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悩んでフリーズするのが哲学者の仕事ではない

『メイキング・オブ・勉強の哲学』より 別のエコノへミーへ

悩んでフリーズするのが哲学者の仕事ではない

 いまの社会は、「大学で学ぶことがすぐに役に立つ、食い扶持につながる」という実学的な意味を求め過ぎていますよね。もちろん、そういう視点も必要だけど、もっと長期的に問題を考える力も必要だということを言っていかないといけない。一方では、文化論のような、一見すると趣味みたいに思える分野も、新しい商品やサービスの企画を考えるのに有用なのだと説明することもできます。しかし、もっと根本的に、「思考力のベース」を鍛えるために教養的な学びが必要なのだということをもっと言っていかなければなりません。

 もっとも、教養教育の重要性をたんに声高に強調するのでは不十分です。いま、「学ぶこと」の有用性以外の価値について根本から考え直す必要がある。僕としては、とくに人文系の学問を再定義するような仕事が急務だと思っています。僕のこれからの研究では、そこにつながる考察をする予定です。もう少し言えば、それは、「人文系「も」役に立つよ」という話を越えるためのプロジェクトです。これについてはまだアイデアを温め中ですが、ともかく、「無駄なものだからこそいい」などと言っているのでは、たんに無能なだけです。それでは、プレゼン能力がありませんと言っているようなものです。

 哲学の有用性をどう説くか。おそらく、哲学の本質主義者みたいな人の存在によって、巨大な謎にぶつかって悩んでフリーズすることこそが哲学だ、みたいなイメージが一般的にあると思います。巨大な謎を相手にするというのは確かにそうなのですが、でも実際にはただフリーズするのではなく、哲学者は工夫して議論を組み立てているのです。言語を駆使して。

 哲学をするというと、じっと静かに考えているようなイメージがあるかもしれない。でも実際にはそれだけではなくて、もっと活動的な面があります。図を描いたりして、手をひっきりなしに動かしている。仲間と語り合うこともよくあります。哲学者は「概念を操作する労働」を日々たくさんしているのです。そういう建設的な面をアピールした方が、哲学の一般的印象も良くなるのではないかと思います。

行き詰まりと有限性

 新しいアイデアが生まれるためには、環境の有限性が大事です。ところで僕の場合、行き詰まっているときに「あ、そうか!」と突破口が見つかるのは、もっぱら朝です。作業を区切って=有限化して、寝ることが大事。外山滋比古も『思考の整理学』(ちくま文庫)のなかで、寝ることの大切さを説いています。いったん中断し、寝ている間に考えが整理され、発酵する。だから、僕は寝る時間を作業予定のなかに組み込んでいます。朝一に締め切りがあるような場合を除いては、基本的に徹夜はしません。たんに休みが必要だというだけではなく、区切って作業すること、作業の有限化は、考えの形成にとって本質的に必要なことなのだと思います。

 それから行き詰まりの解決法として有効なのは、友達としゃべることです。迷惑をかけてしまいますが、僕は、突然電話をして「ところでいまこういうことを考えてるんだけれど、どう思う?」みたいなことをいきなり聞きます。他者に説明することで、行き詰まりのポイントを客観視できるし、ちょっとした掛け合いが突破口になることもある。話すことはすごく重要です。他者は、自分とは異なる価値観で判断するので、自分一人で考えていたときには無限に続くかに思われた悩みのループも、あっさり切断してくれることがよくあります。そういう意味で、他者=友人も有限化の装置なのです。僕の書くものには必ず、いろいろな人とのやり取りが織り込まれています。

 もちろん、本を読んで突破することもあります。インプットが足りないから仕事が進まない、ということはよくあります。すぐに電子書籍で買ってパッと読む。で、それを元にまた考える。……こんなふうに、基本的に僕は動きすぎなんです。博士論文を元にした最初の本『動きすぎてはいけない--ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』では、「動きすぎてはいけない」と自分で自分を律しているわけなんです。しかし、先ほど説明したように、僕は寝ることの「生産性」も言おうとしてしまう。これはおそらく僕の強迫観念なのです。きっと何かを生産していないと不安なんです。ただただ非生産的であるような状態に耐えられない、そうなのかもしれない。『動きすぎてはいけない』のテーマである「非意味的切断」は、生産性にどう距離を取るかという僕の実存的な問題に関わっているのかもしれません。
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ハンガリーの学校教育 個性重視と多様な選択肢、才能発掘

『ハンガリーを知るための60章』より

水準が高いと言われるハンガリーの教育を日本人の眼から見て特徴付けるとすれば、個性重視と多様性ということだろうか。とにかく選択の幅がとても広い。小学校から専門的な分野に特化する学校がいろいろあるので、本人の興味や希望、親の関心才能などにあわせて音楽やスポーツ、数学、語学など小さいうちから専門的な教育を受ける機会が保障されている。

小学校へ入るにも子供の発達程度と親の意向により1~2年の幅が設けてあるので、ピカピカの一年生も皆同じ年齢ではない。義務教育は通常4年プラス4年の8年、これが日本の小中学校に当たる基礎教育、その後高校が4年間で、大学までに12年を要するのは日本と同じである。既に高校も義務教育に準じる扱いで、最近は16歳まで学校に通うことが義務になった。高校になると学校間の差ができて、名門校への進学は難関となる。キリスト教系の学校などでは中高一貫教育で高いレベルを達成するところもある。

授業は基本的にお昼までで、科目が増えて午後にかかる高学年になっても、皆で一斉に昼食ではなく、おなかが空いた人は適当に軽食を取り、一般授業が終わってからお昼ごはんになる。帰宅する子供は帰宅するし、希望者は学食で食事をする。そして午後は選択に応じて様々な専門的教育が行われる。

また、二カ国語学校といって国語や自国の歴史以外を外国語で授業するところもある。おもに英語、ドイツ語などヨーロッパの主要言語に限られているが、こういう学校を出ると格段に語学も上達するようだ。

一クラスの人数も、以前は25人くらいと恵まれていたが、最近はちょっと増えて30人程度が平均的。そして試験、というか達成度を測る手段はもっぱら口答で行われる。これもハンガリーの特徴と思うのだが、大学でも口答試験が重要な位置を占めている。口答試験というのは総合的な深い理解とそれを的確に表現する力が試される。生徒の答えによって先生が次々に質問を発展させていくので、知識の丸暗記ではだめなのだ。日本からここへ留学すると慣れていないのでカルチャーショックである。ハンガリーでは小学校から先生の質問に口頭で答えるということをずっとやってきているので、自然とそれが身についている。議論好き、おしゃべり好きの国民性はどうやらこんなところに背景があるらしい。長い夏休みには宿題もないというし、制服などとも無縁。子供たちはじつにのびのびと育っている。

ハンガリーはヨーロッパの中堅的な王国として豊かな歴史と文化を築いてきたので、教育も古い伝統に培われている。20世紀には二つの大戦の敗北や共産主義のせいで教育現場も困難な時期が続いた。それでも何人ものノーベル賞受賞者を輩出し、発明家や音楽家、スポーツ選手など日本でも知られる世界的な人材を送り出している。個性を重視し、才能を育てることには社会のなかにコンセンサスができているようだ。

小さい時からその才能が現れる音楽やバレエ、スポーツなどについては特別な英才教育を施す機関があり、全国から選抜された一握りの子供たちがその道の大家から専門的教育を受けている。たとえばリスト音楽院には〝特別才能クラス〟があり、選ばれた小学生くらいの子供たちは午前中普通科目、午後は毎日専門教科の実技、ソルフェージュ、楽典などの授業を受けている。専門家に囲まれた環境のなかで舞台の経験をどんどん積んで演奏家に育っていく彼らを見ていると、ハンガリーが音楽大国として世界に君臨する様子がよくわかる。国にとっても本人にとっても特別な力を引き出すしくみが整っているのは幸せなことなのだろう。開花した才能による芸術を楽しむのは一般の国民なのだから……。もちろんもう少し一般的な音楽教育をする音楽小学校などは地区ごとに設けられていて、裾野のケアもしっかりしている。

また、共産主義時代に禁止されていた宗教教育も体制転換後、徐々に復活した。学校では入学時に親の意向で道徳教育科目をどれにするか選択できる。キリスト教のどの宗派か、あるいは宗教に属さないかを選んで決めている。その時間になるとクラスは皆分散し、宗派から各々神父さんたちが学校へ教えに来ている。昨今、日常的に教会へ通う人はそれほど多くないのだが、やはり幼児洗礼は習慣として行われていて、多くの親御さんがキリスト教の教義を子供のために選んでいるという。

さて、そんなハンガリーであるが、EUに加盟したので、この十年はさまざまな変革が行われた。特に大学はほとんどがボローニャ体制に組み込まれて、学士課程3年、修士2年、博士3年という枠組みに変わった。そして定員も大幅増、並行して大学の数も一気に増えた。長い間大学進学率は12%ほどで、エリートが行くところだったが、最近はすでに30%を超えている。時代と社会のニーズに合わせて学科もどんどん新設されたし、専門大学もたくさん出来た。人気は今どきでコミュニケーションや心理学、歴史も根強い人気がある。語学の中では日本語人気も非常に高い。授業料は今も昔も小学校から大学までずっと無料である。しかし数年前に大学の学生数が増えてから初めて、成績に準じ、一部の学生から授業料を徴収している。

他の欧州諸国と同様、ハンガリーでも高校卒業の全国一律試験があり、これだけは統一された基準で行われる。そして今は大学入学試験をも兼ねている。高卒資格と同時に大学入試という若い人たちにとって人生の岐路となる一大イベントだ。これに語学試験点数などいくつかの加点項目があり、大学入学が決まる。合理的で平等なようだが、大学が独自の入学試験を出来なくなったので、以前、専門の試験を課していた学科などには戸惑いも多かった。日本学科もその一例である。一方、外国留学は格段に広がったし、時代のニーズに合う人材の教育に力を入れている。新制度の評価はこれからであろう。研究者になると博士号取得の後には教授昇進資格のハビリテーション、その上にはアカデミーの大博士号というのもあって、上には上の資格が用意されている。高等教育における教育年数や制度の違いが日本との間にもあり、これらをお互いにどう擦り合わせていくかも、グローバル化の中で今後の課題である。

というわけでハンガリー教育の良さ、それも日本と違う点を主に紹介してきたが、そうすると、たとえば日本人が得手な、言われたことを早く正確に一斉に秩序だってやる、といったことはあまり得意でない人が多いのも事実である。集団か個人か、といった考え方の違いがよく出ている。学校の自由度が高いため、学閥的な現象もないし、同級生の帰属意識など希薄なようだ。国家の計は教育にありというが、国民性を形成するのに教育がいかに大きく影響するかを痛感するところである。
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ネアンデルタール人の絵画

ネアンデルタール人の絵画を描いたのはだれ?

 描いている途中なのに、現人類に邪魔された!
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豊田市図書館の27冊

767.8『音楽が教えてくれたこと』

936『アウシュヴィッツの歯科医』

169.1『懺悔の生活』

134.9『ハンス・ヨナスを読む』

335.3『デジタル・デイスラプション時代の生き残り法』(デジタル化による破壊的変革)

780.19『脳に「ノー」と言えればスポーツパフォーマンスは上がる!』

332『経済史』いまを知り、未来を生きるために

751.1『光悦考』

757.02『オリンピックと万博』--巨大イベントのデザイン史

762.1『キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶』

141.5『身体が生み出すクリエイティブ』

159.8『世界のことわざ100』

302.57『パナマを知るための70章』

302.34『ハンガリーを知るための60章』

317.1『行政学講義--日本官僚制を解剖する』

002『メイキング・オブ・勉強の哲学』

930.27『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』ノーベル文学賞受賞記念講演

130.4『毎日使える必ず役立つ哲学』教えてニーチェ、なるほどソクラテス!

361.4『シャーデンフロイデ』人の不幸を喜ぶ私たちの闇

468『生物多様性の多様性』

914.6『また明日会いましょう 生きぬいていく言葉』

493.74『依存症からの脱却 つながりを取り戻す』

007.5『コミュニティ・アーカイブをつくろう!』せんだいメディアテーク『3月11にちをわすれないためにセンター』奮闘記

369.36『原発災害と地元コミュニティ』福島県川内村奮闘記

610.1『農学とは何か』

188.74『歎異抄講話』

361.4『「対人不安」って何だろう?』友だちづきあいに疲れる心理
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