『協力がつくる会社』より 協力というビジネス
インターネットのおかげで、今日の企業や非営利組織は集合的な洞察やアイデアや貢献を、組織内の人々からだけでなく、その外にいる何百万もの人々から集めて活用できる。たとえば、人間文化がこれまで知っている情報の集積として最大で最も野心的なものになりつつあるウィキベディアがそうだ。
ウィキペディアはいたるところにある。著者やジャーナリストはそれを情報源として使う。グーグルは、どれだけ広くリンクされているかに蕎づいて結果のランクをつけるが、ほとんどどんな結果でもウィキペディアの記事をしょっちゅうてっぺんに持ってくる。学生たちは研究ペーパーでウィキベディアを引用するのは認められていないが、新しいテーマを調べる入り口として使うことは多い。では、なぜこれはどの世界的現象になったのだろうか? これをライバルである、『ブリタニカ百科事典』やマイクロソフトの『エンカルタ』と比べるところから始めよう。『ブリタニカ』の競争優位は、昔からその権威だった。同社のウェブサイトによると「訪ねた家の本棚に『ブリタニカ百科事典』が並んでいると、知識が敬意をもたれている家にきたことがわかります」。その編集委員は「ノーペル賞受賞者やピューリッツァー賞受賞者、先端の学者、著作者、芸術家、公僕、活動家などその分野のトップの人々」を含む。つまり、それはエリート知識の象徴だ。何年にもわたり、この主張のおかげで『ブリタニカ』は何巻にもなる革装の製品を、何千ドルもの値段で売ることを可能にした。かなりよいビジネスモデルであることは認めざるを得ない。
そこへやってきたのが『エンカルタ』、百科事典市場に参入しようとするマイクロソフト社の試みだった。『ブリタニカ』と同じく、これまたその知識生産者と知識消費者との間に明確な区別を維持した。また『ブリタニカ』ほどの傑出した権威はそろえなかったが、専門家を雇った。そしてこのソフトを他のマイクロソフト製品とバンドルして、視覚的に魅力あるものとし、使いやすくナビゲートしやすいものにした。要するにマイクロソフト社は、『ブリタニカ』の大衆市場版を開発したわけだ。『ブリタニカ』がウェッジウッドの食器だとしたら、『エンカルタ』は量販店の食器だ。だがやがて、両者ともにI〇年前には存在しなかったビジネスモデルとの競合にさらされることになった。あまりに考えられないビジネスモデルで、理論的には存在できないもの、あるいは少なくともほんの数年前にはそう思われていたものだ。『ブリタニカ』は相変わらず闘い続けている。それはその権威がウィキペディアでは太刀打ちできないほどのものだからだ。でも価格を大幅に下げなくてはならなかった。革装のセットはいまや一四九・九九ドルで、オンライン版の年間購読は六九・九九ドルだ。『エンカルタ』は二〇〇九年に店をたたんだ。それを市場から追い出した力は、もちろんウィキペディアだ。
ウィキペディアは無料だ。これは珍しいことではない--広告に支えられることで消費者にとっては無料の情報源はたくさんある。アメリカでは、ラジオやテレビは昔からそうだったし、最近ではウェブ上のほとんどの情報も無料だ。消費者にとって無料だというよりもさらに過激な事実は、ウィキベディアはテレビやラジオとちがって、コンテンツには一銭も支払っていないということだ。そのコンテンツはボランティアたちが生産し、彼らがそれを執筆編集し、それに対する報酬を求めたり要求したりせず単純に書くことの楽しみや、ウィキペディアンたちのコミュニティの仲間意識のためにそれをやっているのだ。つまりは、本書でこれまで検討してきた各種の理由のために執筆編集する、ということだ。彼らの集合的な著作の果実はプロセスであり、製品ではない。累積的に不完全ながらも自分自身をだんだん改善してゆく共同作業なのだ。
二〇〇一年二月にジミー・ウェールズが初めて、完全にボランティア貢献に頼るウェブプラットホームというクレイジーなアイデアを思いついたとき、その結果がいつの日か、至高の『ブリタニカ』に比肩したり超えたりすると予測した人がいれば一笑に付されただろう。批判者たちは、ウィキペディアは『ブリタニカ』などの刊行された百科事典より不正確で権威がないと主張する。皮肉なことに、子供たち(我が家のも含む)は学校で、ウィキベディアを調べ物には使うなと言われるのに、学者たち(ときには私の同僚たちも含む)はしばしば「生徒たち(大学生や院生)に基本概念についての手軽な文献を与えたいときには、ウィキペディアを見ろと言うんだ。すばらしいよ」などと言う。論争の双方にはもっともな主張があるが、このウィキベディア不信が正当なものか、それともこの知識の新しい源泉に関する人々の不安の産物なのかを見極めるのは難しい。この論争を解決するのに向けた、手持ちの最高の証拠は、二〇〇五年に『ネイチャー』誌の論文で言及された実験だ。同誌のスタッフは、『ブリタニカ』とウィキペディアの記事を先進的な科学者たちに送り(出所は伏せられていたので科学者たちはどっちがどっちかはわからなかった)、その科学者たちに内容を評価してくれと依頼したのだった。ふたを開けてみると、科学者たちはどちらにもまちがいがあると考えたーだがその比率はおおむね同程度だった。当然ながら、『ブリタニカ』の人々はその調査や手法を批判したが、そうした試みはおおむね説得力を持だなかった。そして実際問題として、私たちの狙いにとっては、ウィキペディアが『ブリタニカ』と比べて同程度か、ちょっと悪いかちょっとましか、という話はどうでもいい。私たちとしては、完全なボランティアの貢献で作られた製品やプラットホームが、そもそも多少なりとも成功できるのか、という点にもっと興味がある。そして明らかにそれは成功できるし、ほんの一〇年前にだれにも考えられなかったほど高い水準で成功できているのだ。
ウィキペディアは、インターネットを使って人々の集合的知識を活用したときに実現できる驚異的なことのいちばん明らかな例だ。だが他にもこうした例は何千も存在する。フリーソフトやオープンソースソフトは、ウィキペディアと同じく、オープンな協力の文化がすさまじい量の情報を生み出せる例だ。おたくやハッカーだけの領域に聞こえるかもしれないが、現実には、グーグル、アマゾン、フェイスブック、あるいは『ウォールーストリートージャーナル』オンラインを訪れたら、あなたはフリーまたはオープンソースソフトウェアを使っていることになるのだろうしたサイトはGNU/」inuxォペレーティングシステム、Apacheウェブサーバソフトウェア、あるいはその両方を使っている)。フリーソフトの創始者リチャード・ストールマンが述べるように、フリーソフトウェアというのは「無料のビール」というときのフリーではなく、「自由な言論」というときのフリーで、だれでも使えるばかりか、書いたり書き直したりできる、ということだ。一九八〇年代にストールマンがこの概念を導入したときには、ヒッピーの遺物のように見えたし聞こえた。ソフトウェアは共有の資産で万人に開かれているべきだ、というのが発想で、そのためには人々がソフトを開発し、それをライセンスするときのライセンスを、だれでもそれを複製し、頒布し、売ることさえかまわないし、もとの作者にはまったく何の義務も負わないというものにする、ということだ。ライセンスを受けた者はソフトを改良し、その改良ソフトを頒布することさえ認められているが、その際にはその改良を同じオープンな条件でライセンスしなければならない。これは互恵性を必要とするシステムで、絶え間ない改良を奨励する。私は私の貢献を自由に提供する。かわりにあなたもあなたの貢献を、私とだけでなく、その共通の創造物を使いたい世の中の万人とも共有しなくてはならない。ストールマンはフリーソフトを販売する人に特に文句はなかった。そこで互恵性のサイクルさえ邪魔しなければよかった。