として一万六千歳の寿命をたもち、男女に自由に交わり受胎させる魔力があるという。そして「他化自在天」とよばれるように、他人の楽しみを自由に自分の楽しみにしてしまう法力をもつという。想像もつかないような力を持つようで、そうした力にあやかろうという意味で信仰されているのだろう。
 あちこちでこうした信仰の対象物をみてきたが、第六天の碑は、ここでしかわたしは見ていない。関東甲信越を中心に祭祀対象とされた石神が分布しているようで、下諏訪町周辺にもいくつか見られるようだ。岡谷市小井川の第六天は、安政5年に村にコレラが流行ったとき、これを防ぐ意味で第六天を建てて信心したことで、人の種が尽きずにすんだという。
 この東明館の大六天のある場所を金精様と呼ぶという。医療を一般的に受けることのできなかった時代、継続的に家を、地域を維持していくことは、まずもって子どもが生まれることが必要で、そのうえで病気にかからずに成人することは大きな意味があったわけである。だからこそ、一生における節目節目を大事にとらえていたわけである。とくに子どものうちの儀礼、そして成人を祝うということも、それだけかつての人々の気持ちがよく現れていると思う。そういう意味でみてくると、医療の充実というものは、果たして人々を幸福にしてきたのだろうか、と疑問も湧いてきたりする。ただ生きていればいいというものではないはずなのに、多くの人々は生きていることはあたりまえと思っているに違いない。そして、生きていることへの感謝は薄らいでいく。一昨日、ニュース23で生まれながらの障害をもつ子どもたちのことを取り上げていた。昔なら、生まれてまもなく亡くなっていたものが、今では医療技術の向上によって命は長らえるようになった。そのいっぽうで、家族はそうした環境に対応できないでいる社会の狭間で、一生健常な暮らしを持つことのできない子どもに力を注ぐことになる。そうした事例は稀なことではなく、かなりの確率でこの社会に増えつづけている。第六天を信仰しても、どうすることもできない現実が「今」はある。
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少年野球と田んぼ

2006-01-21 12:25:47 | ひとから学ぶ
 飯田市のある小学校は、かつては農村部であったが、住宅地が増えて今では農地が少なくなって周辺部も住宅ばかりになった。その小学校に隣接して水田を持つ農家は、妻もよく知る篤農家である。妻も時にはいろいろ教えてもらったりしている。家も古く立派なら、今も大変質素で見習うところが多い。
 その農家へ先日妻がドブロクを届けた際、農作業をしているところで立ち話をしたという。そこで出た話はこんな話である。先日少年野球の大会が小学校のグランドで行なわれた。雨の降ったあとでグランドの隅の方には水がついていて、ふだんならそこで練習をするのだろうが、その日は隣接する農家の田んぼが乾いていたので、その田んぼでキャッチボールを始めたという。一人や二人じゃない。様子を見ていたが、なかなか止めようとしないので、そうはいっても大勢が踏み荒らしたんではかなわないと、あまり言いたくはなかったが、止めてほしいと頼んだという。妻が言うには、その農家では、暗渠排水を自分で入れたりして、大変手をかけているという。そこらの水田とはわけが違う。練習している集団には当然指導者もいたようだ。そして指導者が「出て行けっていうから、止めるぞ」といって謝りもせずに出て行ったという。
 ついでにもうひとつ。この農家の田んぼにはおたまじゃくしがいるという。すると、小学校から子どもたち、もちろん先生も加わって田んぼにやってきて、おたまじゃくしをとっていくという。植えたばかりの田んぼだから、やたらに入られては根を痛めたりする。それどころか、けっこう荒らして行くという。やはり言いたくはなかったが、止めてほしいというと、「怒られるから止めるぞ」と子どもたちに先生が言ったという。
 以前会社の同僚がこんなことを言った。「隣の田んぼの人は困った人で、俺んちの刈ったあぜの草を俺んちの田んぼの方へ放り投げる」と。この同僚は刈った草を倒したままにしておいて、集めないという。したがって隣の人は自分の田んぼに人の刈った草が風で飛んで入るのを嫌って、刈った人の田んぼに草を入れてしまうのだという。この話を聞いて「それはあなたの方にも責任があるのじゃないか」とわたしが言うと、「俺んちのまわりは皆そうしている」という。本来は、あぜの草を刈れば処理をするのが当たり前だった。そのまま放置すると、土手が痛みやすく、もぐらがやってきて土手が弱くなる。草を投げ入れる行為は確かによけいなことだが、だからといって、篤農家が自分の水田に手をかけているのに、まわりの人の不精で影響を受けてはたまったものではない。
 前述の農家は、「うるさい人だ」と思われるのもいやだから、よほどでないと言わないとはいう。篤農家は農地を大事だと思って手をかけているが、農業を知らない、あるいは農業に真剣でない人たちにはその認識もなければ、手をかけていることが馬鹿らしく見えるのかもしれない。以前「やたらに人の土地には入れない」で人の土地に入ることについて触れたが、相反していることを言うようだが、ケースバイケースだ。観光地でよそ者から銭を取ろうとしている農家と、土地を大事にしている農家では違う。このごろの農家は、銭を稼ぐことが優先で、自分で作るより買ったほうが安い、ということをよく言う。見かけや言動だけで人を見るのではなく、姿をよく見て判断したいものだし、まず自分のできる範囲で地道にモノを大事にしている人たちには尊敬したいものである。なによりも、子どもたちに「怒られるから止めるぞ」という指導者や先生には「唖然」である。
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交通安全協会

2006-01-20 17:18:20 | ひとから学ぶ
 ちかごろ新たな種類の運転免許をとったため、交通安全センターで申請して免許の交付をしてもらったが、こういう場合に免許の有効期限が、新たな交付より5年になることを知らなかった。普通免許を取得して25年ほどになるが、更新時の有効期限をその都度更新していくものと思っていたので、来年には更新時期が控えていただけに、ちょっと得をしたような気分になった。とくに違反などをしていると、更新時に有効期限が優良運転者と異なってくるため、もし、来年の更新時までに違反をしたりすると、その程度によっては今回延長された有効期限より短くなる可能性もある。まあ違反などしなければどうということはないが、そうはいっても夜間に走ることが多いと、制限時速より出していることもある。絶対制限時速で走っているとはいいがたいから、そんな心配もある。
 さて、更新の手続きの際に、新規に免許を取得した人たち全員が広い部屋で、申請の用紙を書いたのだが、この際に更新の用紙とともに交通安全協会への入会の用紙も配られて書き方が説明された。説明の冒頭で、駅伝の話やボランティアの話がされて、何を意図しているのかと、ちょっと???と思ったが、ようは安協に入ってほしいという意図なのだ。実は、前々回の更新あたりから安協から抜けさせてもらった。当時は、最寄の警察署に行って申請して、免許ができるにはしばらく期間が必要だった(今も警察署で更新手続きをすると同じかな)ため、遠隔地に赴任していると、警察署まで行くにも仕事を休まなくてはならなかった。当時松本に赴任していたため、塩尻市にある県の中南部を対象にした交通安全センターに出向いて更新手続きをしたのだが、交通安全センターで更新する場合は、大勢人がいるし、けっこう安協に入らないという人もいて、「入りません」と言いやすかった。それまでは警察署に行って更新していたので、なかなか気の小さい人間には「入りません」とは言いにくかった。いや、免許を取って10年以上、安協にはみんな入っているものだと思っていた。それが実は違うということを知って、いつか抜けたいと思うようになってからも、言えずに更新したことがあった。たかが年間500円程度のことなので、別にたいしたことではないのだが、入会しているからといって、何もメリットはないし、会費が何に使われているかも怪しいという感じがした。そんなころ、安協での不正利用なんかも報道され、怪しさは増した。
 取得者への説明の際も、盛んに安協の方たちが駅伝なんかがあると誘導などをボランティアでやっているというようなことを強調していたが、事実確かにやってもらっていることは知っているが、安協だけでは人手は足りないから、地域の人たちがかかわっていることも多い。交通を遮断して行なわれるような祭りやそうした駅伝なんかは、よい例にはなるが、あくまで地域とのかかわりで行なわれるものであって、安協がかかわらなくてもそうした行事が執行できればそれにこしたことはない。それをすぐに安協に頼る地域が、安協というものを利用しているに過ぎないわけで、入会する理由として説明されてもふに落ちないのである。
 「勝手な論理だけでは通らない」でも触れたが、安協も自治組織も似たようなところはある。しかし、地域自治よりも安協は闇が大きい。だからうさんくささがある。地域の自治とは確かに順番にみなにその負担がやってくるとすれば、高森町へ移住した方が言うように、個の自由を奪いかねないが、いっぽうで誰もが負担をするとわかっているから、自治は成立するような気がする。それを個の自由と言ってしまうと、「言う方が得」「正直者が馬鹿をみる」ということになってしまう。取得申請の会場にいた多くの人は、新規に普通免許を取得した若い人たちで、そのほとんどの人たちは、言うがままに入会していたに違いない。安協の事実を伝えずにだまして入会させているような気がしてならない。安協には免許取得者のうちどの程度入会しているかとか、安協の必要性、お金の使われ方など本当の姿を知らせてから入会してもらうのが本来ではないのだろうか(もし免許取得の講習の中で触れられていたら、わたしの認識不足として謝ります)。さらには、安協というものが絶対必要だというのなら、免許取得者全員に入会してもらうべきだろう。「会」という団体組織に区別しているから致し方ないのだろうが、どうも説明の不自然さと、安協の現実を見るにつけ、実際安協として末端でたずさわっている方たちには可愛そうな会場での説明であった。
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仏壇のこと

2006-01-19 08:28:03 | 民俗学
 昼食をとりながら、同僚と正月飾りの話をしていたら、なぜか仏壇の話になった。その場に居合わせた仲間にも分家して家を建てたものがいた。わたしも同じように分家しているのだが、このごろは、分家したというような言い方もあまりしなくなった。同僚も「分家」などというだいそれた言い方は合わないと思っているだろう。そんななか、神棚はあるのかという質問に、「ない」という答えであった。わたしの家の神棚も、神様が居つくには狭くて、そしてあまり大事にされないような縁遠いところにおかれている。それでも無いわけにはいかないといって、形だけ存在している。昔から、人がくぐるような場所はよくないといわれたが、人の家を見ていると、けっこそんな場所に置かれていたりする。考えてみれば、昔のように田の字型の家だったら、壁がないからどこでもくぐれてしまう。それでもなるべく人が日常的にくぐるような場所には置かない、というのが一般的なんだろう。その続きの話で仏壇が登場したのだが、仏壇を家を造る時から考えるのは、造る際にすでに仏壇が存在している人ぐらいだろう。将来的に必要になったら、そのときに考えるというのが一般的だと思う。
 では、その仏壇はいつ必要になるかということになる。その家で亡くなった方が出れば、その時点で初めて仏壇というものの必要性を認識するのだろうが、このごろでは必ずしもそうなっても仏壇を持たない人もいるのかもしれない。長野県では、とくに佐久地方において、位牌分けという習俗がある。ほかにも上田近辺や長野市西部の西山といわれる地域、諏訪東部地域、伊那谷などにもそうした習俗があるようだ。この位牌分けというのは、親の葬儀が終わると、分家していたり、嫁に出ている兄弟に対して、施主が位牌を分けてやることをいう。本家にある位牌よりは小ぶりのものを子ども数だけ用意するという。そして、佐久地方ではこの位牌を分けるときに、酒宴を行ない、大々的な儀式を行なうところもある。こうして分けられた位牌は、必ずしも仏壇に迎えられるわけではなく、とくに、嫁いだ女たちの位牌の扱いについては、家によっても異なるのだろう。
 さて、分家した家の場合はどうなのだろう。親の位牌を熱心に拝もうと思えば仏壇を用意するのだろうか。上伊那郡中川村横前の大正15年生まれの男性は、兄から「位牌はいるか」と聞かれたという。そして分けてもらう際に、特に拝んでもらうということはせずに分けてもらったようで、仏壇には毎朝お茶をあげ、子どもたちもそれを見て育った。毎朝そうすることで仏様というものを子どもたちも認識するようになっていたといい、位牌を分けてもらわなければそういうこともしなかったのではないかという。いっぽうわたしの生家は、中川村の男性の生家とそれほど離れていない位置にあり、祖父の代に分家した家であった。祖父母とも健康なときから仏壇はあったが、そこにある位牌は、祖父母の娘(叔母)の位牌であって、分けられた位牌はなかった。そんなこともあり、分家した家は、その家に仏ができない以上は仏壇を用意しない、というのがわたしの感覚であった。
 このごろは人の家に行くことも少なくなったし、行ったとしても仏壇や神棚がどこにあるかなどといきなり聞くこともおかしなものである。現在の仏壇事情など知るよしもないが、果たしてどうなっているのだろう。
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おかしな信号機

2006-01-18 08:15:55 | つぶやき
 通勤途中に長野県庁前の交差点を通る。この交差点、最近車線の数が変更になったりしていたが、このごろ信号機も変わった。四さ路であるが、どの方向からこの交差点に入ろうとしても、右折専用信号機(矢印)が点灯する。今までも右折専用信号機は点灯していたからいいのだが、点灯の順番などが変わった。「今度赤から青に変わるぞ」と思って待っていて、違う変化を見せたりすると、ドキッとしたりする。それらは慣れもあるから、そのうちにどうとも思わなくなるだろうが、もうひとつ、わたしが今までには経験したことのない信号機の動きを見せる。
 それは歩行者専用の信号機の動きなのである。南北方向に渡る機会が多いのだが、この交差点はスクランブルではない。したがって、渡ろうとしている方向に交差する側の道路が赤色になると、渡ろうとする側のすべての信号機は青になるはずである。普通はそういう動きをするものと思っていると、まず歩行者専用信号機が青になる。2秒ほどだろうか、その歩行者専用信号機だけが青で、ほかのどの信号機も赤色のときがあって、その後歩行者と同じ方向の自動車用信号機が青色に変わるのである。普通なら、自動車を運転していると、交差する側の信号機を見ていて、赤色になると、次は自分の側が青色になると思うはずだ。ところが、同じ方向についている歩行者用信号機が先に青色になるので、発進しようとしてスクランブル交差点なのかと、一瞬あたりを見回してしまう。
 もちろん見切り発車は安全運転上好ましいものではないが、こころの持ちようというものがある。自動車学校はもちろん、警察における安全教育においては当たり前のことといわれればそのとおりかもしれないが、人は習慣的に覚えてきたものは、自然と身についてくる。したがって、それを安全のために否定されたとしても、では人にとって経験とか、応用というものも否定されるものなのか、と質問したくなる。どの信号機も違う動きをする。あるいは必ずしも青→黄→赤という動きが決められたものでなければ、おそらく人は、交差点で信号機を注視するだろう。もちろん、今も注視しないわけではないが、ある信号は赤から黄、青と変わったとしたら、その交差点の信号機の動きはどうなんだと、真剣に見入るに違いない。しかし、交通安全は、信号機だけ見て安全とは限らない。したがって、運転中に信号機ばかり気にしていたら、事故は多発するだろう。ある程度法則的な動きをするからこそ、人は、運転にゆとりを持つし、予測ということができるわけである。交差する側が赤になったので明らかにこちらは青になるとわかっているから、交差する側から猛スピードの車がやってきたら、たとえこちらが青色になろうと、発進は控えるはずである。そんな予測の世界を超えている動きは、危険としかいいようがない。このケースの場合、歩行者も躊躇するし、自動車も躊躇する。わたしはよく経験するのだが、青色から一旦赤色に変化した後に、右折専用信号機が点灯する場合、赤色になったのでしばらくは駄目だと、目線を移してしまうことがある。ところがその移したとたんに実は右折専用の矢印が点灯したりする。昼間なら三つ並ぶ信号機の下に専用信号が付帯していることに気がつくことがあるが、夜間ともなればそれに気がつかず、その交差点は右折専用信号機がないと思ってしまうことはよくある。だからこそ、一般的ではない不思議な動きをする信号機を設置しないでほしいのである。
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勝手な論理だけでは通らない

2006-01-17 08:12:36 | ひとから学ぶ
 2年半ほど前の信濃毎日新聞で、「ずく出して自治」という記事を特集していた。そのなかの「住民自治組織の未来」において、下伊那郡高森町へ東京から越してきて、自治組織に加入せずに自治とは何かを熱心に考えていた人の記事を載せていた。彼は東京から移り住んで、そのときから常会に加入せずに独立世帯と名乗っていた。ところが、この記事を特集するころ、町民は常会に加入するように、という条例を可決した。市町村合併に疑問を呈し、自律の方向を示していた高森町にしては、個の自由を奪いかねない大胆な条例を可決したことを、わたしもよく覚えている。この町も、町長の合併しないという強い方針があって、周辺の小村から合併を申し入れられながら断るという、わが道を行くという色を出していた。飯田市に隣接しているという条件から、新規住宅が増えているにもかかわらず、古いしきたりを色濃く残している町でもあった。
 そんななかで、合併問題がクローズアップされ、住民の中からその議論が出てこない状況に疑問を投げかけたのが、移り住んだ彼であった。「町民みんなが自治会に入らなければならない。そうした横並び意識のままでは、一人ひとりが考え、判断できる〝個の自律〟から始まる自治はつくれないのではないか。住民の合併議論が乏しいのも、結局はそこに根ざしていると思えた」という。実は彼は、移住前から遠山谷に何度も足を運び、祭りを撮り続けていた。そんな縁があってのことか、この伊那谷に住まいを置くことになったのだろう。記事にもあるが、常会に入るか入らないかについては、悩んだに違いない。しかし、個の自律にこだわる欧米の友人の言葉にさとされて、自治組織へ加入しなかった。確かに常会組織というものは、戦争を期に形成されてきたものであって、反戦を唱える人たちにとっては、戦争の遺物ととらえるだろう。そこのところが、大きな悩みであっただろう。
 自治組織の末端であるこうした組織が、どうあるべきかというところは、その組織を利用する役所と、自治組織によって制約を受ける住民とで語られたことはないだろう。しかし、だからといって個人の自由を優先するようになった田舎が、地域における〝つきあい〟という部分でかつてより改善されたのか、それとも悪くなったのかを冷静にみてみると、メリットも当然あるが、デメリットに引きずられて、元へ戻れないような個人主義を育ててしまったことは事実である。単に戦争を事例にとって、現在の自治組織へ加入せずに反旗を振っても、理解されない部分は多い。いずれ、時がさらに進んだときには、そうした考えが受け入れられるときもあるだろうし、反面、今の防衛感覚が増幅していくと、逆の方向に向かう可能性もある。したがって、過去を「悪」として自治の話に持ってくるのではなく、現実の田舎でのあり方を独自の考えで展開する必要があるのではないかと、わたしは思う。ここは欧米でもないし、東京でもないのであるから。
 とは、当時の新聞を読んでのわたしの感想だった。
 さて、彼はその後の町議会議員選挙に立候補した。地域推薦というかたちで出馬するのが一般的な田舎で、無党派の候補が地域推薦なしで出るというのだから、この町の現状を知るよい機会であった。結果は、最下位で落選であった。かなり票が少なかったように記憶する。そして、先日の町長選挙で、議員補選が同時に行なわれ、再び出馬した。結果はやはり落選ではあったが、1名の補選で全体の3割くらいの得票だった。人々は活動とか言動をみているから、ある程度彼を評価している人もいるんだと認識したが、いずれにしても、勝手な理論だけでは通らないということも改めて認識した。
 実は遠山で彼が写真を撮っている際に、同じ場に居合わせたことが何度もある。とても印象はよくなかった。わたしのようにあまり表現が大きくない、目立たない人間にはどうも苦手である。もちろん同じ場に何度もいるのだから、ある程度顔見知りになってくるのだが、こちらが頭を下げても反応を示さない人だった。東京から田舎に来ているからだろうか、田舎者には簡単にはふところは開かないぞという印象であった。おそらく当時の彼とは変わっているとは思うが・・・。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****