『平成政治史3』より 弱体内閣を襲った大地震
緊急事態に浮上した連立構想
北沢は政権運営についても菅の指南役であった。地震発生翌日には早くも政権の基盤強化について菅に進言している。
自民党が何でも協力するといっているんだから、自民党と一緒にやれば政権は安定します」
菅も「それはいい」と北沢の提案を受け入れる考えを示す。与党国民新党代表の亀井静香も翌一三日午後の菅との会談で「救国内閣」を提言した。具体的には政府の緊急災害対策本部に野党の幹事長、書記局長らをメンバーに入れることを主張したのだった。
内閣支持率の低迷、民主党内の小沢一郎ら反主流派の抵抗、ねじれ国会など菅政権は風前の灯に見えた。震災対策のための「大連立」は大義名分も立ち、政権は一気に安定軌道に入ることができる。「万能の切り札」になる可能性があった。民主党代表代行仙谷由人は直ちに同意した。
ことは一気に大連立に向けて動くかに見えた。ところが、幹事長岡田克也が難色を示す。岡田はあくまでも子ども手当法案への協力を求めるなどなおマニフェストにこだわった。自民党総務会長の小池百合子は、岡田が自民党の災害復旧の協力申し出に対して「政府の邪魔をしないでほしい」と語ったことを記者会見で暴露した。この時点で官邸が受け入れた提案は記者会見での手話通訳の導入ぐらいだった。
人事乱発
一方で菅は何を思ったのか意味不明の人事を乱発した。行政刷新担当相の蓮舫に節電啓発担当相を兼務させ、辻元清美を災害ボランティア担当の首相補佐官、内閣官房に「震災ボランティア連携室」を設置し、内閣府参与でもあった湯浅誠を室長に起用した。それだけではない。北陸先端科学技術大学院大学副学長の日比野靖を内閣官房参与に任命。日比野は情報通信分野で菅に助言するのが名目だった。日比野は東工大の同級生。さらに原発事故対応を強化するとして東京工大原子炉工学研究所長の有冨正憲と同教授の斉藤正樹の二人も官房参与に登用した。
まだこの期に及んでパフォーマンスと縁故人事。それが菅という政治家だ」
自民党長老の野田毅は吐き捨てた。菅は人事に限らず本部と名のつく組織を乱造した。地震から二週間余で政府に作られた本部の役割、相関図を解説した小冊子は一五ページに及んだという。まさしく「船頭多くして船山に登る」状況に陥った。「大災害など危機に直面した際は政府批判を控えるのが常識」というメディアも一向に機能しない菅政権のお粗末な危機管理に厳しい批判の矛先を向け始めた。
さすがに政権内にも「菅で大震災を乗り切れるのか」との声が煙った。これに対して菅は周囲に指示を乱発、声を荒らげた。原発事故への対応では海水やホウ酸の投入をめぐって東電側と議論し、注水に関してはその方法まで口を出したという。菅が〝爆発〟すれば、勢い官僚たちの足は官邸から遠のき、お手並み拝見の空気が徐々に広がる。これでは岩手、宮城、福島の三県を中心にした広大な被災地救済が一体的に進むはずがなかった。
菅はだめだけど、今替えることはできない。政権全体を補強するしかない」
亀井静香が再び動いた。その亀井と気脈を通じたのが急遽官房副長官として政府に戻った仙谷由人。仙谷は「能吏」とも言えた松井孝治、古川元久らを手足に使った。当面の使命は被災地対策の司令塔役。そのために仙谷は霞が関との関係修復に手を付けた。二〇〇九年の政権交代を期に「政治主導」の象徴として廃止された事務次官会議を復活させた。仙谷の登場によって被災地への物資輸送などが大幅に改善されたのも事実だった。と同時に仙谷にはもう一つの「ミッション」があった。
「掛け逃げ」
仙谷は三月一六日夜、自民党副総裁大島理森と極秘に会談した。自民党関係者によると、この席では大連立を含め幅広く意見交換が行われている。ただし、見方を変えると、仙谷と大島の連携は事実上の「菅外し」にも映った。こうした動きを菅が察知したかどうかは定かではないが、菅自身がいきなりアクセルを踏んだ。自民党総裁谷垣禎一に電話を入れたのだった。一九日の昼過ぎのこと。
副総理兼震災復興担当相としてご協力願えないか」
実質的な大連立の呼び掛けだった。これには伏線があった。自民党は一六日に「政府に対する当面の申し入れ」を行っていた。その冒頭に「官邸の危機管理機能の立て直し」を掲げ、具体策を二点指摘した。
一、震災担当特命大臣の任命
一、混乱を回避するため、官邸機能を原発対策と津波・震災対策の指揮命令系統の二つに分け、責任体制を明確化する
この申し入れに菅サイドが食いついたのではないかというのが自民党側の見方だった。谷垣入閣要請に先立って民主党内に「三人の閣僚増」の考えが浮上した。これも形を変えた大連立の布石と見られた。谷垣に加え、公明党代表山口那津男の入閣、さらに官房副長官仙谷由人を閣僚に格上げする狙いが隠されていた。
菅は自民党の元幹事長の加藤紘一を谷垣との橋渡し役に依頼した。九九年に当時の首相森喜朗の退陣を迫ったいわゆる「加藤の乱」で菅と加藤は気脈を通じていた。しかし、谷垣は菅の申し出を「あまりに唐突な話だ」として答えを留保した。その上で自民党の緊急役員会を開いて正式に入閣要請を拒否することを決めた。後に大島になぜ大連立を断ったのかを聞いたことがある。
谷垣総裁に呼ばれて『あなたはどう思う』と聞かれたので『信頼のできない内閣なので一緒に仕事をすべきではないと思います』と申し上げた」
後に谷垣にこの間の経緯を聞いたことがある。それによると、谷垣は大震災が起きた三月一一日の夜に、大島と幹事長の石原伸晃の三者で民主党が大連立を申し入れて来る可能性があるとみて、いくつかの想定できる事態を検討していたという。
もともと菅に大連立を進言した防衛相の北沢は側近に怒りをぶつけた。
こういう問題が得意科目の俺や亀井を入れずに事がうまくいくはずがない」
自民党内でも元幹事長古賀誠は「国難に当たってなぜ受けないんだ」と谷垣を厳しく批判。亀井も谷垣を突き放した。
自民党のために日本があるのか。挙国態勢の形に注文を付けるなら分かるが、参加自体を敬遠するなら国民がそういう党は見放す」
自民党には抗議の電話やメールが殺到した。
総理大臣が助けてくれと頭を下げているのになぜ子供の喧嘩のようなことをしているのか」
菅政権を助けてもらいたいのではない。自民党の知恵と経験で被災地、国を救ってもらいたいのだ」
自民党の茂木敏充は「柔道の掛け逃げだ」と不快感を隠さなかった。柔道では組手不十分のまま苦し紛れに技を仕掛けたように見せることを「掛け逃げ」と言う。それと同じというのだった。
菅は谷垣に電話を入れる直前に、鳩山由紀夫、小沢一郎、前原誠司の歴代代表経験者を首相官邸に招き協力を要請しているが、この場でも大連立の話は一切していなかった。
ところで、小沢が公の場に姿を見せたのはこの時が久しぶりのことだった。地元の岩手が悲惨な状況にあったにもかかわらず「謹慎中」を理由に表立った行動を全くせずにいたのだった。その後も小沢は長らく被災地入りをしなかった。それによって小沢が失った政治家としての信用、信頼は陸山会事件の比ではなかった。
緊急事態に浮上した連立構想
北沢は政権運営についても菅の指南役であった。地震発生翌日には早くも政権の基盤強化について菅に進言している。
自民党が何でも協力するといっているんだから、自民党と一緒にやれば政権は安定します」
菅も「それはいい」と北沢の提案を受け入れる考えを示す。与党国民新党代表の亀井静香も翌一三日午後の菅との会談で「救国内閣」を提言した。具体的には政府の緊急災害対策本部に野党の幹事長、書記局長らをメンバーに入れることを主張したのだった。
内閣支持率の低迷、民主党内の小沢一郎ら反主流派の抵抗、ねじれ国会など菅政権は風前の灯に見えた。震災対策のための「大連立」は大義名分も立ち、政権は一気に安定軌道に入ることができる。「万能の切り札」になる可能性があった。民主党代表代行仙谷由人は直ちに同意した。
ことは一気に大連立に向けて動くかに見えた。ところが、幹事長岡田克也が難色を示す。岡田はあくまでも子ども手当法案への協力を求めるなどなおマニフェストにこだわった。自民党総務会長の小池百合子は、岡田が自民党の災害復旧の協力申し出に対して「政府の邪魔をしないでほしい」と語ったことを記者会見で暴露した。この時点で官邸が受け入れた提案は記者会見での手話通訳の導入ぐらいだった。
人事乱発
一方で菅は何を思ったのか意味不明の人事を乱発した。行政刷新担当相の蓮舫に節電啓発担当相を兼務させ、辻元清美を災害ボランティア担当の首相補佐官、内閣官房に「震災ボランティア連携室」を設置し、内閣府参与でもあった湯浅誠を室長に起用した。それだけではない。北陸先端科学技術大学院大学副学長の日比野靖を内閣官房参与に任命。日比野は情報通信分野で菅に助言するのが名目だった。日比野は東工大の同級生。さらに原発事故対応を強化するとして東京工大原子炉工学研究所長の有冨正憲と同教授の斉藤正樹の二人も官房参与に登用した。
まだこの期に及んでパフォーマンスと縁故人事。それが菅という政治家だ」
自民党長老の野田毅は吐き捨てた。菅は人事に限らず本部と名のつく組織を乱造した。地震から二週間余で政府に作られた本部の役割、相関図を解説した小冊子は一五ページに及んだという。まさしく「船頭多くして船山に登る」状況に陥った。「大災害など危機に直面した際は政府批判を控えるのが常識」というメディアも一向に機能しない菅政権のお粗末な危機管理に厳しい批判の矛先を向け始めた。
さすがに政権内にも「菅で大震災を乗り切れるのか」との声が煙った。これに対して菅は周囲に指示を乱発、声を荒らげた。原発事故への対応では海水やホウ酸の投入をめぐって東電側と議論し、注水に関してはその方法まで口を出したという。菅が〝爆発〟すれば、勢い官僚たちの足は官邸から遠のき、お手並み拝見の空気が徐々に広がる。これでは岩手、宮城、福島の三県を中心にした広大な被災地救済が一体的に進むはずがなかった。
菅はだめだけど、今替えることはできない。政権全体を補強するしかない」
亀井静香が再び動いた。その亀井と気脈を通じたのが急遽官房副長官として政府に戻った仙谷由人。仙谷は「能吏」とも言えた松井孝治、古川元久らを手足に使った。当面の使命は被災地対策の司令塔役。そのために仙谷は霞が関との関係修復に手を付けた。二〇〇九年の政権交代を期に「政治主導」の象徴として廃止された事務次官会議を復活させた。仙谷の登場によって被災地への物資輸送などが大幅に改善されたのも事実だった。と同時に仙谷にはもう一つの「ミッション」があった。
「掛け逃げ」
仙谷は三月一六日夜、自民党副総裁大島理森と極秘に会談した。自民党関係者によると、この席では大連立を含め幅広く意見交換が行われている。ただし、見方を変えると、仙谷と大島の連携は事実上の「菅外し」にも映った。こうした動きを菅が察知したかどうかは定かではないが、菅自身がいきなりアクセルを踏んだ。自民党総裁谷垣禎一に電話を入れたのだった。一九日の昼過ぎのこと。
副総理兼震災復興担当相としてご協力願えないか」
実質的な大連立の呼び掛けだった。これには伏線があった。自民党は一六日に「政府に対する当面の申し入れ」を行っていた。その冒頭に「官邸の危機管理機能の立て直し」を掲げ、具体策を二点指摘した。
一、震災担当特命大臣の任命
一、混乱を回避するため、官邸機能を原発対策と津波・震災対策の指揮命令系統の二つに分け、責任体制を明確化する
この申し入れに菅サイドが食いついたのではないかというのが自民党側の見方だった。谷垣入閣要請に先立って民主党内に「三人の閣僚増」の考えが浮上した。これも形を変えた大連立の布石と見られた。谷垣に加え、公明党代表山口那津男の入閣、さらに官房副長官仙谷由人を閣僚に格上げする狙いが隠されていた。
菅は自民党の元幹事長の加藤紘一を谷垣との橋渡し役に依頼した。九九年に当時の首相森喜朗の退陣を迫ったいわゆる「加藤の乱」で菅と加藤は気脈を通じていた。しかし、谷垣は菅の申し出を「あまりに唐突な話だ」として答えを留保した。その上で自民党の緊急役員会を開いて正式に入閣要請を拒否することを決めた。後に大島になぜ大連立を断ったのかを聞いたことがある。
谷垣総裁に呼ばれて『あなたはどう思う』と聞かれたので『信頼のできない内閣なので一緒に仕事をすべきではないと思います』と申し上げた」
後に谷垣にこの間の経緯を聞いたことがある。それによると、谷垣は大震災が起きた三月一一日の夜に、大島と幹事長の石原伸晃の三者で民主党が大連立を申し入れて来る可能性があるとみて、いくつかの想定できる事態を検討していたという。
もともと菅に大連立を進言した防衛相の北沢は側近に怒りをぶつけた。
こういう問題が得意科目の俺や亀井を入れずに事がうまくいくはずがない」
自民党内でも元幹事長古賀誠は「国難に当たってなぜ受けないんだ」と谷垣を厳しく批判。亀井も谷垣を突き放した。
自民党のために日本があるのか。挙国態勢の形に注文を付けるなら分かるが、参加自体を敬遠するなら国民がそういう党は見放す」
自民党には抗議の電話やメールが殺到した。
総理大臣が助けてくれと頭を下げているのになぜ子供の喧嘩のようなことをしているのか」
菅政権を助けてもらいたいのではない。自民党の知恵と経験で被災地、国を救ってもらいたいのだ」
自民党の茂木敏充は「柔道の掛け逃げだ」と不快感を隠さなかった。柔道では組手不十分のまま苦し紛れに技を仕掛けたように見せることを「掛け逃げ」と言う。それと同じというのだった。
菅は谷垣に電話を入れる直前に、鳩山由紀夫、小沢一郎、前原誠司の歴代代表経験者を首相官邸に招き協力を要請しているが、この場でも大連立の話は一切していなかった。
ところで、小沢が公の場に姿を見せたのはこの時が久しぶりのことだった。地元の岩手が悲惨な状況にあったにもかかわらず「謹慎中」を理由に表立った行動を全くせずにいたのだった。その後も小沢は長らく被災地入りをしなかった。それによって小沢が失った政治家としての信用、信頼は陸山会事件の比ではなかった。