Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

行って参ります

2005-07-31 09:02:56 | 農村環境
 「行って参ります」の言葉には、行く世界と参る(帰る)世界があるという(真宗大谷派善勝寺報2005/8/1より)。行く世界は外向きの世界で、気を引き締めていないと何があるかわらない。いっぽう参る世界は、安らぎの世界になる。人は毎日これを繰り返す。だから家を出る際に発するこの言葉は、その両者の世界を隔てる区切りの言葉となるもので、玄関の扉のようなものである。しかし、参る世界、いわゆる帰ってくる世界に安らぎがないと、両者の均衡は保てない。これは、現代社会の外とのかかわりが多い世界には納得できる言葉であるが、では、自家で仕事をしていれば外向きの世界はないのだろうか。いや、そんなことはない、隣近所とのつきあいがある。しかし、いずれにしても外と内という境界が、かつての暮らしには頻繁に現れることもなかったし、外の世界にそれほど危険があったわけではない。そこへいくと、今は、よりいっそう外の世界を意識せざるを得ないし、また、さまざまな情報があって、その情報に耳を傾けずにはおられない現実がある。外向きの顔と、プライベートな顔と、どちらも自らであるということを認識しながら、それぞれの世界を行き来していたことになる。
 ところが、人々は慣れてきたのだろうか、両者の世界をそれほど意識しない人々が多くなったような気がする。例えば、身内であっても必ずしも面倒を見るのは、自らとは限らないし、最近よくいわれる子育て支援のように、自分の子どもであっても、子育てを自ら行なうとは限らない姿が見えてきた。世の中が働く人々を支援し、健全な社会を形成しようという社会福祉という制度の充実というように捉えられるが、本当に健全といえるのだろうか。年よりも子どもも、もしかしたら参る世界を失い、行く世界で常に身を横たえることとなってしまう。それはそれでよいかもれないが、「行って参ります」の世界は失ってしまう。失って何か問題があるかといわれれば、その問題を具体的には指摘できないが、それは心の問題であり、自らが生を受けた以上、自らは何をするべきかという自責の問題である。外も内もないのなら、外で起きた事故も、内で起きた事故も、どちらも人の責任であるということが言えてしまうかもしれない。
 これは極端なのかもしれないが、自らが外に出る必要が生まれた段階で、自らがどんな事故に巻き込まれようと、それは人のせいではなく、自らの引き起こした運命だと思わざるをえない。自分の子どもが、もし通り魔に襲われようと、この社会を形成してきたのは誰というわけではなく、人それぞれなのだから、それを誰の責任とも言い難いところがある。確かに犯罪を犯す側の責任は大きいが、それだけではないはずである。結局は運命であり、そこでさまざまに心めぐらしても、何も元通りにはならないのである。

 訂正 かつての暮らしは外にそれほど危険があったわけではないといったが、外にはなくともさまざまな危険があったことは触れておかなくてはならない。戦争や病気というものもあった。かつて子どもをたくさん産んでもその子ども全てが成人するとは限らなかった。いかにものの考え方が今とは異なっていたかということを、子どもたちにも、また大人たちにも認識してほしい。
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輸入カブトムシ

2005-07-30 10:45:13 | 農村環境
 昨日の朝のNHKニュースで、輸入カブトムシが取り上げられていた。ここ数年来輸入個体数は増えているようで、カブトムシ以外の昆虫類を含めると百万匹以上の固体が輸入されるようになったという。NHKのニュースでは、今まで高価で手の届かなかった昆虫、そして本でしか見ることのできなかったカブトムシが、手にとって触れられるようになったという、どちらかというと、好イメージでとらえ、最後に若干の問題性を説明して終わった。
 1999年から農水省が外国産クワガタの輸入を大幅に解禁した。これにともない年々輸入個体が増えてきたようだ。ちょうど別のラジオで中国海老の規制の話をしていた。いずれにしても飽食、所有欲といった日本人の性格だろうか、さまざまなものを輸入してきた。その結果として、問題を絶えず与えてきた。輸入昆虫が生態系に影響があることはいうまでもない。

危険にたたされた日本の昆虫

 最近話題のアスベストが、危険であることを認識していたにもかかわらず、そこにつながる利益優先業者にだまされたのか、あるいはだまされた顔をして黙認してきたのか、規制をかけずにきた。そして多くの人命を失い、これからもその病を発症するという、悲劇を引き起こしてしまっている。これは同じ問題といえるだろう。なぜ、輸入のカブトムシを子どもたちに体感させなければならないのか。そこから問題が始まる。
 ①ひとつは、どういうものでも利益が生まれるなら商売にしようという、この世の中の不幸があるだろう。合法的であるなら、隙間をぬって何でもありなのである。そして、隙間をぬって既成事実を作ってしまえば、法制化する際にさまざまなバック体制を整えておけば、ある程度は理由をつけて規制を遅らせることができる。マスコミは、事件が起きると、そうしたお役所的な流れを批判するが、では、もっと早く指摘して、あとの祭りではないような報道をなぜできないのか。結局は、もっとも影響の大きい民間放送そのものが、視聴率を第一とした利益優先にあるのだから、マスコミそのものも不可解なものとして捉えざるをえない。よく、民間の力というが、確かに競争力は高まるが、つまりは利益優先であって、矛盾なのである。
 ②子どもたちが金を使って生き物を手にする、というのがいけない。かつてなら、自らの手で、足で昆虫は捕まえたものである。ところが、最近は農村部でも、子どもたちは昆虫に興味を示さない。あたりまえといえばあたりまえで、ほかに楽しいことがあれば興味を引くわけがないのである。昨年のちょうど今ごろ、地元の自治会で夏祭りをした。その際、祭りを主催した地区公民館の親方が、子どもたちにカブトムシをわけてあげようとして、たくさんとってきて、カゴに入れてゲームの景品とした。最初のうちは子どもたちも興味を示していたが、そのうちに「なんだ、ふつうカブトムシか」という感じで、用意したカブトムシ全てをさばくことができず、最後は無理やり配ったという感じであった。子どもたちの金銭感覚のなさから、通常のものでは満足できなくなってしまっている。いっぽうで、最近は生き物の住める川にしよう、というと、子どもたちを招いて改修する水路の生き物を引越しさせたりする。そんな催しをしなくては何か行動をおこせない、また、そうした行動に子どもを客寄せパンダのように利用するのはいかがなものだろう。すべてが家庭の役割崩壊の産物と言えはしないか。
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盆の始まり

2005-07-29 08:24:40 | 民俗学
 盆はいつから始まるのか。長野県内では、13日に始まり16日までを盆ということが多い。しかし、地獄の釜の蓋が開く日とか、仏様が黄泉の国に立つ日などとい、1日に墓掃除を行うというところも多い。そんなことから、1日から盆の入りというところもある。とくにこの1日にこだわっている地域が、佐久地方である。
 寛保二年戌年(1742年)に佐久地方をおそった 戌の満水にまつわるものといわれる。7月27日から降り続いた集中豪雨が、8月1日には大暴風雨になり、村々の河川から土石流が押しだし、千曲川をはじめ支流すべてが未曾有の洪水に見舞われ、多数の死者を出し、農作物の収穫も少なく、生き残った人も飢えに苦しんだという。あまりの被害に死者を弔うこともできなかった人々は、以来1日には墓参りをしてその霊を慰めてきたといわれている。
 いっぽう新盆のことをアラボンとか、シンボンといい、普段の盆よりは早く灯篭や提灯を吊るすところが多い。上伊那郡辰野町平出では、1日から長い竿の先に組子灯篭をつけて庭先に立てた。このように地域、あるいは新盆であるかないかによっても、盆の始まりは異なるようである。先ごろ飯田下伊那地方を主に発行されている信州日報という新聞に、「伊那谷の民俗世界」という記事があって、盆の始まりについて触れていたが、柳田國男の記述から引用して、1日のあり方を意味付けようとしていた。しかし、知識をもってフィールドに関連付けようとするのは、よく勉強しましたね、とはいえるが、実際聞き取れないものをつなげようとすると、こじつけではないかといわれればその通りということになってしまう。わたしたちが気をつけなくてはならないのは、年寄りですら昔を知らない時代になって、さぞ意味ありげに地域に既存の概念を植え付けてしまうことである。また、過去をノスタルジックに持ち上げてしまうことは、よいことではないし、「かつてが良かった」などという、若者へ年寄りが口癖のようにいう単語は避けたい。もちろん意識としても。
 近ごろ飯田市近辺で、新盆の家に切子灯篭が飾られるようになった。三河との国境あたりでは、新盆の家に切子灯篭が贈られるが、飯田あたりではそういう風習はなかった(昔のことは知らないが)。ところが最近は、店で売るようになったりして、急にちまたに広がった。確かに普通の灯篭よりにぎやかで、新盆さんを迎え、また送るにはよいかもしれないが、どこでも切子灯篭になってしまってはいまどきの政治、行政と同じじゃないか。
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車は通らないが人は多い

2005-07-28 08:21:35 | 農村環境
 仕事で上水内郡中条村によく行く。長野市の西部にあり、県庁から20分余で村に入る。長野市は南北に平地が続くが、東西をみると、背後に山がつながる。これは長野市に限らず、長野県内ではどこでもその傾向にある。川の流れが南北方向にあるから仕方がないことであるが、それでも長野市の平らは狭い。県庁から20分程度にも限らず、山間部のため、若者の姿は少ない。大町へ向かう県道沿いに高校があるため、なにやらわけのわからない高校生が歩いていて、若い姿がないではないが、超ミニスカで金髪のロングヘアーの女子校生が歩いていたりする。長野市内でもそんな女子高生を見ない、と長野から150kmほど南のある美容院で話したら、「かつての女子高生だね」なんていわれてしまった。今時の女子高生はそんな髪型にしないということだろう。
 仕事の現場は、この県道から10分余山に入った集落にある。一日仕事をしていても、通る車は一台か二台程度と少ない。だから大変静かである。しかしである。車は通らないが、人の姿は多い。家が山肌に点在しているが、その周辺のわずかな平らを利用した水田や畑、また傾斜地に点在する畑で働いている人が多いのである。家の数は多くはないが、家の数以上に人の姿を見る。皆、顔も知らない人間が働いているのに、頭を下げてくれるし、挨拶をしてくれる。あるおばあさんは、水田の水見に頻繁に高いところに見える家から水田に下りてきては、悩んでいる。そして「水が漏るんな、どうすりゃいいか」とわたしに頼ってくるのである。モグラの穴があって漏るんじゃないかと話すと、納得したりしている。
 人が家の近くで働き、車が通らないということは、よそへ出る人もいなければ入ってくる人もいない。交流は少なく、寂しさもあるが、気兼ねのない暮らしである。不在の土地があって荒れているところはあるが、地元に住んでいる人の土地は、見事に管理されている。県内でも数少ない農村である。最近はグリーンツーリズムなんていって、都市から体験農業者を受け入れるところが多い。わたしはそういうのは好きではない。なぜなら、確かに顔を見ながらの交流にはなるが、どうも冷静に考えると、結局都会に利用されているような気がするからである。だからといって、都会人目当てに銭をふんだくるような農村は農村ではない。それこそ利益優先の経済社会の産物となってしまう。しかし、それがこれからの農業だ、そうしなければ農業が壊滅してしまう、なんて宣伝しているが、そんなことをしなければなくなってしまうような農業は、なくなってしまえばよい。なくなって目覚めればよいと思っている。敗戦で目覚めたように(本当に目覚めたのかどうかは疑問な点もあるが)。
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2005-07-27 08:20:27 | 民俗学
 まもなく盆月である。この盆月という言い方も、最近の実働世代のなかではあまり聞かなくなった言葉である。盆月には忌み嫌う儀礼もある。例えば「盆月だから」といってお見舞いを避けることもある。少し盆に関連したことを何回か触れてみる。
 最近は熟年離婚という言葉もよく聞かれるが、先々が見えてくると、いろいろ考えさせられることが多くなる。とくに子どもたちが同居しないのがあたりまえになると、自分の老後はどうなるのか、誰が面倒を見てくれるのか、といったことである。先々を計算し始めると、離婚という回答も出てくるのであろう。結婚しない人たちだって多いのだから、そういう計算をするだけ、まだ幸せなのだろう(いや、不幸なのかもしれない)。夫婦同姓があたりまえだった時代が、別姓も可能な時代がやってくる。わたしの家でも「別姓がよかったなら、そうしたかった」などいうことを言われたりする。しかし、そんな世の中が本当に良好なのか、と言わざるをえない。家族が同居するのが一番将来的にはベストであると考えているわたしだから、そう思うだけかもしれないが。別姓なんていう話題が出てくるから、死んでも夫や姑と同じ墓に入りたくない、なんていう話が出るのである。生前の同居すら嫌うのだから、死後に同居などしたくないのも無理がない。結局そんなことを論議するよりも、まず結婚したら夫の家に「嫁入り」する、というかつての考えを論議してからの、離婚や墓問題ではないか。
 石井研士は、『日本人の一年と一生』のなかで、盆行事から寺とのかかわりを解いている。寺から人々は離れ、一年でも盆や彼岸といった限られた季節のみの存在に寺がなっているといっている。わたしなどは分家したから檀那寺はない。家を建てた際に墓地をどうしようと話したが、では寺をどうしようということで、なかなか結論に達しなかった。地域でつき合いが増えていくうちに、親しくなった寺へお願いしよう、などと考えたが、お寺が必要なのか、ということになった。根底には、「同じ墓に入る」というまさしく現代的な話題で、寺も墓の話も立ち消えてしまった。ただ、お互い葬儀は身内だけで行い、墓は持たずに、いっそ骨を残さないように燃やしてもらおうという話になった。こんな世の中である。なんでもありっていう感じだから、急いで墓や寺を決める必要はないだろうということになった。ところが、最近の若い世代は、家を建てると意外にも墓地をすぐに購入する人が多いという。どういうことだろう。
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メダカの死

2005-07-26 08:23:56 | 自然から学ぶ
 先日、庭にあった水槽に放していたメダカが死んでしまった。ため池から直接パイプできている水なので、ため池の水がこのところの天気で動きがなかったため濁ってしまい、それで濁った水が水槽に流れこんで死んでしまったのではないかと、家で話していた。ところが、よく聞くと、普段の年はしなかったのだが、天気が続いたこともあって、ブドウに消毒をしたという。その消毒が水槽に舞ったのではないかということになった。家の者がした消毒ではなく、近くの人についでにしてもらったもので、消毒の内容はよくわからない。しかし、自分の家でする時は、自家用で食べるものなので、したとしても弱い消毒をするものだが、今回は強いものだったようである。一口に消毒といってもピンからキリまであって、いろいろである。
 草をむしっていてもなにやら虫に刺されたりするため、虫除けを肌に塗って外に出た際、家の犬に近寄っていった。普段なら擦り寄ってくる犬が、虫除けを塗った腕を嗅いだら後ずさりするのである。虫除けだから生物には好まない匂いなのだろう。犬も同じであった。
 話がそれたが、メダカは弱い生き物で、よく家の裏にあるため池にメダカを取りにくる人たちは、補注網ですくい上げようとする。しかし、手で触ったりするとそれだけで寿命が短くなる。できればポンスケ(これはわたしの地域ではそういうが、一般的にはセルビンという)を使って、メダカを傷めないようにしたいものである。昨年のことであるが、水中昆虫に詳しい学校の先生方がメダカを取りにきたが、この方たちも補注網で、池の上から群れを狙ってすくい上げようとしていたが、その道に近い専門家でもこんなものである。一時絶滅危惧種として、その生息箇所が少ないといわれたメダカであるが、その後、生息箇所がけっこう報告されている。ただ、意外とDNAを調べてみると、一箇所のメダカが、よそへ持っていかれて生息している、なんていうこともあるかもしれない。事実家の裏のため池のメダカは、あちこちに子孫ができている。
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我慢

2005-07-25 19:38:55 | 農村環境
 30℃を越えることは珍しくなくなったこのごろの日本。気候の異常なのか、地球の異常なのか、アスベストと同じで時を経ないと解けないのかもしれない。しかし、そうした異常な気候は、人々の今までの長い年月で習慣化されてきた気候対ヒトという関係を超えて、対応できないほどの異常の世界が、そこまでやってきているのかもしれない。それはさておき、30℃がそれほど頻繁でなかった時代には、暑いといっても人々はその空間で絶えて仕事をしていた。もちろん、農業主体の暮らしであれば、暑いさなかに日よけの蓑でも背負って野に出たわけである。しかし、このごろの暑さは体にこたえる。とくに、かつてに比べると農業就業年齢は高齢化し、夏の最中に野で働くのは避けたほうが良いような状況ではある。しかし、それでも昔の人間は強い。年寄りほど効率的に気候の変化する様子をよくうかがっていて、朝は5時には野に出て働き、日中の暑い最中は、野に出ることを避ける。また夕方涼しくなると、野に出て働くという自然とよく向き合った行動をする。朝は早いし、夜は遅いし、年よりはよく働くと思わせるが、実は中を抜いていることが多い。それでも忙しければ日中も調整しながら働く。
 ところが、サラリーマンは熱のこもったコンクリートの建物に働き場を求めるとともに、多くは一定した勤務時間が定められていて、自由に時間を調整することはできない。必然的に暑ければ冷房が必要となるのである。暑ければ冷やす、寒ければ暖めるという、まったく自然に反した行動は、時に今まで人々がもっていた「我慢」ということを忘れてしまう。我慢するということは、ある意味美徳であった古き時代。ところが、今では我慢する必要がなくなり、大人は自由に周りの環境を金をかけて操作するようになった。金がなければそれもできないが、金があればあるほどに我慢は必要なくなった。大人が我慢しないのだから、子どもがするわけがない。
 このごろのことであるが、商工会の主催する祇園祭りがあって、ある中学生が小遣いを4万円持っていくと友達に言いふらしていたら、それを聞いていた悪の友達が「俺にも○○円持って来い」と脅して問題になった。大人でもそんなに小遣いなんぞ持っていないのに、子どもが大金持って何しに行くのか、疑問だらけである。子どもも子どもなら、その金を与える大人も大人である。近頃の子どもは(大人もそうだが)「キレル」なんていうが、我慢を知らない人間が、自由にならないからと、切れるのはあたりまえである。日本社会そのものの価値観や、生活観の変化がそれらを生んでいるわけである。
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親の仕事

2005-07-24 21:43:17 | 民俗学
 専業主婦については、あるページに次のようにある。

「夫の収入に連動した(依存した)「専業主婦という立場」が成立したのは、実はごく最近になってからのことです。近代化が進む前の社会では、多くの人々が農業や製造業に従事していたため、妻も貴重な労働力として生産活動に従事していました。近代化によって、産業の巨大化・集約化が進むにつれ、企業で長時間勤務する労働者が必要となりました。ここに、専業主婦が誕生する社会的適合性があったわけです。専業主婦の成立によって、夫は家庭の雑事を主婦に任せて働くことができ、主婦が子供の世話と教育投資を行うことによって知識や技能を持った新たな労働者が生み出されました。」

 ここから専業主婦は、労働者の一人であることがわかる。しかし、最近の捉えられかたは、だんなが仕事に出ている間に、子育てをするだけの、あるいは掃除や洗濯をするだけの、どちらかというと暇な存在としてみられ、職業とはとらえられていない。しかし、かつての農業主体の社会では、子どもが多く、それにもまして、農家の主婦が果たす役割は大変多かった。また、農業は自営業なだけに、子どもたちは必ずその自営業の手足となった。したがって、主婦だけではない、子どももすでに家の仕事の働き手として重要な地位を持っていたわけである。子どもが多ければ、小さな子どもの面倒をみるのも役割、いわゆる仕事であったわけである。家庭には、このようにそれぞれの役割がおのずと割り当てられ、それとともに親の働く姿を毎日目にしていたわけである。自営業であれば、子どもが親の仕事に触れ合うことがある。わたしも父が石屋だったこともあり、子どものころの遊び場は、石を割る河川であった。そばを流れる川で遊んだもので、親の仕事場を中心に遊びが展開していた。現在では川へ遊びに行くことは、制限されたりするが、親の近くにいるということで、川というものはまったく危険な場所ではなかった。自営業ならともかく、例えば運送業に働く人が、子どもを自分の車に乗せるということは、安全上、あるいは責任の所在上、今ではできないだろう。時代が法律で固められるなかで、結局家族が混在した空間で働くという、かつてはごくあたりまえであった世界が、今ではまったくありえないものになってしまった。子どもたちに職場体験などというものをさせる時代になってしまったが、かつては親の仕事を見て育ったわけである。
 農業にこだわるわけではないが、自営業の良さを改めて感じるのである。
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中央と地方

2005-07-22 21:55:46 | 民俗学
 飯田市歴史研究所の主旨や活動内容は、特筆すべきものである。年限ではない市誌の編纂を掲げた独自の考えは、日本国内をみても、他に例がないものとして注目されている。主たる研究所業務は、史料調査とその公開、研究活動、教育活動、市誌の編纂といった四つの柱である。項目のみでは特筆性は見えないが、教育活動においては、大学レベルの講義を年八回開催するほか、ゼミナールなるものを設け、広く市民への展開をしている。
 最近、信濃史学会がこの研究所の活動に注目するとともに、平成16年度秋季例会ではその研究所を対象としてとりあげている。飯田地域にあるこうした活動は、県内でも活発であるとともに、長野県という視野にとどまらず、むしろその枠を越えたところに視野を持っており、この地域だからこそ(長野県のなかでは疎外されていた地域ともいえよう)の流れともいえる。
 こうしてみてくると、その活動はとても新鮮で、期待の持てるものととらえられるが、実はその背景に大きなしこりを残している。元来「飯田市誌」編纂を始めた編纂室に変わってできた研究所である。それは地域のいわゆる教育者が占領していた郷土史研究の姿を、そうした人たちからとりあげて、中央の学者によるアカデミックなものにあげたいという、どちらかというと、それまでの体制に対しての反体制から始まったものである。したがって、数年間続けられた市誌編纂事業を完全に廃止し、それらにかかわった人たちを基本的には解雇して、新たなる編纂室を立ち上げたものがこの研究所だったわけで、解雇された側には納得のいかない部分が多分にあった。この地域には伊那史学会という、全国でもまれにみる(発行部数や会員数の多さ)郷土史の雑誌を発行している会がある。その組織の良し悪しは別として、そうした会が続いた背景には、この地域にいかにアマチュアの歴史研究者が多かったかということを諭してくれたはずである。にもかかわらず、そうした研究者、同好者を排除しながら、新たなる中央の研究を取り込もうとする意図は、地域重視を地域から投げ捨てたような動きではなかっただろうか。市誌の延長でありながら、研究所立ち上げに関係する大学の先生の個人的分野に重点が置かれ、結局市誌で行なっていた分野すべてが引き継がれたわけではなく、自然や民俗といった分野は研究所の活動からは置き去りにされた。
 地域で学がなくとも何かを述べることができた空間が消え、この地域に専門の若い芽を育てるには一つの方法となるだろうが、果たして伊那史学会を息づかせていた地域の空気を乱したことはいうまでもない。同会が発行する雑誌『伊那』がかつてのようなレベルを維持できなくなるのは必然であり、老年化した同会の会員がいなくなるとともに、地域を担った郷土史が衰退するのであろう。
 わたしは学問はないものの、民俗学という分野で、学がなくとも自らの視点で何かが見えるような気がしていた。それは歴史学ではなかなか受け入れてくれなかったが、民俗学ではそんな馬鹿でも受け入れてくれたからであった。しかし、その民俗学も歴史研究所で相手にされないように、いまや棺桶の蓋に釘を打たれ始めたような存在である。日本民俗学会年会が今年は東京大学で開かれるという。今や野の学も野から離れて遠いものとなってしまった。学のないものには、とても足は運べない。地方の時代なんていったのはいつのことだろう。そんな甘い言葉でモテ囃されているうちに、結局、また中央集権、中央集中をまざまざと見せ付けられるはめになった。ある地方で「地方こそ中央である」と叫んだ中央の誰よりも民俗学者であったF氏は、本職に追われるがため、その力を出せずにもがいている(失礼・・・力は発揮してももがかざるをえなかったか)。飯田のやり方はまさしく時代に逆行しているようで、実はこれからを描いているのかもしれない。馬鹿は頭を下げていろ。貧乏人はだまっていろ。そんな時代なのである。
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緑化植物

2005-07-20 20:07:17 | 農村環境
 政府が造成工事や道路法面で使われる緑化植物の中に、国内生態系を脅かす外来種が含まれているとして、使用状況や具体的な拡散の実態を調査する方針を決めたという。何を今さらという感じである。最近特定外来種についての規制が話題になっているが、その一環としての緑化植物なのだろう。身のまわりを見た際、ニセアカシアの姿が蔓延している。かつては河川沿いだけのものだったかも知れないが、緑化植物の法面保護材として山間でも利用され、今やどこへ行っても目にする。それどころか、ニセアカシアに駆逐されている。古い時代の輸入品だが、これほど世の中に蔓延してしまうとどうにもならない。
 考えてみれば、この狭い地球上である。確かに地域固有な植生があるだろうが、地球という空間からみれば、強いものが生き残っていく、そこに人間が介在した、ただそれだけのことなのかもしれない。「草刈り」でも述べたが、管理の仕方で植生は変化する。残したいと思うものを残そうとすれば、確かに残るが、それは人為的な管理である。しかし、自然保護とは、今ではそういうものをいう。外来種といっても、地球という一つの空間からすれば、その空間で強いものが生き残るという現実に、どう人間が介在するか、ということになるだろう。
 だからこそ、今ごろ何を言っているんだということになる。元来人為的な管理が、自然を左右していたとすれば、今まであなたたちは何を見ていたんだ、何をしていたんだ、ということになる。河川のあちらこちらに生え出すニセアカシアは、増水するとすぐに流される。それは丈が長くても、根が浅いため同じことだという。そこにいくとかつて河川を席巻していたヤナギは異なる。どんなに増水した河川の流れに、体を横たえて融和しても、水が引くとしっかりともとの姿を見せる。何を思ってこれほどまでに法面材として利用したのだろう。災害は、その場をいかに早く元に戻すかが視点になるが、では先のことはどうでも良かったのか。
 関連記事 → 田んぼの土手に見られる草花
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世の中の進み具合

2005-07-19 19:50:12 | つぶやき
 つまるところ、世の中になかなかついていけない。なぜかといえば、仕事や家庭や地域やといろいろ追われていれば、よけいなことを考えている余裕などないのである。戦中や戦後のように、ただ生きることを主として暮らしていた時は、生きることが精一杯であっただろう。それでもその中に何を楽しみにしていたか、それは、今の人間でも理解できるだろう。日々楽しさが続けば、人はその中に溶けてしまい、つらい日々にあれば、一筋の光明に顔をほころばせる。そう思えば、基準値あるいは標準値などありはしない。それぞれなのだ。しかし、世の中には、わたしたちの想像を絶するほど知識を持っている人々がたくさんいるが、こういう人たちは、どう世の移り変わりに対応しているのだろう。不思議で仕方ない。
 わたしはホームページを開設したのが、もう7年も前のことである。しかし、当時はまだ走りのころで、こんなつまらないことを書いているページは、アクセスが大変少なかった。当時はアクセスしてもらうために、検索専用ページに登録しまくったものである。今では考えられないほど馬鹿げたことだった。そのぺージからいろいろ訴えようとしたが、こんなもの誰も見やしねー・・・・っていう感じで、もう3年前から更新もせず、ほったらかしにしてある。最近、自分のページを置いてあるネットにつなげようとしたが、どうやるかわからなくなってしまった。そのメインページの雰囲気も違うし、どうなっちゃったんだろう、という感じ。ブログを開設したわたしなんかでもこんなんだから、世の中にはIT社会の天と地があるだろう。まさしく世の社会情勢と同じで、生活程度も同じようになりつつある。馬鹿と貧乏は死ねみたいな世界である。
 これこそ本当のぼやきである。
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草刈り

2005-07-18 21:34:39 | 農村環境
 昨日は畔草刈だった。天候がこのところ良すぎて稲の生育が早いという。稲が病にかからないように畔草を刈る。植生は、盛んに畔草を刈ると、単一化するという。かつては鎌で刈っていたため、草刈機のようにきれいに刈り取ってしまうということはなかった。そうしたスローな草刈だけに、刈りながら残そうと思う草、あるいは花を残すことができた。しかし、草刈機ではそうはなかなかいかない。何が生えているかという認識する前に草刈機はすでに刈り払っているのである。草刈機での除草を繰り返すと、丈の短い草の植生に優先されるという。結局土手には芝が残るのである。多様な植生を残すためにも、刈り過ぎずに、また、気を使って残そうとする花は刈り取らないようにする、それが自然保護からみた草刈の基本だという。しかし、そんな草刈をしていると、時間がかかり、結局は燃料はもちろん、人件費が高くつくわけで、趣味でないとできないわけである。三週間ほど前に草刈をした際には、野アザミが咲いていて、なるべく刈り取らないように気を使った。今回は、それほど気にするようなものは生えていなかったので気楽であったが、稲を優先するには、気を使ってはいられないのが現実である。
 引き続き、今日はまた屋敷の草取りをした。メヒシバが盛んに生えていて、とくにいけないのは砂利を敷いてある車の通り道に出るメヒシバである。抜き取ろうとしてもなかなか力がいる。それが一面に出ていると、いっそ草刈機で刈るようにして、芝にしてしまおうなんて思うのだが、砂利が敷いてあるとそんなにきれいにはならない。それこそこういった丈の短い強い草には、除草剤がよいかもしれないがも、除草剤は使っても草が枯れるが、そのまま形は残ってしまう。土にすぐ返ってくれればよいがそうはいかない。それなら生の方が取りやすい。
 自分が子どものころは、他所の土地(農地)に入ってはいけないなど言われたことはなかった。しかし、時代が経過すると、しだいに土地への立ち入りはしてはいけないというのが常識化してきた。それは自分が成長したというよりも、そういう世知辛い時代になってきたといった方が正しい。かつては草を刈ってもそれを利用する必要性があったから、他所の土地の草を刈ってはまずかった。しかし、今のように草を刈っても利用価値がなくなってしまっては、他所の土地の草を刈ってもいいじゃないか、と思うのだが、それは違う。やはり他所の土地だからまずいのである。昔とは意味が違う。過疎化した田舎に、廃屋が朽ちている姿は美しいとはいえない。しかし、他人がどうすることもできない。同じように、どんなに荒れ果てて草が身の丈以上に伸びきっていても、よそ者がその草を刈ることはできない。地域をなんとかしたいのなら、そうした見にくさから整理しなくては、過疎地は存続できない。土地を離れていくのなら、他人が管理しても了解である、というような協定を結んでほしいところである。いや他所に住んでいなくても、荒れ放題にしている人は多い。なんとかならないだろうか、でも、自分の土地ですらままならない現状に、地域は終わりかなと思う。
 関連記事 → あぜ草の管理と水田
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農村の不幸

2005-07-16 21:54:20 | 農村環境
 気分の悪いことがあった。知人の家に電話をしたら、○○番へ電話してくれ、といわれた。この知人は嫁に行った人で、おそらく姑であろう人がそう答えた。最近というより、もうずいぶん前より、同居世帯へ嫁に入ったとしても、二世帯住宅とか、あるいは電話を別にするということはあたりまえのようにあった。それは住居、あるいは屋敷が広い農家の場合の方が顕著である。このごろの農家で、火や水を共同している親子は少なくなった。同居とは名ばかりで、現実は別居なのである。どちらも干渉されず気楽かもしれないが、それがあたりまえになってしまったら、農村の良さはなくなってしまう。いや、むしろかつて農村の家族という姿は、都会の方が残っているかもしれない。別居に近い家に電話をしたら、冷たく○○番に電話をしてくれ、といわれる。こんな経験は一度や二度ではない。わたしのように四十代になった者でも、そんな言葉を聞くと滅入る。ましてや若い世代の人たちが聞いた場合、どう思うだろう。だが、若い世代はそれがあたりまえと思っていて、慣れたものかもしれない。わたしが電話が嫌いなのは、そんな滅入る経験を避けたいからだ。
 先日こんなこともあった。同級会を開こうと思ったものの、住所が確認できないため、彼の兄の家に電話をした。そこで電話に出たのは、おそらく兄嫁であろう女性であった。同級会の連絡をしたいので、住所を教えてほしいといったら、本人からそちらに電話をするようにする、というので、これはすぐ住所がわからないからだろうと察知して、電話番号を教えていただければこちらから電話をします、といった。こちらは、わざわざ電話をさせて電話代を使わせるのも悪いと思っていった言葉であったが、相手はそんなふうにはとらえていなかった。「こんな時代でいろいろあるから・・・・」といった。最初は意味がわからなかったが、おそらく電話を使った犯罪が多発するなか、直接教えることを避けたためだろう。田舎である。しかし、これが今なのである。このときもずいぶん気分を害した。同級会という、普段は認識のない世界のことで、こちらとしては、善意で行なっている行動にもかかわらず、怪しまれるこの世の中。
 若い頃から、あちこち転勤しながら、地域性を感じ取ってきた。性格上、人の言葉を気に過ぎるところはある。しかし、その地域性を垣間見るなかで、滅入る経験をいくつもしてきた。先日、小学校の担任の先生と二人で飲んだ。卒業以来の顔合わせであった。わたしの方から確認したいことがあって、会ったものであった。何を確認したかったかというと、わたしの育った地域は、たいへんおとなしい子どもが多く、また、比較的勉強にも積極性がない地域であった。いわゆる田舎だったのである。その田舎に他所からやってきた先生は、この地域がたるんでいるということを盛んに言ったもので、どうしてそういうことを言うんだと、最初は強く思ったものであった。この地域にあったものとは何だったのか、そんな所を、もう一度聞きたくて会ったのであった。
 当時はとても田舎であったこの地域、実はこれを書いている地域は長野県の南部、南信といわれる地域なのであるが、昔から県内では田舎だと思っていた。ところが、最近県内の他地域を意識しながら気づいたのは、最も田舎が残っているのは県庁のある長野市近辺で、むしろ田舎といわれ、長野からは馬鹿にされていた南部地域ほど人擦れし、人間が冷たいという印象を持つようになった。
 農家でも金が第一という世の中で、無駄な非生産的なことはしないし、人の世話など好き好んでしない。そんな地域が、意外と南部に多いのである。なぜこんな世の中になってしまったのか。こんな田舎になってしまったのか。自然を残せばよいというものではない。人々の心を残してほしかった。そう思うのである。
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配膳のマナー

2005-07-16 00:05:50 | 民俗学
 食事のマナーとして配膳方法があるが、昔に比べるとあまりきびしくいわないし、また、気にしない人も多くなった。主菜がどこで、副菜がどこでということはあまり強く言われなかったが、左側にご飯、右側に汁物という方法は、常識的なものであった。しかし、かつては左利きでも右手に修正するよう子どもたちを躾けたものだが、最近は先天的に左なら矯正をしない家が多い。それがよいか悪いかを問うと、話は長くなるが、かつては意味があって矯正していた。近年のような左利きで箸を持っても不思議でない時代では、配膳方法として、従来の常識の並べ方にするのか、左用に置き換えるのかといったことまで話題になる。
 ところで、わたしの会社で昼の時間に汁物の置く位置を観察すると、意外に常識を無視して汁物を左側に置く人が多い。そうした人たちが左利きかというとそうでもない。
 実はわたしは汁物を右側に置くのは当たり前だと認識してきたが、性格上熱いものが好きで、冷えてしまうと美味くないと習慣的に思うようになった。味噌汁も熱ければ熱いほどありがたい。ところがその熱い味噌汁を、それも椀にいっぱいにしていると、右側に置いてある椀を左手で取りにいくことがつらいのである。それは、左手で椀をつかんでバックハンド状態で自分の口元へ移動する際に、とても違和感がある。だれしもフォアにくらべればバックは苦手という印象はあるはずで、この苦手な感覚が常識的な位置を嫌っているのである。とくに熱いなみなみと汁が入った椀を持つという、まるでスッポンポンで人目にさらされているような感覚は、時に口元からはずした際に、左側に着陸したくなるのである。
 そんな意識があってみんな左側に置いているとは思わないが、わたしの長い間の好みの習慣が、そんな行為をさせてしまうのである。会社を見渡してみると、年のいった人たちは、確かに右側に置いている。しかし、中堅あたりから若いのになると、かなり左側に置き始める。単純にマナーを意識しない、自由な行為に慣れた世代のなせるものかもしれないが、ごく一般にいわれる常識配置は合理的である、という考えは、私には場合によっては通用しないのである。
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田の草取り

2005-07-13 12:44:56 | 農村環境
 今年になって田の草取りをしていない。わたしがしていないだけで、妻は何度もしているようで、本当のところはわたしにも田んぼへ入って欲しいところだが、いろいろあって手伝っていない。田の草取りは一番草、二番草というような言い方をし、かつては三回くらいする家が多かった。最近刊行された『中川村誌下巻』(長野県上伊那郡)にこんなことが書かれている。「ハナスズ背負って田の草取る大馬鹿者」。稲の花がつく頃に田の草取りをすると、根を切ってしまうのでよくないといい、それを知らずに草取りをする者を嘲笑した諺だろうか。田の草取りはやってみるとそのつらさはよくわかる。ずっと地をはいつくばって、ただただ草を取っていく。庭の草取りなど田の草取りにくらべれば楽なものであるが、どちらも腰を曲げた格好で長時間続くことで、つらいことに違いはない。最近は腰を曲がった人をあまり見なくなったが、かつての年寄り(年寄りといっても、60歳くらい)には腰が曲がっている人が多かった。田の草取りをしていてつくづく思うが、あたりまえかもしれない。
 近年、有機農業という言葉が当たり前になった。水稲でも減農薬、あるいは無農薬という言葉を聞くが、除草という作業をどう回避するかがカギにもなる。アイガモとかカブトエビといった、いわゆる水を濁らせることによる草の発育を抑える方法がよくいわれる。環境とか自然という言葉があまりにも受け入れられてしまい、たとえば生態系保全という観点と自然農法はあまりにも迎合してしまう。しかし、だからといってそうした農法だけクローズアップされるのは、田の草取りをしている我々がバカのようである。田の草取りの文化を残そうとしているわけではないが、地にはいつくばって、苗間の水面下や水面にひろがる空間と接することも意味があるはずである。腰が曲がってしまったら、今では格好悪いが、それも文化であったと思う。
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