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豊田市図書館の進化って

冬って、こんなに寒かったんだ

 部屋の中で毛布をかぶってるけど背中が寒い。冷え冷えとしている。毛布を下からかぶらないと無理か。冬って、こんなに寒かったんだ。早く温暖化にならないかな。

豊田市図書館の進化って

 10時からの新刊書争奪戦を経て貸し出し。今までは一回の処理で済んだのに、今日は5回もやらされた。これを進化と呼ぶんですか。聞く耳を持たないTRCが全て悪い、ということにしておきましょう。
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イスラームと民主主義

『イスラーム主義』より もう一つの近代を構想する

本質主義的説明の陥穿

 二一世紀の今日においては、一部のジハード主義者をのぞけば、イスラーム主義者たちは、現代世界における「普遍的価値」との折り合いをつける努力を続けている。それを最も象徴してきたのが、イスラームと民主主義の関係であろう。

 かつては、イスラームと民主主義は相容れないものとする見方が一般的であった。とりわけ、冷戦終結後の一九九〇年代初頭には、イスラームは、欧米諸国から共産主義に代わる新たな脅威と見なされるようになった。「西洋起源の民主主義」と「中東起源のイスラーム」といった文明間の対立--「文明の衝突」論--にまで発展した議論は、今日のマスメディアやアカデミアにも根強く残っている。

 しかし、ムスリムが本質的に民主主義を受け入れることはない、とする見方は、既に歴史的にも統計的にも反駁されている。

 歴史的には、オスマン帝国における憲法の発布と議会の設置(一八七六~七七年)やカージャール朝イランにおける立憲革命(一九〇五~一一年)など、一九世紀末から二〇世紀初頭の段階で、ムスリムによる民主化への動きがあった。

 他方、統計的には、例えば、政治学者のP・ノリスとR・イングルハートが二〇一一年に発表した統計分析によって、文化が政治に与える影響は確かに存在するものの、現実にはムスリムも、キリスト教徒と同水準かそれ以上に、民主主義を重視していることが明らかにされている。

 中東諸国のムスリムが積極的に民主化を訴えていることはもはや周知の事実であり、イスラームを民主化の阻害要因とする見方には疑問符がつく。

自由主義と世俗主義の問題

 しかし、民主化というものを独裁政権の崩壊だけでなく、その後も含めたもう少し長いスパンで捉えた場合、イスラームと民主主義との間には軋蝶が生まれる可能性がある。すなわち、両者の関係は、選挙の実施に象徴される政治参加の段階よりも、新政権が誕生した後に訪れる立法や行政の運営の段階において問題となり得る。

 今日の世界における民主主義は、「宗教の違いによって個人の自由や権利が制限されたり侵害されたりしてはならない」という自由主義(リベラリズム)に立脚しており、その根底には政教分離を是とする世俗主義がある。したがって、イスラーム主義のような、「宗教を政治に何らかのかたちで反映させなければならない」とする立場は、自由主義や世俗主義に抵触する可能性が高い。「アラブの春」後にエジプトの自由公正党やチュニジアのナフダ党による執政が行き詰まったのも、自由主義者や世俗主義者からの反発が国内外から集まったことが一因であった。

 このようなイスラームと民主主義をめぐる問題に対する最も単純な解決法、そして、実際に欧米諸国主導で何度も試みられてきた政策は、中東に自由主義と世俗主義を根付かせることであった。そうすれば、政治に宗教を持ち込もうとする者もいなくなり、欧米諸国もその政治のおり方に「満足」できる。

 しかし、イスラーム政党の支持基盤の大きさと「アラブの春」後の選挙での躍進を見れば、イスラームの教えや価値観を何らかのかたちで政治に反映したいと望む人びとが中東に数多く存在することは明らかである。彼ら彼女らの声を一方的に封殺するような政策は、それ自体が民主主義の原理に反しかねない。

どのような民主主義を実践していくのか

 だとすれば、問われるべきは、彼ら彼女らが「民主主義を受け入れるかどうか」ではなく、「どのような民主主義を実践していくのか」であろう。

 実際、ムスリムの論者の間でも、イスラームと民主主義の関係は一大論点となってきた。今日では、イスラームには民主主義に通底する考え方(例えば、シューラー〔合議〕の教え)があるため、両者には矛盾はないと論じる立場が主流である。ただし、そのなかでも、それゆえに西洋的な民主主義を拒絶する立場と、イスラームとの折り合いをつけながら西洋的な民主主義との擦り合わせをすべきとする立場に分かれる。また、選挙に代表される民主主義の基本的な制度だけを採り入れるべきとする、限定的な立場もある。

 こうしたムスリムたちの知的挑戦は、当然ながら、成功することもあれば、失敗することもある。その意味では、「イスラーム的」な民主主義を体現し得るものと期待されたトルコの公正発展党やエジプトの自由公正党が強権的な政治運営に手を染めていったことは、イスラームにとっても民主主義にとっても、不幸なことであった。

 しかし、民主主義のよいところは、「愚行権」が保証されていることである。有権者は、選挙を通して政治運営を託す政権を選ぶ。もしその政権が期待されたパフォーマンスを見せられなければ、次の選挙で別の政権を選び直せばよい。この繰り返しこそが、一見遠回りのようではあるが、イスラームと民主主義の関係をめぐる「最適解」を導き出すための最も現実的かつ「民主的」な方法であろう。

 中東の民主化、あるいはイスラームと民主主義の関係をめぐる「最適解」は最初から決まっているわけではなく、そこで暮らす人びとが主体となって時間と労力をかけて見つけていく必要がある。
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ポスト・イスラーム主義

『イスラーム主義』より もう一つの近代を構想する

ポスト・イスラーム主義とは何か

 中東の政治のコンテクストに戻ろう。イスラーム主義は、「アラブの春」後の三重の苦難--権威主義、過激主義、宗派主義-―を克服し、「帝国後」の「あるべき秩序」を提示する有力なイデオロギーの座を取り戻すことができるだろうか。

 本書を通して見てきたように、イスラーム主義は硬直したイデオロギーではなく、時代や環境に応じて、思想、運動、革命、武装闘争やテロリズム、政党・政策などのかたちで中東政治に大きな影響を及ぼしてきた。したがって、今後もかたちを変えながら、中東の国家と社会のあり方に働きかけていくものと考えられる。

 では、イスラーム主義はどのように変化していくのだろうか。

 この問題について、近年、「ポスト・イスラーム主義」と呼ばれる議論が盛んとなった。ポスト・イスラーム主義とは、イスラーム主義に「後」を意味する接頭語である「ポスト」が付けられたものであり、イスラーム主義の新たな思想や運動の潮流を説明するための分析概念である。

 だが、その定義については論者の間で異にする。

 先に触れたロワは、ポスト・イスラーム主義を、イスラーム国家の樹立を目指す思想や運動に対置させながら、「再イスラーム化の個人化」をめぐる「複合的な実践と戦略」と捉える。

 彼は、一九九二年の時点で、アルジェリアのイスラーム救済戦線の経験を事例として、イスラーム主義者がイスラーム国家の樹立に挫折したことで革命性と急進性を喪失し、その結果、既存の国民国家の枠組みのなかで他の政治勢力と同じような「正常化」の道を歩まざるを得なくなると論じた。

 ロワのポスト・イスラーム主義の議論は、この「政治的イスラームの失敗」論の延長線上にある。すなわち、イスラーム主義は、イスラーム国家の樹立に「失敗」した後、国家権力よりも社会や個人における生の充実へ、言い換えれば、公的領域よりも私的領域の「再イスラーム化」へと活動の重心を移していくものとされた。

国家中心的議論の限界

 このロワによるポスト・イスラーム主義論は、一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけてのイスラーム主義の変化を概ね正確に捉えているように思われる。確かに、イスラーム国家の樹立を声高に叫ぶ者たちは、今や一部のジハード主義者に限られるようになり、イスラーム主義者の多くが、自らの生を営む国民国家や民主主義へのコミットメントを強めている。彼ら彼女らは、イスラーム政党を結成し、世俗主義を含む他のイデオロギーを掲げる政治勢力との積極的な連携を見せている。

 だが、いくつかの疑問も残る。こうした変化は、イスラーム国家の樹立に挫折しなければ起こらなかったのか。イスラーム主義は、ポスト・イスラーム主義に置き換わるようなものなのか。イスラーム国家樹立の目標は、本当に放棄されたのか。

 ロワは、自身が唱えた「政治的イスラームの失敗」論を議論の出発点とすることで、①「失敗」にイスラーム主義の変化の要因を収斂させ、②「失敗」の前後でイスラーム主義とポスト・イスラーム主義との間に断絶を見出し、③前者から後者への単線的・不可逆的な移行過程を想定していたと言える。

 しかし、こうした想定は、結果的に、本書を通して見てきたような、イスラーム主義の多様性と変化を捉えるための足かせとなりかねない。そして、それは、結局のところ、ロワのイスラーム主義の議論が国家中心的であり、「政治」を既存の国家の内部での権力闘争と同一視してきたことを露呈している。

 実際には、ムスリム同胞団、ナフダ党、ハマース、ヒズブッラーなどのケースで見てきたように、イスラーム主義者が国民国家や民主主義へのコミットメントを強めたからといって、彼ら彼女らのすべてが「失敗」を経験しているわけでも、国家権力の奪取を放棄したわけでも、さらには、イスラームを私的領域における事柄に限定したわけでもない。これらのイスラーム主義運動は、国民国家や民主主義を尊重し政党活動を行いながらも、草の根の社会活動や武力による抵抗運動を通して、公的領域における「イスラーム的」の実現を理想として掲げ続けている。

 こうした現実を踏まえ、本書では、「政治」に「国民国家内の権力闘争」と「国民国家自体の相対化」という二重の意味を読み込んできた。イスラーム主義者は、この二つの「政治」を必ずしも個別ないしは継起的に捉えているわけではなく、「あるべき秩序」の実現のために働きかけるべき対象としてきたのである。

「もう一つの近代」への道

 政治学者A・バヤートは、近年のイスラーム主義の変化を、「失敗」を境とした断続性ではなく、歴史的な継続性のなかで捉えることの重要性を指摘し、ポスト・イスラーム主義にロワとは異なる定義を与えた。バヤートのそれは、イスラーム主義に変化をもたらす「状況」とそれに伴う「計画」とされる。

 「状況」とは、「イスラーム主義のアピール、エネルギー、正統性の源泉が枯渇した政治的・社会的状況」であり、他方、「計画」とは、イスラーム主義者たちによる「社会的、経済的、知的領域を横断するイスラーム主義の基本原則と倫理を概念化・戦略化しようとする自覚的な試み」を指す。

 つまり、ポスト・イスラーム主義とは、イスラーム主義が一九七〇年代や八〇年代に見せたような強い訴求力を失った今日において、「「もう一つの近代」を実現すべく、イスラームと個人の選択や自由、すなわち民主主義や近代性とを結びつけようとする」営みのことを指す。

 ただし、バヤートは、ポスト・イスラーム主義の出現が「潮流としてのイスラーム主義の歴史的終焉」を意味するわけではなく、それを「イスラーム主義の経験からの質的に異なる言説と政治の誕生と見るべき」であるとし、現実には両者の併存状況を観察できることもあるとも論じている。

 しかし、だとすれば、ポスト・イスラーム主義は、多様性と変化を絶えず見せてきたイスラーム主義の今日的な一形態に過ぎず、わざわざ「ポスト」と名付け区別する意義が薄弱になる。事実、彼は、「啓示と理性の調和」を唱えた二〇世紀初頭のイスラーム改革者アブドゥに、ポスト・イスラーム主義の特徴を見出している。

 むしろ、バヤートのポスト・イスラーム主義論は、一九世紀末以来のイスラーム主義が本来的に持っていた発想、すなわち、神の意思に真摯に向かい合うことで、未知の事物から新たな

 「イスラーム的」を発見できるとする発想を再確認した上で、その今日的な発露のかたちを捉えようとしたものと言えよう。

 アフガーニー、アブドゥ、リダーらのイスラーム改革思想以来、イスラーム主義者たちが問題にしてきたのは近代西洋との関係のあり方であった。イスラーム主義が実現しようとしてきた「もう一つの近代」とは、西洋的近代に対置される、ないしは近代西洋を起源とする事物を排除した偏狭な「イスラーム的」な近代を意味しない。そこで想定されてきたのは、近代西洋とイスラームの二分法を止揚したかたちの近代なのである。
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奴隷貿易のアフリカヘのインパクト

『「未解」のアフリカ』より

コンゴ王アフォンソ1世の予言

 ディオゴ・カオが率いるポルトガル船が1483年に初めてコンゴ川の河口に到達し、コンゴ王国に入ったとき、国王を頂点とし、宮廷官僚、貴族、自由民、州知事など国家の統治機構があること、また首都ムバンザ・コンゴの王宮では王宮儀礼が確立していることを見て驚き、アフリカに文明国があると本国に報告した。当時のコンゴ国王(マニーコンゴ)ンジンガ・ンクウはポルトガルとの通商関係に入り、また1491年にキリスト教徒(洗礼名ジョアンー世)となって、両国は使節の交換を行うなど対等かつ友好的な関係に入った。息子のンジンガ・ムペンバ王(洗礼名アフォンソ1世、1460-1542年、在位1506ないし09-1542年)は、ポルトガル語を学び、1509年から1541年にかけて数多くの書簡をポルトガル王などと交換、またローマ法王にも書簡を送っていたことで知られる。特にポルトガル王ジョアン3世(在位1521-1557年)とは双方の書簡において相互に兄弟王と呼び合うなど当初は懇切かつ友好的な関係が打ち立てられた。

 アフォンソ1世はポルトガル式の国家機構を模し、また宣教師のみならず石工などの技術者をポルトガルから派遣してもらい、首都ムバンバ・コンゴに石造りの建物を建て、コンゴ川を見下ろす丘にそびえる首都をサン・サルヴァドルと改名した。人づくりにも意を用いて王子と貴族の子弟をリスボンやローマに留学させ、中でもローマでキリスト教義を学んでいた王子ヘンリケ・キヌ・ア・ムヴェンバは1520年にカトリックの司祭に叙せられた。コンゴ王国がポルトガルの制度を模したものの一つとして公爵や伯爵などの貴族制度が導入されたが、これは「文明開化」の掛け声のもと明治政府が大急ぎで西洋の国家機構を模し、その中で聖徳太子の603年以来の伝統を脇においてイギリスの5段階の貴族制度を導入して、公爵や伯爵などの爵位によって新政権の権威づけに利用したことを彷彿とさせる。

 ポルトガルとの交易でコンゴ王国が輸出していたものは銅、象牙、奴隷だったが、やがて国王はポルトガル商人が非正規な奴隷狩りと奴隷の輸出にかかわっていることに気づき、海外への奴隷輸出を禁止した。その上で、ポルトガル王にも書簡を繰り返し送りポルトガル商人の奴隷買いをやめさせてほしいと要請したが効果はまったくなかった。事態が改善しない中でローマ法王にも書簡で直訴したが、暖簾に腕押しであった。

 アフォンソ1世の数多あるポルトガル国王ジョアン3世宛の書簡の中で、1526年10月18日付の書簡は次のように善処を求めている。

  「わが国がさまざまなことによって消え去りつつあり、しかるべき是正が必要であることを陛下にはご承知おきいただきたく存じまずと申しますのμ、貫函の代狸人七官足が商人に過剰な自由を与えたため、商人たちはコンゴ王国に店を構えて当王国で禁止されている商品やさまざまなモノをあまりに多く持ち込み国内に広めています。そのため、多くのわが臣下は自分よりも多くのモノを持つに至り、服従しなくなっているからであります。これまでは、これらのモノを与えることによって彼らを満足させ、主従関係と法体系に服させてまいりました。このように、以上のことは神に仕えるうえで害を及ぼすのみならず、わが王国と所領の安全と平和にも害を及ぼしているのです。

  そして我々はその害がどれはどのものか評価することもできません。と申しますのは、前述した商人たちは毎日わが国民、祖国の息子たちを連れ去り、貴族、家臣および王族の息子たちをも連れ去っているのです。盗人と邪悪な者たちはわが王国内で狙っているモノを手に入れようとして彼らを捕らえて売り、また腐敗と放蕩があまりに大きく、わが国では完全に人口がなくなりつつあります。陛下におかれては、このようなことが陛下のためになされているとは同意も受け入れもなされないに違いありません。こうしたことを避けるために、自分はポルトガルには何人かの司祭と学校への数人の人およびミサのための葡萄酒しか求めません。本件について陛下の助力をぜひお願いいたします。ポルトガル商人たちは商品や物品を当国に送ってはならないこと、なぜなら当国では一切の奴隷貿易も国外搬送もあってはならないと決意しているからだということについて、陛下が同意されるよう懇請いたします。なぜなら、さもなければこのような明白な危害を修復することはできないからであります。神の御慈悲のもとに陛下が守られ永遠に神に仕えられるようにお祈りください。陛下の手にいくたびも接吻します。(後略)」

 書簡はさらに、野望に駆られたコンゴ人が自由民ばかりか貴族、ひいては王族まで誘拐し、夜陰に乗じて連れ去って白人に売り渡していること、その白人は直ちに熱した鉄で熔印を押して、コンゴ官憲が彼らを発見して解放しようとすると正当に購入したものだと主張することなどを指摘している。その上で、コンゴに入国したポルトガル人商人はすべて登録すべきであるとして登録責任者の名前も具体的に示している。

 この書簡でコンゴ王アフォンソ1世(ンジンガ・ムペンバ)が予言したことが悲しくも現実となった。すなわち、国民、領土、権力という国家の3要素のうちまず奪われていったのが国民であり、そしてそれと並行して権力が崩れていったのである。

 書簡で王が指摘している商品とはヨーロッパ製のビーズや金属製品、酒類のほか、何よりも鉄砲と火薬である。ポルトガル商人たちは、コンゴの部族長などに下剋上をささやきつつ鉄砲を欲しければ奴隷で支払えと強要した。ある村ないし部族がこのような方法で鉄砲を入手するということは、近隣の村ないし部族にとっては自分たちが襲われて奴隷に売られるという大きなリスクを意味する。そのため後者も鉄砲と火薬を入手しようとしてポルトガル人商人に接触する。ポルトガル商人は金や象牙では鉄砲を売らずに、ブラジルの開拓やプランテーションに必要な奴隷を持って来させる。この悪循環はその後アフリカに進出していったオランダ、イギリス、デンマーク、ブランデンブルグ(プロイセン)ほかのヨーロッパ諸国にも引き継がれていった。

 1701年にエルミナ(現ガーナ)駐在のオランダ人商人は、アフリカ人が銃を大変上手に操ると述べつつ、売り手のヨーロッパ商人同士のアフリカ諸王への火薬と銃の売り込み競争がいかに激しいか、また、火薬と銃がヨーロッパからアフリカヘの主たる輸出商品であるので、もしこれらの売り込みがなければアフリカとの貿易は貧相なものとなっていたであろうと書いている。

 このように、売り手、買い手双方の事情から、アフリカ人による近隣の王国からの奴隷の拉致とヨーロッパ人による奴隷を対価とする銃の売り込みは一つのシステムとして確立し、この悪循環の上に400年にわたって奴隷貿易が続いていった。

奴隷貿易の経済的インパクト

 ヨーロッパの奴隷貿易商人たちはアフリカでの船積み前の奴隷たちを入念に検査し、病人や35歳以上の者は積み込まなかった。新大陸に着くなり奴隷市で売れることを確実にするためである。奴隷たちは奴隷市で買われると、直ちに砂糖やたばこのプランテーションに連れて行かれ、そこで労働力として酷使されていった。

 このことをアフリカ側から見ると、本来彼らの祖国における労働力として農業、金、銅などの採掘、あるいは交易などの経済活動を担うべき健康かつ屈強な若者たちが、少なくとも1千万人、推計によっては3千万人、すっぽり抜け落ちたことを意味する。すなわち、セネガルからアンゴラに至る沿岸地方の奴隷を狩られた地域においては、労働力がなくなってしまったがゆえに経済活動が停滞してしまった。体にたとえれば、いつまでも出血が止まらない状態が400年続いたからである。これこそがアフリカにおける奴隷狩りの最大の経済的インパクトである。

 逆に、ヨーロッパにとってはこの奴隷の労働力こそが先に見たように巨大な富の源泉であり、イギリス人自身がそのことを認識していた。例えば1729年イギリスの貿易商人クリーは、次のように書いている。

  「我々のアフリカとの貿易はわが国にとって一般に非常に利益が大きい。我々のプランテーションに黒人を供給することは我々にとってとてつもなく有利であり、砂糖とタバコの栽培、およびかの地で貿易を遂行することは、彼らなしには維持できない。王国(筆者注:イギリス)の富の膨大な増加のすべては何よりも黒人のプランテーションでの労働によるものである。」

 巨大な富をもたらした三角貿易を担った貿易船は、その三辺のいずれにおいても積み荷は満杯であった。ロンドン、ブリストルないしリヴァプールを出港するときには銃、火薬、繊維製品、ビーズ、ろうそく、砂糖、タバコ、酒などの商品を満載してアフリカに向かい、アフリカで奴隷と交換する。アフリカからカリブ海向けの航海は奴隷で満杯となり、ジャマイカなどで砂糖、香料、ラム酒、タバコ、コーヒーなどと交換される。カリブからイギリスヘの帰路はこれらの商品を満載し、イギリスで売りさばく。

 貿易の規模の一端を示すものとして、ジャマイカに売られた奴隷の数は1700年から1786年の間に61万人、サン・ドマングは1680年から1776年の間に80万人であった。奴隷船の船主はしばしば1回の航海で5000ポンド以上の利益をあげていた。また西インド諸島は、1780年当時イギリスが輸入していた綿花の3分の2を供給していた。そして1770年当時で見ると、マンチェスターの繊維製品の3分の1はアフリカに輸出され、半分は西インド諸島に売られて奴隷の毛布と着物に使われた。1788年には、年間20万ポンド相当の商品がアフリカに送られ、そのうち18万ポンド相当の商品は奴隷を買うために使われた。

 こうして確立していったイギリス、アフリカ、カリブーアメリカの三角貿易システムは、アフリカの産業にも負のインパクトを与えていくこととなった。すなわち、イギリスで産業革命が起きると、イギリスからアフリカ向けの積み荷は機械生産による綿布や金属製品となり、これが現地製の綿製品や古来の日用の鉄製品を駆逐していった。かつて16世紀には、ポルトガルが西アフリカ産の綿布をヨーロッパに輸出していたほどであったのだが、三角貿易の中で流れが逆転した。こうして奴隷貿易ネットワークに組み込まれたアフリカ沿岸諸王国における家内繊維産業が近代産業に転化する芽を摘んでいった。元来、アフリカの繊維産業は決して侮るべきものではない。例えば、内陸に位置していたことが幸いして三角貿易の埓外にあったカノ(現北部ナイジェリアの町)は中世以来綿製品と藍染めで有名であり、19世紀半ばにカノに滞在したハインリッヒ・バルトは、カノにはセネガルからチャド湖に至る西スーダン地方の綿製品需要を賄うに十分な綿産業と呼べる水準に達している家内産業の隆盛があったと記録している。

 1950年代にガーナ独立を勝ち取ったエンクルマは、アフリカ人は未成熟であるので資本主義経済は無理だと考えてソ連型計画経済を採用した。しかし、それはアフリカ人が未成熟だったからではなく、家内工業が資本主義に転化する流れを摘まれてしまったことが原因であり、アフリカ人に企業家精神がないためではない。エンクルマはこのことを理解していなかった。現に、18世紀にはアフリカ諸王国は次第に奴隷を売るのをやめてヤシのプランテーション経営に乗り出し、その貿易のために海運にも進出し始めた。ヨーロッパにおける石鹸の需要増大に伴ってヤシ油への需要が伸びたことに呼応したものである。ところが、この資本主義への転換の動きも、アフリカ分割と植民地化で息の根を止められてしまった。
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豊田市図書館の28冊

911.52『まど・みちお詩論--ハイデガー哲学の視座から--』

193.02『ノアの箱舟の真実』「大洪水伝説」をさかのぼる

146.8『わたしを生きる知恵』80歳のフェミニストカウンセラーからあなたへ

809.6『図解でわかる ファシリテーション』

498.3『自律神経を整える「一日30秒」トレーニング』人生が楽になるせる・エクササイズ

547.48『Microsoft 365 Business超入門』小さな会社ではじめてIT担当になった人の

519.84『コンゴ共和国 マルミミゾウとホタルの行き交う森から』

410『プログラマの数学』

361.45『近代日本メディア人物詩 ジャーナリスト編』

493.73『絵でみる脳と神経』しくみと障害のメカニズム

382.1『日本民族文化学講義 民衆の近代とは』

795『棋士とAI』--アルファ碁から始まった未来

916『アーロン収容所』会田雄次 西欧ヒューマニズムの限界

002.7『はじめての研究レポート作成術』

383.88『中世の喫茶文化』儀礼の茶から「茶の湯」へ

949.63『わが闘争2 恋する作家』

213.3『シリーズ藩物語 伊勢崎藩

702.16『創造&老年』横尾忠則と9人の生涯現役クリエーターによる対談集

351『統計でみる日本2018』

331.42『超訳「国富論」』経済学の原点を2時間で理解する

311.8『三島由紀夫と楯の会事件』

361『広告で社会学』

331.6『マルクス 資本論の哲学』

312.27『イスラーム主義--もう一つの近代を構想する』

366.21『多様化する日本人の働き方』非正規・女性・高齢者の活躍の場を探る

778.21『煙のようになって消えていきたいの』--高峰秀子が遺した言葉

240『「未開」のアフリカ』--欺瞞のヨーロッパ史観

332.06『後期資本主義における正統化の問題』
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