Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年取りの食事

2005-12-31 21:01:50 | 民俗学
 大晦日、年取りである。午前に門松を立てた。玄関口の正面に杭棒を立てて注連縄を張る。杭棒は、普通なら新しくとってきた棒の皮を剥いて立てるものだが、今年は昨年の杭をそのまま使った。檜の杭棒であるが、このごろは山に手ごろな檜がなくなってきた。そんなこともあって、新しい棒を使えなかった。杭棒には竹と松を縛り付け、オヤスも一緒につける。
 年取りだからお神酒をつけるものなのだろうが、日本酒を飲まないわたしには、形ばかりのお神酒で、一年にこの日だけ家に日本酒がやってくる。しかし、一口つけただけで飲まないから、「もったいない」代物である。このごろは、年取りといっても年取りの食事とは限らない。家によっては、寿司を食べたり、焼肉だったり、それぞれのようだ。そこにいわゆる年取りの品が並ぶかどうかというようなことになっている。年取りといえば、酒粕の鰤、田つくり、数の子、昆布、なます、豆、たこなどだろうか。こうしたご馳走も、このごろはご馳走ではない。味気ないと若い人たちは言うに違いないし、精進料理のごとく捉えるかもしれない。だから、最近はそうした年取りの常連たちも顔を出さないのじゃないだろうか。常に美味しいものばかり食べているから、特別年取りとはいえ、それぞれ好きなのものを食べようとなる。ふだん美味しいものをたべているから、このときばかりと、かつての年取りの食事をしてみるというのもよいかもしれない。わたしの家では、息子が粕汁を好まないこともあって、鰤は食べたが照り焼きで食べた。「食べるものがたくさんあるから、鰤は食べなくてもよいかな」と、妻に促されたが、せっかく鰤があるのなら、年取りなんだから少しでも食べようということになった。わたしの実家は昔から鰤を食べたが、妻の家ではかつては鮭が年取り魚だったという。松本より南では鰤、北では鮭なんていう大雑把な言われ方をするが、それは大枠であって、細かくみていくと、必ずしもそうした分け方にはならない。鰤が高級だったころには、違う魚で年取りをするところもあったし、同じ地域の中でも必ずしも同一ではないということもあったようである。
 鰤のほかに、田つくり、黒豆、なます、キンピラなどで、必ず食べるのに「年取りの汁」というものがある。ごぼう、大根、にんじん、里芋、糸こんぶ、豆腐、じゃがいもが入っていたが、本当はここに竹輪も入れるのだというが、今年は入れなかった。この汁に元旦の朝、餅を入れてお雑煮とする。
 このように、何を食べても文句はいわれないだろう、というのがこのごろである。ここ数年、大晦日には兄が蕎麦を届けてくれる。伊那の平らでは、蕎麦を食べるという風習はそれほどなかった。したがって、年取り蕎麦なんていう言葉も、よそのことであったが、このごろは蕎麦を食べる人も多い。兄は年末にたくさん蕎麦を打っていて、会社の人たちなんかに分けているようだ。10年近く前に盛んに蕎麦うちに励んで、級なのか段なのか知らないが取得した。プロ並みの蕎麦を打つ。ただ、いつももらってから妻と話すのだが、そば粉があまりよくない。妻の実家でも親戚からもらったそば粉で蕎麦を打つが、とてもプロ並とはほど遠いが、味だけは蕎麦の風味がしておいしい。一度そのそば粉で兄に打ってもらおうと思っているが、いまだに実現していない。さて、蕎麦をもらったものの、年取りにはなかなか食べるものがたくさんあって、今年も年を越してからの「年越し蕎麦」となる。
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年末の大掃除

2005-12-30 22:04:27 | つぶやき
 年末ともなれば、少しは掃除でもと思うが、なかなか一人で家全部は無理である。いつもの年なら水周り(台所など)は妻に任せているが、それ以外はわたしの役割である。息子は妻の実家へ行っては門松の準備をしたりしているので、わたしが家の8割くらいは担当する。窓拭きもわたしの担当である。以前は妻の実家の窓拭きもしていたが、最近はやっていない。ふだん家にいないから、掃除担当が土日だけで請け負うには荷が重い。そんな流れで、年末に集中してやるにも、時はない。新築したころは、けっこうマメに掃除をしたが、そんなことで、このごろはさぼりっぱなしである。昨年、高価な外国製の掃除機を妻が買った。掃除は得意ではない妻が買ったものだから、だいじょうぶかと思ったが、日本製の掃除機に比較すると性能は違う。吸い込みの力はかなりのものである。掃除の好きな人にはお勧めである。
 さて、そんなことで、今日は掃除をできるだけやったが、珍しく息子が家にいたこともあって、窓拭きを息子に頼んだ。一応一通りはやってくれたので、ありがたい。わたしは、ちょっとひどい状態になっている障子の張り替えをした。純和風住宅とはいかないのだが、なにしろ障子戸が多い。建具にして24枚(小さな戸も含めるともう10枚)もある。いまだに新築時のまま張り替えていない戸もある。久しぶりに張り替えたので、やりかたをすっかり忘れていた。張った後に盛んに霧を吹いてしまって、しわだらけである。障子がたりなくて買いにいって、その包みを見て気がついた。「霧を吹かないように」と書いてある。
 掃除も、障子の張り替えも、そして窓も、すべて常に気を使っていれば、年末にかためてやろうなんていうことはないのだろう。もともと、無理なのに年末にためておくからいけない。そういえば、昔はよく畳を干したものである。どこの家でも畳を干したものであるが、もう何十年も前からそんな風景を見ることはない。むかしの畳とは異なり、今の畳は通気性が悪い。むしろ、今の畳の方が干したほうが良さそうだが、家の構造も変わってそういう必要がなくなったのだろうか。そういえば、畳を上げていた時代には、床下消毒というやつを年に一度やっていた。集落中の家を回って消毒していたもので、あの臭いを今でも覚えている。畳そのものも今は少なくなった。床の方がメンテナンスがかからなくて、安価かもしれないが、わたしの家には、43畳ほどもある。だいぶすり切れているところが目立つようになって、この先気が重い。
 昔の家といえば、ふすま戸のことを唐紙といっていた。障子の場合も日がたつにつれて黄ばんでくるが、この唐紙というやつもシミがついていたりした。しかし、昔の唐紙は、絵が描いてあったりして、シミもそれほど気にはならなかった。自ら家を建つ際、いまどきは絵が描かれているようなふすまは流行らないといわれ、無地の淡いベージュっぽいものを選択したが、確かに新しいときは良いのだが、時がたつに従い、自然とシミとまではいかないが、色にむらが出てくる。光のあたり具合とか、湿気の具合によって、むらが出てくるようで、今になって思えば、ふすまも考え物である。
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郵便発送代行について

2005-12-29 12:12:00 | つぶやき
 3年前まで県内を中心に会員200人余の会員をもつ会の事務局をやっていた。その会の事務局を移転した際に、事務局変更の知らせを関係団体に知らせたが、しばらくの間は郵便物などがわたしのところに送られてきていた。その後移転後の事務局は、さらに昨年違うところに事務局が移動したが、いまだにわたしのところに郵便物が送られることがある。おそらく何度が事務局移転の知らせを送っているのだろうが、多くの郵便物を出す団体は、なかなか移転にかかわるデータを修正できないのだろう、くらいには察知する。任意の民間の団体だったら、そこそこ何度か移転の知らせをみたり、あるいはこちらから郵便物を送っているのだから、その団体の住所が変わっているくらいのことは、そのうちに気が付くものだろうが、それがなかなか気づかないということはどういうことか、ということになる。結局、気が付かない団体は、民間の任意団体ではなく、お役所のようなところなのである。「やはり」と思ってしまうのもいけないが、それが事実である。
 昨日もいまだにわたしのところに送ってくる団体の郵便物が届いた。移転後の事務局がすぐ近くならよいが、遠いから、結局郵送するか、ついでの時に届けるしか方法はない。その郵便物、本当は郵便物なのかどうかもよくわからない。いわゆる左上に「料金後納郵便」とあり、「冊子小包」とあるから郵便物のように思う。が、消印がない。そして、あて先の住所が書いてあるラベルに並んで次のように書かれている。
「差出人 (差出発送代行) 佐川物流サービス(株)
 返還先:〒○○○ 金沢市○○○(略)」
これは、以前にも少し触れたことがあるが、いわゆる郵便の発送代行というやつである。
 別にその商売が悪いというわけではない。なんでもありの世の中だから、郵便事業がお役所仕事だとしたら、そんな大きな流通事業をサポートする商売が出てもちっともおかしくない。しかし、あて先の欄に、併記されるように前述の文字が並び、さらに、返還先に続いて、いろいろごちゃごちゃ文句が並んでいる。あて先の文字数より、発送代行しているところで必要と思って書いている字数の方がはるかに多いのである。一般の郵便物、たとえばまもなく正月だが、年賀状のあて先に続いて、こんなにごちゃごちゃ書いてあったら、もらう方の気分は大変よろしくない。
 まあこれは、もらう側の気分の問題ではあるが、もうひとつ気に入らないことがある。このごろは届く郵便物も昔より少なくなったので、断定的なことはいえないが、こうした物流サービスを利用しているのはお役所だけのように思う。記憶にある限り名前を出すが、飯田市歴史研究所と、長野県立歴史館、もうひとつ忘れてしまったが、それもお役所だったように記憶する。発送代行された郵便物が、たとえば前述の例なら返還されると金沢市まで送られる。長野県内から出された郵便物が、長野県内に発送され、行き先不明なら石川県に送られるわけである。そのごどうなるか知らないが、こんなおかしなシステムが、あたりまえのようにほかの分野でも行われていることは必至である。出す側の気持ちとか、受ける側の気持ちなどというものは、もうそこにはなく、機械的に行為が繰り返されるものだとしたら、無駄なことをするなとも思う。そして、そうしたことをまるでダイレクトメールと同じような気分で行っているお役所の考えが許せないのである。
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仕事を考える

2005-12-28 08:04:12 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞で内山節氏がつづる「仕事」をめぐっては、この土曜日には最終回を迎える。最終回でどうつづられるのかわからないが、ここまでつづられた内容を読み返すと、これは多くの人に読んでもらうだけではなく、仕事を再考するきっかけにして欲しいと思うのは、わたしの大きな希望である。12/10付で内山氏は、「人間の労働が、大事なものをこわす方向で作用している。そんな労働が、あまりにも多くなった。真面目に働くことによって、たとえば収入がふえるといったかたちで個人は満たされることはあっても、社会としてはこわれていくものが多い。この構造のなかにまき込まれていることが、現代労働の悲劇である。」と述べている。
 まさしくその通りである。第一次産業に従事する人々が多かった時代を思い起こせば、農業にしても、水産業にしても、いずれも自然と向かい合いながら生業としてきた。多くの人々がそうした視点に立っていたから、地域社会もそうした人々の仕事を中心に動き、また、そうした人々を対象に第二次、三次の産業も動いていたように思う。ところが、相手が変わってきた。サラリーマンが多くなってしまったから、サラリーマンを対象として、すべての産業が動くようになった。今や、農業ですら、視点はサラリーマンで、さらには都会を向いている。農業が必ずしも自然とかかわらなくなったのも、都会を向いて農産物を作るようになったからのような気がする。けして昔は都会を向いていなかったとはいわないが、対象者としては、そうした一方向ではなかったはずである。現在の農業従事者で大金を稼ぐ人たちは、おおかたが都会(都市近郊や地方都市も含めて)の人々を対象に生産物を売っている。いかに都会と直結した農業を行うかが、収入増を見込めるかのカギになる。そして、地方の小さな町でも、いかにそうした農業を活性化させるかに力を注ぐ。しかしである。つまるところ内山氏のいう構造の一部でしかないように思う。個人の収入が満たされるということは、地域の税収があがる。もちろんそうした活気が生まれれば、地域の消費があがる。会社もやってくる。世間の景気はそうした視点で語られるし、「この地域は進んでいる」とか「この町は住みやすい」などというイメージアップされる要因もそんな視点が根底にある。しかし、地域社会を壊しつづけることに違いはないし、それを阻むだけの心にゆとりはもてない。
 長野県南部の果樹の町が、かつての農村社会の暮らしをほとんどひっくり返して果樹に傾向したことで何が変わったかというと、地域社会のかかわりとか、季節の行事というものを簡略化した、どちらかというと都市的な感覚をもたらしてきたのではないかと感じる。それが悪いとか良いとかいうのではなく、地域が稼ぐことに力を注ぐことで、優先すべきものが見えなくなっていったように思う。だから、もっと田舎の山間地の農業を馬鹿にする。社会が経済重視という方向にある以上、農業も同様にいかに新たなものを作っていくか、新たなニーズに耳を傾ければよいか、というような日々を繰り返していく。それを否定するものではないが、どこか一握りの勝組みが浮き彫りにされてくるような、企業社会となんら変わりがない。その舞台に立っていない人たちが、否定されるものではないし、では、そうした舞台に立てない人たちの仕事の存在感をどうとらえるのだろう。仕事をしている父親なり母親を尊敬できない子どもたちを作っているとしたら、そうした背景が要因として考えられるわけである。
 人口動態で、都市部集中が再び進む。都市近郊県が5年前に比較すると人口減少県に転じている。長野県もそのひとつである。その対策として産業の振興とか少子化対策とかいうが、結局冒頭の問題点の繰り返しである。内山氏は、12/24付け同新聞で、「仕事が頽廃していくなら、人間も頽廃してしまうだろう。逆に述べれば、働き、生きるという人間の生命活動の根本のところで、私たちが新しい可能性をみつけだしたとき、社会は頽廃の時代を超えていくのだと思う。」と述べている。さて、その新しい可能性とは何か、また、その可能性が見出されたとして、現在の構造から抜けられるのだろうか。地方切り捨て、都市優先という流れが進む中に、そんな不安は増幅するし、これは天地がひっくり返るような事件なくしては、駄目かなという感じで、なかなか地方にいて前向きにはなれないのが現実である。
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ススオッコ

2005-12-27 08:20:53 | 民俗学
 昔は年末になるとススハライということをした。今ではそういう言い方をする人はいないが、家で囲炉裏があった時代には、火を焚いていたから、天井や軒下にススがたまることがあった。それを払うからススハライである。長野県中、だいたいススハライかススハキという言い方のようで、若干違う言い回しのところもある。
 このススハライに興味深い習慣が、かつてはあったようである。
○ススハライのほうきはハザへ持って行って立てておき、適当な日に川へ納める(下伊那郡阿南町新野)。
○ススハキのあと、使ったほうきは庭先などに立てたと聞いたことがある(上田市別所)。
○12月末にススハキをした後、ススオッコを立てる。1月15日まで立てておく。暮れの納豆ができると、ススオッコに供える(下水内郡栄村極野)。
○ススハライのほうきをススオトコといって、庭先に立てておいた(北安曇郡美麻村二重)。

 これらは、ススハライをしたほうきの処理の方法である。事例としてはそれほど多くはないのだが、ほうきを庭先に立てておくというものが県内の山間地に見られる。ススオトコが訛ってススオッコというのだろうか。家のススをはらったほうきにも、なにがしらの神様が宿る、あるいは神様の拠りどころになるのだろうか。とくに長野県の北部の事例が多く、北信においては、長野市の西部、いわゆる「西山」といわれるあたりと、北の端にある栄村に見られる。栄村極野の事例は『長野県史 民俗編』第4巻(2)北信地方 仕事行事にあるもので、そこには昭和51年に撮影されたススオッコの写真が掲載されている。この記事をそれこそ、20年ほど前に読んだとき、大変興味がわいて、栄村に現在も行なわれているのか問い合わせたことがあった。その時の回答では、すでに行なわれていないと聞いた覚えがある。
 ちまたでは、ホームセンターが栄えていて、とくに掃除道具が盛んに売れているようである。近所を見回しても大掃除をしているような様子はうかがわれないが、掃除道具が売れているというのだから、どこかで掃除をしている人がいるのだろう。このごろは、こうした時期になると、雑誌でも「大掃除特集」なるものを大々的に扱っていたりする。はっきりいって昔より年末に大掃除をする人は減っているのだろうが、世のなかは雰囲気で「大掃除」を味わっているような気がしてならない。
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オヤス

2005-12-26 07:50:37 | 民俗学
 近ごろ田舎では、正月の前になると、オヤス作りという催しがよく子どもたちを中心に行なわれる。子どもたちに年寄りがオヤス作りを指導して、そうした正月飾りの伝統を継承していこうというものである。注連縄作りとか、松飾りの講習はしないが、なぜかオヤスの講習は多い。このあたり(長野県南部)の松飾りというと、玄関先に、松の枝を2本立てて、その松に注連縄を張り、おしめ(紙を切った飾り)を垂らす形のものが一般的である。その飾りそのもので、技が入るといったら、紙を切ることと、注連縄の両側に付けられるオヤスということになるから、細工するというモノとしたら結局オヤスになるのだろう。
 わたしの実家では、子どものころは飾りは父が作っていて、子どもたちがかかわるということはなかった。したがって、今の子どもたちの親は、ほとんど松飾りを作ることはできない。ところが、もう何年にもなるが、いつころからか、子どもたちを対象にしたオヤス作りが行なわれるようになり、今の子どもたちはオヤスの作り方を、けっこう知っている。数年前、PTAの地区役員をしていたとき、この催しを設営したが、教えに来ていただいた年寄りの方が、「みなさんのお父さんは作ることができないから、みなさんがよく覚えてください」と言っていた。まさしくその通りで、わたしたちの年代というのは、親からこうした行事にかかわる技のようなものをほとんど伝承されなかった。完全なる伝承が消えた世代なのである。ところが、このごろは、環境も含めて、地域を見直すようになって、比較的子どもたちの方が、地域のことを知っていたりすることもある。だからといって、子どもたちが自分の力で伝承されたものを実行するほど詳しくもなく、親たちが知らないから、一時的に教わっても、その意味やほかの伝承と関連付けた理解はできていない。たとえばオヤスがどういう意味を持っているとか、どう飾られるとかいうところまでは、講習では教えられなかったり、教えても記憶に残るほど催しのなかで重要視されていないのである。親たちもこうした講習に参加したりして、作り方を初めて覚えるわけであるが、そうした背景も親たちも含めて覚えていってほしいものである。
 ところで、オヤスとは何かということになる。藁で作ったじょうご状のもので、このオヤスの口に神様への供えものを入れるのである。単にヤスというところもあるが、このあたりでは「オ」がついてオヤスといっている。この口には、雑煮やみかんなどを入れるが、このごろはよそのオヤスを拝見しても、なかなか供え物の姿を見なくなった。入っていてもみかん程度である。いわゆる神様のお茶碗なのであるから、年神様がおなかをすかさないように、せっかくオヤスを飾るのなら供え物を入れてやってほしいものである。茅野市金沢大池のことが『長野県史 民俗編』にあるが、それによると、「オヤスにご飯を少しずつ供える。3日の夕方まで毎回、それ以後は5日の夕飯、6日夜のカニノトシトリのご飯を供える。7日の朝、ご飯を供えて年神様を送る」とある。オヤスは門松だけに付けられるものではなく、神前やムラの石仏・石神、墓地などにも供えられたし、田の水口にも供えたという。
 その作り方は、小さな子どもでもできるのだから、それほど難しいものではない。『松川町の年中行事』に図があったので載せてみた。
①きれいにすぐった藁を1、2本ずつで、十の字を作り左手に持つ(1図)。
②図のロをハの方に折り曲げていく。
③2図のハをロの上から折り曲げて、ニと一緒にする。
④ほかの藁ホをイと平行に添えて左手で持つ(4図)。
⑤4図のイを、2図のロと同じように右に折り曲げロの下でロに重ねる。
⑥5図のロを、2図のハのように、イをはさんで折り曲げ、ニ・ハ・ヘと重ねる(6図)。
⑦ほかの藁チ・リをホ・ヘと平行に添える(7図)。
⑧2図のロのようにホを曲げて、次にイを曲げて、これを繰り返し15回くらいし、最後にまとめて腰のところをほかの藁でしばる。
といった具合である。大きな器にしたければ、繰り返しの数を多くすればよい。
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人の評価とは

2005-12-25 00:17:16 | ひとから学ぶ
 公務員ですらそれぞれの人の評価をする時代になってきて、当たり前といえば当たり前だが、それだけで人を判断するには疑問は多い。民間のように利益優先であれば、不利益な人間は不要であると判断されれば、致し方ないことも事実ではある。しかし、その評価をする側というものも、個人にとっての利益を優先すれば、結局公平、平等なものはありえなくなる。では、その価値を個人がどう判断するかということになる。長野県の高校入試も、前期選抜では自己推薦方式となり、その合否の判断は何かというと、なかなか難しさはある。中学時代の成績はもちろん、その生活態度や成果というものが基準になるとともに、いわゆる物言いがうまいやつは評価は上がるだろう。実際のところ、難しさがあるから、結局は成績が優先されるだろうが、世の中はすべてがこうした点数制になってきた。フィギアスケートの採点方式が変わって、点数を採るがためにプログラムを組むために、そのオリジナリティーがなくなってしまったという指摘があるが、果たして、競技ではない人間の生き様が、点数化されるのはいかがなものだろうとは、古い考えかもしれない。
 たとえばであるが、自己の意識を高めるために、公務ではない、私の部分においてどれだけ成果を上げたかということを人の評価に加えたとしたら、人は公私がなくなってしまう。今では地域で名を馳せている博士が、かつて教員であったときに授業を優先せず、自らの興味の部分を優先して研究に力を注いだ。いっぽうで、研究者が研究できる環境を与えて、その分その環境つくりに力を注ぐとともに、学校教育に力を注いだがため、結局自らの研究成果をそれほど出すことができなかったひともいる。後の貢献度という視点では、前者が光輝いているようだが、現役社会での評価は、後者が上まわっていたに違いない。そうした自己の価値をどうバランスをとっていくかということを、周りも見てきたし、理解しながらひとつの職場を作っていたのではないだろうか。そういう、まさしく「いろいろな」価値や、評価があってよかったものを、ただただ、ひとつの評価基準でものを見ようとしてはいないだろうか。
 息子は1年まえまでクラブの部長をしていた。しかし、仲間から嫌がらせを受けて自ら部長を辞した。後に部長になった仲間は、口数は少ないが部の活動には熱心で、勉強もできる。息子が部長を辞した時、顧問はその理由を何も部内で話し合わず、次はお前がやれ、と部長を指示したという。顧問の評価は、やたらと部活の時間を他の部にくらべて長く計画し、練習を熱心にすることを第一にとらえている。そしてそれを忠実に実行する子どもたちを大事にし、そうでない子どもたちには冷めている。部活の活動時間を変更したにもかかわらず、全員にそれを連絡するという基本的なことを怠り、部長も全員に周知するという行動意識を持っていない。いかに優秀だろうと、いかにその空間で評価が高かろうと、基本的なことを教えていない子どもたちの社会を実感するたびに、この国の将来の低迷を教えられる。
 同じことは会社でもある。どんなにその人ではないと対応できないような資格を持っていようと、人の心の中に土足で入ってくるような人間が高く評価されてよいものだろうか。利益不利益という判断が第一ではあるかもしれないが、心というものが欠落してしまってよいだろうか。
 どうみても「こいつはひどい」というような人がいても、果たして会社外、あるいはその人にとっての活動範囲において「ひどいやつ」とは限らない。「さあ掃除をするぞ」という時に、みんながみんな点数稼ぎで掃除をするよりも、さぼるやつがいてもうなずけるくらいの余裕がほしい、とは、わたしだけだろうか。
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日の意味はどこへいった

2005-12-24 00:36:25 | ひとから学ぶ
 クリスマスを前倒しで天皇誕生日にやった人も少なくないかもしれない。ラジオを聴いていたら、そんなメッセージが投げかけられ、パーソナリティーは、「クリスマスの前倒しって簡単に言うけど…」という感じに、少し不快感を投げかけていた。世のなか仕事に合わせて行事をこなす、ということは日常的になってきたかもしれない。典型的なものが氏神さまの祭りである。かつては○月○日というように決められていた祭日が、今ではほとんど土日にかけて行なわれるようになった。決められた日がどれほど意味があったかは知らないが、それが伝えられていないとすれば、日を変えることなど重要ではないのかもしれない。このごろは、国民の祝日というやつも、第○月曜日なんていってあやふやな設定になってしまった。それこそ、決められたときには意味のある日であったのだろうが、それでもサラリーマンに合わせたがごとく、いとも簡単に変更された。世のなかが、決められた日に執着しなくなっていくのも当たり前かもしれない。今は土日でも窓口を開けて、なんでも一年中開店しているような時勢になってきた。いや、夜も開けているのだから年中くまなくオープンである。まもなく正月だが、かつては初売りといえば2日が大勢だったのに、今では元旦初売りなんていうことが当たり前になってきた。それこそ、31日もやってるんだから、初売りとは、年が変わったんでその売り出しの文句になっている程度に感じる。いわゆる一年中無休に近いんだから、何でもありで、日の意味など必要ないのである。
 こうした流れは、一週間のメリハリがなくなるとともに、それは一月も、そして一年も同じように流れるようになる。だから、行事の日などどうでもよくなる。祝日の制度を変えたのは国だし、その国を牛耳っているのは政財界なんだから、簡単に言えば国がそうさせているんだから仕方がない。みんな「日本」をどんどん捨てていけばよい。このごろ地域の自治会の年度が12月から3月に変わった。昨年までは年末に年度末総会といって年の納めの会をしていたが、今年はない。もちろん新年には新年度総会なるものがあって、一年最初の顔合わせをしたが、それもなくなるのだろう。おかしなものだが、年賀状では年の初めを意識させて、さらには喪中なんていって、この一年に身内に亡くなった人がいると新年の挨拶を控えるようなことは熱心なのに、なぜか正月の感覚は、どんどん消滅している。自治会の年度を変えさせたのは、行政が同じ年度にしてくれというので変えたようだが、この国は知らないところで、どんどん画一化した人間社会を作って、操りやすくしているようにも見える。そこからはずれていると、きっとすごく目立つのかもしれない。
 そういえば、今年は祝日が土曜日に重なることはほとんどなかったが、来年は明らかに今年よりそんな日が多い。休みを損したような気分である。

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雪道の現実

2005-12-23 17:55:20 | 自然から学ぶ
 またまた名古屋近辺は高速道路が通行止めである。これを例年にない寒気のせいにしてしまってよいかは疑問も多いが、いずれにしても、積雪路はよく滑る。
 昨日の長野から南信までの道のりは、なかなかいろいろであった。長野を出るころは積雪30センチ近かっただろうか。しきりに雪の降る中を、国道19号を豊科まで向かう。路面は圧雪状態で、しきりに雪が降っているので、そこそこスタッドレスタイヤはきく。ところがわたしの車のタイヤは、すでに5年以上使っていることもあり、タイヤの溝はそこそこあるが、やはりゴムが硬化してくるとききは悪い。信州新町を過ぎるあたりの橋をわたったところのカーブに、前の車に合わせてけっこうのスピードではいったら、これが滑るのである。ほぼ平らの道路で、カーブがきついので、そこそこブレーキをかければよかったが、自分でも少し甘いかなーと思う程度のカーブの入りで、若干の不安はあった。その不安は見事に当たって、カーブに入ってから後輪が滑り始めたと思うと、車全体がカーブの外へ振られるような感じに横滑りするのである。時速にして40キロくらいは出ていただろうか。若干なり坂道なら車輪を駆動させているのでコントロールも効くのだが、この状態に入るとブレーキを掛けても横に滑るだけなので、なんとかエンジンブレーキで減速するしかない。もうひとつわたしの車の欠点は、エンジンブレーキが比較的効かないということである。滑り始めた状態でなんとかそのままカーブの終わりまで持ち堪えたため、ことなきを得たが、それから先は、少しセーブしながら走った。
 北安曇郡八坂村から東筑摩郡生坂村に入ると、極端に雪の量は少なくなり、圧雪状態の道はなくなった。松本近辺はほとんど雪はなく、塩尻から伊那谷に入ってもそれほどの雪の量ではなかった。ところがである。伊那市から南は、気温も低いのだろうが、そこそこ路面に雪が残っていて、再び滑りやすい道路状況になってきた。午後4時半までに飯田市までたどり着きたかったため、時計をみながら高速に再び入ろうか考えながら南下していった。広域農道の宮田村地籍に入った途端に、車がつながっている。緩い下りなのにつながっているのをみて、その先にあるカーブでみなさん手こずっていると察知した。一旦広域農道から下り、車の通行が少ない道に迂回したが、どうも広域農道の車が普通に動いているようなので、再度広域農道に戻って北割地籍まで車を進めると、再度渋滞している。このあたりは伊那から南へ向かっていると、それほど急ではないが、長い坂道で途中一部8パーセント近い坂がある。おそらくこの坂で大型車が滑っているのだろうと察知したが、隣に川があって、横に逸れる道がその一部急な坂の手前まで行かないとない。のろのろではあるが進んでいくと、やはり渋滞の先頭に大型車が止まっている。しかし、少しではあるが車の列が前進していく。なぜ前進していくかというと、わたしが目的としている坂の手前を左折して迂回する車があるから前進している。その左折手前までだとりついて、様子をうかがっていると、まるで将棋倒しではないが、対向車線の車が玉突きを繰り返している。少しこちらの車線まで飛び出しそうに止まっている車に追突されないように、なんとかパスして左折して迂回できたが、なかなか大変な状況であった。
 おそらくではあるが、この坂道で動けない車がいて、こちらの(上っていく)の車線の後ろの車が追い越して交互通行をしていたのだろうが、そのうちに対向車線(下っていく)が滑りやすくなって、下ってくる車が止まれなくなってぶつかったと思われる。わたしが左折した道とは反対側に向かう道もあって、そこに衝突した車が何台か止まっていた。ところが、この交差点あたりで止まったり動いたりを繰り返していたため、路面がつるつる状態になって、わたしの方の上り側はまだしも、反対側は下りなので止まろうとしても車がいうことを効かずに滑っていって前の車にぶつかるのである。ブレーキをかけて路面をこすっているので、ますますつるつるになる。この悪循環で、対向車線の車は、一旦止まったかと思った車を後ろにいる車が止まれずに、突いていくのである。次々とぶつかっているのを見て、反対側でなくて良かったと、つくずく思ったものである。
 前にも述べたが、スタッドレスタイヤは、駆動させたりブレーキさせたりを繰り返した路面で効かせようと思っても、まず不可能である。おそらく新品のスタッドレスなら、若干効くかもしれないが、この状態になったら車を止めることはできない。いっそ雪がしきりに降っている路面のほうが安心である。下り道で、とくにその先に信号機があるような交差点に入る時は、車は止まらない可能性が大きいので、そういうケースでは、かなり手前からスピードを落としていく必要がある。もっといえば、薄っすら積雪した朝方なんかで、交通量が多い下りの道路は、まず選択しない。自分のペースで走ることができればよいが、極端に遅い車が前にいたりすると、車によって性能がことなるため、自分の車のペースがとれなくなって自滅すること必死である。
 スタッドレスタイヤの性能がよくなればなるほど、道路は滑りやすくなるはずである。
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冬至

2005-12-22 08:22:54 | 民俗学
 今日は冬至である。冬至には南瓜を食べるという地域は多い。
 ○冬至に南瓜を食べると中風にならないし、風をひかぬという。馬の年取りで、豆がら・稗・大根・かぶ・人参などを大釜か大鍋で煮てくれ馬に年取りさせる。(伊那市天狗平)
 ○農具の年取りの日で、小豆粥を煮て農具小屋の農具に供える。(伊那市吹上)
 ○冬至は馬の年取りで、この日は馬に早めに年をとらせる。豆を混ぜた稗を煮て食べさせるが、主人の飯茶碗に一杯盛ったご飯を食べさせる。南瓜や芋なども煮て食べさせる。牛や犬にも年取りをさせる。この日南瓜を食べると風をひかないし中風にならないという。冬の南瓜程味が落ちるものはないので、こ日以後に南瓜を残しておかない。(伊那市山寺)
 ○冬至は馬の年取りといって、ぼた餅を作り南瓜の食い納めをする。ぼた餅を馬を使う男の飯茶碗に大盛りにして馬に与える。今日から後南瓜をおくとナリンボウになるという。(箕輪町中曽根)
 以上は『上伊那郡誌民俗編』にある事例のいくつかである。また、
 ○百姓のおしまいで、南瓜をこの日に食べる。また、この日を馬の年取りといって、うるちと餅を半々にして、餅をつくり、桝に黄粉一つ、小豆あん(砂糖のないもの)一つを馬に食べさせる。また、麦や豆の煮たものなども食べさせる。
 とは、下伊那郡大鹿村の『鹿塩の民俗』の事例である。
 喬木村富田で聞いた話では、七夕ころに採った南瓜は、縄で軒先に吊るし、冬至までおいたという。南瓜の旬はけして冬至ではないのに、なぜ冬至までわざわざ保存しておくのかというところは、今ひとつ意味がわからない。蓑輪町中曽根の事例にあるように、食い納めというあたりから察すると、南瓜は保存してもせいぜい冬至ころが限度という意味なのかもしれない。そんな目安として冬至=南瓜の保存限界という図式があるのではないだろうか。陽気がよすぎると、南瓜も腐ってしまって冬至まで持たせられないこともある。そんな疑問もあるが、わたしの家でも冬至には必ず南瓜が食卓に出る。うっかりしていると食べることを忘れてそのまま冷蔵庫に納まることもあるが、妻が息子に「冬至だから」という催促の言葉をかけると、忘れずにわたしも箸を伸ばす。
 大鹿村大河原では、柚子湯をわかすともいい、これもある程度共通して聞くことのできる話である。
 冬至を過ぎると、いよいよ年取りに向けて準備が忙しくなる。
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高速道路の通行止め

2005-12-21 08:15:40 | ひとから学ぶ
 数日来雪で麻痺していた名古屋近辺の高速道が、ようやく通行可能になった。安全第一ではあるが、このごろ高速道路がすぐ通行止めになるような気がする。一昨日の報道で、トラックの運転手が、立ち往生15時間以上という状況のなか、これでは二次災害が起きてしまうと、交通情報も含めて、もう少し立ち往生している車への配慮をするべきだと訴えていた。食べるものもなし、トイレもなしという状況で、情報もほとんど入らないとなれば、いらだつのもあたりまえかもしれない。さきごろ雪の日に長野へ向かう際に、高速へ入ろうと思ったら渋滞していて、どこかで通行止めなのかということは理解できた。しかし、入り口で誘導している人に「○○へは行けるのですか」と聞くと、具体的にどこの区間が通行止めであるという返答がもらえなかったため、ゲートを入った。ところがゲートを入ってから気がついたのだが、すぐそこから目指す北方面はバリケードがしてあって進めないのである。一旦ゲートを入ったということもあったし、入り口の国道も渋滞していたということもあって、あきらめて今まで来た方向へ南下せざるを得なかった。誘導の人が、このゲートを入っても北方向は入り口で閉鎖されている、というような返答をしてくれていたら、今まで来ていた道を逆送することはなかった。誘導している人には、道路の状況がほとんど知らされていなかったわけである。一般道のように、まちがえたらユーターンできるのならともかく、高速道路の場合はそうはいかない。一旦入ってしまえば、次のインターまでは走らざるを得ない。ということは、ゲートの手前で運転者になんらかの状況を認識させるだけの情報を流してほしいものである。こんな経験をすることはよくある。とくに雪による渋滞や事故渋滞などはそんな時である。一般道に高速の道路状況を知らせる掲示板はめったに見られないし、あっても的を得た情報、詳細な情報はない。
 今回の日曜日から月曜日にかけては、悪天候が予想されたというこもあって、わたしも高速道路の規制情報を道路公団のホームページで確認していたが、そこに携帯電話の道路交通情報短縮番号というものが表示されていて、#8011がその番号であった。月曜の朝長野へ向かう途中でその短縮番号にかけてみたところ、「現在この電話は録音で流しています」というようなメッセージに続いて、「現在通行止めの区間があります。詳しいことは道路交通情報センター、電話・・・・・・」てな具合に、再度違うところへ電話をしろというような回答であった。ここまで書いてきたように、高速道路の情報量がただでさえ少ないわけだから、通行止めで明らかに困っている人たちがいることが想定されるときくらい、随時情報を更新するのはあたりまえで、さらに詳しい状況が回答できるくらいの体制をとるのがあたりまえではないだろうか。ただならともかく、金をとって通行しているのである。通行止めで、高速道路の役割を果たしていないとすれば、路上に進入した車に対して、それくらいのサービスをするのは最低限のことではないだろうか。
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出稼ぎ

2005-12-20 08:19:54 | 民俗学
 昨日の朝日新聞のらうんじ戦後60年に、「羽後の60年」という記事があった。人口減少率がもっとも高い秋田県の羽後町の60年の変化を扱っている。冬の間は豪雪地ということもあって、戦後1960年代あたりまで盛んに出稼ぎに出たという。農繁期は農業、そして農閑期に出稼ぎというかたちは、かつての農村で多く見られた。とくに豪雪地のように、冬季間になにもできないようなところは、出稼ぎが盛んだったのだろう。
 飯田市上久堅の越久保での聞き取りで、この地域が意外にも出稼ぎに出る人たちが多いことを知った。けして冬季間が雪で身動きできないという地域ではないにもかかわらず、出稼ぎに出たのである。それは、いわゆる地主といわれる家とは異なる、土地をもたない農家や(小作農)、持っていてもわずかな農地で働く人たちは、農業だけでは食べられなかったのである。したがって、羽後町のようなそこそこ農業で生計を立てられる農家とは異なり、明らかに農業がごくわずかで、出稼ぎを主たる生業にせざるをえない人たちが多かったのである。ある男性は、妻とともに全国を出稼ぎで歩き、正月以外は一年中家にいなかったという。農作業が忙しい、ほんのわずかな期間だけ帰宅し、その作業が終われば再び出稼ぎへと向かう。子どもも一緒に出稼ぎに連れていったのか、と聞くと、小さな時はそうだったが、学校へ通うようになると、家で祖父母とともに暮らしたという。したがって、親より祖父母に育てられたといっても過言ではないのである。そこそこの歳になってきたら、妻の出稼ぎに出る期間は少なくなっていったという。こうした人たちは比較的地域で声をかけて同業者を誘うようで、地域内に同じような出稼ぎに出る人たちが多い。もちろん、出稼ぎに出るばかりではなく、秋葉街道の小川路峠の麓ということもあって、運搬業を個人で行なう人も多かったようである。いずれにしても、地域の立地環境や、地域に根付き始めたような仕事を糸口として、地域性のある仕事を行い、そうした仕事を主たる仕事としていったようである。
 このように出稼ぎとはいっても期間労働の場合と、長期の出稼ぎとがあった。期間労働として出稼ぎに出る場合、社会保障制度などが充実していくにしたがい、こうした固定した一年をを過ごさない人たちに対しては保護されなかったのではないか。前述したような豪雪地に住まう人たちにとっては、そういう仕事の形態を取らざるを得ない部分があったにもかかわらず、そうでない地域と同じような社会保障制度が適用されたがために、地域に仕事がなければ、外へ出て働き、そこで住まわずにはいられなくなっていったはずである。当然過疎となり、農村が破壊されていったわけで、今思えばなるべくしてなった姿だったのかもしれない。記事では団塊の世代が退職するこれから、それらの人たちのいくらかでも地域に戻って帰農するのではないかと期待を寄せている。このことは、近年ほかでも報道されているが、いずれにしてもそうした動きはあるかもしれない。しかしである。その団塊の世代のあとに続くものはいない。それほどまでに農村はいきつくところまでいってしまっていると思う。
 同じ記事の中で、東北工科大学の赤坂憲雄が談話を載せている。赤坂憲雄といえば民俗学の世界では、カリスマ性があって近年「東北学」を提唱して東北に傾倒している。その談話の中身は、ごく普通の農村の現状と、なるべくしてなった農村の課題を並べているが、意外にこうした農村をフィールドとして研究してきた大学の先生たちが、このなるべくしてなった現実の農村の根底にいまごろ気がついていることが不思議でならない。民俗学は農村の社会問題を扱うわけではないだろうが、農村にいてフィールドワークをしていれば、その課題はもちろん、その課題の解決的な言葉を少なからず発してもおかしくないと思うのだが、なかなか的を得た言葉を聞かない。それが残念でならない。
 おそらく、かつてのような出稼ぎ形態が、農業をしながら人並みの生活を行なうには、わたしはベストだと思う。農業だけで生計が立てられないとしたら、複合的に収入を得る仕事を補うしかないからだ。そうしたことをしている農家は、実は今も多いのかもしれないが、年金にしても、退職金にしても、継続している会社員とは待遇が異なる。なかなか若い人たちが定職につかないと問題になっているが、社会の構造が定職重視であることは、今も昔も変わらないのだろう。農業をどう行ない、どう稼ぐかという視点で見ると、意外にも労働のあり方が見えてはこないか。
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豪雪地飯山の記憶

2005-12-19 08:22:23 | つぶやき
 12月から大雪で記録的なようである。飯山市で積雪1メートルを越えているという。わたしが飯山に暮らしたのは、昭和54年から昭和58年までの約5年間であった。この間の12月の積雪というものは、それほど多いものではなく、12月の間はほとんど根雪にならなかった年もあった。それでも初めて行った年の12月に、初めて見たその雪の降り方に驚きというものはあった。もともと行きたくて行った飯山ではなかった。だから、若いころだからスキー場のメッカの最中にいるということで、「スキーを好きなだけできていいね」なんていうことをいう人がいたが、むしろそんなことを言われると気分は優れなかった。だから一度もスキーなどしなかった。当時は今のようなスキー人口ではなく、若い人たちならみんなスキー場通いをするくらい、スキーは人気であった。そんなスキーのメッカに遊びで行くのではなく、仕事で行っているということが、自らのなかでスキーとうものを少し歪めてとらえる結果になったような気がする。
 行った年の1月(昭和59年)だっただろうか。一晩で1メートル近く降ったことがあり、さすがにその時はおどろいたものである。当時はアパートに暮らしていて、雪下しをするようなことはなかったが、2年後だろうか、寮ができてそこへ移ってからは、雪下ろしも経験するようになった。その建物は1階が駐車場になっていて、住居が2、3階とあった。したがって、その建物の屋根とうと、かなり高く、危険といえば危険かなーと思うくらい高かったことは確かである。会社では無理をして下ろさなくてよい(業者に頼むから)といわれたが、けっこう下ろすこともやってみるとまたやりたくなったもので、何回かその建物の雪下ろしをしたものである。ただ、野原の一軒やではなく、まわりに家が接近していたりするため、けっこう下ろす際に気を使ったものである。とくに隣の家が1階建てで接近していたため、その方向には下ろすことはできず、苦労をしたことを覚えている。
 また、寮の庭先の道には消雪パイプが入っていなかったため、庭も含めてずいぶん広い範囲の雪をかいた覚えもある。やはり隣接地に家があるため、かくといっても、しだいに雪をおく場がなくなり、庭先の道から消雪パイプのある道、そしてその向こうにある流雪溝まで雪を運ぶということも常であった。どうにもならなくなると、会社で業者に頼んでくれて、業者が千曲川まで運ぶのである。いずれにしても雪国暮らしがそこそこ長かったということもあって、とくに雪道を車で走るということが気にならなくなったことは確かである。
 当時はまだ飯山市桑名川で渡しが行なわれていて、雪の風景を撮りにわざわざさらに豪雪地帯に入っていったこともしばしばあった。もちろん仕事のエリアであったが、雪が降ってしまうと現場は何もできないため、仕事で外へ出るということはほとんどなかった。昭和56年だっただろうか、かなりの豪雪の年で、飯山市の北にある栄村では4メートル近い積雪になったと記憶している。転勤して飯山を離れてからも、しばらくはそんな雪国を訪れることが何度かあった。昭和61年には、栄村箕作で1月15日の未明から始まる道陸神祭りを訪れた。降りしきる雪の夜中に、南信から北の県境まで走ったのである。15歳以下の男の子たちが「ドウロクジンノカンジンヨーイ」と大声を上げて村中をまわる。午前4時ごろになると、小さな男の子も加わり、手にハチンジョウのシデをはさんだオンベを持ち、各戸をまわるもので、この1年に嫁をもらった家では、オンベで嫁の背中をつつくというものであった。
 今ではその雪国を訪れることはないが、若いころの記憶である。
 
 下水内郡栄村箕作(みつくり)の道陸神(どうろくじん)祭り
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滑稽な物語

2005-12-18 11:31:29 | ひとから学ぶ
 長野県の知事が今の知事になってもっともクローズアップされたのは、ダムなし治水であった。考えとしては、ダムに頼らずに治水を考えようというもので理念としてはそれまでにない発想で、評価されるべきものであったと思う。子どものころから自然破壊に対しての意識を強く持ってきた自分には、ようやくそういう考えが議論されるようになったという、ある意味時代が変わってきたことを認識できる出来事ではあった。ただし、すでに整備計画に基づき、着工されようとしていた計画を、おそらくそれほど地域のさまざまな問題を認識せずに発言しているのでは、と知事の発言には疑問があった。したがって、ある意味この知事に期待はしていたものの、このときに「この人はダメだね」と気がついたわけである。ようは、よそ者が田舎にやってきて、田舎の風習や地域性というものを理解せずに、都会と同様の物言いをしても人は受け入れないのと同じケースである。ところが、この知事の考えは、それからしばらく、この田舎の人間たちに大変受け入れられたわけである。わたしの身の回りにいる人たちにも、この知事の弱点をいろいろ事例にのっとって説明しても、「そんなことはない」と一蹴されるのが落ちであった。
 このごろこのダム問題の発端となった長野市浅川ダムの代替案というものが示され、地元で説明会が行なわれたりした。地元の意見はさまざまで、相変わらず賛成と反対はイーブンといったところなのだろうか。この代替案を説明するにあたり、県は国土交通省の認可がもらえるのではないか、という判断であった。その代替案に対して、もっとも反対されている理由に、従来のダム案当時の100分の1という確率に対して、60分1という確率に整備水準を引き下げている点にある。県の説明では、このままいつまでも整備をおこなわないでいて、洪水が発生してはもともこもないので、とりあえず20年先をめどにした代替案の整備を進め、それまでに残りの引き下げた分をどう補うかを検討していくというものであるのだろう。今日の信越放送の報道番組で、この説明会の映像が流れ、地元の人の意見が流されていた。そこでコメントされていた一人はわたしの知人であった。そして、賛成派としての意見で、このまま20年間何もしないでいるよりは、たとえ整備水準を下げても対策を講じていってほしいというものであった。けして知事擁護派ではないと思うが、実際かつて浅川の水害を受けて家が浸水した経験からすれば、なんとかしてほしいとう切実なものであると思う。ところが、今の賛否の根底には、知事の存在に対しての賛否がそのまま反映されているところがあり、現実的な流域に住んでいて被害を被るであろう人たちの意見がストレートに伝わっていないと思わざるをえない。ここで再び、あえて代替案の賛否を問うのではなく、すでにダムを作らないことで合意したのなら、早期に違う対策を講じるのが優先ではないか。このごろの報道番組の中で、こういうことがいわれている。「代替案があってダムなしを発言したのではないのか」というようなものと、「ダムもひとつの案として検討するべきではなかったのか」というものである。そうした意見が県民からも多く聞こえるし、もちろん有識者からもそんな言葉が出る。しかしである。何を今さらという感じである。どう考えても知事は代替案などなくして発言しているということは、当時の発言を聞けば簡単に認識できるし、ダムなしで合意した人たちまで、ダム案も選択肢の一つにあった方がよかったのでは、というのなら、いったい何を見ていたのかということになる。それが、冒頭のわたしの疑問だったわけである。
 簡単に言えば、田舎者がだまされたという、ドラマなみのストーリーだったわけである。すでにダム中止から何年たっているか。この間、知事の判断そのものを批判している輩は、洪水が起きればその問題の大きさがよく知事にわかってもらえるとどこかで思っていたに違いない。ところが、就任以来、浅川で大災害が起きるようなことはなかった。ある意味知事は天にも味方してもらっていた。ダムを作らないということを不満があっても許した以上、なんらかの対応に向かって進むよう賛否ではなく、前向きな動きをしてもらいたいものである。ちなみにその背景に北陸新幹線の用地買収問題という大きな壁があるが、中止を決意したのは県なのだから、そうした壁は賛否の問題ではなく、別に県が解決していくべきものである。ダムをそのまま造った方がよかったのか、あるいは代替案で整備した方がよかったのかは、すぐには判断できないものである。ただ、そんな無駄な時間を要している間に、洪水に見舞われてしまったら、すでにここまでの経過年数を踏まえると、明らかにダムをそのまま造った方が良かったということになる。これでは、ここまで議論してきた時間と経費、そして県民のそれにかかわった気持ちまで踏まえると、まったく滑稽な笑い話となってしまう。
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アメリカ産牛肉輸入再開から

2005-12-17 13:20:30 | つぶやき
 アメリカ産牛肉が輸入再開となった。まだ市場に出回るまでには時間がかかるのだろうが、表示義務があるのだから、消費者は確認して選択することになる。ところが、加工されたものとなると、表示義務は加工の度合いによって違ってくる。もちろん肉の形がなくなるほど加工されているものには、表示されないだろう。ハンバーグなんかはその代表的なものだろう。オーストラリア産の牛肉を長野県内産と偽って表示したといって、丸水長野の伊那営業所が閉鎖されたと、今日のニュースで報じられていた。耐震構造の偽造問題で国が揺れているが、偽りなどというものは、どこにでもありうる。自己責任が重い世の中になった。だから、表示されていたとしても、信用するかしないかという自己の判断である。加工品ならまだ自分で選択可能だが、外食産業となると、闇は深い。食堂に行って、食べるものに内容物の表示をしているなどということはまずない。○○産牛肉というくらいの表示はあっても、それは、消費者の基本的な主要物の選択であって、そこに付随する食品の表示はない。
 忘年会に行って、お膳に並べられているものに、表示などない。何を食べさせられているかはまったく闇である。信用の問題だけなのである。このごろは、夜半まで飲んでいると次ぎの日に残る。歳のせいだなどと思い込んでいるが、果たしてそうなのかと思ったりする。このごろは外で出た料理品も、それほど手を出さなくなった。並んでいるものをみていると、それほど食べたいと思わないのだ。それでも空いた腹にアルコールはきくので、なるべく手をだしならから飲むが、なかなか美味いと思うつまみにありつくことはない。食べずに飲むことで次ぎの日に残るのか、それとも口にしているものが体に合わないからなのか、いろいろあると思う。
 わたしはどちらかというと便秘ぎみである。10代のころは、週に1回か2回ということもあった。当時は体に悪いなんていわれても気にもしなかったが、社会人になって、ある程度自分の体を自分でしっかり管理しなくては、と思うようになってからは、便秘はわたしの健康上の欠点ともなった。もともと朝トイレに行くという癖をつけていなかったし、したくなったら行くんだ程度に慣らしてしまっていたので、ちょっと忙しかったりすると、すぐに2、3日は過ぎてしまう。したくなると、便が固くなってしまってまた苦労するのである。そんな繰り返しであった。結婚後、そんな習慣はともかく、なるべく毎日トイレに行きたくなるような食習慣に変えることで、自然と便通をもたらせることに力を注いだ。そんなこともあって、わたしの食生活は大きく変わったのかもしれない。そして、歳を重ねるほどに、外食へのあこがれのようなものはなくなり、自宅の食事を習慣づけてきた。そんなこともあるのだろうか、外食に頼る生活を少しでもすると、体の調子がよくない。とくに麺類を食べるとか、ご飯を主食とした定食を食べる程度ならよいが、宴会のような類はいけない。そこで、冒頭の問題にたどり着くわけだ。いったい自分が口にしているものはなんなのか、と。
 お歳暮の季節である。妻の実家にはたくさんお歳暮が届くが、毎年こんな話をする。「ハムとかはもらっても食べないから、おまわしものね」と。きっと高価なものなのだろうが、いろいろ添加物が言われるようになったのにもかかわらず、相変わらず亜硝酸ナトリウムや、リン酸ナトリウムという添加物が使われている。けして体にはよくないものであるが、けっこう使われている。添加物については、ずいぶん昔に自らHP「安全なものを食べていますか」で触れた。けっこうこうした添加物を使っているものが少なくなった。しかし、相変わらずという商品もある。それほど気にはしないことにしているが、肉の加工品に両者が含まれていると、まず買わない。どれほど影響があるかといえば、ほとんどなく、他に気にすべきことはたくさんあるのだろうが。自家の食材を利用したからといって、病気にならないわけではない。意識せずに普通に健康な食習慣を身に付けられることが第一だと思っている。
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