Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

葬儀や墓に悩む人々へ

2016-08-20 23:53:29 | ひとから学ぶ

 盆を前にした8月9日の朝日新聞デジタルに寺のあり方を問う記事が掲載された。「檀家廃止・お布施公開し値下げ…住職の「変革」、反発も」というもの。寺といえば檀家があって組織的に維持されてきたもの。それが危うい状況になっているのは、人口減少時代という背景とともに、そもそも檀家制度への抵抗感のようなものもあるだろう。しかしながら地域社会では容易にそこから抜け出せないのも現実のよう。もし容易に寺を選択することができたら、もっと早くに寺の経営基盤が揺らいでいるという話題があがっただろう。記事ではこの檀家制度を辞めた寺の例があげられている。400年以上という歴史のある寺がそれを実践するには批判が多かっただろう。踏み切った理由に「檀家数の減少や、葬儀や法事が簡素化する流れ」だったという。地方にあっては人口減少がより一層危惧される。さらにかつてのような葬儀を望まない人々が多くなり、地方にあっても家族葬が珍しくなくなっている。檀家組織を廃止し、会員制のお互いを縛らない「信徒」制にした。自由に寺を変えることができる。そのかわりに新たな信徒の確保を目指したり、新しいサービスを始めた。遺骨を郵送で受け付ける「送骨サービス」は、荷造りに必要な段ボールを希望者に送り、骨つぼに入れた遺骨を送り返してもらい、敷地内にある納骨スペースに合祀し永代供養をするというもの。送料込みで3万円強で、宗派や国籍は一切問わないらしい。身内が亡くなったが墓がない、あるいは埋葬する場所がない、もっといえば前提として埋葬する場があっても、そこには納骨したくない、といったさまざまな理由がある人たちにとっては、何のしがらみもなく、余計なことを心配しなくてよいという面では利用しやすいサービスといえよう。ずっと骨壷を身近においておくわけにはいかない、そんな人たちには理想的かもしれない。

 ただし記事でも触れられているが、今後の墓事情や葬儀事情を踏まえてこうしたサービスに展開を変えるのは多様な事情があるなかありかだいことであるが、これをビジネスとして捉えて転換するのは、寺にかかわる者としてどうか、という意識はあるだろうし、わたしもそう思う。それなら僧侶などいらないと思うし、そもそも埋葬の法律を変えるべきだと思えてくる。記事でも送骨サービスについて、「単なる経済的対価を得るための行為」と誤解され、「純粋なる信仰心と宗教行為に対する重大な冒瀆及び誤解の起点となる」という曹洞宗宗務庁の意見を掲載している。このことについてサービスを始めた当人は、「宗教も経済的行為の上に成り立っている」と言ったとか。やはりそうした考えのサービスにはお世話になりたくない、そう思うのも自然だ。しかしながら、前述したように、現状に葛藤している多くの人々の思いを、宗教的に叶えてくれるサービスを提供するのも、これからの寺院の役割ではないだろうか。もちろん多様なサービスを、今も新たに画策している人たちがきっといるのだろう。この記事を読んでそんなことを考えていたら、『信濃』(信濃史学会)の最新号が届いた。福澤昭司氏が「現代社会と民俗学-葬儀と墓に寄せて-」というものを書かれている。まとめにおいて「現在、多くの人々が葬式のやり方ゆお墓の維持の問題で悩んでいる」と書かれているように、終活ブームもあって、この環境は今大きく変化を来たしていると思う。我が家でも高齢の義父母の将来あるであろう葬儀のことがたびたび話題になる。今どきかつてのような葬儀をする必要などないじゃないか、というのがわたしの意見だが、地域社会に身を寄せていると、そう簡単にはゆかない。実父の葬儀のあとに展開された多くの法事の有り様に、考えさせられるところは多かったが、今はもう周囲から「変わったことをして」と批判される時代ではなくなっている。何より高齢化社会にあって、かつてと同じ葬儀など似合わない。かつて世話になった方が亡くなったとしても、もはや縁遠くなって何十年も経た方の葬儀にわざわざ香典を持って訪れる必要などない、そう思う。そもそも葬儀は「つきあい」の延長上にあるものであって、こころの中で冥福を祈れば意図は叶えられるはず。それが宗教ではないのだろうか。

 福澤氏は多くの人々が葬儀や墓のことで悩んでいるというのに、「民俗学からの社会的発言はほとんどみられない」と指摘される。過去のしきたり風習を記録してきたから、そうしたものを保存継続するために民俗学があるわけではない。そもそも変化変容することを受容しながら、人々はより暮らしやすい空間・環境を作ってきたはず。今は人々のつきあいが希薄化して、とりわけつきあいに関しては限定的になって画一化してきているのが個々の「つきあい」ではないだろうか。そうしたものを解く一助となるべく、民俗学の視点を展開するときなのだろう。墓に関する福澤氏のまとめにある文をここに紹介したい。

死後には石塔を建てるとか家墓に遺骨を入れるとかということが、非常に古くからの習俗であり価値のあることと思われてしまいがちだが、実はそんなに古くからの習俗ではないことを私たちは知っている。土葬が行われていた長い間、一般農民は埋葬したら土饅頭を作って木の塔婆を立てておくだけだった。木が朽ちれば記憶の中にだけ故人は残り、その記憶もいつしか忘れられたのである。そうでなければ墓地は拡大するばかりである。誰もが死後に石に名前を刻み、未来永劫にわたって故人の名前を残そうとするのは、ある時代の流行でやりすぎだと考える。だから、石塔にこだわって墓地を維持することに悩む必要はないと思うがいかがだろうか。

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