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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

被差別部落

2005-08-31 08:20:57 | ひとから学ぶ
 この盆にあった同級会で、友人から意外な事実を知らされた。彼は県外の比較的山間に近い農家へ養子として入った。その家が被差別の家だったというのである。養子に入って間もないころ、遊びに行ったこともあり、そのときはそこが被差別ということは、まったくイメージされなかった。彼は結婚後にこのことを知ったという。結婚するまでそのことは知らなかったというが、育った地域が被差別に縁が薄かっただけに、無理もないことだったのかもしれない。子どもたちが差別を受けることで、その現実を次第に教えられたという。とくに高校へ進学し、あからさまな差別扱いを受けて、「なぜなんだ」というやるせない気持ちをもったといい、その矛盾に立ち向かうべく、開放運動へ強くかかわるようになったようである。他県に養子に入ったということ、転勤などで地元に足を定めていなかったわたしの環境など、彼と少し遠ざかっていたことで、久しぶりに会って聞かされた事実に驚かされた。
 かつて、単に「」という言葉を使って差別について触れた文を、民俗学の研究団体の発行する通信に投稿した際、きわめて不勉強で認識の甘さを指摘されたことがあった。被差別問題に認識が薄い地域に育った者、ということでは済まされない過ちであった。しかし、被差別について身のまわりで経験がないと、その認識はどうしても甘くなってしまう。養子に入った彼などは、知らされるまで、まったく被差別は遠い世界のことであったに違いない。転勤した際に、同和対策事業などにかかわったこともあるわたしでも、現実的なところでは認識が甘かったのだから。
 被差別については、、などと差別された人々が、いつの時代からか特別な階級で扱われるようになったものといわれ、成立年代は明確ではないという。また、そのいわれ等も正確にはつかめていないともいう。明治期の政府が、積極的にこの対策に踏み込んでいたなら、百年を経過する現在には、そう強くは残っていなかったのではないだろうか。戦後になってその対策を積極的に講じるようになったわけで、なかなかその差別をなくすことは容易ではない。加えて、近年になると、差別は被差別問題のみではなく、さまざまな差別を含めて同和問題として扱ってきたこともあり、被差別問題がぼやけてしまった感もあった。
 近在にそうした事例を聞かなかったものの、民俗の調査をするなかで、たとえば長野県南部地域で、具体的にそうした集落が含まれる地域を対象に調査をしたこともあった。地域とのかかわりなど密接な生活を扱うだけに、その扱いに困ったこともあった。また、被差別とは異なるが、オヤカタ・ヒカン制度の色濃い地域で、このことについて調べる機会も最近あった。ここでは、縁談話があると、「調べたか」と親戚から助言されることがあったという。この場合はいわゆる被差別とは異なるものの、周辺地域からは、それと同等な扱いを受けていたともいえる。
 どの時代も共通するかもしれないが、人に嫌われる仕事をする集団を、回避する傾向はある。それを特別扱いして、自分たちの地位を確認したがるのも、人間の恥部であるかもしれない。とはいえ、被差別に共通することは、永年にわたってそのレッテルを貼られ、つらい暮らしをしてきたことである。狭山事件がそうした背景にあるといわれるが、同じような問題はわたしたちには見えない(いや見ようとしていないのかもしれない)ところにたくさんあるのだろう。
 彼の住む県では、教員の差別発言で上司が糾弾され、糾弾された上司が自殺するというような事件もある。糾弾するほどの内容ではないと思っても、被差別を抱える周辺地域は、安易な言葉一つでも大問題となる。わたしが被差別について触れた文を書いて、過ちをおかしたことがあることは、彼に以前伝えたことがあった。それからというもの、いつかわたしにそのことを話したいと思っていたものの、何年も経過してしまったようで、同級会という席では、詳しく聞くことはできなかったが、改めて彼の住む地域のことも含め、被差別問題の背景や、開放運動における課題について知りたいと思った。
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癖と習慣

2005-08-30 08:18:00 | 民俗学
 捻挫をしていた左足首を、すこし捻ってしまった。捻挫してから気にしていながら、少し段差を降りる際に右足から降りればよいのに、気を使っていても左から降りてしまう。再び捻ってみて気がついたが、基本的に左足から降りる癖があるのがわかった。左利きではないが、利き足とどう関係しているのかしらないが、必ずしも関係がないのかもしれない。そう考えてみると、癖とはおもしろいものである。あぐらをかいたときも、左足を下にする癖がある。足がしびれると、右足を下にしたりするが、基本的には左足を下に置く。
 こうした癖というか慣れというものは誰にもあるだろう。シャツに袖を通すときにどちらの腕から通すか、とか靴下をどちらから履くかなんていうのも、知らず知らずパターン化していたりする。こんなところまでしつける親がいるのかどうかというところも興味があるが、確かにしつけというものは、家によって異なる。おおらかな家なら「好きにしな」で終わるだろうが、厳しい家は、そんな細かいところももしかしたらしつけるのだろうか。一口にしつけといってもそれほど違いがあるはずで、調べてみるとおもしろいかもしれない。以前「松本市史」に下着をいつ着替えるか、なんていう質問をしたデータがあったが、これらもある意味しつけの分野かもしれない。しつけがあっても、好きな方法、合理的な方法を個々選択している場合もあるだろうが、家ごとに違いがあり、統計的にまとめると、家がどうかかわっているのかがわかってくるかもしれない。
 ちなみにわたしは、下着は夜風呂に入ったあとに着替える。一般的にはこのケースが多いように思うが、どうだろうか。誰に教わるのか、あるいは教わらないのか、風呂に入る作法なんかもおもしろい。自分の家に入る際は、前を隠すことなどないのに、人前では必ず隠す。いや、隠さない人も多く、そのへんの意識はどこから生まれてくるのだろう。昔は共同風呂に入るということはそうはなかっただろうし、いつの時代にこうした作法が、どういう経過で生まれたのか、また、伝播したのか興味深い。テレビがない時代だから、絵とか口伝えなんかの可能性が高いのだろう。
 自分は常識だと思っていても、隣の人が同じとは限らないので、くだらないとは思っても、そんなところを聞いてみてはどうだろう。
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遺伝子組み替えイネ

2005-08-29 08:08:34 | 農村環境
 先週の木曜日(8/25)の朝日新聞に遺伝子組み替えイネのことが書かれていた(「消費者の伝言」下)。遺伝子組み替えイネの野外栽培実験が始められたことへの不安を扱ったもので、組み替えイネかどうかは、見た目では判断できないし、知らないところで組み替えられて、知らず知らず安全だと思っていたイネが、実は組み替えイネであったなんていうこともないとも限らないようだ。生協などの協力を得て遺伝子組み替え作物の調査をしたところ、長野県、福岡県など5県で組み替えナタネが見つかったという。長野では高速道路のインターチェンジ近くの花壇や、河川敷などで自生していたという。栽培され報告もないのに自生していたということは、どういうルートで入ってきたものなのだろう。
 このように意図しなくても、自然と交配されて、そうした種が流通するようになったら、安全を目指して作物を育てても、自信をもって人に食べてもらうこともできない。もともと遺伝子組み替えの目的は、除草剤の影響を受けない性質や、害虫・病気に強い性質に組み替えようとするものである。聞いただけで食べる意欲を失うような意図である。家で組み替えイネの話をしたら、「うちは大丈夫。うちのイネは“秋晴れ”で、競って作るコシヒカリなどのおいしいイネじゃないので、組換えまでして品質をあげようなんていう品種じゃない」という。なぜこの品種を作っているかというと、コシヒカリにくらべると、病気に強く、また、台風など風で倒れることも少ないからである。実際コシヒカリを近所では作っているが、その米と、家の米を比較して、どちらがおいしいなどと明確にはわからない。
 さて、知らずとこうした種が入ってくるとなると、いよいよ、全てを自家で循環させないと、100%安全ということはいえなくなるのだろう。そこまでする必要はないとしても、食の安全の背景は、奥が深いとともに、アスベスト以上にその影響は明確でなく、責任の所在が消えてからの判断になるのだろう。
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農村振興における民俗学の可能性

2005-08-28 12:21:02 | 民俗学

はじめに
 「日本民俗学」最新号(243)が届いた。目次をみて、民俗学が農業農村問題にアプローチしている論文がそこにあった。かねてから、民俗学が枠の中だけで論じられていて、現実の問題には寄与しないような風潮があって、期待していた分野なのに、その力のなさに憤慨していた。そうしたなかでの今回の論文に、日本民俗学がどうこのことにかかわっていくのか、これからをみていきたい気持ちにもなった。

1.山下論文
 その論文、山下裕作氏の「農村振興における民俗学の可能性」では、食料農業農村基本法が制定され、そのなかで農業農村の多面的機能があげられ、それに応じた施策が行われてはいるものの、「文化」という面では希薄で、現実的な行政の範疇では理解されていないと述べている。しかし、それは民俗学が実践の場に立ってこうした農業農村の多面的機能に対して積極的な提言をしてこなかったためともいう。山下氏は中国地方で自ら実践した事例を紹介している。荒廃農地をどう利用するかで悩んでいた地域に調査に入り、かつて行われていた小麦の生産を提案した。そして販売面の問題は、かつての小麦栽培が、生産から消費まで生産地の中で完結していたことから、地域(直売所)で販売するという方法で解決した。詳細を省いているので、単純な流れで、一般的な感じはするが、この地域で「小麦」にかかわるさまざまな聞き取り事例から、地域にとって小麦がどうイメージされ、位置づけられていたかが、調査することでわかり、地域で共感が持て、さらに協働できる作物というところで、小麦がその候補としてあがってきたわけである。「民俗学は地域住民と伝承を対象とする学問であるがゆえに、住民との共感と協働が可能であることを実感している」と山下氏はいう。

2.合意形成の目的
 地域はさまざまで、かならずしも山下氏の事例の通りにはいかない。山下氏も述べているが、食料農業農村基本法の制定後、それまで農村の持つさまざまな機能を重視しなかった多くの施策が、一変して住民意向調査などを行ったり、あるいは合意形成のためにワークショップを行ったりするようになった。短絡的にいってしまえば、農民が多かった時代には、農村地帯で事業を行うにも、農民の意向で行う事業だからみんな必要だと認識している、という前提があった。しかし、農民が減少し、にもかかわらず農業にかかわる事業を補助金で行うことの意味がどこにあるか、それを理解してもらうがうえの「多面的機能」であったといっても過言ではない。そうしないと、農村地帯が生きていけなかったからである。また、農村地帯であっても、農民以外の住民が増え、景観重視で住み着いた後から来た人々にとっては、その景観をいじることじたいが納得できないこともある。こうした開発行為を農民だけではなく、部外者にも合意形成に加わってもらうことにより、免罪符をもらうというような意味もある。こうした流れがよいのかどうかは、実際こうした事業にかかわっているわたしには異論もある。それは後述するとして、もともと山下氏のいうような文化面は、多面的機能では重要視されていなかったはずである。だからこそ、ワークショップでは「集落点検」なることが行われ、参加した人々に集落を歩いてもらい、良いところ、悪いところを確認してもらい、それを整理することで、集落として何をするべきか(この場合整備するものとして優先するものは何か、と問うことが多い。それは、もともと事業を起こすにあたって、こうした合意形成をしろという前提があるから、結果的にはそういうことになってしまう)を認識してもらったのである。したがって、点検マップには、文化財、あるいは民俗的事象がふくまれることはあっても、それが後の事業化の中では重要視されないのである。

3.合意形成と現実の施策
 こうした合意を得ることで、事業が認知されると、環境調査として行われるものは、ほぼ生態系に限られている。それは、最近とくに絶滅危惧という言葉が当たり前のように聞かれるように、希少な動植物をなくしてはならないという観点による。しかし、ご存知のように外来種にも希少種がある。日本へ古い時代に移入した植物も多い。そうした中には、希少になったものもある。もちろん植物にいたっては、原生のものは少なく、人々が土手の草刈、あるいは里山を管理していたことによって植生というものが成り立ってきた。したがってそうした背景をどう取り扱うかというところも大事で、そういう面には民俗の視点も必要とされる。しかし、現実的には、希少なものをなくさないようにというところに視点がいき、結果的には希少なものにだけに目が奪われたり、「ホタルを復活しよう」のように、他地域の優良事例にはまって、どこでも同じことをしたり、よそのDNAを移入してしまうことも多い。開発側が自らの立場を保全するためにおこなっているから、つまるところこういうことになってしまう。もちろん、山下氏も指摘しているが、他地域の優良事例に惑わされることなく、その地域の「村がら」を住民に認識してもらったうえで先を見据えなくてはならないだろう。

4.民俗の視点の必要性
 わたしはこうした現在行われているワークショップは意味がないと思っている。もともとワークショップに反映される意見、視点、そして参加した人の認識という部分で、地域全体というよりも個人、それも一部に限られている。本来の問題をどう解決していったらよいか、そういうワークショップは現実的に少ない。裏(事業化の免罪符)があるからそういうことになってしまう。真摯に地域問題にかかわるなら、山下氏のいうような共感、協働作業が民俗学の視点で必要だろう。第51回地方史協議会大会(平成12年)で、「ほ場整備による生活と意識の変化」と題して発表させてもらったことがある。大規模整備のなかで何が失われたかその事例をあげてみた。その事例は、かつての合意形成が行われない時代、高度成長時のものであるがため、多くの景観変化があった。しかし、それによってすべてが失われたわけではなく、その後の暮らしに継続されたものもあったはずである。この事例で紹介した地域は、まさしく今になってさまざまな問題を抱えている。その中で地域がどう続いていくか、そんな部分では山下氏の言う行動は必ず必要になるはずである。

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人員削減

2005-08-27 22:45:20 | 農村環境
 おととい(8/25)の朝日新聞に「自動化徹底人手カット」という経済記事があった。国外へ流れていった工場だったが、国内回帰が盛んだという。しかし、地域は新たに作られる工場に雇用の期待はするものの、現実的には自動化によって、雇用の効果は少ないという。それどころか、雇用は少なくても生産性は高くなるという。安い賃金に流れた製造業は、いつか完全に自動化されれば、人件費がかからず、国外の安い賃金をもとめなくてもよくなる。考えてみれば、当然の成り行きなのかもしれない。トヨタ自動車では、コスト削減の可能性は無限だといい、ロボットメーカーは、人間型ロボットを研究中という。製造業から人の手がしめだされれば、当然雇用の場は失われ、失業者が増える。いっぽうではさらなる人余りが予想される。その大きな雇用の場が公務員である。
 公務員はとくに地方公務員、とりわけ市町村の公務員が真っ先に減員されていく。ご存知のとおり、市町村合併は、国の金がなくなったがうえの合理的自治体への移行を目的としている。市町村においても、人件費が大きな負担となっているのはいうまでもない。しかしである。その上にある県といえば、たとえば長野県では削減に入っているが、それでも急激な減員がさまざまな理由でできないため、いままでしなかった市町村の仕事を支援したり、あるいは、あたかも県民の直接の声を聞くがごとく住民に近寄っている。そして、さらにはよくわからない補助金で成り立っている団体(団体か県の職員なのかよくわからないが)は、自分たちの存在意義を高めるために、サービスしますよ、と懸命である。地元住民に頼まれて(わたしたちの会社なら詳しいだろうと)ある資料を県のある組織に問い合わせたところ、「わたしたちが出向いて説明しますよ」といって、資料をいただけかった。奥深く考えてしまう方が悪いのかもしれないが、そうしたサービスを提供しようとしていた当方にとっては、そうした県の関係者にあまりこんせつ丁寧に対応されてしまうと、こちらが不要な立場になってしまう。実はこういうケースは、最近多い。県も事業をおさえてきたため、全体的に人が余っているはずである。にもかかわらず職員を確保するがために、さまざまな非生産的な部分に手間をかけるようになった。税金でなりたっているから、その結果に採算性はない。だからいくらだってサービスできる。それならばタダで働いてくれる公務員を使えば、お願いする方はありがたい。本来なら減員できるのに、こうした流れで、市町村の職員をおしやり、加えて県にかかわっていたさまざまな事業所(団体や民間を含めて)の雇用も押しやってしまっている。さらに上の国は、まさしくお役人だから、人件費削減は真っ先の課題には上がらないだろう。
 しかし、こうした公務員が、いずれは削減されていくはずである。道を歩けば公務員にあたる、といわれるほどとくに地方は、公務員の比率が高い。その地方ほど早く雇用の場を失っていくはずである。となるとどうだろう。地方に雇用の場はなくなるのである。郵便局の民営化でゆれているが、民営化する主旨はよくわかる。しかし、ここで働いていたひとたちがどうなっていくのか、地方ほど影響は大きい。
 今日も畔の草刈りをした。真夏の炎天下で働くのは、けっこうつらくなった。しかし、若いものの方が、もっとつらい、あるいはすぐに休んでしまうのではないか。そして、年寄りの方が、瞬間の力はないものの継続性が高い。モノ作りもそうだが、コンピューターばかりたたいていては、人間は退化していくだろう。すべてにおいて、ひとは、体を使うことを忘れ、さらには雇用がないがために、経験者がなくなり、何もできなくなるのだろう。この国の価値観は適正なのだろうか。国民が政治を選ぶわけだが、その選ぶ国民が、適正な価値観をもっているのだろうか。
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ピアノ

2005-08-26 08:21:03 | ひとから学ぶ
 テレビチューナーをつけたパソコンを購入してからというもの、DVDへドキュメンタリーなどの特別番組を録画しまくっている。ビデオの時もそうだったが、録画したデータを再度視聴するということはそうはない。それでもいつかは・・・という気持ちで録画することに気力を注いでいるのは、今のうちだけかもしれない。子どものころ、祖母が菓子箱や包装紙を捨てずに保存している姿をみて、自分も同じように土産の包装紙や、箱をコレクションしていた時代があった。オタクの走りだったかもしれない。「いつか使うだろう」と思いながらとっておくと、膨大なゴミのコレクションと化す。結局使わずにゴミに出すなんていうことになりかねない。合理的なことを好むこのごろには、いなくなった人種かもしれない。
 さて、録画といえば、わたしが若かったころは、NHKで音楽番組の1時間程度の番組が、けっこう不定期に放映されていた。時代はロックが全盛になるころで、たとえばエリッククラプトンとか、ジェフベックなんかのソロの番組があった。それ以外にもイエス、ELP、ピンクフロイド、オールマンブラザースバンド・・・、思い出せば、ずいぶんたくさん放映されていたように思う。その時代にはビデオなるものはなかった。ビデオが世に出てきたとき、真っ先に購入したのも(月給が手取り10万以下だったのに30万もした)、そうした番組を録画しておきたいという気持ちが強かったからである。今でもバンドを組む=不良という図式があるというが、当時も同じようなものだった。それでも音楽は嫌いでも、こうしたポピュラーな音楽には、誰でも興味を示したものである。しかし、金のない時代であったがゆえに、田舎の小僧が楽器を買うなどということは、なかなかできるものではなかったし、ましてや、音楽の嫌いな者が楽譜をよめるわけでもなく、格好だけの振る舞いであったように思う。まあ、楽譜なんかよめなくても、有名なミュージシャンはたくさんいたというが。
 母も父もそうしたことへのコンプレックスのようなものがあって、息子にピアノを習わせた。「いつかきっとやっていてよかったと思う時があるから」と言い聞かせながらである。一時にくらべると、ピアノを習う子どもがいないという。わたしも知らなかったが、中学でクラス分けをする際に、ピアノがひける子どもを各クラスに配分するという。ところが、最近弾ける子どもが少なくなり、これからは音楽会で伴奏できる子どもがいない、というクラスがあってもおかしくないという。保育園のころから始めたピアノは、いやいやながら中学になった今も続けている。楽譜をよんで弾けるようになるまでは、と思い続けさせてきた。なにより、自ら今時の音楽になじもうとしたとき、ピアノを弾けることはメリットが多いはずである。ギターなんか簡単に弾ける。まだ本人は気がついていないが、そう思う時がある、と母も父も思っている。違う興味がいっぱいあって、それどころじゃなく、もしかしたらそう思わずに大人になってしまうかもしれないが、それはそれでいいと思っている。
 音楽の授業は週に1回程度しかない。夏休み後に始まる音楽会の練習に向けて、音楽会の曲を盛んに(盛んでもないか)練習していた。母も父もできないことを、彼はできるのである。
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最後の見回り

2005-08-25 08:23:34 | ひとから学ぶ
 一ヶ月ほど前になる。小学校高学年のときの担任の先生と二人で飲んだ。卒業以来、約30年ぶりの再会であった。とくにその間連絡することもなく、年賀状のやり取りさえしていなかった。なのになぜ今更、というところだが、理由があった。この先生は、長野県では北部の更埴市(現在の千曲市)の出身で、若いころを長野県の南部の学校に何年か在籍していた。その南部でも郡境域の町でわたしは教わったのだが、盛んに北と南の違いを教壇で語っていた。その違いは、北に比較しておとなしいとか、積極性がないというような内容であった。その印象は強く、その後の自分の成長のなかで、地域性ということを常に認識させる要因にもなった。そうした原点であった先生に、確認したいことがあったため、私の方から連絡をとって再会となったのである。その内容は別の機会に触れるとして、再会した際に、確かに前述したような子どもたちの雰囲気はあったが、その後の教員生活では経験することができないような地域との密接なかかわりを、その郡境の町で味わったと、懐かしく語られた。
 そのひとつとして、当時先生が書かれた短編小説をいただいた。その題名は「最後の見回り」というもので、当時の学校の公仕さんについて書かれたものであった。37年という長い間、住み込みで働いた公仕さんが辞める日が来て、公仕さんが経験した2度の失火から、再び火を出さないために、必ず「よし」といって見回りを終了する姿が、最後の最後まで繰り返され、その印象が強かったことが書かれている。公仕さんがどんなに校舎を大事にしようとする気持ちが強かったかが、その小説からうかがうことができる。
 かつては校舎も木造で、火事で焼失するということがずいぶんあった。それにくらべれば、最近は鉄筋コンクリートで、消防が整備されたこともあって火事そのものも減少したが、燃えにくい建物になった。したがって、焼失の不安というものもこの公仕さんの時代とは比べものにならないだろう。加えて、最近の公仕さんは住み込みではない。個人にその責任を負わせるのも、公的施設として適正でないといってしまえばそれまでであるが、今では専門の防火防犯システムを備えることも珍しくない。となれば、かつてのように頑なに校舎を守ろうとした公仕さんのような存在もなくなるし、そうした頑なな姿がどういう意味を持っているかも周りの人が気づくこともなくなる。ものを大切にするという頑固な人々の姿を、改めてこの短編小説が思い出させてくれた。木の良さが見直され、近年小規模校で木造校舎を造った話もある。ただ木が温かみがあるからというだけではなく、研けば研くほどに美しさが出る木の特性を知り、掃除をすることの大切さを受け継いでほしいものである。校舎がコンクリートになったがゆえに、合理的な姿が想像できるが、どうだろうか。
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砂糖水

2005-08-24 08:22:53 | 民俗学
 腹の神送りを検索していたら、雑誌「長野」にこのことを記述したものがあった。さっそく読んでみた。ここでは上水内郡小川村上北尾組の腹の神送りのことが記載されている。やはり起こりは、昔赤痢が流行った際に始まったものという。戦前は、男女児童が世話人の家に集まり、砂糖湯一杯をもらい、「御腹の神送り」と墨で書いた。世話人が小麦桿を束ねて先の方を二ヶ所折り曲げて縄で鎌首に吊り、馬をつくった。青竹を胴長に通して担げるようにして胴腹へ「御腹の神」という札を立てた。子どもたちは「御腹の神送り」を麻殻の先にくくりつけ、その旗を掲げて、鉦を鳴らして「腹の神送れよ」「赤痢の神を送れよ」と神送りをし、村境で馬も旗も壊して燃やした。現在は、公民館で腹の神を拝み、各戸では梵字の札を桃の木の枝に刺して玄関に飾るという。この行事は、記載された記事によると、この年は9月16日に行なわれている。
 ところで、先ごろ犀川の東京電力平ダムに浮かんでいた物体は、昨日、松本から長野へ向かう際に見てみたが、もうなかった。この行事、「長野県史」で検索してみても二、三例あるだけで記載がない。しかし、生坂村ではかつては何箇所かで行われていた行事で、腹の神送りとはいわなくても、類似した行事は意外と多い。
 さて、前述の「長野」で紹介されていた小川村上北尾組のなかで、砂糖湯が当時としては、子どもたちにとってはうれしかったという。その話を聞いて思ったのだが、わたしも子どものころに「砂糖湯」とはいわなかったが、同じように砂糖をお湯で溶かしたものを「砂糖水」といってよく飲んだものである。今の子どもたちには笑われそうであるが、ただ砂糖を溶かしたものではあっても、そのお湯を飲ませてもらえるとうれしかったものである。とくに風邪などひいて病にふせっているときの砂糖水が懐かしい。当時の食生活では、食べ物に自分の好みで味を加える、いわゆる香辛料のようなものはあまり使わなかった。そんなこともあってか、砂糖にしても塩にしても、子どもたちが普段手をのばして勝手に使うことはなかった。今とは大きな違いである。
 社会人として就職し、長野県の北部地域で暮らし始めたとき、職場の人が香辛料、とりわけ唐辛子を真っ赤にご飯やラーメンにかけて食べるのを見て、それまでの自分には考えられないような世界を覚えた。その当時は真似してみてもそれがうまいとか思わなかったが、そんなことに慣れてくると、しだいに何かをかけたくなったりする。わずかながらの砂糖を溶かしたお湯をうれしく思って飲んだ子どものころが、どこへ飛んでしまったのだろう。そんなことを思い出した。
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夏休みの宿題

2005-08-23 08:19:54 | つぶやき
 息子のことであるが、中学生にもなると、夏休みは忙しい。部活をやらなければよいが、運動系の部活だととくに忙しい。たいして強くもないが、時間だけはたくさんかける。卓球をしているのだか、どういう練習をしているか知らないが、時間の割には上達しない。そんなにいっしょうけんめいやらなくてもよい、という話をしていて、息子も部活の練習では上達しないことがわかっていて、できるならば部活には出たくない。しかし、レギュラーとしてここまでやってきた以上、それをはずされるのもせっかくやっているのに残念である。したがって、用事をつくっては、とくに自主練習は出ないようにして、正式な部活はなるべく出るようにしている。それでも忙しいのである。まあ、手が遅いので宿題が後回しになっていき、累積していくのはいつものことで、あらかじめ計画的にやればよいのに、結局隠れては好きな本を読んでいたりする。
 昨年の夏休みがそうだったのだが、ポスターの宿題は、下絵を描いたあとをお母さんが着色した。着色がうまかったかどうかしらないが、禁煙ポスターを完成させて提出したら、優秀賞とともに記念品までもらってしまった。もともと家では、勉強がおろそかになるのなら、そちらを優先して、工作や美術は母が手伝うという形になっている。とても絵が上手とはいえないのに、親が手をだしてはまずいかなー・・・なんて思うが、優先すべきものが何かを考えるとそういうことになってしまう。
 さて、今年はどうだろう。夏休みに入ってから登山があったり、体験学習といって福祉の仕事体験が何日もあったり、それに部活である。盆の間くらいは何もない日があったが、あとは毎日である。父親が一生懸命庭の草取りをしているのに、その脇を部活に、福祉にと、息子は自宅の草などほとんど取った経験がないくらい忙しい。
 最近、世の流れが、時間がかかっても個人個人のペースを尊重する傾向がある。どういうことかというと、とろくさいやつでも、せっかちなやつでも、時間の清算はしないという考えである。とすると、時間が清算されないので、できたものだけを評価すると、出来上がりのよいものがよいのはあたりまえである。芸術ならともかく、人間社会がそれだけでよいものだろうか。そういう時間的な部分を、学校では教えなくなっていないだろうか。若い人たちをみてそう思う。
 今年も、結局ポスターは間に合わず、今日で休みも最後というのに、部活に出て行った。イメージの下絵を描いてあって、それを尊重して、母が本番の下絵を描いた。少し修正したが、それは母のイメージが少し異なっていたからのもので、大差はない。それで誰が着色するの・・・という話になって、お父さんがやることになった。暇ではないが、物理的に無理なのでそういうことになった。着色前に、せっかくだからといって、お父さんのイメージが少し加えられた。結局素図そのものはたいした内容ではないが、出来上がりは、お父さんとしては満足であった。息子は美術は5をもらってくるが、とても才能はないし、へたくそである。受験にはほとんど関係ないから、まあいいか・・・、てな感じである。
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詩をつづることの先に

2005-08-22 00:15:20 | 

 この8月に、かつて詩の仲間としてお付き合いしていた(仲間というよりも指導いただいた)Wさんから本が送られてきた。19年ぶりの第3詩集である。一度もお会いしたことはないが、わたしが詩を盛んに書いていた十代のころからの付き合いである。Wさんは当時の国鉄に勤めていて、県評文学者集団や群れの会といったその手の文学や誌の団体で中心的に活動されていた。わたしはというと、身勝手な素人の詩を盛んに書いていて、自ら同好の会もつくっていた。そんななか、Wさんが結成していた詩の会に参加し、しばらくその同人誌に投稿していた。その同人誌が途絶えてからは、わたしも詩への興味が薄らぎ、今では詩を書くということもそれほどなくなった。

 Wさんは、東京生まれである。長野市と隣接する村を永住の地に選んだが、定年後家庭菜園の延長として農業者となった。基本がなく一からスタートした農業の苦労が、詩集のタイトルともなった「ミニファーマー」につづられている。


 詩集のあとがきに「詩とは一種の予言である。時代の先を読み取る力が求められる。残念ながらこの国は、後退の歴史を駆け足で突き進んでいる・・・」とある。自ら国鉄の運転士として将来を予言していた視点を、あらためて思い起こせば、当時危惧した物事が的中している、ともいう。そういわれてみれば、わたしも詩のなかでさまざまなことを訴えていた。それらが、思い起こせば訴えていたとおりに推移している。結局は詩のなかで訴えても、自ら力がなければ、その訴えをどうすることもできなかったのだと、今気づく。


 昭和58年2月21日付信濃毎日新聞に、W氏が主催していた同人誌が紹介されている。そこでは、同人誌発行20号という節目にあって、初期の目的であった新人育成が成しえたとつづられている。その一員として名をあげていただいたわたしであるが、その志を延長させることはできなかった。しかし、こころの中ではさまざまな詩を描いている。文字として残してはいないが、どこかに詩によって訴えようとする自分が常にある。表現はできなかったが、こころの詩として、忘れずにつづらなくてはならないと、あらためてWさんの詩集を手にして思った。

 余談であるが、もう更新しなくなったわたしのホームページで、どこかのT知事のことを何年も前に詩にした。ペログリだかマングリだかしらないが、知事になって間もなく、わたしの間近で挨拶した彼は、どうみてもオンナを見ていた。単なる○○○おやじである。偉そうなことをいっても(まったくえらそうなことは言ってないかもしれない)、つまるところ女好き、それだけはよくわかる。彼に性教育を語らせたいのは、わたしだけではないだろう。この知事、21日、新党「日本」の代表になった。最近、日本の代表には妻がいらないようだ。いよいよ日本は少子化推進国になるのか、よくそのあたりを認識して人を見極めて欲しいものである。

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住まいの変容

2005-08-21 00:39:17 | 民俗学
 同じ事務所に勤める昭和50年代に佐久市に生まれた女性から、自分の家は百年はたっていないが、それに近いのでは・・・と聞き、さらに彼女はこうした古い家を残すことも大事だという興味深いことを話した。その言葉にわたしも大変興味を持った。まずは、若い世代なのに、なぜそうした古い家が良いという印象を持っているのか、彼女自身はそこで暮らしているのか、といったこととともに、そう思う家の間取りはどうなのか、そんなことがわたしの脳裏に浮かんだ。そこで、まず間取りを聞いてみた。南側を玄関とし、玄関を入るとそこが居間だという。そして、居間の東側に茶の間があり、その北側に寝室、茶の間の東側に座敷、座敷の北側に奥座敷がある。座敷二間と茶の間と寝室が田の字型になっており、その左側手前に玄関、奥に部屋があるという。玄関左手に台所があり、台所の南側に浴室とトイレが続く。話の雰囲気では明治後期に建てられた家のようで、二階があるが現在は物置として利用されている。かつては蚕室として利用されていたようである。この配置と年代から想定すると、おそらく居間と居間の北側の部屋のある場所は、かつては土間であったのではないか、そんなことを彼女に聞いてみたが、そこまでは聞いていないようであった。仏壇が茶の間の北東側にあること、間取りの配置状況から、『長野県史』民俗編第一巻(一)東信地方 日々の生活(昭和61年3月発行)に間取り図として掲載されている、佐久市上塚原の小林宅のものによく似ている(P323)。南北の方向、田の字型の配置、現在の居間の位置、台所の位置など大変近い。彼女にはよく理解されていないが、台所の北側の北西の隅に物置があり、内側からも外側からも行き来できるという。おそらく、小林宅の事例にあるように、この物置とみられる部屋はミソベヤだったのではないだろうか。
 仏壇の位置も、小林宅の場合は、茶の間の奥のコザシキ側に飛び出た形で、彼女の家と同じ位置に配置されている。『長野県史』の間取り図事例に浅科村(現佐久市)矢島の間取りも載っているが、ここでも仏壇の位置は同じである。小林宅では、茶の間の北側の戸上に神棚が配置されており、これも彼女の家とそっくりである。
 彼女は子どものころ茶の間奥の寝室を使っていたが、その後それまで離れに住んでいた父母がこの部屋に入り、自分と入れ替わったという。離れは昔の建物ではなく、比較的新しいという。そんなこともあって、母屋の方の細かいところまであまり認識していない。さらに学生時代を家から離れてよそで暮らしたため、よけいに母屋の詳細は忘れてしまった部分もある。しかし、覚えている範囲で聞きながら、わたしはかつての間取りのありかたを想像してみた。彼女にしては、かつての間取りのことなどをあまり聞いていなかったことから、家の向きやかつての土間の話などを聞いて、新鮮な響きだったかもしれない。おそらく、彼女の父母の世代でも、詳細は語れないかもしれない。
 家とは、母屋の間取りだけをとっても、一世代のうちにも変化がある。ましてや、二世代三世代と引き継がれる家は、その都度修正されてきた部分があるはずである。電気が引かれる、水道が引かれる、ガスの利用、最近では下水道が布設されるなど、時代によってとくに水周りは変化してきた。もちろん水周りばかりではなく、新たな建材の普及により、建具は大きく変化してきた。そして、生業の変化である。彼女の家でも二階が蚕室として利用されていたが、現在は二階の必要性はそれほど高くなくなっている。そうした生業の変化は、家を建て替えれば以前のものとは大きく変わる。その時代、世代ごとにこの家がどう息づいてきたか、思い起こせば奥は深く、自らを知ることができる。彼女がなぜこの家を残したいのか、そこのところが今ひとつ聞けなかったが、これは次ぎの機会にしよう。
 住まいの変容を扱ったものとして、多々井幸視氏の『住まいと民俗―住意識の変容―』(平成14年4月 岩田書院)がある。このなかで、以前に調査した家が新築され、あらためて新築後の住まいを調査すると、以前の家と後の家に共通点が多いという。外観はことなっても、座敷の設置やお勝手の位置、神棚・仏壇の置き場所など類似点が多いという。わたしも間取りや家の配置などを、自ら家を建てる際にいろいろ考えてみた。そうしたなかから、自分が育った家と、自らが新たに作った家がどう関連しているか、まとめてみたこともある。いずれにしても、自分の育った、あるいは生活した空間で、何が印象として強く、どういう部分に癒されたか、あるいはまったく癒されなかったのか、というようなところまで、かなり身に染み付いていることに気がついた。最近の新築事情はことなるかも知れないが、十年程度前で、それほど奇抜な家が目立たなかった時代には、多々井氏がいうような共通点は、家を作る際にあったことは確かだと思う。しかし、現在はどうなのか、伝承が生きているのか、あるいはいないのか、興味深い点である。
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腹の神送り

2005-08-20 00:25:29 | 民俗学
 国道19号を長野から松本に進む途中に東京電力平ダムがある。長野から松本の国道沿いには、いくつかの東京電力のダムがあるが、対岸が旧大岡村、現在の長野市、こちらが北安曇郡八坂村という地籍にこのダムがある。19日、このダム湖に竹だろうか塊になったものが浮いていた。たびたびのこのダムを眺めたりするが、このようなものが浮いていることはめったにないので、気になった。それで気づいたのは、このダムの上流に東筑摩郡坂北村雲根という集落があり、盆過ぎに「腹の神送り」という行事があったことを思い出した。わたしがこの雲根の行事を訪れたのは、昭和61年のことで、通過した際には日にちまでは思い出せなかった。しかし、浮いているものの姿をみるにつけ、腹の神送りで送られた船の形に似ていたため、この行事で流されたものではないかと、頭には浮かんだ。
 腹の神送りは、朝四時ころ、各戸ごとに「奉送御腹之神」という紙を笹につけて、鉦の合図を待つ。弘法大師の石像が祀られる辻で鉦が鳴らされると、各戸ごとに笹と麦わらを持ち寄る。そして船を作るための竹を切り出してきて、船作りが始まる。鉦とともに太鼓もたたかれ、行事が終わるまでずっとたたかれる。切り出した竹を敷き、その上に麦わらをたくさん載せ、竹の根の方を折り曲げて竹と麦わらを縄で縛り付ける。船の形になると、麦わらの上に各戸より持ち寄った「奉送御腹之神」と書かれた紙をつけた笹が立てられる。船ができ上がると、皆で担ぎ、集落の中をまわり、犀川の岸まで行き、そこで川へ流される。昔は船に子どもが五、六人乗って、岸に戻ってひっかからないようにしたという。昔、赤痢が流行った際、流行病を絶つために流したものという。そのため、船を流した時、戻ってきてしまうと、やはり悪病が戻ってきてしまうといわれ、岸に止まらないように流したという。子どもが何人も乗ったというだけあり、昔はかなり大きな船を作ったようである。しかし、下流に平ダムができたため、船は小さくなるとともに、水深が深くなり、危険になったため、子どもたちが乗るということもなくなったようである。今では子どもたちの姿が行事から消えてしまった。
 この行事は、生坂村の各所で行なわれていたが、現在でも(昭和61年は行なわれていたが、近況は確認してない)行なわれるのは、雲根だけという。
 さて、家に帰ってから行事の日時を確認したが、当時は8月24日に行なわれていた。とすると、平ダムに浮かんでいた物体は果たして何だったのだろうか。場合によっては行事の日程が変わったということも考えられるが、まだ確認してない。
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地蔵盆

2005-08-19 08:17:10 | 民俗学
 まもなく地蔵盆である。福井県小浜市の地蔵盆を何度か訪れたのは、昭和60年代であった。小浜市西津は中央に国道162号が走り、両側に古い街並みが続く漁港である。毎年8月23日と24日に地蔵盆が行われる。町内にある祠から取り出された地蔵を子どもたちが海辺で洗い、絵の具で彩色し、組み立てられた地蔵堂へ祀るもので、地蔵堂はこのときのために建てられる。どこでも地蔵堂に祀られるのではなく、町によっては当番の家の表の間を利用したり、公会堂へ祀るところもある。
 堂の表には赤、黄、緑などの色紙を長く張り合わせて「南無地蔵大菩薩」と書かれた幟旗が笹竹に下げられ、「南無地蔵尊」と書かれた提灯が吊り下げられる。賽銭箱がおかれ、奥の祭壇には、普段路傍に立つ地蔵尊が移される。
 23日朝、子どもたちが鉦と太鼓をたたき「起きろ、起きろ」と囃し、町内をまわることで、地蔵盆が始まる。子どもたちの親方を大将といい、中学2年が務めるという。町内では、あちこちで飾り立てた堂や宿が見られ、子どもたちのたたく鉦や太鼓の音が聞こえる。堂の前を通ると、
「マイテンノー マイテンノー マイラニャ トウサンゾー」
と囃し、賽銭を要求するのである。賽銭をあげると「アリガトー アリガトー」と囃したててくれる。
 小浜の地蔵盆の特徴は、この通せんぼを出張して行うことである。地蔵をもって出張するのではなく、石ころに地蔵の絵を描き、それを本尊にして道端で地蔵堂と同じように通せんぼをするのである。菓子の空き箱を賽銭箱に見立て、小遣い稼ぎをするのである。こうした出張をするのをねらって、それこそカメラマンが賽銭で釣って、思い思いの場所へ連れ出し、写真を撮る集団があったりする。ついでに写真を、と思うと、カメラマンたちに「おまえは賽銭を払ってないだろー」と撮ることを邪魔される。世の中金だよ、という世界を、子どもたちに見せ付けているようで、先の「カメラマンの不幸」ではないが、気分はよくない。
 さて、かつては地蔵堂に子どもたちが泊まっておこもりをしたという。そして先にものべたように朝方「起きろ、起きろ」と行事の始まりをふれて歩く。長野県下水内郡栄村箕作で行われる道祖神祭りでも、宿でおこもりをし、1月14日の未明に「起きろ、起きろ」とふれて歩く。通せんぼはかつて松本の三九郎(正月の松焼き行事)でも行われたといい、道祖神行事に共通するものが多い。
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カメラマンたちの不幸

2005-08-17 19:20:01 | ひとから学ぶ
 わたしは10年ほど前まで、盛んに祭りの写真を撮って歩いていた。とくに狭い空間で、一時の瞬間を逃さずにカメラに収めることは技がいった。長野県でも南信といわれる地域には、そうした一瞬のチャンスしか収めることができない対象の祭りが多かった。年末押し迫った頃や、年始の時期に行なわれる湯立て神楽や、田楽など古風な祭りが南信、とりわけ伊那谷には多かった。それでもそうした地域に限られるものではなく、今の時期でいえば、まもなく始まる北信といわれる地域の神楽にも、独特な所作などがあって、一瞬のチャンスにねらいを定めるものは多くあった。
 湯立て神楽でいうなら、例えば下伊那郡の遠山谷で行なわれる霜月祭りでは、湯立ての湯をはねる所作があって、おもて(面)をつけた神に扮した者が、手で湯をはねる時を狙って、狭い舞堂の釜の前にカメラを手にした、いわゆるアマチュアカメラマンといわれる人たちが陣取る姿が、毎年、各所でみられた。時にはそうしたカメラマンと、見学にきた人々でもめることもしばしばあった。湯をはねる所作はテレビなどで放映され、少しはイメージがつくかもしれないが、カメラを手にした人たちが、われ先にと釜の前を争ったり、その瞬間にどう前に出たらよいかという駆け引きをするあたりは、ある意味人間の欲の世界を垣間見たりするのである。確かに、そこで確実なポジションをつかんだ人にとっては、不運さえなければ(湯をはねる前に湯煙があがってしまったり、突然お宮の関係者の手に持つ提灯がじゃましたり)よい写真が撮れることは確かである。こうした狭い空間での駆け引きを、自ら何年も行なっていた経験がある。それはカメラマンというひとくくりにすれば、その一員ではあったが、あくまでもこちらは、写真のコンテストなどを狙ってのものではなく、資料として残しておきたいという、当時として民俗芸能を研究していたというほどの大それたものではなかったが、多くの祭りを見ることで、地域性、あるいは類似性など知ろうというものであった。しかし、いうまでもなく、ひとくくりにしてしまえば、カメラマンとなんら変わりはしなかったであろう。こうしたカメラマンの動きは、こと祭りなどに見られるだけではなく、例えば撮影会といわれるものでも、モデルに対して、どういう位置にポジションを置くかで、けっこう争いがあるという。
 いずれにしても、写真は意図的(やらせも含めて)な部分で撮られているものが多い。それでも意図して作られたものはともかく、一瞬しか撮影できないものを撮る際のカメラマンの争いを、好ましいとは思っていなかった。そんなこともあって、今ではそうした写真を撮ろうという気持ちはなくなった。カメラマンのそうした世界を見たくないからである。また、昔にくらべると、そうしたカメラマンの視線を祭りの関係者はもちろん、見学者も意識するようになった。絵に比べれば表現しやすい写真であり、見る側もイメージしやすい芸術ではあるが、祭りを取り巻くカメラマンの姿をみるにつけ、新聞などに掲載されるコンテストの写真を、イメージダウンさせて見る自分が常にある。
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糸取り

2005-08-16 18:33:20 | 農村環境
 お蚕さまが繭になって一週間あまり、糸取りをした。蒸かしてさなぎを殺した。こうすることにより、糸を取りたいときにとれるように保存がきく。今回はためしに蒸殺をしたが、繭の数が少ないので、いきなり鍋で煮てもよい。繭が浮かないように煮てから、糸をとった。その前にあらかじめ糸をとるためにミゴボウキを作った。糸口を立てるために使うもので、かつてはうつぎの小枝をつかったともいう。ミゴボウキがなくても、習字の筆などを使っても立てることはできる。ミゴボウキは藁からとるもので、30年以上以前、祖母がミゴ抜きをして小遣いを稼いでいたことを思い出す。冬の日の縁側で、ミゴを抜く姿は、絵に描いたようなおばあさんの世界だったように思う。そのミゴ抜きを見よう見まねで幼いころしたこともあった。すぐった藁から穂先のきれいな部分を抜き取っていく作業で、簡単にミゴを抜くことができる。このミゴを使ってほうきを作るのだが、けっこうミゴボウキはいろいろに利用できるような気がする。長野県の伊那谷では、ゴヘイモチを作るが、この時、味噌を塗るのにミゴボウキを使う家もあった。また、狭い場所や繊細な機械などについたほこりをとるのにもよい。あらためて、ミゴボウキの価値を認識した。
 さて、煮た繭からミゴボウキを使って糸をとった。わたしの家でも蚕は飼っていたが、糸をとるということはしていなかったので、経験がなかった。糸口を立てるのは簡単であるが、とった糸を集めて糸によっていくのは難しい。どうしても太さがばらついてしまう。5つ程度の繭から立てた糸をとって糸枠(そんなよいものがないので小さな箱に巻き取っていったが)にに巻いていくが、細くなってしまうと切れてしまったりする。この作業は座繰りといい、節糸やつむぎ糸をとったという。節ごきという瀬戸物でできていて小さな穴が開いているものを通し、よりをかけながら糸枠に巻き取っていく作業で、座繰機というものがあった。今回節ごきなるものを使わずに手で間隔でやったこともあり、太さはいろいろである。蛾になるまでおくための6つの繭を除いて、14個の繭から糸をとった。中条村の黄色い繭は糸も黄色で、混ぜてとったが、なかなか美しい。
 取ったあとには蛹が残るが、この蛹もフライパンで醤油と砂糖で炒ってみた。さっそく食べてみたが、もともと子供のころから好きではなかった。久しぶりに口にしてみたが、やはり美味いとはいえなかった。栄養は抜群といわれる蚕の蛹であるが、かつては、製糸工場からもらってこの蛹を食べたという。伊那の人々は、とくにこの蛹をたんぱく質として重宝にしたという。
 今回のお蚕セットは2千円程度であるが、なかなか楽しませてもらった。まだ蛾になるものが残っており、もう少し楽しめそうである。
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