昨夜、近頃某市の教育委員会が子どもへの閲覧を制限したとかで話題の「はだしのゲン」という漫画全10巻を読んでみました。
何が問題なのかと思いまして。
私はこの漫画の存在を小学生の頃から知ってはいましたが、なんだかつまらなそうだと思って、手に取ることはありませんでした。
で、実際つまらない、くだらぬ漫画でした。
ただ、某市の教育委員会が言うような、残酷描写がきつくて子どもに見せられない、というほどのものでもありませんでした。
広島で原爆の被害にあった少年が成長していく話ですが、原爆が憎い、戦争が憎い、戦争を始めた昭和陛下や政府高官が憎い、米国が憎い、だから2度と戦争をしてはいけない、ということが繰り返し描かれているだけの、底の浅い、幼稚な駄作です。
こういう理屈をお題目のように唱えていても、平和の維持には何の役にも立たないでしょう。
過去の戦争が悲惨だったから今後は戦争は止めようなんて、終戦直後は誰もが思いますが、いずれ新たな対立が起きれば、そんなことは忘れ去ってしまうのが人というものであることくらい、歴史を見れば自明です。
過去の悲劇よりも、ただ今現在、そして近い将来の利益を優先するものです。
応仁の乱が悲惨だったからとか、前九年・後三年の役がひどかったからとか、日露戦争は勝ったとはいえ甚大な被害を被ったからとか、そんなことは平和の維持に役立たないことくらい、当たり前の話です。
では平和を維持するためには何が重要か。
まず、冷徹に現実を分析すること。
その上で、仮想敵国の行動パターンや心理を深く追究し、相手が絶対に退けない一線と、こちらが絶対に退けない一線を見極め、気長に交渉にあたること。
また、仮想敵国が攻撃をためらうような軍事力を保持し、時にはそれをちらつかせて恫喝するのも良いでしょう。
これを半永久的に、不断に続けることです。
争いの種は尽きませんから。
非常に面倒くさいことですが、それをやらなければ平和を維持することなど不可能です。
戦争反対とか核兵器廃絶なんてプラカードを掲げて笑顔で都心部を散歩している集団を見ると、その幼稚さに吐き気を覚えます。
大の大人がすることではありますまい。
きちんと選挙で意思表示するなり、あるいは立候補するなり、インターネットで意見を述べるなりすれば良いものを、ピクニックにしか見えないデモ行進など、馬鹿げています。
まぁ、集団散歩をするのは気楽で楽しいのでしょうが、平和を維持するということは、血の滲むような努力を半永久的に続けることでしかありはしないということに、思いを馳せたことがおありでしょうか?
要するに、ヤクザの抗争と同じです。
ヤクザはより明確に大義名分よりも利益を重んじます。
国家は一応大義名分をひねり出しますが、勝ちさえすればそんな物は後から付いて来るので、勝てる、あるいは勝てるかもしれないと踏み、さらには戦ったほうが利益を得られると思えば、すぐに戦いは始まるでしょう。
国家が持つ武力はヤクザの比ではありません。
そういう権謀術数渦巻く国際社会においては、常に左手に銃を隠し持ったまま、にこやかに右手で握手するくらいの腹芸を駆使しないと、攻撃を受けてしまうでしょう。
「はだしのゲン」ではたびたび昭和陛下の戦争責任に言及しています。
しかし、昭和陛下は米国が日本支配に利用するため、訴追されませんでした。
また、明治憲法では天皇は神聖ニシテ侵スベカラザルとされているので、何をやっても罪に問えません。
法的には戦争責任は免訴されたということで、チャーチルやルーズベルトに戦争責任が無いとされたのと同じ意味で、戦争責任は無いことになりました。
それは不思議なことですが、高度な政治判断が働いたものと思われます。
でもまぁ、親兄弟を原爆で失った子どもが、昨日まで本土決戦だの神州不滅だのと勇ましいことを言っていた大人たちが、手のひらを返したように民主主義だのマッカーサー元帥に感謝だのと言い始めながら、依然として天皇陛下への尊崇を失わなければ、理不尽だと思うのは当然でしょうねぇ。
そういう子どもの素朴な感情を描いたという意味では、良く出来ているのかもしれませんが、なにしろ同じことの繰り返しで、しつこいのですよねぇ。
日本人は、芸術や娯楽において、多くを語らず、言外に分かるやつだけ分かれば良い、という表現を好みますから、これを思い切ってごく短い短編にすれば、名作と言われたかもしれません。
残念ですねぇ。
はだしのゲン 文庫全7巻 完結セット (中公文庫―コミック版) | |
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〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻 | |
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