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平成で日本は変わったか

平成で日本は変わったか

 『激動の平成史』に30年で日本こんなに変わった、と書かれているが、何も変わっていない。日本の方向は何も見えてない。ぐずぐずしてるだけの社会。

ペテルスブルグのフィンランド駅

 『レーニン 権力と愛』に封印列車で フィンランド駅へ着いた時の演説模様が書かれている。封印列車と言うから 貨物車のイメージだったけど、国を超える度に客車で、何回も乗り換えてた。フィンランド駅前の広場は見てみたかった。

 もう一つはペテルスブルグの図書館。ここの半地下の窓から冬宮を眺めてるイメージがある。ロシア革命の一場面。

「赤のスケジュールノート」を忘れた意味

 エコットに「赤のスケジュールノート」を忘れた意味を探していた。多分、<今>を書け?ということなんでしょう。これからは全ての意味を探れ!
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ムハンマドの生涯

『図説 イスラム教の歴史』より イスラム教とコーラン

・預言者ムハンマドに関する資料

 イスラム教の創始者ムハンマドの生涯はよく知られているが、その生涯で起きた一つ一つの出来事を客観的に跡づけることは難しい。その最大の理由は同時代の外部資料がないことであり、ムハンマドの生涯について語ろうとするならば、預言者没後に書かれたイスラム教徒の文献に頼るしかない。

 異教徒がムハンマドについて言及している最古の文献としては六六〇年頃に書かれたアルメニア語の年代記があるが、アブラハムの宗旨を重視していたという記述はあるものの、それ以上の具体的な言及はない。そうなると信徒が書き残した文献を参照するしかないわけだが、神や天使といった超常的存在がしばしば介入し、奇蹟によって彩られた記述から史実を抽出することはたやすいことではない。

 イスラム教の文献の中で最古のものは、預言者が没してから約二〇年後に編纂されたと伝えられる啓典コーランであろう。しかし、ムハンマドという固有名詞が四度しか出てこないことからもわかるように、具体的な記述がコーランには乏しく、それだけで預言者の生涯を再構成することは難しい。

 コーラン以後に書き残された文献としては、ハディース(伝承)と預言者伝がある。ハディースについては後に触れることになるが、九世紀以降に書き残され、ハディース集に収録された預言者伝承が、どこまで古い時代まで遡るのか、という問題について、非イスラム教徒の学者の間では明確な結論は出ていない。また、ハディース集における記述はしばしば断片的であり、伝承同士が相互に矛盾することもあるので注意が必要である。

 預言者の生涯について語る場合に最も有益な資料となるのは預言者伝だろう。現存する預言者伝は、ハディース集が編纂される以前の八世紀にまで遡り、ハデイース集とは違い時代を追った歴史的な記述となっている。預言者への崇敬が前提となっている点は留意しなければならないが、次項では主に預言者伝に基づいてムハンマドの生涯について概略することにしたい。

・ムハンマドの前半生

 ムハンマドは五七〇年頃に父アブドゥッラーと母アーミナの子として誕生したとされるが、ムハンマド誕生時にはすでに父は亡くなっており、アーミナは、夫の父であるアブドゥルムッタリブ(没年不詳)に夫の子として認知してもらったという。ムハンマドの祖父アブドゥルムッタリブは、メッカを支配するクライシュ族のハーシム家に属していた。アラビア半島の主要都市の一つ、メッカは当時転換期にあったようである。この社会では多くの神々が信じられ、その偶像が崇められており、詩人やシャーマンが神やジン(精霊)といった超常的存在と人間を媒介する役割を演じていた。既に述べたようにアラビア半島に一神教の伝統が浸透しつつあった時代であったが、クライシュ族はメッカのカアバ神殿に神々の偶像奮集め、多くの利gMを得ていたという。また、農業が困難な地域であるため当初は遊牧に依拠する経済であったが、カアバ神殿への巡礼者が増えたことで市が立ったことがきっかけとなり、メッカの都市としての規模拡大と商業化が進んでいた。そのため、それまでは遊牧部族社会の中で庇護を受けていた寡婦や孤児らが、貨幣経済が浸透する中で経済的に困窮するようになっていた。ムハンマドはこのような宗教的、社会的、経済的な転換期にその生を受けたのである。

 幼くして母を亡くし孤児となったムハンマドは、机父の庇護下で育ち、祖父の死後は叔父のアブー・ターリブ(六一九年頃没)のもとでアブー・ターリブの息子アリーとともに養育されたという。若き日のムハンマドについては預言者伝も詳細を伝えておらず、隊商に参加したことや「正直者」と呼ばれていたことが知られる程度である。

 ムハンマドは二五歳頃に年上の女性商人ハディージャ(六一九年没)に結婚を申し込まれ、その後彼女との間に三男四女をもうけたという。幸福な結婚生活を営んでいたムハンマドに突然の転機が訪れたのは六一〇年頃であった。メッカ郊外のヒラー山の洞窟に寵もっていた際に突然天使ガブリエルが現れ、神の啓示を伝えたのである。その時に伝えられたとされる啓示がコーラン九六章一~五節「誦め、おまえの主の御名において、(森羅万象を)創造し給うた(主の御名において)、(つまり)彼は人間を凝血から創造し給うた。誦め。そしておまえの主は最も気前よき御方であり、筆によって(書くことを)教え給うた御方であり、(つまり)人間に彼(人間)の知らなかったことを教え給うた(御方である)」である。

 このような異常体験に恐怖したムハンマドはハディージャに助けを求めてとりすがるが、ハディージャに慰められ、彼女のいとこのキリスト教徒に諭されると、自分が預言者であることを自覚し、神のメッセージを人びとに伝えることを決意する。

 ムハンマドは啓示体験に基づいて、自分が神の使徒であること、神は唯一であり創造神であること、死後に来世が待ち受けていること、この世でのおこないに基づいて神の裁きがなされ、来世での行き先が決まることなどを人びとに伝えた。クライシュ族の多くはこのような主張を馬鹿げたことと嘲笑したが、ハディージャ、アリーといった身内だけでなくハーシム家以外の人びとも徐々に入信するようになっていった。すると中傷は迫害へと変わり、イスラム教徒の中から犠牲者も出た。六一九年頃におじアブー・ターリブ、妻ハディージャという有力な後ろ盾が相継いで没すると、預言者の身も危うくなった。このような状況下でムハンマドは、信徒集団全体でのメッカからの逃亡を決意する。

・ムハンマドの後半生

 クライシュ族による迫害が激化する中、ムハンマドはメッカ外での布教活動に力を入れていた。そこで改宗者を得ることに成功した都市が、後にマディーナ・アン=ナビー(預言者の町、いわゆるメディナ)と改称されることになるヤスリブであり、六二二年にムハンマドは信徒だちとともにこの都市に移住する。これがヒジュラ(聖遷)である。この段階で初めて、メッカからの移住者たち(ムハージルーン)-≪メヂィナでの改宗者たち(アンサール)から成る信徒たちの信仰共同体(ウンマ)が形成されたことになる。最初のモスクも建設され、イスラム教に基づく日常生活が営まれるようになった。また、メディナにはユダヤ教を信じる部族が複数存在しており、一神教徒の共同体と本格的に接触するようになったのもメディナ移住以降である。

 メッカ期のムハンマドたちは平和的な布教しかおこなわず、迫害にも耐えるのみであったが、「まことに信仰する者、そして移住し、神の道でする者、それらの者は神の御慈悲を期待できよう」(コーラン二章二一八節)など異教徒に対する聖戦を許容する啓示が下ったのもこの頃とされる。預言者は自ら兵を率いてメッカの多神教徒勢力と戦うことを決意し、その結果おこなわれた最初の大規模な戦闘が六二四年のパドルの戦いであった。この戦いに勝利したムハンマドはウフドの戦いでの苦戦も乗り越え、六二七年にはメディナに襲来したメッカ軍をざん壕を使った戦術で撃退した。これによりムハンマドはメッカの多神教徒に対して最終的に勝利し、六三〇年にはメッカの無血開城に成功する。クライシュ族の指導者アブー・スフヤーン(六五三年頃没、ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの父)をはじめ多神教徒はことごとくイスラム教に改宗し、ムハンマドはアラビア半島の覇権を掌握することになった。

 六三二年、預言者は信徒たちを引き連れメッカ巡礼を挙行した。その後メディナに戻ったムハンマドは病に倒れ、自宅で没しそこに埋葬された。彼の墓は現在では預言者モスクの一部となっている。

・ムハンマドを描くこと

 コーラン三章一四四節で「そしてムハンマドは一人の使徒にすぎず、かつて彼以前にも使徒たちが逝った」と明言されているように、預言者ムハンマドはただの死せる人間とされる。このことは、キリスト教徒が「神の子」イエスに寄せるほどの崇敬や思慕をムハンマドが集めていないことを意味するわけではない。数々の奇蹟に満ちたイエスの生涯とは違い、ムハンマドに関わる奇蹟として有名なものは、一二ページ上段右の図版で紹介した夜の旅・昇天や月が割れたという出来事くらいであり、イエスのようにたくさんの絵画や彫像が造られたわけでもない。イスラム教徒は、絵画などのヴィジュアル素材よりはむしろ文字資料や口承によってムハンマドに接してきた。そのため、キリスト教ではイエスが白人として描かれること自体が問題になり得るが、視覚的な印象が薄いムハンマドの場合にはそのような問題は起きにくい。

 また、生涯独身であったイエスや妻子を捨てて出家したブッダとは違い、ムハンマドは家庭人であり続け、預言者伝やハディース集は人間味溢れるエピソードに満ちている。男性信徒にとってのムハンマドはイエスらよりも身近で親しみやすい存在であり、自分が息子・夫・父として日常生活を送る上での模範になりやすかった。同じようにハディージャやアーイシャ(六七八年没)といった預言者の妻たちやファーティマなどの娘たちは、女性信徒には娘・妻・母としての模範と見なされた。

 二〇〇五年にデンマークの「ユランズ・ポステン」紙が、二〇一五年にはフランスの「シャルリー」エブド」紙がムハンマドの風刺画を掲載すると、世界中のイスラム教徒が激しく反発し大きな話題となった。イスラム教の教義上問題になるのは、ムハンマドの顔を描くことではなくムハンマドを侮辱したことである。預言者の冒涜は死刑が科されることもある重罪であるが、ムハンマドの顔を描くことは教義上のグレーソーンにあり、その扱いは曖昧だった。伝統的には、月が割れる奇蹟の挿絵に見られるように、預言者への敬意と偶像崇拝の忌避のために顔を描かないのが一般的であったが、しばしばムハンマドの顔は描かれ、近現代になっても顔を描く事例がないわけではない。二〇世紀以降になると映像化を試みる者も現れ、映像製作業界においては表現の手法や範囲が問題となっている。
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カード化・電子マネー化する北京

『北京を知るための52章』より カード化・電子マネー化する北京 ★なぜだろう?★

「爆買い」を支えるもの

 この数年、中国人による「爆買い」は、日本でも大きな話題になり、流行語にまでなった。

 最近のユニオンペイ(CUP、銀聯、銀連)の、中国人の日本でのペイメントカード使用についての調査を読むと、中国人の日本における買い物でのCUP、JCB、VISAなどのデビットカード、クレジットカードによる支払いは、日本における買い物の大きな支えになっていて、カードなくしてこれほどの「爆買い」は無かったと言わざるをえない。この調査によると、カードをメインに使い、カードが使えないときに現金を使った人は全体の48・1%、高額な買い物にカードを使い、少額な買い物には現金を使った人は31・9%、現金をメインに使い、現金が足りないときにカードを使った人は20・5%、となり、この他にカードでのATMからの出金もあるだろうから、カード利用ということでは、この数字にこれらの現金による買い物の数字が加わるはずだ。

 このようなペイメントカード(デビットカード、クレジットカード、プリペイドカードの総称。前二者を銀行カードと呼ぶ。)の「活躍」が、今の爆買いの基礎になっているわけだ。

 日本のカード会社やゆうちょ銀行、UFJ銀行(当時)など一部の銀行は、早くから(2005年開始)日本国内でのATMでの中国のカードの使用を可能にする努力を行い、日本のカード会社各社も「爆買い」を前にして加盟店などのインフラ整備を行った。しかしメガバンクの多くが、なかなか中国や諸外国の銀行カードなどに積極的に対応せず、最近になって東京オリンピックを前にして、日本政府からの要請もあって、ATMの国際的なオンライン接続をやっている状況だ。

 つまり、ペイメントカードの中国での発達と、それに対応する日本側の一部企業の努力がなかったら、これはどの規模の「爆買い」はなかっただろうということが推測可能になる。

 一方、北京の場合、市内交通機関(「北京市政交通でなど広義のペイメントカードは、極めて北京的に、中国的に独自の発展を続けている。市が主導するカードは、当初から交通機関のみを対象としたものではないことは、カードの名称からして理解できる(天津なども「城市上下」という名称で、交通機関以外の使用を最初から想定)。しかし、その実態は経験者や居住者でなければ理解しにくい。

「中国的」発展

 中国の各銀行の口座は、従来、オンラインになっておらず、例えば北京の銀行に預金を持っていても上海の同じ銀行の口座からは、預金を引き出せなかった。そこで登場したのが、「信用上下」(クレジットカード)で、プラスチックカードをIDとして、銀行の支店がテレックスなどの通信設備をつかって、預金のある支店との連絡で預金を移動させることができるようになっていった。一度に数百万円、数千万円の出金や、送金も可能だった。当初の「信用十」は、従って先進国の「クレジットカード」とは機能が同じではなく、名称だけが先進国を模し、未発達の銀行のシステムを補完するために独自の使われ方、つまりオフラインのキャッシュカードのようなもので、カードによる買い物は従たる機能として発達し、普及していった。それゆえ現在でも、中国の銀行カードの支払い方法の過半が、今でもデビット(口座から即、引き落し)なのであって、クレジット(後払い)ではないのには、歴史的な理由と背景がある。従って日本でも中国人のカード利用は、デビットカードが中心である。

 一方、公共料金支払い用などの各種プリペイドカードは、確実な料金徴収に向いていたので、眼をつけられ、だいたい21世紀に入ったころから一斉に普及し、読み取り機が各家庭に設置された。銀行などでカードに入金した人民元のうち、各家の機器にカードを挿入することによって使用額が移され、支払いが完了するというものだが、近年は、このカードを使用せず、銀行のウェブサイトからの支払い、それ以上の利便性がある支付宝(アリペイ)、微信などの発達で、これらが公共料金だけでなく、電話、個人経営の八百屋などを含めた商店、各種切符、タクシー、個人間の送金など広範に使用できるようになり、携帯電話一つで、現金なしで生活できるようになり、「カード化」「電子マネー化」が進んだ。これは依然として現金主義がまだまだ根強い日本などとはかなり様相を異にした現象である。

 要するに中国は「プラスチックカード」という新しい支払い手段に続き、スマホを使ったモバイル決済を、短時間であまりためらわずに次々に社会に送りこんでいることになり、日本における金融業務の保守性とは好対照と言えるだろう。当然ながら法律の整備や当局の通達などによる指導も頻繁であり、現状や社会のニーズを踏まえている。

 ただ支付宝(アリペイ)などの急速な普及は、早くも「北京市政交通一十通」などのカードの、多機能化、汎用化とある意味でぶつかってきており、スマートフォンは、このような分野では既存のカードを(短時間で)駆逐する勢いを増している。日本のPASMOなどにも同じような問題があり、交通系のカードにとって、「カード抜き」の変化の時代が、いよいよ到来してきているのは、北京の状況を見ると推察できよう。また、支付宝や微信は今や着々と「日本攻略」を進めている。

なぜ力-ド化・電子化がかくも進んだのか

 中国では現在、50億枚以上の銀行カードが発行され、発行数は世界一と言われるが、そのうちクレジットカードは、だいたい一割程度で、2015年末現在で、国民の平均の銀行カード所有数は3・99枚、クレジットカードのみでは、全国平均O・29枚、北京に限ると、クレジットカードは一人平均・‐:34枚、上海は1・01枚となっていて、北京の普及度はトップクラスだ。

 さて、なぜ中国は、北京はこのように急速にカード化したか、整理してみる。

  ①早くからクレジットカード、ペイメントカードの便利さに着目していた(1970年代。中国銀行先行)。香港での動向や香港の銀行の影響が大きかった。

  ②外国のクレジットカード発行会社の働きかけ。外国のカードの受け入れ開始(北京から。1980年代)。

  ③銀行のオンラインの未発達が、既存のシステムに影響を受けず、逆に新しいシステムの導入によい環境や条件になった(家庭に電話が普及していなかった段階での携帯電話の普及の場合と同じ)(1990年代以前の状況)。

  ④遅れを取り戻さんとした、政府、人民銀行の指導による全国銀行オンラインーネットワークの整備(三金政策による、金上下工程、つまり金融システムの近代化の推進。)が成功し、カードとATMが組み込まれた。(1990年代以降)=社会主義的な国家の明確な方針の存在。

  ⑤北京が首都であったから。(外国の動向に敏感)

  ⑥地下鉄、バスなどの都市交通機関の建設と近代化が行われたことと、時期的に重なった。そこにカードを導入。(上海、天津なども)

  ⑦北京アジア大会、北京オリンピックなどのためのインフラ整備に北京市や中国政府が明確な目標数を定めて、商店やホテルなどでのカード受け入れ推進に努めた。交通機関も非接触カードなどでのカード利用を積極的に進めた。例えば市営のバス料金は現金よりカード利用の方が安い。(1990年代以降)

  ⑧公共料金用などの各種のペイメントカードが発行され、その利便性を市民が認識し、カードというものの利用に抵抗がなくなった。

  ⑨海外旅行における外貨持ち出し制限が、カードの利用の場合の方が事実上有利であった。

  ⑩近年の支付宝(アリペイ)や微信などの支払いシステムは、支払いにデビットカードあるいは銀行口座やクレジットカードが結びついていたため、カードの所持、使用が生活に密着したものに進んだ。このシステムは公共料金だけでなく、日常のある業種での支払いに浸透してきており、事実上のカードの「貨幣化」が急速に進展している。

  ⑪はびこる偽札に対する抵抗や拒否感、その対極にあるカードの存在への理解。

  ⑫中国銀行など、北京に本店を持つ有力銀行が、カード普及の先鞭をつけた。政府や人民銀行なども、カードヘの理解が深かった(例えば、今の中国人民銀行の行長である、周小川氏は、元中国銀行のカード担当の副行長だった)。

  ⑬磁気カードや、ICカードの作成コストが大幅に低減された。

  ⑭ネット通販、ネット販売の大きな発展。

  ⑮スマートフォンの普及(だれでも1台)。

  ⑯伝統的に「貨幣」への信頼感、貨幣への権威意識が稀薄なため新しい支払い手段の利用に抵抗がない。

 こういった実績が基盤となって、日本などでの中国人による「爆買い」へとつながることになる。「爆買い」は、突然訪れた「神風」などではなく、「カードが拍車をかけた爆買い事情」は、こうした歴史的経緯や企業努力を経て現在に至っているのであり、「コラム」で触れたような初期の北京での事情は、今の中国での各種のペイメントカードや電子マネーとの独特の発展とも歴史的には大いに密接な関係があるのである。

 なお、2017年2月から、日本全国のローソンでの支付宝(アリペイ)の使用が可能となり、中国人の日本での支払い手段の多様化も新たな段階に入った。

 中国は、そして特に北京や上海などの大都市は、今や紙幣はもちろん、カードさえ追い越して、世界でも最先端の「無現金」(キャッシュレス)社会になりつつあるのだ。
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レーニン フィンランド駅へ到着

『レーニン 権力と愛』より フィンランド駅へ ⇒ 2002年3月にペテルスブルグに行った時に、フィンランド駅と図書館へ行きたかった。オーロラゴウの前のお土産屋でマトリューシカを買ったぐらい。旧ソ連者が多かった。治安が悪くて、外を自由に歩けなかった。

「すべてがとても、非常にすばらしく、とてもロシア的だわ」。列車がフィンランドのなじみのある樺林や湖、小さな町々--タンメルフォルス、クオッカラ、テリョキと、どれも彼女とレーニンがよく知る場所だ--を疾駆すると、ナージャは旅の同伴者の一人に感激して言った。彼らは六時間以上も板張り座席の「みすぼらしい不快な客室」にいたのだが、それでも幸福だった--「故郷も同然、わたしたちの顔は窓に張り付いていた」。彼らは一両の客車にロシア兵士だちと一緒に乗っており、レーニンは「略奪戦争」について、そして社会主義革命がいかにして平和をもたらすかについて、兵士たちに講義しはじめた--「彼が『敗北主義』の利点を論じると、兵士たちは口を開けてこの奇妙な哲学者をぽかんと眺めていた」。ロシア暦で四月三日、復活祭の月曜日のことで、多くの乗客が口シアの復活祭の伝統ケーキ、パスカを食べていた。大方の亡命者は何年も味わったことがない。

遅い午後のこぬか雨の中、リーヒマキの鉄道合流点に到着し、ヘルシングフォルス・ペトログラード本線に乗り換えた。本当に「故国」に着くまでに、まだ最後の障害が横たわっている。あと一時間かそこらで、ロシア本国への国境に着く予定だが、臨時政府がボリシェヅィキ亡命者を逮捕させる可能性がまだ残っている。その可能性は小さくなったように思われたが、レーニンはまだ神経質になっており、「明らかに緊張にさらされているようだった」とラデックは言っている。

しかし、午後九時ごろ、国境の町ベロオストロフで、レーニンは政府兵士や警官ではなく、歓声を上げる数十人の地元住民と数人の有カボリシェヴィキから成る歓迎委員会に出迎えられた。レーニンの妹マリヤが彼に会うため、ペトログラードから来ていた。シュリャプュコフとレフ・カーメネフ、そして、二月革命で抗命したクロンシュタッ卜海軍基地の若き将校で、海軍におけるボリシェヴィキの指導的扇動家、フョードル・ラスコーリニコフが彼女に同行していた。アレクサンドラ・コロンタイがレーニンに、濡れそぼってしぼんだ花束を贈った。彼女はスピーチをするはずだったが--いつもは非常に秀でた演説家だったが、妙なことに--彼女は緊張し、言葉が出ずに、固まってしまった。その代わりに、レーニンの頬にキスした。レーニンは後ずさりし、驚いた表情だった。

入管と税関の係員が帰国する亡命者らの証明書を点検している間に、巨大な赤旗と革命の垂れ布がフィンランド国鉄の蒸気機関車293号を飾った。この先ペトログラードまではほんの一時間ほどである。レーニンは、生涯の尋常ならざる劇的な一週間を振り返って、刑務所行きにならなかったことに、満足感をもって思いを致す時間にあててもよかっただろう。あるいは、リラックスしてもよかっただろう。ところが彼は、カーメネフを捜し出し、叱責しはじめた。彼が『プラウダ』に発表した、ボリシェヴィキが戦争を支持しているかに思われるいくつかの記事の件だ。「なんたる愚行だ」とレーニンは言った。レーニンが二つの特別な記事に注意を向けると、カーメネフは青ざめ、不安な様子を見せた。この記事でカーメネフはこう書いていたのだった。「『戦争をぶっつぶせ』というスローガンは断じて非現実的である。軍隊と軍隊が対抗しているとき、その片方に武器を捨て、解散するよう提案するならば、もっとも愚かな政策になろう……それは平和の政治ではなく、隷属の政治である。ドイツ軍が皇帝の命令に従っている限り、ロシア兵は持ち場にしっかりとどまり、弾丸には弾丸で、砲弾には砲弾で応えなければならない」。レーニンはカーメネフに「あのクズを読んだとき、われわれは本当に君をののしったよ。ナンセンスだ。われわれの優先事項は戦争を終わらせることだ……どんな犠牲を払っても」と言った。

一〇年間の亡命のあと帰国するやいなや真っ先に、自分の補佐役の一人を、政治的に路線を逸脱しているとしてののしるところは、いかにもレーニンであった。

ペトログラードではボリシェヴィキが、レーニンに対する鳴り物入りの歓迎を準備した。後年、共産主義諸国の市民は、例えばメーデーや一〇月革命記念日といった社会主義統治の祝祭日の、巨大な官製式典や大衆集会に慣れっこになった。それはソヴィエト型生活様式の主要な部分だった。ある共産主義政権が、ほかには組織する能力が事実上何もないことを露呈した場合でも、その政権は常に見事なパレードを催すことはできた。これ--指導者レーニンの、海を渡っての帰還--は、その原型であって、初期のボリシェヴィキたちはそれをきちんとやり遂げる決意だった。早朝から日がな一目、党活動家たちはペトログラードの兵営や労働者地区を回り、「本日レーニンが到着。彼に会おう」というポスターを張った。工場は復活祭で休み、祭日である。だから多くの人びとが、来れば無料でビールがもらえるという、街中に流れている間違ったうわさに引き寄せられたのかもしれない。それでも、遅い時間に、凍える寒さの中を、彼を出迎えにそれほど多くの人がフィンランド駅へ行ったのは不思議なことである--レーニンがいったいどんな顔をしているのか分かる者はほとんどいなかったのだから、なおさらだ。レーニンの写真が、それまで『プラウダ』を含めロシアの新聞に掲載されたことはなかったのだ。

ところが、午後九時三〇分以降、ひどく寒くじめじめした夜に、数千人がさえないフィンランド駅にやってきた。近代的首都にふさわしい外国旅行の一大拠点というより、当時は活気のない田舎の建物である。「駅前の群衆が広場全体をふさぎ、身動きはほとんどできず、路面電車もまず通れない」とニコライ・スハーノフは記録している。ベトログラードの有カメンシェヴィキで、その抑えがたいエネルギーと豊富な人脈ゆえに傑出した革命史家になった人物だ。「帝室待合室」で、某連隊の軍楽隊が音楽を奏で、三両の装甲車がコンコースに据えられている。巨大な赤旗が駅の周りに飾られている。劇的効果を狙って、ボリシェヴィキはペトロパヴロフスク要塞守備隊に巨大な固定式サーチライトを貸してほしいと説得し、そのライトは夕暮れにスイッチが入れられ、その場全体に目を瞳る照明を投げかけた。

レーニンの列車は午後一一時一〇分にホームに入ってきた。赤・青の制服と赤い飾り玉をつけた帽子を身に着けたクロンシュタット海軍基地の儀使兵が、この高位指導者を迎える用意をととのえていた。軍楽隊はまだ『インターナショナル』を知らないので、『マルセイエーズ』の演奏を始めた。だが当初は、兵士や水兵--あるいは労働者や駅のあたりをうろついていた雑多な物見高いやじ馬--のほとんどだれも、擦り切れたコートに身を包み、とがったあごひげを生やし、山高帽をかぶってプラットホームに降り立ったこのずんぐりした人物に気づかなかった。ややあって、戻ってきた亡命者のうちのどれがレーニンなのかという話が広まると、歓声の合唱が起きたが、反応のタイミングは外れていた。レーニンが「本当に望んでいたのは一杯のお茶」だけだった、とナージャはのちに言っている。だが、この式典の興奮は彼を感動させた。

レーニンはメンシェヴィキでペトログラード・ソヴィエト議長、ニコライ・チヘイゼから公式の歓迎挨拶を受けたが、これ見よがしに彼を無視した。両者とも互いに我慢ならないのだ。レーニンはメンシェヴィキを「いまわしい日和見主義者」と考えているし、ライバルの方はレーニンを危険な過激派、「中傷屋」と見ている。チヘイゼは社会主義者間の協力の必要について、要領を得ないスピーチをした。レーニンはコートの折り襟をいじり、始終退屈した様子だった。いつの間にか彼は被り物を替えており、山高帽を脱いで、ストックホルムで買ったハンチングをかぶっていた。

彼は兵士の一人が見つけてくれた椅子に上って演説を始め、穏健派のチヘイゼが言ったばかりのことをすべて無視した。今は妥協と外交的言辞を弄しているときではない、と彼は断言した。社会主義国家の建設へ進むときである。「海賊のような帝国主義戦争は、全ヨーロッパの内戦の始まりである……。人民が彼らの武器を資本主義搾取者に向けるときはそれほど遠くない。世界革命の夜明げはすでに始まった。ドイツは沸き立っている……。いまやヨーロッパの資本主義全体がなんどきでも崩壊しかねない。臨時政府のすべての約束を諸君が信じているのかどうか、わたしはまだ知らない。しかし、確実に知っているのは、彼らが甘い約束をするとき、すべてのロシア人が欺かれているのと同様に、諸君は欺かれているということである。人民は平和を必要としている。人民はパンと土地を必要としている。彼らは諸君に戦争と飢餓を与えている--そして、土地所有者は依然としてすべての土地を所有している。水兵、同志諸君、われわれは社会主義革命のために戦わなければならない、最後まで戦わなければならない。世界社会主義革命、万歳」。大方の群衆は熱烈に喝采した。が、スハーノフは兵士の小グループが怒って不満を言うのを聞いた。「あんな男には銃剣を突き刺さなきゃならん」と一人がつぶやく。「奴がここへ下りてきたら、思い知らせてやる。ドイツ人に違いない」ともう一人が言った。

レーニンがやっと駅を離れることができたのは、真夜中近かった。水兵の一団が彼を装甲車の上に乗せ、へッドライトを輝かせてペトログラードの街頭をボリシェヴィキ党本部まで急いで送った。

すばらしい皮肉センスのある臨時政府のだれかが、ボリシェヴィキに本拠地として、ぜいたくなクシェシンスカヤ邸を割り当てていた。才能あるバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤは、ニコライ二世が結婚して皇帝位に就く前は、彼の愛人だった。それ以来、彼女は、現在の恋人で皇帝の従弟にあたる大公アンドレイ・ウラジミロヴィッチを含め、あれこれの大公を取りかえ引きかえしてきた。皇帝は街の中心部にある新古典様式の巨大な邸宅を彼女に与え、彼女は当時のロシア成金趣味の盛りに、邸宅を飾りつけた--ビロードのカーテン、フレスコ画の天井、白鳥の形をしたシャンデリア、何枚もの巨大な鏡、それにおびただしい金箔。大方の家具は、臨時政府が「革命の名において」邸を接収し、機能的な椅子と不格好な平机に取り換えた際に撤去されていた。だが、シュリャプュコフが認めているところでは、邸はまだ急進派には不調和な会合場所だった。「ボリシェヴィキの党実務の処理よりも、クシェシンスカヤの職業の練習に向いていただろう--複数のバスルームやプールといったものでいっぱいだった」。トロツキーはこの邸を嫌っていた。数十人のボリシェヴィキ派労働者や兵士が中にいるときでも、「宮廷バレリーナのサテンの巣窟のような」臭いがする、と。

レーニンは旅の最後の行程では二日間、眠っていない。彼は神経過敏になっていたとナージャは言っているが、アドレナリンが彼を活動させていたに違いない。レーニンはペトログラードの有カボリシェヴィキ六〇人、それに何人かの取り巻きと、お茶とサンドイッチの夕食を取った。午前一時ごろ、一階の広い宴会の間で、彼は大理石の暖炉のそばに立ち、ソヴィエトがただちに権力を掌握すべきことを主張する二時間に及ぶ演説を始めた。出色の出来栄えだった--ボリシェヴィキの目標を明確、非妥協的に表明したもので、そこでは妥協、交渉といった考えは一度たりとも重要な役割を果たしていなかった。農民は許可を待たずに、農村部の土地を掌握しなければならない、と彼は述べた。武装労働者が街頭をパトロールし、搾収階級に対して「革命的裁き」を相応に与えなけれぽならない。ロシアボ兵士はドイツ兵と友誼を結ぶことによって、平和をもたらさなければならない。「われわれは、ブルジョア民主主義は必要としない。議会制共和政体は必要としない。労働者・兵士・農民代表ソヴィエト以外のいかなる政府も必要としないのである」

メンシェヴィキのスハーノフが、当夜のレーニンの様子に関する唯一の記録を残している。ぞっとしたとはいえ、感銘を受けたと言っている。「たまたま立ち寄った異端者のわたしだけでなく、すべての真の信奉者を驚かせ、当惑させたあの雷鳴のような演説を決して忘れないだろう。だれ一人として、そのようなことを予期していなかったのは確かだ」。その演説は機知とパトスを欠いていた、それはひどく単純化されていた、だが「レーニンは聴衆を虜にするまで、さまざまな観念を彼らの頭にたたいて、たたいて、たたき込むのが普通だった。わたしは穀竿で頭を殴られたような気分だっだ」。

拍手は熱狂的で、革命歌の熱唱が続く。レーニンは演説を終えると、完全に疲労困憊している様子だったが、ようやく退出できたのは明け方近くであった。
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豊田市中央図書館の22冊

020.2『私の名前は「本」』

689.4『外国人が熱狂するクールな田舎の作り方』

159『孤独を生きる言葉』

C61『モビリティー進化論』自動運転と交通サービス、変えるのは誰か

302.27『9.11後の現代史』

289.1『岩瀬忠震』五州何ぞ遠しと謂わん ミネルヴァ日本評伝選

324『民法Ⅱ 物権』

134.4『ハイデルベルグ論理学講座』--『エンチクロペディー』「論理学」初版とその講義録--

727.02『日本のグラフィック100年』

779.9『噂は噂 壇蜜日記4

242.03『甦るアレキサンドリア』地中海文明の中心都市

012『続・図書館空間のデザイン』実践3事例とICT導入法

748『朝日新聞報道写真集2018』

210.77『激動の平成史』30年で日本はこんなに変わった

015.2『論考 図書館とレファレンスサービス』

010.1『図書館の自由委員会の成立と「図書館の自由に関する宣言」改訂』

664.8『海藻の歴史』「食」の図書館

686.21『ツゥ!になる 鉄道の教本』鉄道好きとの会話が盛り上がる!

188.74『こころにとどく 歎異抄』

596.22『タイ料理大全』家庭料理・地方料理・宮廷料理の調理技術から食材、食文化まで。本場のレシピ100

913.6『八月十五日に吹く風』

231.4『戦史』
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