ブログ うつと酒と小説な日々 その上しょっちゅうホラー映画  

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさん(とびお)の日記

東京スカイツリー

2017年02月25日 | 散歩・旅行

 春の陽気に誘われて、外出したくなりました。

 どこに行こうかなと考えて、そういえば東京スカイツリーの展望階に上ったことがないことを思い出し、車を一路、押上のコインパ-キングに向けて走らせました。

 開業間もない頃、東京スカイツリーに出かけ、展望階に上るのに4時間待ちと言われて断念したのは何年前でしたか。
 今日は30分待ちということでしたので、上ることにしました。

 晴れているとはいっても、快晴ではなく、雲が多かったので、景色はもう一つでしたが、それでも450メートルの高さから眺める東京の町は圧巻でした。

 関東平野、と言いますが、本当に平たい町です。

 すぐ近くのアサヒビール本社ビルが、はるか下に見えました。



 東京ドームから、はるか新宿のビル群も見えます。



 一部ですが、ガラスの床になっている場所があって、上に乗ってみると縮み上がるほど怖ろしかったですねぇ。

 少し人ごみに疲れて東京スカイツリーを離れすぐ近くの親水公園を散策。

 河津桜が一本、孤高の面持ちで咲いていました。


 
 見事です。

 もう春なんですねぇ。

 北国の人のような気持ちで春を待ちわびているわけではないですが、しつこい寒さには辟易です。

 これからもしばらくは三寒四温の日々が続くでしょう。

 早く安定して暖かくなってほしいものです。
 


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愚行録

2017年02月25日 | 文学

 昨夜、貫井徳郎の「愚行録」を一気に読みました。

愚行録 (創元推理文庫)
貫井 徳郎
東京創元社

 読んでから知ったのですが、映画化されて、今、上映されているんだそうですね。
 でも映像化が難しそうな小説でした。

 

 都内で夫婦と幼い子供二人の一家4人が惨殺されるという事件が起きます。
 捜査は行き詰っています。

 あるライターが、殺された夫婦の知り合いを次々に訪ね、インタビューをするという形式で物語は進みます。
 同僚、大学時代の友人などなど。

 で、ハンサムでエリートサラリーマンの夫と、美人で賢い妻という、絵に描いたような理想の二人の人物像が、少しづつ、壊れていきます。

 そしてなぜかところどころにはさまれる、妹が兄に語りかける場面。
 暴力を振るう両親に育てられ、ゆがんでしまった妹の独白が不気味ですが、物語の結末にいたるまで、この独白と数々のインタビューがどう絡むのか明らかにされません。

 愚行というのは、当初、殺された夫婦の若かりし頃のちょっとした意地悪や悪を指すのかと思わせますが、そんなはずもありません。

 どんな境遇に育っても、人は誰でも愚行をおかさずにいられないのだと、物語の終盤に気付かされます。

 いや、愚行の連続こそ、人生そのものなのかもしれません。

 この小説をミステリーとして読むと、物足りないかもしれません。
 ミステリーらしい拵えになっていませんから。

 しかし人間の愚、人間の弱さを描いた文学作品として読めば、なかなかに趣き深いといえそうです。

 時間があったら映画も見てみようかなと、思いました。


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気が急く

2017年02月24日 | 仕事

  今週はなんだか早かったですねぇ。

 それというのも、月曜日は都内某大学で勉強会、木曜日は上級官庁との打ち合わせのため、都内に出かけ、職場には火水金の3日しか通わなかったせいでしょう。
 月曜日も木曜日も直行直帰しましたので。

 こんなことをしているうちに、もう2月も終わろうとしています。

 3月は年度末。
 なんとなく、憂鬱で、気が急く月です。

 もうじき就職25年になるベテランの私でも、3月は苦手です。

 ここを乗り切らなければいけませんねぇ。


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オルト・ライト

2017年02月22日 | 社会・政治

 昨夜、NHKの番組で、オルト・ライトなる言葉を知りました。
 平たく言えば、米国による白人至上主義運動のようです。

 その昔はKKK(クー・クラックス・クラン)とかいう不気味な団体がいましたね。

 
 なんだか時代錯誤のような感じがしますが、ご当人たちはいたって真面目。

 リーダーのスペンサーなる人物、おのれが人種差別主義者であることを公言して憚りません。

 黒人大統領だったオバマから、白人で、なんとなく人種差別的な匂いがするトランプに代わってから、にわかに勢いづいたようです。

 おバカさんですねぇ。

 そんなこと今どき主張したって、虚しいかぎりでしょうに。
 本音はともかく、建て前というものがあり、現代の建て前は人種差別は許されない、というものです。
 
 陸上短距離やバスケットボールは黒人が強いとか、体操なんかは日本人や中国人が強いなどの、人種的特徴はあるんでしょう。
 しかしそのことと、差別ということは、決して一致することはありません。
 

 ヒスパニックでしょうか、「マイノリティの権利をどう考えているのか」と問われ、くだんのスペンサー、「マイノリティに生まれるのは大変だ。だから自分はマイノリティにはなりたくない」と、皮肉たっぷりに答えていました。

 戦時中、日系米国人は収容所送りになりました。
 しかし米国の優れたところは、その後40数年も経ってから、日系米国人収容は誤りであったと認め、謝罪したことです。
 そういう懐が深いところが米国の魅力であったはずなのに。

 スペンサーとかいう人、有色人種は国へ帰れ、みたいなことを言っていましたが、当の白人だって、何世代か前にヨーロッパ等からアメリカ大陸に移民してきた侵略者の末裔ではないですか。

 米大陸の本来の居住者は、かつてインディアンと呼ばれ、最近ではネイティブ・アメリカンと呼ばれる人々です。
 もともと有色人種の土地です。

 白人こそ、先祖の国にお帰りになったら如何でしょうか。  


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コンビニ人間

2017年02月21日 | 文学

  昨夜は芥川賞受賞作「コンビニ人間」を読みました。
 単行本で150ページほどの中篇ですので、1時間ほどで読めました。

コンビニ人間
村田 沙耶香
文藝春秋

 36歳、独身、コンビニ店員歴18年、恋愛経験なし、したがって処女の女の物語です。

 この女、子供の頃から少しずれています。
 公園で小鳥が死んでいるのを見つけて、他の子供たちは泣きながらお墓を作ろう、と言うのに対し、真面目に、お父さん、焼き鳥が好きだから焼いて食べようなんて主張して、母親にたしめられて「せっかく死んでいるのに」なんてつぶやいてみたり。

 小学校で男の子同士が喧嘩を始めて、止めなければ、と思って、スコップで思いっきり男の子をぶん殴ったり。

 普通と違う、一風変わった子、と評価されてしまいます。

 しかし、コンビニ店員である間は、マニュアルどおりに、しかも明るく元気にしていれば、コンビニ店員の普通」、でいられて、社会から受け入れられている、と感じることができるのです。

 夢の中でもレジを打つほど、コンビニ店員であることにどっぷりとはまっています。

 しかし親や友人は、なぜいい年をして結婚も就職もしないのか、と彼女を責めるのです。

 コンビニに30代半ばの、やはり独身で普通に収まらない男が新人として働き始めたことで、彼女の生活に変化が訪れ、コンビニを辞めて就職しようとしますが、自分はコンビニ人間以外の何者でもないのだと気づき、またコンビニ店員に戻る、というお話。

 あっさり描かれていますが、これはわが国近代文学の伝統に沿った内容であろうと思います。
 太宰治の「人間失格」など、普通じゃない自分と、世間との葛藤に悩む、という。

人間失格 (角川文庫)
梅 佳代
KADOKAWA/角川書店

 耽美主義の大家、谷崎潤一郎でさえ、「異端者の悲しみ」という小説を残しています。

現代日本の文学 (7)少年 神童 異端者の悲しみ 母を恋うる記 吉野葛 蘆刈 春琴抄 少将滋幹の母 夢の浮橋
足立 巻一
学研

 古典文学ではあまり掘り下げられることの無い、社会と個人との葛藤を描いた物語です。

 普通の生き方とか、当たり前の幸せとか、小市民的幸福とか、そういうものと、そうでない生き方の線引きはどこでなされるのでしょうね。

 歌手とか芸能人とか、あまりにぶっ飛んでいる場合、普通ではないことが当たり前とされますが、そういう世界で成功する人はほんの一握りで、圧倒的多数の凡人は、学校を出たら就職し、適当な年齢になったら結婚して子供をもうけるのが当たり前とされています。

 そこからはみ出すものは、不気味な存在であるかのような扱いを受ける始末。

 だからこそ、この小説はどこか不気味なのかもしれません。
 

 この小説は、世間的な普通と、そういう生き方ができない存在とが、共存することの難しさを感じさせてくれます。

 しかし、晩婚化・未婚化の現代、もしかしたら普通の概念も変わってくるかもしれませんね。


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説明会

2017年02月20日 | その他

 今日はひどい風でしたねぇ。

 今日は午後から都内某大学の講堂で、科学研究費助成事業に関する説明会がありました。
 午前中だけ出勤するのも億劫なので、午前中は半日の休暇を取りました。

 説明会、退屈でうとうとしてしまいました。
 私の担当業務なんですがねぇ。

 17時近くに終わって、18時には帰宅できました。
 朝は10時近くまで寝ていたので、今日は体が楽です。

 節酒生活を始めて4週間目。
 月曜日は4週連続で休肝日。

 食事をしてしまえば飲む気が失せるので、帰宅するなり近所の蕎麦屋で鴨南そばの夕食を摂ってしまいました。

 あれほど毎日毎日飲んでいたのが、ここのところ、週の半分は休肝日です。
 何事も慣れですねぇ。

 心配なのは、酒を飲む気がなくなるようにするため、しっかり夕食を摂るようになって、太ってしまうのではないかということ。
 飲むとつまむだけで炭水化物は摂らないので、太ること必定のような気がします。

 でも、少々太っても、今は酒を空けることを優先事項にしなければなりますまい。

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顔のない裸体たち

2017年02月19日 | 文学

 今日は晴れていましたが、北風が強かったため、終日自宅にこもり、小説を読んで過ごしました。

 読んだのは、平野啓一郎の「顔のない裸体たち」です。

顔のない裸体たち (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社

 小説には、一人称、三人称の文体が多く、二人称もごくまれにあります。
 三人称の場合、作者が全体を俯瞰する、神の目線で描かれることが多いですが、この作品は、一種のフェイク・ドキュメンタリーの形を取っており、ジャーナリストが語る、ということになっていたため、神の目線は取られていません。

 それが小説に真実味を与えているかは、ちょっと判断しかねるところです。

 小学校から高校までイジメにあっていた市役所職員の片原と、中学教師で平凡な思春期を送った希美子が出会い系サイトで出会い、激しい性交を重ね、ついには野外露出、さらに動画をインターネットの動画サイトに投稿するなど、性的逸脱とも言うべき行為に走り、ある小学校でこっそり野外露出の動画を撮影中に教師らにみつかり、片原は持っていたジャックナイフで教師らを刺し、怪我を負わせるまでの経過が、淡々とつづられます。

 これはおそらく、性を描いた文学ではなく、世間が認知する自分と、本当の自分(そんなものがあるとすれば)、さらには性欲に没頭する自分など、人格の乖離を切り取ってみせたものかと思います。

 しかしそれが成功しているとは言いがたいのもまた事実です。

 平野啓一郎というビッグネームでなければ、この作品は評価されなかったのではないか、と思わせるような、破綻を感じさせます。

 それでも、文庫本で180ページあまりと短いこと、この作者にしては表現が難解ではないことなどのせいか、一気に読んでしまいました。

 読ませる力はさすがに平野啓一郎です。


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左目

2017年02月18日 | その他

 私は15年ほど前疲れ目がひどくて眼科を受診し、その際、思いがけず緑内障の初期症状であると診断され、以来、眼圧を下げる目薬を打ち続けています。

 半年に一度視野検査を受け、幸いにも症状はあまり進行していませんでした。

 今日、視野検査を受け、結果、左目の視野の一部が欠損していることが分かり、目薬が1種類から2種類に増えました。

 右目は全く問題ないため、日常生活では気づきませんでしたが確かに、右目をつぶって左目だけで見ようとすると、目の真ん中あたりに黒い筋があって、よく見えないことに気づきました。

 緑内障は視野が戻ることはなく、症状を遅らせることしか、治療方法はないはずです。

 症状は少しづつ進行するため、多くの人はかなり視野が欠けるまで気づかないそうです。

 そういう意味では、疲れ目程度で眼科を受診した私は幸いだったと言えましょう。

 昨年は頚椎椎間板ヘルニアで右腕のしびれと首から肩にかけての痛みに悩まされ、半年ほどリハビリに通って、ほぼ治癒しました。

 肝臓の数値が悪化し、医師から節酒を命じられ、基本的に週末しか飲まないようにしました。
 あれほど毎日飲んでいたのだから当然と言えるでしょう。

 程度の差はあれ、40代後半ともなればどこかにガタが来るのがむしろ普通なんでしょうね。
 これからはだましだまし、衰え行く肉体と付き合うほかありません。

 若い男は落とした女の数を自慢し、中年は家族の自慢をし、老境に至って病気自慢をする、とか言いますね。

 私も病気自慢をする年になったのでしょうか。

 それならむしろ、そこまで生きられたことを寿ぎたいと感謝しています。


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被爆2世

2017年02月17日 | 社会・政治

 広島の被爆者を父母に持つ「被爆2世」の男女22人が17日、「放射線被害の遺伝の危険性があるのに被爆者援護法の対象外にされているのは不当」として、国に1人10万円の慰謝料を求め、広島地裁に提訴したそうです。
 被爆2世による訴訟は初めてだとか。

 長崎で被爆した親を持つ被爆2世25人も20日、同様の訴訟を長崎地裁に起こす予定だそうです。

 うーん、複雑な心境ですねぇ。

 私自身、母親が長崎で被爆した被爆2世なので。

 今のところ、被爆2世への遺伝的な影響は証明されていないそうですし、がんになりやすいという話は聞いたことがありますが、がん患者はわが国にあまたおり、被爆2世であることとの因果関係を証明するのは事実上不可能なのではないかという気がします。

 ベトナム戦争で米軍が使用した枯葉剤というのは、明らかに遺伝的影響があるそうですが、原爆の場合、差別を受けた精神的打撃とかいうのなら分かりますが、健康上のリスクが高いという話は寡聞にして知りません。

 誤解を恐れずに言えば、原爆被害者は戦争犠牲者のなかで特別扱いを受けているような気がします。
 被爆から何十年経っても、被爆者健康手帳というのが交付されて、様々な恩恵を受けていますし、亡くなれば、広島・長崎それぞれの平和公園にその名が奉納されます。

 通常爆弾で死ぬのも、原爆で死ぬのも、もっと言えば戦中・戦後の混乱で体調を崩して死ぬのも、同じ戦争の被害者だと思うのですが。

 そういう意味で、被爆すらしていない被爆2世が被害者面して騒ぎ立てるのは、同じ被爆2世としては納得がいきません。


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自分だけの真理、あるいは超人

2017年02月16日 | 思想・学問

   長い一日。
 長い一週間。
 切ないばかりに短い週末。

 これらを積み重ねて、人々は生きています。
 生きるということの意味を問う暇もなく。
 それは絶望に至る道なのでしょうか。

 美的な存在・倫理的な存在・宗教的な存在

 キリスト教を深く信仰した哲学者キルケゴールは、人間の在り様をざっくり上の三つに分類しました。
 私は西洋哲学には疎く、正確な理解ではないと思いますが、一時期、西洋哲学の書物を読み漁ったことがあり、その時のおぼろな記憶では、そんなようなことだったと思います。

 多くの凡人は、美的な生き方に甘んじているものと思われます。

 美的というと何やら高尚な感じがしますが、要は酒を飲んだりパチンコに興じたりする、平凡な生き方と考えれば分かりやすいでしょう。
 かくいう私もそうです。

 そこから一歩進んで、倫理的な存在があります。おのれの良心に従って、あれかこれかを選択する、意識の高い生き方です。

 しかしキルケゴールは、美的な存在も、倫理的な存在も、やがて絶望=死に至る病の淵に立たされるだろうと予言しています。

死に至る病 (岩波文庫)
斎藤 信治
岩波書店

 美的存在は虚無や不安などに襲われ、倫理的存在は自己の有限性に見舞われる、というのです。

 で、宗教的存在として、単独の人間として、神の前に立つことこそ、絶望から逃れる道だ、というわけです。

 そして、普遍的真理というものを疑い、自分だけの真理を求めるべきだと説き、絶対者としての神と結びついた時、人間の主体性が発揮され、自分一人の真理にたどり着くことができる、と考えたようです。

 しかしわが国は多神教の国で、神社に詣でたり寺に参拝に行ったりするのが普通ですから、単独者として神の前に立つ、と言われても、戸惑うばかりです。

 一方ニーチェは、キリスト教道徳を奴隷の道徳として、神は死んだ、という有名な言葉を残します。

 キリスト教から解放され、力への意志に燃える人間となって、新しい価値観を創造する人=超人となることをこそ求めます。

 ニーチェは現実世界を、何の目的もなく、意味もない、永遠の繰り返し=永劫回帰に過ぎないと考え、そのようなニヒリズムから脱するには、神なき世界を超人となって生きるほかない、と考えました。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)
Friedrich Wilhelm Nietzsche,佐々木 中
河出書房新社

 

超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

まんがでわかるニーチェ (まんがでわかるシリーズ)
白取 春彦,nev
宝島社



 キルケゴールもニーチェも普遍的真理を求めたヘーゲル批判から出発し、正反対のようでいてじつはよく似た境地に達しました。

  神と結びつき、自分だけの真理を求めるキルケゴール。
 神を捨て、己を限りなく高め、超人となって主体的に生きることを求めたニーチェ。

 神に対する態度は正反対ですが、求めている境地はよく似ています。

 現代哲学はもっと複雑になっているようですが、多くの旧制高校のエリートたちは、これら超人なり、自分だけの真理なりといった考え方に心酔したやに聞き及びます。

 これら実存主義と呼ばれる哲学の影響とは思っていませんが、私はかつてこのブログで、仏教や神道や各種思想のおいしいとこ取りをした、私が教祖で信者はいない、とびお教としか言いようがないものを信じている、と書きました。

 それはもしかしたら、自分だけの真理、あるいは超人を志向する態度と似ているのかもしれません。

 そんなことを夢想しながら、私は酒や物語に逃避する、美的存在でしかありません。
 
 いつか私も発心を起こし、悟りを求めて激しい精神的運動に入る時がくるのでしょうか。
 しかしその時も、仏教という主を持っていては、私だけの真理に到達することも出来ず、超人になることもできないような気がします。

 やはり私は、先人の思想や宗教に頼ることなく、私の魂の深淵を覗き込み、そこから私にだけ重要なものを発見するしかなさそうです。
 そんな面倒な作業を行う力がまだ残っていたら、の話ですが。


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暗殺?

2017年02月15日 | 社会・政治

  金正男氏が殺害された、との一報が飛び込んできました。
 言わずと知れた、北朝鮮の三代目の異母兄です。

 一時は正男氏が後継者と目されていた時期もあったそうですが、二代目に嫌われたのか、異母弟の金正恩にその座をかっさらわれました。

 その後正男氏は世襲批判などを行い、異母弟から嫌われていたようです。

 そして、おそらくは、北朝鮮のエージェントによる暗殺でしょう、殺されてしまいました。

 まこと、北朝鮮という国は怖ろしいですねぇ。

 なんで反革命の革命が起きないのか、不思議なくらいです。

 それを思うと、現代の日本に生まれて本当に良かったと思います。
 高度経済成長やバブルの時期から比べれば、給料は上がらないし、非正規雇用やワーキング・プア、さらには少子高齢化と問題は山積ですが、少なくとも食うことにさえ困る人はわずかで、何より言論の自由や民主主義が根付いているのは結構なことだと思います。

 この平和でぬるま湯のような社会が、未来永劫続いてほしいと願ってやみません。

 しかし、いったん事あらば、時代の空気は一変するでしょう。

 大正デモクラシーを謳歌した日本人がそのわずか十数年後には、軍国主義への道を突き進んだのですから。

 私たちにできることは、冷静であること。
 冷静に、投票行動などで政治に参加すること。

 かつてナチは、少なくとも表面的には民主的手法に依って政権に就き、合法的な手続きによって、全権委任法を可決させ、独裁国家を作り上げました。
 世界一民主的と当時言われたワイマール憲法下で、概ね民主的に独裁国家を成立させ、ついには世界を戦火に巻き込み、滅亡していったという事実を、肝に銘じる必要があるでしょう。

 かつてチャーチルは、民主主義は最悪の政治体制だ、ただし、他のあらゆる政治体制を除いて、と、皮肉な物言いで民主主義を肯定しました。

 民主主義というもの、民主主義だからこそ、民主的な方法で民主主義を否定することが出来るということで、それは本当に怖ろしいことですなぁ。


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「追憶のかけら」あるいは悪意

2017年02月14日 | 文学

 昨夜、貫井徳郎の「追憶のかけら」を読了しました。

追憶のかけら (文春文庫)
貫井 徳郎
文藝春秋

 不思議な小説です。

 最愛の妻を事故で亡くした国文学者の大学講師が、ふとしことから、短編をわずか5作残しただけの、忘れられた作家の手記を手に入れます。
 この作家が死を前にして、自殺にいたる経緯をつづったものです。

 この作中作品、たいへん読み応えがあります。
 これだけで、十分一個の作品と言ってよいでしょう。

 この手記では、友人の瀕死の復員兵から、かつての愛人に会い、自分の代わりに詫びを入れてほしいと作家が頼まれます。
 作家は善意で元愛人を探すのですが、その過程で様々な悪意に出会い、ついには自殺に追い込まれます。

 で、その手記を手に入れた大学講師。
 彼はなかなか業績が上げられず、このままでは研究者としてやっていけないと感じていますが、手記を手に入れたことで、金鉱を見つけた気分になります。
 未発表の手記をもとに論文を書けば、十分な評価が得られるはずだ、と。

 しかし、大学講師にも、悪意が忍び寄ります。
 大学講師の研究者生命を断とうとまでする悪意。

 大学講師の運命は二転三転し、というお話。

 貫井徳郎の作品としては、やや冗漫で、破綻している箇所があるようにも感じられますが、悪意の根源が、とても邪悪とは程遠いと思われる人物だったと判明し、ぞっとさせられます。

 人間というもの、強い恨みつらみを持てば、どこまでも邪悪になれるもののようです。
 その動機が、客観的に見てどんなに些細なものであっても。

 私や、近しい人々もまた、一歩間違えれば、強い悪意をもって他人を陥れようとする存在なのだと痛感させられて、慄然としたところです。


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怒涛

2017年02月13日 | 仕事

  今週も仕事が始まりました。
 怒涛の一週間の始まりです。

 もう少し余裕があればよいのですが、なかなかそうもいきません。

 引きも切らぬ俗物どもとの打ち合わせ。
 そして書類仕事。

 まったく平日、職場にいる私は生きているんだかいないんだか。
 労働マシーンのようなものですね。

 誰でもそうなんでしょうけれど。

 週の途中で、一日休めるといいんですが、今週も難しそうです。

 まぁ、干されるよりはマシとしますか。

 長期の病気休職から復帰した後は、半年くらい、まともな仕事は任されませんでしたからねぇ。


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辛い

2017年02月12日 | その他

 今日は日差しは強いながら、北風の冷たい日曜日でした。
 昼間にスーパーに買出しに行った以外、のんんびりと昼寝をしたり、読書をしたりして過ごしました。

 土曜日はお出かけしたい、という気分になりますが、日曜日はそうではないのが不思議です。

 明日から長い一週間が始まると思うと憂鬱ですが、私は精神障害を乗り越えて、鋼の精神を身につけたつもりです。

 ただ、現実を生きるよりほかありますまい。

 何よりも虚構の世界を愛する私には、とても辛いことですけれども。

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輝きを求めて

2017年02月11日 | 散歩・旅行

 私は平成4年に千葉県佐倉市の学術機関に就職し、江戸川区の実家から3年間、はるばる通っていました。

 しかし平成7年に非常に残業の多い部署に異動したのをきっかけに、実家を出て佐倉市のお隣、四街道市にアパートを借りました。
 時に25歳。
 仕事が忙しいのはともかく、独り立ちしたことに非常な喜びを感じたものです。
 そこで2年間暮らしました。

 平成9年、都内の機関に異動になり、また東京に戻る必要に迫られましたが、一度出た実家に戻る気にならず、江戸川区のお隣、葛飾区、新小岩にアパートを借りました。
 そこでの数年間はとても楽しいものでした。

 その後結婚して船橋市の公務員宿舎を借りるも、築40年のあまりのぼろい官舎に嫌気がさし、平成12年、千葉市美浜区の機関に異動になったのをきっかけに、千葉市若葉区に新築のマンションを購入、今に至ります。

 最近、40代も後半にさしかかって、精神障害もあり、サラリーマンとしての未来も見えてきて、まして小説で身を立てるという野望が達せられるはずもないということに気づき、何かと過去を振り返るようになりました。

 私が歩んできた道は、正しかったのだろうかという、根源的な疑問に、悩まされるようになりました。

 ふと思い立って、今まででもっとも楽しく、また将来への希望もあり、今の同居人との恋愛沙汰もうまくいっていた、新小岩での一人暮らしを懐かしむため、車を新小岩へと走らせました。

 車を新小岩駅近くのコインパーキングにとめ、懐かしい町を歩き始めました。

 変わらない店もあれば、真新しい建物に変わってしまったところもあり、20年という時の流れを感じずにはいられませんでした。

 私が住んでいた安アパートは健在で、嬉しくなりました。

 六畳と四畳半の和室、小さなキッチンと風呂、トイレが付いた2Kのアパートで、家賃は8万円ほどだったと思います。
 東南の角部屋で、日当たりが良いのがお気に入りでした。

 私はここで、喜びや苦しみを味わったのでした。

 今思えば、何もかもが懐かしく、輝いていたように思います。

 アパートの近くの、当時行き着けだった薄汚い中華屋、今も変わらず頑張っていました。
 店主も変わりありませんでした。

 ここで五目そばの昼食。

 アパートを駅から反対側に少し歩いた所には親水公園があり、ここをよく散歩したものです。
 春には花見も楽しみました。

 親水公園には、早くも白梅が咲いていました。



 昔を懐かしむようでは、肉体的にはともかく、精神的にはもう終わっちゃってるんでしょうね。

 数年前から、毎年元日に辞世を詠むことにしています。
 精神的に終わってしまった私には、ふさわしいことのような気がするのです。

 しら梅に 明くる夜ばかりと なりにけり

 という、清冽にして美しい辞世を残したのは、与謝蕪村でしたか。

 私の精神がもう一度活発な運動を始めることがあるのかどうか分かりません。

 しかしなんとなく、そんな僥倖に見舞われることは無いような気がしています。

 早くも春愁の気に当てられているのか、私の精神は輝かしかったはずの過去を求めるばかりなのです。

 
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