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安城の新図書館

安城の新図書館を紹介していた本

 安城に新しく出来た図書館について書かれた本『続・図書館空間のデザイン』がありました。去年 6月1日、オープンしました。 ブログで 2014/6/30「安城で菅野明子さんの講演会」で設計段階の様子を示しています。その時に示された案通りに作られてます。

 菅野明子さんは『未来をつくる図書館-ニューヨークからの報告(岩波新書)』でNYPL(ニューヨーク公共図書館)の分析されています。2003年。

 建築家の作った本だから、あまり人のことは触れていません。田原の図書館は、オープン当日に出掛けて、館長とか図書館友の会の人の意見を聞きました。だから田原の図書館構想に納得できた。一度、行ってみましょうか。安城だと車しか交通手段がないか。車はやはり、危険だけど。

 菅野明子さんの講演の時に「図書館の未来のイメージは何色ですか」と聞かれた。その時に黄色が浮かんだ。それを答えたら、菅野さんと一致した。図書館の未来は黄色です。

安城の新図書館の評判

 安城の図書館について、安城に住んでる姪に評判を聞いてみた。見た目はいいけど、しょぼいよ。岡崎とか豊田市に比べて、本が少ない。オープンでやかましい。わざわざ行くほどの価値はない、とのこと。

 外観はシアトル公共図書館みたいだけど、やはり、あの市長だとこんなもんでしょう。シアトルに行きたくなった。ついでにスタバ一号店によりたい。

2.8.1「存在の無」

 「存在と無」の状態から、存在が拡大して。そして、無に吸収されて「存在の無」になる。これを数学的に証明する。

2.8.2「点から全体へ伝播」

 個人が存在の力で確定して、主体的に動く。ネットで行動して、近傍を作る。それで全体を変革していく。それを数学的に証明する。

2.8.3「未来方程式」

 内なる世界から外をめざす。その時に、必要な中間の存在と役割。 宇宙の姿へのシナリオ。必要な要素と方程式。

2.8.4「平等な世界」

 端と核が繋がった世界を描く。アナロジーとして、個人と超国家か繋がってる姿。数学的世界の安定性の説明。
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OCR化した12冊

『ギリシア人の物語Ⅱ』

 パルテノン

 ソクラテス

 プラトンの『饗宴』

『レーニン 権力と愛』

 封印列車

 フィンランド駅へ

 戦争と平和

 革命再び

『北京を知るための52章』

 カード化・電子マネー化する北京 ★なぜだろう?★
  「爆買い」を支えるもの
  「中国的」発展
  なぜ力-ド化・電子化がかくも進んだのか

 進化する北京の書店 ★出会いと物語が生まれる空間★

『図説 イスラム教の歴史』

 イスラム教とコーラン

 アブラハムの宗教
  ・三つの一神教
  ・アブラハムの伝統
  ・イスラム教成立時の宗教事情
  ・「アブラハムの宗教」としてのイスラム教
  ・啓典コーラン

 ムハンマドの生涯
  ・預言者ムハンマドに関する資料
  ・ムハンマドの前半生
  ・ムハンマドの後半生
  ・ムハンマドを描くこと

 啓典コーランとは何か
  ・啓典コーランのテクスト形成
  ・コーランの章配列と叙述スタイルの特徴

『メルロ=ポンティ哲学者事典』

 ウィトゲンシュタイン、ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン
  哲学とは何か
  生涯
  「論理」と「形式」

 アーレント、ハンナ

『地方都市を公共空間から再生する』

 地方都市の日常を支える市民参加と合意形成

 公共空間整備に不可欠な合意形成力

 合意形成プロセスの要点
  広域から局地を捉える
  施設整備を課題解決の契機に変える
  普段の利用を中心に考える
  ターゲットは誰か--その後の利用者と支援者づくり

 ワークショップの心得
  1 ワークショップと説明会の違い
  ファシリテーターの役割と要点
  プロセスとプログラムのデザイン

 ワークショップにまつわる二つの疑念
  住民参加の形骸化と免罪符問題
  よくある質問--ワークショップは洗脳か?

 合意形成の極意
  頭でなくカラダを使うこと
  本当の「主体性」が形成されているか

 コミュニティ・デザインと空間デザイン
  コミュニティ・デザインと参加型まちづくリ
  コミュニティ・デザインの12ステップと習熟すべき四つの手法
  多様な価値観を共存させる調整力

『続・図書館空間のデザイン』

 敷地
  愛知県安城市
  安城市の中心市街地

 事業の概要
  周辺との調和とにぎわいの創出
  PFI事業への参画
  公共施設と民間施設の一体整備

 外観のデザイン
  3つの施設の配置と統一感の形成
  新たな景観の創出
  外観を特徴づける「でん」

 内部空間の基本構成
  3つの入口
  動から静へ
  全館をつなぐ吹抜け
  各階の性格付け
  各階の構成

 ひろば・公園・外周道路
  大屋根
  広場
  公園
  敷地外周の歩道

 ICT
  デジタルウォール
  電子新聞
  デジタルサイネージ

『オリジナリティ』

 フランス料理は数学と同じだ
 就職したのに、まったくワクワクしなかった
 最も厳しいところで働きたい
 完璧だと思ってやり続けても、そこに完璧はない
 3つ星を取る、と最初から決めていた
 自分が単に素直に美しく感じたものを出せばいい
 その町の価値は、レストランの価値でほぼ決まっている
 あらゆる業界で、問われていること

『9・11後の現代史』

 不寛容な時代を越えて
 「難民到来」に揺れる欧米

 欧米の「多文化共生」は終わったのか

 戦争から逃れるものと仕掛けるもの

 受け入れない不寛容と、追い出す不寛容
 「悪魔化」する世界

 恐怖の壁の再構築
 「外敵の手先」と空中戦

 排外主義を乗り越えるには

『わたしの名前は「本」』

 グーテンベルクの活版印刷機

 ポケットのなかの庭

 多くの人々の手に

 焼かれたときの話

 電子書籍

『モビリティ進化論』

 政府から見た導入の目的は三つ

 産業振興の観点で進む自動運転への政策支援

 シェアリングサービスに対する姿勢

 モビリティーシステムの進化例:マルチモーダル型サービス

 世界主要都市における交通システムの実力

『ハイデルベルク論理学講座』

 緒論

 第一節 〔一般諸学は表象の立場〕

 第二節 〔哲学を始めることの難しさ--内容面〕

 第三節 〔哲学を始めることの難しさ--形式面〕

 第四節 〔緒言は先取り〕

 第五節 〔哲学は理性の学である〕

 第六節 〔哲学はエンチクロペディーである〕

 第七節 〔哲学は体系である〕

 第八節 〔学の体系は特殊的な諸原理をも含む〕

 第九節 〔学の対象の制限〕

 第一〇節 〔哲学と経験的な諸学〕

 第一一節 〔学の三区分〕
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わたしの名前は「本」 焼かれたときの話

『わたしの名前は「本」』より

焼かれたときの話

 かつて、わたしは焼かれそうになって生きのびたといった。さぞかしいやな思いをしたのでしょうといわれそうだが、それでも、わたしはそのときのことを語らざるをえない。

 なぜなら、ことわざでもよくいうように、歴史はくり返すからだ。

 2000年まえの中国--紙と印刷術の生まれた国--で、わたしは焼かれ、学者たちはわたしといっしょに埋められた。

 焚書坑儒、つまり書物を焼き、学者を穴に埋めて殺した張本人は、万里の長城--中国の北の境界にある約8000キロメートルの大城壁--を築かせた皇帝だ。その皇帝は、想像力は壁を超えることを知らなかった。皇帝がその城壁を築かせていたとき、わたしは心と心の間に大きな橋をかけていた。

 皮肉なことに、わたしは、「聖書の人々」と呼ばれる信仰のあつい人たちによって焼かれたこともある。

 信じられないことだが、自分たちのことを敬虔なキリスト教徒だと考えている人々の手によって、わたしは火にくべられた。 そして自分たちに理解できない賢い女性たちを「魔女」と呼んで、火あふりにした。

 16世紀南米のアンデス山脈では、スペイン人の宣教師によってわたしは焼かれた。宣教師たちはマヤ文明の象形文字が理解できず、危険だと思ったのだ。

 第二次世界大戦中、わたしはドイツのナチスによって焼かれた。ドイツはグーテンベルクが活版印刷機を発明した国だ。

 100万冊以上の仲間といっしょに焼かれたこともある。それは1992年、サラエボの国立図書館にセルビア人兵士が火を放ったときだ。わたしたちを助けようとした人はだれであれ、射殺された。

 さらに、イラクで戦火が燃え広がったときバダダッドにあった古い図書館が燃やされた。チグリス川とューフラテス川の間の、世界最古の文字が生まれた場所で、わたしの黒く焦げたページが風に舞った。

 本のあるところには、どこにでも炎の影がある。

 そんな人間の蛮行を考えるとき、わたしは言葉でできているにもかかわらず、言葉を失ってしまう。そうぃうとき、わたしは、ある詩を思い出す。ドイツの劇作家であり詩人のベルトルト・ブレヒト(1898-1956)の詩だ。内容を簡単に紹介しよう。

 政府が、危険な思想が書かれている本は公の場で焼き捨ててしまえと命令し、いたるところで牛が、本を山積みにした荷車を引かされて、薪が積み上げられた広場に向かっていた。そのとき、ある追放された、素晴らしい詩人が、焼かれた本のリストをみて、ぞっとした。自分の本が忘れられていたからだ。「詩人は怒りの翼に乗って机の前に飛んでいき、権力者に手紙を書いた。わたしを燃やせ! 詩人は書いた。書きなぐった。わたしを燃やせ! けしからん! わたしを忘れるな! わたしは常に、本で真実を語ってきたはずだ。それなのに、いまわたしはおまえたちによって、嘘つきにされてしまった! わたしは命令する。わたしを燃やせ!」

 これは、「本を燃やす」という詩だ。

 ベルトルト・ブレヒトの詩がわたしに思い出させるのは、記憶は、真実と同様、常に証人をみっけるということだ。独裁者の監獄のとこかで、紙も手に入らない、鉛筆さえ手に入らない、そんなところでも、人は考えていることをパンに刻み、石けんに刻む。

 虚ろな空間でも、残酷な場所でも、わたしは本となって花開き、わたしの種を想像力の本棚にまき散らす。

電子書籍

 わたしのページをめくるとき、古くさい感じがするだろうか。

 わたしの本棚はほこりが積もっていくのだろうか。わたし、本は、これから電子書籍になってしまうのだろうか。

 まず初めに、それこそよく言うように、最初から始めよう。

 進化論を信じる人もいれば、信じない人もいる。人の考えはさまざまだが、電子書籍を表す「eBook」はelectronic bookの略だということに異議を唱える人はいないだろう。

 しかしヽわたしは、e-Bookはe-volving book、つまり「進化する本」だと考えている。おそらくダーウィンがまだ生きていたら、すぐにでも、わたしの先祖をたどって、家系図を作り、それぞれに奇妙な名前をつけているかもしれない。 たとえば、ブックス・パペピルスとかブックス・ペーパーバックスとか。そしていちばん新しい種はブックス・エレクトロニクスだろう。

 ダーウィンにいわれるまでもなく、わたしの破れやすい肌は突然変異でスクリーンになった。実際、それは自然淘汰の過程に新しい可能性を加えたといっていい。

 いまでは、わたしをiPadとかKindleとかいうものでダウンロードしたり、アップロードしたり、切り替えたりできる。わたしをダダったり、ブロダにのせることもできる。まったく、目が回ってしまいそうだ。

 このデジタル環境に、わたしはどう対処すればいいだろう?

 わたしがどんな存在かは、もうわかってもらえていると思う。わたしは逆境に強いのだ。心ない連中によって仲間が焼き捨てられるところを、数え切れないくらいみてきたわたしは、サイバー空間など少しも恐れてはいない。

 わたしは、この変化をかなり哲学的に考えている。

 わたしがパピルスでできていたとき わたしは植物でできていた。

 わたしが象牙で作られていたとき わたしは骨に似た成分でできていた

 わたしが羊皮紙だったとき わたしは動物でできていた。

 そんなわたしは 自然派と呼ばれてもいいかもしれない。

 そして、わたしはいまデジタルになった

 ついこのあいだ、わたしはテーブルの上で、若い電子書籍のそばにいた。予期せぬ出会いだった。それはともかく、いかにも今時の若いやつだった。わたしの横で画面をちらちらさせて、自分がハイパーテキストと呼んでいるものをひけらかしていた。

 そこで、わたしはこうぃった。「そんなにハイパーハイパーしないほうがいいぞ。バッテリーが切れたら、ダウンするんだろ?」

 あまり受けなかった。

 いや、誤解しないでほしい。わたしにも電子書籍の仲間はたくさんいる。彼らは、紙の消費量を減らすことによって熱帯雨林を救ったといっている。それに関しては、その通りだと思う。

 それから、身体が不自由な人にとってはページをめくるよりメニューボタンを押すほうが簡単だということもよくわかる。たしかにそうだ。ほかにもいろいろとあるだろうし、その理由も十分に納得している。

 しかし、わたしの言い分もきいてほしい。電子書籍に好きなようにいわせておくわけにはいかない。わたしが変化に慣れてきたことのひとつの例として、ルイ・ブライュの盲人のための点字の発明をあげることができる。わたしは小さな点の突起によって、何百万人もの目の不自由な人々にも読まれるようになった。

 「きみから変化について説明を受ける必要はない」わたしは電子書籍にいった。「わたしのほうからひとっふたつ、変化について教えてやろう。わたしは何世紀にもわたって変化を目にしてきた。アルファペットの誕生から、先をとがらせたアシを使った時代、羽根ペンを使った時代、印刷へ大きく飛躍した時代を紐験してきた。

 きみが生まれるはるか昔、わたしはタイプライターと呼ばれる機械でタイプされていた。その頃、きみなんか影も形も、いや、1画素もなかった! 作家たちはタイプライターを素晴らしい発明と考えていた。タイプを打つと、自分の言葉がタップダンスをするように白い紙を埋めていく。

 その音を愛していたんだ」

 それから、なんの脈絡もなく、いきなり、わたしは口走った。「わたしのほうが、いいにおいがする」

 電子書籍はけげんな顔をしていった。「においですか? どういうことです。本ににおいなんてないでしょう」

 「おいおい、きみはいったいどこにいたんだ。本にはにおいがあるにきまっているじゃないか。本に夢中になることを、“本に鼻を突っこむ”(nose in a book)というだろう?」

 確かに、アメリカの作家、レイ・ブラッドベリ(1938-2012)の小説『華氏451度』には、「本はナツメグとか異国のスパイスのにおいがすることをご存知かな? 子どもの頃、本のにおいをかぐのが大好きでね」と、老教授フェーバーが主人公のモンターダに語る場面がある。

 そしてわたしは電子書籍に語った。古代口ーマ時代、ヴェラムでできていたときのわたしはサフランの香りがしていたし、ヴィクトリア朝の時代には、わたしの紙はラベンダーやバラの花びらが貼りつけてあったので、その香りがした。

 それから、すぐに、こういった。もちろん、すべての本が同じにおいがするわけではない。しかし、本に慣れ親しんだ人の鼻は、ワインのソムリエの鼻のように、熟成した木のパルプの香りにヴァニラの香りがかすかにまじったようなにおいをかぎとることができる。それはまるで、森そのものが、わたしに古代の知恵の香りを押印してくれたかのようだ。

 それから、わたしは電子書籍にはっきりいってやった。わたしの古くてかびくさいにおいは、古本屋や、トランクセール[不要品を車のトランクに詰めて売ること]や、チャワティーショップ[寄付された品物を売ること]などで本をあさる本好きの人にとっては、心温まる香水のようなものなのだ。

 そこで、わたしは話題を変えて、電子書籍にいってやった。ページの角が折れるほど読まれるスリルを味わえないのは残念だね。すると電子書籍は黙ってしまった。

 そのあと、電子書籍は、ぽくはあなたのことが好きだけど、充電しなくちゃいけないから、さようならをいわなくちゃ、といった。それから、起動してもらわなくちゃとかいった。わたしは「充電」だの「起動」だのという言葉が気にさわった。親指というものがまだあるのに、もうページをめくることはなくなってしまうのだろうか。

 いまでは、その電子書籍とわたしは親友だが、ときとき、こういってやることにしている。わたしのような古い形の本は何百年も生きてきたんだ、いまのところ、まだまだ引退するつもりはない、とね。

 アメリカの実業家で、マイクロソフトの創始者のビル・ゲイツ(1955-)でさえ、かつてスピーチで、読書の際は、コンピュータの画面よりプリントアウトした紙のほうがいいと言ってぃたらしい。「画面での読書はいまでもまだ、紙の本での読書にかなり劣る。高価なディスプレイを何個も持ち、自分はインターネットを駆使したライフスタイルのノ1イオェアだと考えているわたしでさえ、4、5ページ以上のものになるとプリントアウトして持ち運び、書きこみをする。この程度の使いやすさに技術が追いつくのはまだまだ先のことだろう。」[ロバート・ダーントン『The Case for Books: Past、Present、and Future』。
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9・11後の現代史 不寛容な時代を越えて

『9・11後の現代史』より 不寛容な時代を越えて

「難民到来」に揺れる欧米

 膨れ上がる避難民の多さに、経由地となる国々はいずれも悲鳴を上げる。上陸地のギリシア、イタリアでキャンプにひしめく人々に十分な庇護は与えられず、セルビアやハンガリー、クロアチアなどで何千人もの避難民たちは、先を急どうと線路を歩いて徒歩で行進した。鉄条網で阻まれたり、検問で追い返されたり、行き場がなく駅構内で野宿しているのを強制退去させられたりして、安住の地までたどり着ける者はわずかだ。道中人身売買の対象とされたり、71体もの遺体となって冷凍トラックのなかに放置されたり、数々の悲惨な出来事があちこちでおきた。

 これに一筋の光を投げかけたのが、2015年9月5日のドイツ・メルケル首相の避難民受け入れ声明である。急増する避難民に門戸を閉ざす国が多い中で、ドイツとオーストリアは国境を開いた。そして避難民たちの到着を、「ようこそ」の横断幕で迎えた。

 しかし、このメルケルの決断は、さまざまな問題を引き起こす。ドイツに行けるという希望を見て、ヨーロッパを目指す国外脱出者はますます増えた。(ンガリーが国境を封鎖してフェンスで避難民の流れを遮断したように、経由地の南欧、東欧諸国はより厳しい態度を取るようになった。

 ドイツ自体も、100万人をこえる難民申請に一国では対処しきれず、EU全体での受け入れ割り振りを求めるようになる。鳴り物入りで受け入れを謳ったものの、結局2016年3月には、トルコに避難民対策の多くを押し付ける恰好で収拾を図った。30億ユーロという追加資金援助と引き換えに、ギリシアに滞留する不正規移住者をトルコに強制送還することとしたのである。

受け入れない不寛容と、追い出す不寛容

 今、21世紀の世界を概観すると、2つの形で「不寛容」が践朧している。ひとつは他者を受け入れないこと、もうひとつは他者を追い出すことだ。ヨーロッパやアメリカが中東・アフリカからの避難民を他者として受け入れない一方で、シリアやエジプトやサウディアラビアなどでは、体制を脅かす反対派を追い出すことに力点を置いている。

 そこで問題となるのは、誰が「他者」なのか、である。誰が「他者」と認定するか、それは社会のすみずみまで浸透し合意された他者認識なのか。そして、他者を「どこ」から排除するのか。

 20世紀までの中東では、その答えは比較的単純だったかもしれない。20世紀後半の伝統的中東での戦争といえば、外国の支配とそれへの抵抗か、アラブ対イスラエルという対立軸か、共和政か王政かという体制間の対立かに集約されていた。そこでは、「他者」は中東を浸食する欧米(植民地支配)であり、アラブの土地に埋め込まれたイスラエルだった。

 その対立軸が、今や崩れている。今起きている対立は、国家主権を守るための戦いでも、国家領土を巡る対立でも、あるいは国家体制の在り方を巡る問題でもないように見える。なにより、誰が守るべき「国民」で、排除すべき「他者」なのか、自明ではない。

 いや、そもそも中東は、宗派や宗教といった、国民国家とはかけ離れた非合理的なもので伝統的に戦い合ってきたのだから、誰が国民か自明ではないのは今に始まったことではない、という指摘があるかもしれない。国民国家を基準に国際政治が成り立っており、「他者」とは外国であり他の国の国民のことであるという、西欧近代の発想が、そもそも第一次世界大戦まで国民国家概念などなかった中東地域に、そぐうはずがないのだ、とする見方だ。

 だが、今、我々が目撃している国家を超えた宗教や宗派同士の対立に見える構造は、第一次世界大戦前、1世紀前の伝統的なネットワークと同じではない。グローバルなモノと人の流れ、グローバルな情報発信という、きわめて現代的な変化のなかで生じている国民国家の溶解である。長らく「われわれ」と「他者」を分ける基準として当たり前だった「国家の国民であること」が、今や当たり前ではなくなっているという、グローバルな問題である。

「悪魔化」する世界

 「他者」が誰かが自明ではない分、国の長であれ反政府側の長であれテロリストであれ、さまざまな政治指導者の他者認定が、恣意的な形で流通する。ISなどさまざまなイスラーム武闘派が、シーア派や世俗的イスラーム教徒を「不信仰者」「背教者」として死に値するものと排除するのは、その代表的な例だし、フセイン政権下のイラクやサウディアラビアでの「シーア派=イランという他者」認識や、イラク戦争後のイラクでの「スンナ派=ISという他者」認識の浸透がそうだ。欧米では「イスラーム教徒=テロリスト」と認識されて、排除の対象となる。

 だが、他者認識の根拠が明確でなければないほど、「誰が他者か」の認定が恣意的であればあるほど、そこでなされた「他者」の定義は反論の余地を生む。国の統治者が、「○○を排除することが自国ファーストのために必要なのだ」と謳ったとしても、それが国民にとって本当に自分の望むものかどうかは、わからない。

 イエメンでイランがわれわれの生活を脅かしているからイエメン内戦に介入しなければならないのだ、と説得されても、飢餓と疫病の蔓延するイエメンを空爆することが本当に「自国ファースト」なのだろうか、と疑問を持つスンナ派の人々は少なくないだろうし、ISを追い出すのに大活躍したイラクの人民動員機構がイランの手ほどきを受けたからといって、イランベったりの政策をとることが「自国ファースト」だろうか、と首を傾げるイラク人は多い。

 本当にこれが正しい戦争なのだろうか、と疑問を持つ国民に、「他者=敵/われわれ=味方」の対立関係を信じ込ませるためには、敵をいっそう敵らしく見せることだ。アラビア半島の国々やシリアで、シーア派がいかにイスラーム教徒として正しくないか、極悪非道の、地獄に落ちてもおかしくないような人々であるか、厳格派の説教師がこんこんと説く。ワッハーブ派はISやアルカーイダと根っこで同じだから、サウディアラビア自体がテロ支援者なのだと、イランの革命防衛隊が敵意を剥き出しにする。相手を「悪魔」扱いし、SNSや衛星放送を通じて、生々しい敵意を煽る。本来なら途中で譲歩したり調停されたりする対立を、妥協の余地ない対立に転化する。

 さらには、一部の敵対分子の存在を理由に、それを取り巻く人々全体を十把一絡げに「殲滅すべき悪魔」とみなす。イスラエルは、(マースをテロリストとしてそれが統治するガザ全体を攻撃対象としたし、ムルスィー政権を打倒したエジプトのスィースィー政権は、「アラブの春」以前よりもさらに徹底的に、イスラーム主義系の諸運動を弾圧した。これらの「十把一絡げ」的認識の広がりと定着が、2001年の9・11事件以降ブッシュ米大統領が示した「テロリストを匿う者はテロリスト」との認識の延長線上にあることは、いうまでもないだろう。

恐怖の壁の再構築

 そして、生々しい敵意を煽るために行われるのが、「恐怖の壁の再構築」だ。

 「アラブの春」が実現した最も重要な点が、「恐怖の壁」を打ち壊すことである。独裁政権ににらまれ強大な軍・治安組織に弾圧されることを恐れて、政権に異を唱えることができないというのが、2010年末の「アラブの春」発生までの状況だった。それが、アラブ諸国における独裁体制の長期化を生んだ。それに対して、「政権なんて怖くない」と、恐怖心を振り払って政権打倒に立ち上がったのが、「アラブの春」にほかならない。

 支配者の側、あるいは支配を目論む側が、再び頑強な支配を確立し、彼らの考える敵との戦いに人々を動員するには、人々に、敵側に回ることの恐怖心を再び植え付けなければならない。2011年までに打ち破られた恐怖心以上の恐怖を、人々に見せつけ、畏怖させなければならない。ISが特段に残虐な手段で見せしめの処刑を行ったのには、そうした目的もあったのだろう。

 いや、もう少し遡れば、「アラブの春」に先立ち「恐怖」を振り払ったパレスチナでのインティファーダに対するイスラエルの対応に、同じことが見られる。インティファーダ発生の翌年(1988年)に当時のイスラエル首相、イツハク・シャミールが、「恐怖の壁を再構築しなければならない、この地域のアラブ人に死の恐怖を叩き込まなければ」と述べている。

 フィンランド在住のイラク人作家ハサン・ブラーシムの代表作『死体展覧会』(藤井光訳)は、いかに芸術的に死体を展示するかを追求する集団を比喩的に登場させた、バアス党時代の秘密警察の恐ろしさを彷彿とさせる短編だが、残酷な「恐怖の壁」の作り方ばかりが発達し前進していく、今の中東の非情を描いている。

「外敵の手先」と空中戦

 ところで、「誰が敵で、誰が排除されるべきか」の定義が明確でなければないほど、敵の認定はさまざまな想像力の産物となっていく。想像力のなかから生まれる敵認定は、まずは自国内の異分子を対象とする。自国の国民のなかから「敵=悪魔」が戻り出されるのだ。

 外国とつながっているものは、自国の安定を脅かす「外敵」の手先となる。キリスト教徒は欧米とつながっているから、敵。シーア派はイランとつながっているから、敵。スンナ派は厳格派武装組織とつながっているから、敵。クルド民族はイスラエルとつながっているから、敵。本来なら自国の国民である一部の人々が、「外敵の手先」視される。

 「外敵の手先」を排除して自分たちの共同体の回復を夢見る、という点では、移民や少数民族にヘイト行動を繰り返す国際社会の排外運動もISも、根っこはたいして変わらない。ISは、自分たちが作り上げた「理想のカリフ国という共同体」像と少しでも違うものは「悪魔」であり、これを殲滅しないと自国が脅かされると考えるからだ。

 一方で、敵認識の想像力がグローバルな対象にまで広がっていくと、敵はアメリカ、ひいては国際社会全体にまで行きつく。かつてソ連という、わかりやすい目の前の「侵略者」と戦っていたビン・ラーディンは、自身の不遇の根を辿り辿っていったあげく、「敵はアメリカ」に行きついた。欧米に住む移民の二世や三世は、シリア内戦の代理戦争性、国際社会の介入を見て、ョーロッパを敵とみなす。イランは「アメリカこそがISを作り上げた」と批判し、サウディアラビアは「アメリカこそがイランを増長させた」と批判し、アラブ・イスラーム世界は「アメリカこそがイスラエルを支援しアラブ・イスラーム世界の弱体化を図っている」と批判する。あらゆるところで、「アメリカ」が「空中戦」の対象となる。

 想像力のなかから生まれた内なる敵やグローバルな悪魔であっても、ネットや衛星放送を通じてその認識が世界中に広まり、人口に膾炙すると、事実でなくてもその他者認識が定着してしまう。第5章や第6章でみたように、宗派対立や「新しい冷戦」の対立構造が一人歩きして、「事実」と化していくことは、少なくない。

排外主義を乗り越えるには

 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。なぜ、おりとあらゆるものが敵に見えてしまい、敵に囲まれた「犠牲者」である自分たちだけが救われるべき、という排外的な「自国ファースト」が蔓延してしまったのだろうか。この状況を、どうすれば乗り越えていけるのだろうか。

 これは、他人事ではない。ヘイトスピーチやヘイト的行動で、マイノリティが攻撃を受けて害を被るという出来事が起きているのは、日本も例外ではない。グローバル化を高らかに謳う一方で、増加する外国人の来訪に対して嫌悪感を露にする。難民受け入れをほとんどといっていいほど行っていない日本に対して、国際社会から受け入れ要請の圧力が年々高まっているが、むしろ国を閉ざしたほうがいい、といった意見も聞こえる。

 だが、国は閉ざせない。他者とは、共存せざるを得ない。嫌いな人々が隣の国に住んでいるからといって、隣の国の人々を殲滅することも、隣の国をゼロから作り直すことも、できない。アメリカはそれを、イラク戦争で学んだ。オバマもトランプも、対応の仕方は全く異なるとしても、他国に介入してゼロから国作りをするだけの意欲も能力もない。

 となれば、どう共存していくかを考えるしかない。他者から害を被ったという記憶は、消し去ることはできないかもしれない。しかし、どちらがより多くの犠牲を被ったかの競争だけに時間と労力を費やしても、徒労である。

 誰が他者なのかわからないのならば、「われわれ」と「他者」の違いを明確にする必要はないのではないか。少なくとも、敵だ、悪魔だ、と名付けられる相手が、本当に敵で悪魔なのか、わずかでも疑ってみる冷静さがあってしかるべきだろう。そして、その相手を「悪魔だ」と思ってしまう、自身の恐怖心がどこから来ているのかを振り返ってみることができるだけの、冷静さが。

 ある若いシリア人は、日本に留学して何不自由ない生活を送っていたのに、内戦が起きて自国に帰る決心をした。最初は自国で、今はアラブ全体を見る国際機関の職員として、紛争地を飛び回っている。本人は言う。「なぜ、自分の国の人々が突然、お互いに激しい暴力に依拠するようになったのか、なぜ殺し合うことになったのか。それを知りたい。だから、自国に帰ったんだ」。

 イラクのモースルには、ISに支配された間も休むととなくフェイスブックで発信し続けた大学教授がいる。10年前、62歳でネットを始め、「ネットを通じて、民族もジェンダーも関係なく、人々はイラクの将来を支えることができる」と主張する彼は、イラクで最も高齢のブロガーだ。彼は今、ISメンバーの家族に対してバッシングが起きている解放後のモースルで、「ISとその家族は関係ない、彼らをモースルから追い出すようなことをしてはいけない」と訴えている。

 誰かを排除するために激しい暴力を振りかざして、「空中戦」を戦う者ばかりが目立つなかで、地上にへばりついて輝く星は、まだ消えていない。
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フランス料理は数学と同じだ

『オリジナリティ』より

フランス料理は数学と同じだ

 聞違いなく、今、日本トップクラスのレストランです。

 予約を取るのが難しいだけではありません。来店客の9割は海外から。世界中から、わざわざ大阪にあるこのレストランに食事に来る人が絶えないのです。お店のホームページを見ると、11カ国語に対応しています。

 それが「HAJIME」です。

 どうしてこれほど世界から人々がやって来るのかというと、HAJIMEでしか食べられない料理が出てくるからです。似たような料理はどこにもない。どんな料理のカテゴリーにも属しません。HAJIMEならではの、オリジナル料理なのです

 ミシュランでは2つ星ですが、僕はこの「どこのカテゴリーにも属していない」ことが、3つ星ではない理由だと感じています。僕自身は、十分に3つ星に値するレストランだと思いますが、もはやHAJIMEの場合、外からの評価は関係ないのかもしれません。

 客単価も日本トップクラス。東京ではなく、大阪のお店で、です。

 HAJIMEの料理は、驚くほど緻密です。シンプルに見えますが、よくよく見ると極めて複雑。ものすごく手間がかかっています。味もそうですが、込められているのは、彼独自の哲学です。その哲学から、ここでしか食べられない料理が生まれています。

 僕が初めてHAJIMEに行ったのは、2014年。

 世界中でいろいろな料理を体験してきましたが、HAJIMEの料理には驚かされました。緻密な設計図に、クリエイティブがのっている。そんな印象でした。オーナーシェフの米田肇さんとは以前からお付き合いが少しだけあったのですが、HAJIMEを体験して以来、毎年お店に行っています。

 それ以外にも、一緒に食事をしたり、大阪で飲みに行ったり、ハワイでご飯を食べたり、と頻繁に会っています。イタリアで開かれたミラノサローネのレクサスブースは、彼がプロデュースしました。そのイタリアでも一緒に食事をしました。

 米田さんは、料理人として異例の経歴を持っています。緻密な料理は、その経歴が影響しているのかもしれません。大学で電子工学を学んでいたのです。

 理系出身の元エンジニア。そこからなぜ料理人になったのか。しかも、世界が認めるシェフになったのか。彼のキャリアそのものが、実にオリジナリティにあふれています。

就職したのに、まったくワクワクしなかった

 米田さんの父親は繊維関係の仕事をしていて、よくヨーロッパに出張に行っていたのだそうです。お土産にチョコレートなど、海外の品物をもらっていた。この幼い頃の体験が料理人への道とつながったと、米田さんは語ります。

  「小学校の頃、テレビの特集で、ニューヨークで仕事をしている日本人シェフを取り上げていたのを見たんです。そのシェフは向こうで有名になって、アメリカの大統領にも表彰されて、ニューヨークでカッコ良く暮らしていた。この番組の印象と、父のヨーロッパ土産とが自分の中でリンクしました。いずれ海外で働きたい。料理人になってみたい、と思うようになったんです」

 海外で料理人になりたい。米田さんは、その気持ちをずっと持ち続けました。ところが、両親が期待していたのは、大学進学。料理の学校に行きたいなら自分で工面しなさい、と言われてしまいます。

  「調べてみたら、料理学校の学費は年間219万円。自宅からの交通費を合わせると、400万円くらいはかかるんじやないか、と思いました。とても自分では負担できません。それで、じやあとりあえず大学に行くか、ということで大学に進学することにしたんです」

 高校時代、数学が好きでした。先生からは、数学者になったらどうだい、と言われるほど得意科目だったそうです。ただ、大学に入ってからは勉強に力が入らず、毎日入り浸っていたのが、空手の正道会館。格闘技をやっていたのです。実は今も筋肉ムキムキ。格闘家みたいな身体つきです。そもそもストイックなところがあったのかもしれません。

  「大学を卒業して、一応就職するか、と電子精密機器の会社に入って、設計業務をするんです。でも、1ヵ月くらいで、何か違うな、と。ちっともワクワクしないんです。それで、そもそもどうしてこの会社に入ったのか、と振り返ってみたら、理由は海外に研究所が多かったことだったんですね。そこで思い出しました。そうだ、海外に行きたかったんだ。料理人になりたかったんだ、と」

 料理学校に通うため、600万円をためてみよう、と考えます。ここから猛烈な節約生活が始まりました。

  「1日200円しか使いませんでした。食事は自炊。本は図書館。水と紙がもったいないから、とトイレもなるべく家でしないで、会社のトイレやスーパーのトイレを使う(笑)。やると言ったらとことんやる性格なので。仕事も任され、残業もたくさんできたので、夜中まで毎日、働いていました」

 なんと2年で600万円をためてしまいます。手取り30万円ほどで、そのうち20万円を貯金していたと言います。ボーナスが年4回出る会社で、それも全部、貯金。そしてためたお金で、会社を辞めて、料理学校に行きたいと両親に相談しました。

 案の定、ずいぶん反対されたそうです。

  「ばかか、と。料理人なんて休みもないし、長時間労働だし、給料は少ないし、そんなの大変だぞ、と。もうI回考えろ、と言われましたが、もう1回考えても考えは変わりませんでした。それで3回くらい親に会って説得して、会社を辞め、専門学校に行くことを決めるんです」

 勤めていた会社は待遇の良い会社でした。お休みもしっかり取れる制度があった。そのときの経験があったからこそ、後に米田さんは、「料理人は休みが少ない」というイメージを覆すべく、さまざまな取り組みを自分の店で推し進めることになります。

最も厳しいところで働きたい

 26歳で料理学校に入った米田さん。

 周りには10代の若者たちが並ぶ中で、一番前でかぶりついて授業を聞いていたそうです。そして、料理の本質に気づいていきます。

  「料理には法則性がある。これは数学と一緒だな、と思いました。何をどうすればどういうバランスになるのか、だんだん見えていきました。極めて論理的な世界だったんです。フランス料理が世界中に広まっていったのは、明確な法則があるからだ、ということもわかりました」 理系出身で、エンジニア経験がある米田さんならではの視点です。フレンチヘの興味も一層高まり、料理学校に1年通った後、最も厳しいところで働きたい、と考えるようになります。

  「周りより自分は9年は遅れていると思いました。だから、人の3倍は仕事をしないといけないと考えたんですね。それができる店がいい、と」

 米田さんは大阪のフレンチレストランで働き始めますが、この店が本当に厳しかった。仕事が終わるのは毎日午前3時。出勤は午前6時半。休みは週1回。掃除をして、厨房の作業台の上にうっすら指紋が残っているだけで、激しく叱られました。

  「料理は昔のシンプルなフランス料理でした。料理で任されたのは、アイスクリームをスプーンで抜いていくこと。形がゆがんでいるだけで、蹴飛ばされる毎日でした」

 次々に人が辞めていきました。彼は空手もやっていたし、精神力も強かったはずですが、それでも1年半で追い詰められてしまったのだそうです。78キロあった体重は、62キロまで落ちてしまいました。

  「まったく仕事ができなくて、眠いし、身体もボロボロだし、半分うつみたいになってしまって。でも、親の反対を押し切って会社を辞めて、同僚たちもみんな応援して送り出してくれたのに、1年目で音を上げるのか、と悩みました。3年は働くつもりでしたから」

 選択肢は3つしかない、と言うほど、米田さんは追いつめられます。

 料理人を辞める。お店を辞める。人生を辞める。

 3ヵ月悩み抜いて、2つ目を選びました。

  「両親に相談したら、フランス料理なんて世界中にお店がある、と言われてハッとしたんです。このとき勤めていた店は、料理もたしかに素晴らしいし、厨房もきれいでしたし、一流と言われていましたけど、スタッフを大切にしない。そんな店が本当に一流なのか、と思って。最後はシェフとケンカして辞めたんです」

 この店では料理のスキルはさっぱり上がりませんでした。ただ、アイスクリームは世界一と思えるくらいにきれいに抜けるようになりました。学んだのは厨房をきれいにすることでした。

  「新米の頃は、キッチンや皿に付いた指紋って見えないんですよ。ここだ、と先輩に指摘されても見えない。ところが、1年もたつと見えるようになるんです。本当に厳しかったけれど、見る力を養ってもらえましたね」
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