Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

中央自動車道初期予定ルート

2017-07-27 23:20:13 | 信州・信濃・長野県

 もう10年以上も前、「夢の弾丸道路」においてわたしはこう記している。

 わたしはこの地図と『阿智村誌』を見ているたけで、他の資料には目を通していないので、あくまで想像ではあるが、こう考えた。実は名古屋東京間の地図を広げて見るとわかるが、八王子から山梨に入った中央自動車道は、大月から河口湖まで富士吉田線が分岐している。この河口湖と中津川を結ぶと、まさしく天竜峡や、木沢を通るルートが想定される。昔から富士吉田線は富士山への観光客のために造られた道路なんだと思っていたが、実はこの精進中津川を結ぶための道路だったのではないだろうか。

 みればそこにも記しているが、てもとにあった地図と『阿智村誌』を見ただけの想像であった。さきごろ中央自動車道のことを探っていると「南アルプスを越えられなかった中央自動車道」というページを見つけた。日経コンストラクションというところで公開しているもので、その2010年12月28日の記事である。冒頭こう綴っている。

 国土交通省の交通政策審議会で、JR東海が計画しているリニア新幹線のルートが南アルプス経由に内定した。あてが外れたのは長野県。1989年以来、迂回(うかい)しても経済効果が見込めるとの理由で、対案の伊那谷ルートを推進してきた。これが覆った。

 逆に、いったん南アルプス経由と決まったものの、後に伊那谷経由へと覆ったのが中央自動車道だ。ルート変更を巡る逆転劇があったのは半世紀前のこと。

 そのうえで歴史を振り返っている。ここに登場してくるのが田中清一(1892-1973年)が1947年に日本政府に提出した計画である。「夢の弾丸道路」にも記した田中プランのことである。南アルプス経由で決まった中央道の建設計画が覆る出来事が、1963年に起きたという。中央道の早期着工・完成を推進するため、関係する自治体の首長などが構成する「中央自動車道建設推進委員会」が1963年5月17日に開催した第6回総会において、長野県出身の国会議員であった委員長の青木一男(1889-1982年)が突如、ルートを北回りに変更する方針を明らかにしたという。周辺自治体の多くが北回りを望んだため、反対者もあったが結局北回りで建設されることに。記事はまだ中央リニアのルートが決定される前のもの。中央自動車道と同様に北回りと直線ルートの間で揺れた上で、記事にもあるように「国家的なプロジェクトでは大局に立った判断」が優先されたのだろう、直線ルートに決定した。「中央自動車道を再び」というわけにはいかなかったわけである。

 「夢の弾丸道路」に記したように、わたしの手元には印刷された財団法人田中研究所の作成した「精進中津川間縦断面図」の「第四案」というものがある。ここには現況地盤と実際の計画ラインとともに、トンネルと橋の位置や長さが示されている。かなり具体的なものを描いたものといえる。これとともに私の手元には国土地理院の図を貼り合わせた上で、手書きでルートを示した図がある。そこにはおおよそ3ルート、そのうちのひとつを少し修正を加えたもの1ルートを加えた4本の線が引かれている。縦断図に4案とあるから、手書きのもののように4ルートが示されていたのかもしれない。「夢の弾丸道路」にも記したように、ルート図の中では縦断図に示されたものは青いラインで引かれていて、とくにトンネルについては位置が示されており、長大トンネルにあたる易老嶽トンネル(8.15キロ)と神坂峠トンネル(7.65キロ)についてルート図に示されたトンネル部分を図測すると、たしかにそれに近い長さがトンネルと表示されている。このルート図は誰が手書きしたものか不明であるが、田中研究所の人なのか、それともわたしがこの図を入手したと記憶する高校のクラブ顧問の先生だったのんはわからない。いずれにしてもとうじ地域で唯一の土木科を有す高校の先生だったこともあって、この世紀の大工事プランに興味を抱いていても不思議ではないし、もしかしたら田中研究所と何らかの関わりがあったのかもしれない。

 さて、4案に示されたルートをおおよそGoogleマップに落としてみた。とりわけ三遠南信自動車道と重なる部分があることに注目である。それと、直線ルートとは言うものの、実際は大きく、そして細かい部分も曲がっているところが、当時の土木技術とリニアを建設しようとしている今の土木技術の違いだろうか。

 

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