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地域とエネルギーの新たな関係

地域とエネル『「原子力ムラ」を超えて』より

自然エネルギーで地域経済を活性化

 自然エネルギーは、地域経済にとってもきわめてメリットが大きい。とりわけ東北の復興に絶大な効果を期待できる。

 たとえば秋田県の場合、四〇万世帯が年間の光熱費として一世帯平均二五万円、合計一〇〇〇億円を支払っている。このお金は石油・石炭・天然ガス、あるいはウランの代金として県外に流れ、そして海外に流れていく。日本全体でいえば、この額は二〇〇八年時点で二三兆円、GDPの約五%に相当する。

 一方、秋田県の主要産物である米の「あきたこまち」の売り上げ高は、二〇一〇年でちょうどI〇〇〇億円程度だった。つまり、秋田県で一生懸命に米を生産して稼いだ分に匹敵する額が、県外はおろか国外に流出しているわけだ。

 ちょうど今、秋田県では風カタワーをI〇〇〇本建てる構想が持ち上がっている。売電価格にもよるが、その売電収入は八○○~一〇〇〇億円にも及ぶ。これが実現すれば、売り上げとして「あきたこまち」に匹敵する産業になり得る。もし二〇〇〇本を建てれば、ざっと一六〇〇~二〇〇〇億円だ。「あきたこまち」の生産量を倍にすることは難しいかもしれないが、風カタワーを倍にすることは比較的容易だ。

 地熱発電やバイオ発電など、自然エネルギーの手段はいろいろある。これらの活用で、光熱費を県内にとどめ、それが地域経済と雇用を生み出す。つまり、自然エネルギーは地域経済にとって、お金とエネルギーを地域内で循環させるという大きなインパクトをもたらしてくれるわけだ。

 それに、建設に時間や手間もかからない。原発の場合は八~一〇年もかかるが、風力タワーの設置なら、短い場合、半日でできる。土台づくりで半年程度、事前の計画までいれてもせいぜい三年程度だ。あるいは太陽光発電にしても、計画までいれて半年から一年、設置は一日で十分だ。

 そしてもう一つ重要なのが、これは地域のお金を使い、地域の手仕事として実施されるということだ。周知のとおり、東北地方の経済は震災前から疲弊しており、地域の金融機関の預貸率も非常に低かった。秋田をはじめ、青森も岩手も宮城も、地域に貸出先がないため、およそ一県につき二兆円程度のお金が地域外の運用にまわされた。一部は国債へ、場合によっては海外債券へといった具合だ。

 この二兆円を地域内の投資にまわすことができれば、それが原動力となって地域にお金と仕小を生み出してくれる。ある意味で地域に。閉じた経済〃のサイクルが生まれるわけだ。

地域とエネルギーの新たな関係を築け

 ただし、自然エネルギーについて一点だけ注意すべきことがある。

 原子力にせよ石炭火力にせよ、従来の私たちは発電施設を特定の場所に押しつけてきた。その分、その地域には電源三法にもとづく交付金などを浴びせるように注ぎ込み、住民をなかば強引に黙らせてきた。そのおかげで、ほかの地域に住む大半の人々は、エネルギーのことなど考える必要もなかった。たんにスイッチを押して、なんの気兼ねもなく自由に電気を使ってきたのである。

 ところが、自然エネルギーの場合は必然的に小規模分散型になる。設置場所が圧倒的に増えるわけだ。たとえば風力発電がさかんなデンマークの場合、その設置場所を点で表わすと国全体の地図が浮かび上がるほどだ。

 それだけ数が増えると、人間社会と自然エネルギー技術との接点が増えることになる。そこには、当然ながら競合が生じる。そこで今後は、対応する新しいルールをしっかりつくっていかなければならない。

 エネルギーに関しても同じ道筋をたどるだろう。一部地域に押しつけ、ほかの人は考えない時代から、すべての人がエネルギーの生産と消費とその意思決定になんらかのかたちでかかわる時代になる。そんな時代に対応する新しいルールが必要だ。

 その点、デンマークでは、一九八〇年代から風力発電について土地の利用計画をあらかじめ立ててきた。風力発電を建てていい場所といけない場所を地域社会の合意のもとで設定し、地域にとって「とんでもない場所」に建てられることを避けているわけだ。これによって紛争のほとんどは回避できる。

 同時に重要なのが、地域で生まれた自然エネルギーの利益を地域に還元すること、つまり地域のオーナーシップだ。都会の業者が風力発電設備を建てて利益も独占するとなると、地域の住民としては当然ながら反対したくなる。しかし、それが近隣の仲間内でつくったものであり、そこからの売り上げが毎月各人の口座に振り込まれるとなると、設備が順調に稼働していることを互いに祝いたくなるはずだ。そういう関係性を早く築いていく必要がある。
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知の公共空間でのグーグル的世界の意味

『ジャーナリズムの行方』より

ジャーナリズムの本質を大きく揺さぶる今日的要因が「デジタル」であることは疑いようがない。それは、本書の冒頭でも触れた東日本大震災におけるソーシャル系メディア(ソーシャル・ネットワーク)が果たした、社会的役割との比較の中でも検証が必要だろう。ここでは、今日におけるインターネットメディアの雄ともいえる「グーグル」が提起した問題を通して、伝統メディアに与える影響とデジタル時代のメディアの役割を考えてみることとする。

グーグルは、世界中の情報を収集・整理し、インターネット上で提供することで、すべての人が情報共有できる世界を目指す、という。この高邁なミッションに基づき、フ九九八年の設立以降、数多くのサービスを提供し続けている。その一つに「図書館プロジェクト」が存在し、提携した大学図書館等の蔵書をスキャニングし、これをテキストデータ化したうえで、書籍データベースを構築し、これに基づき書籍の検索とコンテンツ及び関連データの提供を行うこととしている。

まさに、家に居ながらにして世界中の出版物をフリーキーワードで検索し、しかも全文を読むことまでできるという「夢」の実現であることは間違いない。しかし当然ながら、こうしたサービスがいま行われていないのは、単に技術的な限界ばかりが理由ではない。情報の生産者である送り手にとって、大きなデメリットが存在するからである。

ただで本を読むことができれば、読者にとっては好ましいことは間違いなかろうが一方で書き手である作家や、出版物の作り手である出版社にとっては、必ずしも歓迎すべきことではないのである。検索で出版した作品がヒットして、それをきっかけにオリジナルである紙の出版物を購入してくれたり、それに匹敵するような配信料を払ってくれればよいが、ネット上の情報はタダという意識に馴れた読者に、それらを期待することはそう簡単ではない。そこで、こうしたグーグルの新サービスに対して、ノーの声を上げる者が出てきた。

一般に「グーグルブック検索訴訟」と呼ばれるアメリカ国内で提訴された訴訟や、同様の司法上の訴えがフランス国内においても起こったわけである。そして前者の訴訟は、訴訟上の技術的な関係で、全世界の著作権者がその訴訟の対象となることが、管轄の裁判所から一方的に宣言され、にわかに国際的な問題としてクローズアップされ、二〇〇九年からI〇年にかけて社会的議論を巻き起こした。

確かに作家にとって、本がタダで読まれると売れなくなる可能性があり、「飯の夕ネ」を失う危険がある。しかし実際には、読まれることが大目一的であるならば、対価がなくてもいいから一人でも多くの人に読んでもらいたいという気持ちもまた、真実であろう。あるいは少なくとも、書誌データについていえば、検索に引っかからない限り、「出版しなかったも同然」となるのであって、こうした大手検索サイトにおいてヒットするか、あるいはその検索結果が上位に表示されるかどうかは、ビジネスのうえでも大きな意味を持つことになる。

それでは自分の作品が読まれさえすればよいのか。単に読まれるだけでは自己満足に過ぎないだろう。さまざまな形で発表された知識・情報を自由に摂取でき、そこで得た情報をもとに自由に議論を闘わせ、そして好きなことを好きな方法で好きなときに発表するという、まさに「表現の自由」が達成できてこそ、意味があるはずだからである。だからこそ、そうした知識・情報の陳列棚として、あるいは単なる棚ではなく、それら知識・情報を整理し提供する場が、社会にとって大切になってくる。

情報が氾濫するデジタル時代においてこそ、そうした「知の公共空間」をどのように構築し、そしてその結果、情報の共有を実現するのかを考えなくてはなるまい。その実現方法としてはどのようなものが相応しいのか、その中でマスメディアはどのような役割を期待されているのか。ここでは、出版物を素材に考えてみることにしたい。そしてそれはまた、「みんなのため」には情報の流通をどう構想することがよいのかを見つけることでもある。
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一週遅れのギリシャを先頭に

未唯へ

 眠たい。かなり疲れているのか。分からない。1時前に寝て、4時に起きた。その途中に2回起きています。

 木曜日は午前中、休憩です。今日借りる本次第です。朝の5時くらいから処理に入っている予感がします。

編集の見出し付け

 午前中は第8章です。少し、乗ってきました。今まで。集めて、分類することで汲々としていた。それをまとめて、次元を上げることを行っています。その作業自体が社会ライブラリのシミュレーションです。

 本業がなかなかまとまらないですね。第8章の詳細に見出しをつけています。作業自体は知的ですが、その分、時間が掛かります。

一週遅れのギリシャ

 ギリシャを一周遅れで、次の世界の先頭にさせたい。そのために、現在、先頭の北欧と関係づけることです。個人主義をベースにしながら、新しいコミュニティを作り出す。都市国家とアゴラの世界、そして宣託もある世界ですね。最後は観光立国に役立てます。

 ギリシャは危機感を持ち始めている。日本は持っていない。この会社も持っていない。だから、ギリシャを応援したい。そのためにもロバニエミ図書館を実感したい。

 ギリシャの若者は本を読まないし、図書館はパッとしないと言っていた。だけど、アゴラとかソクラテスの世界の場所にある国です。本をもっと楽しめるはずです。

 姪が有り難いのは、誘ってくれることです。確固たるものを持っています。

 姪にしても、ギリシャのことはもっと話したいでしょう。旦那のことは話さないですね。

 それをギリシャを変えることに使ってもらいたい。

販売店システムと社会システム

 販売店システムを考えながら、社会システムを同時に考えています。特に、社会ライブラリの役割は大きいです。これは画期的なものです。

 社会ライブラリは貯めておくだけではダメです。これを使っていかないといけない。これは販売店システムのライブラリも一緒です。いかにして、知恵にしていくかです。

詳細コメントの例
 8.2.1.1 全国光通信
  ■ほぼ、キャリア決定・・・懸念事項
  ■夢バージョン・・・つながるとの関係
  ■販売店への説明資料・・・なぜ、Nは高くなるのか
  ■地上と無線・・・WiMaxの使い方
  ■ネットワークの強み・・・災害時の対応
  ■つながるネット・・・日常と非日常
  ■ネットワーク計画・・・インフラアプリ
  ■ネットワークの検討会・・・ネットワーク会社の役割
  ■報告先・・・キャリア決定
 8.2.1.2 店舗内までスルー
  ■ネットワーク会社の役割・・・ネットの上での提案
  ■無線LANのセキュリティ設定・・・コストアップ
  ■イントラのセキュリティ・・・スルー性
 8.2.1.3 無線環境提供
  ■Wifiスポットとの関係・・・つながるサービス
  ■無線環境の使い方・・・循環を示す
  ■デジタル・ライブラリの感想・・・ケータイの理由
 8.2.1.4 大量データ処理
  ■100Mを目的は映像・・・プルをどう作る
  ■ポータルとライブラリ・・・プル型のコントロール
  ■地上配信・・・4年前とどう違う
  ■双方向のつながり・・・販売店でのコンテンツ
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情報と図書館

『図書館空間のデザイン』より

情報とは、時系列上に並べたときに最も先端にある知識と言い変えてもよい。既知のものとして認識され、整理され、体系化された知識のような普遍性は、未だ有していないものでもある。やがて知識の体系に組み入れられる可能性のあるものもあれば、一過性の知識の断片でしかないものも、あるいはある特定の人にとってのみ有益なものも、結果的には何の役にも立たないというものもある。情報とは知識としての評価が定まっていないものでもある。

私たちは、少々情報という言葉に惑わされてしまっている。研究の世界においても、ビジネスの世界においても、日常生活においても、情報は活動にとって重要なインプットである。しかし、情報の種が情報と成り得るのかどうかが問題なのである。

情報の種を情報の芽として萌芽させるのは、その人やその組織がすでにもっている知識と情報を嗅ぎ分ける感官である。貧しい土壌には、情報種は舞い降りてこない。たとえ舞い降りてきたとしても、情報の芽は萌芽しない。仮にそこで萌芽したとしても、大きな情報融合とはなりえない。

とすれば、いつ舞い降りてくるかわからないそのときを問題にする情報以前に、それ以前の知識の習得と感官の習熟させることの方が優先度の高い課題となる。そのように仮定してみると、次のようなことが考えられる。

 ・図書館の第一義的な価値は知識の集積にある。その知識には、古いものから新しいものまである。メディアの形式も問わない。古典的な知識には安定性と普遍性がある。一方、新しい知識には先見性がある。けれども、もしかすると新しい知識は題賠を含み、やがて淘汰され、消滅する可能性もある。

 ・媒体にはそれぞれの特質がある。知識を求めたならば、様々な方法で知識を得ることができる。それらが大量に、しかも整理された状態で用意されて、共時的に活用できる場所は、図書館をおいてほかにはない。

 ・本や媒体を介する資料には、作者の一人よがりではなく、編者・編集者などのハードルをクリアしたという安定感がある。また、本は読者本位にどこからでも読むこともできれば、急いでも、ゆっくりでも読むことができる。

 ・音声は、読むよりも理解がしやすい。これは、生成過程にまで及ぶ言語の特性に由来するものかもしれないが、知識は媒体ではなく生きた人間に帰属することを意味し、その場の臨場感も加わっている。プレゼンテーションのセミナーなどでは、聴くことの大部分は視覚によってもたらされるという指導を受けることからも、見当違いではないだろう。

 ・画像や映像は、「百聞は一見に如かず」の通り、目からの情報量は他の器官を通じて仕入れるものよりもはるかに多い。どんなに克明に言葉で説明したとしても、画像や映像を超える正確な説明が困難である。インターネットは、いまの情報を得ることに都合がよい。自分から発信することも可能である。しかも、文字も画像も映像も含めた様々な言語によって表現可能である。どのような手段に依るとしても、図書館において「情報」の提供はひとつの側面に過ぎない。「情報となる可能性のあること」を大雑把に捉えるとするならば、世の中の知識を時系列上に並べたとき、その先端にある一部分である。それが世の中にとって普遍的な有責性をもっものとなれば、やがて知識の総体のなかに組み入れられ、そうでないならば知識の底辺に埋もれていくだろう。それらを整理するのも図書館の役割であり、社会的な機能である。
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国際政治と多元主義

『国際政治史』より 21世紀の課題

イラクで、アフガニスタンで、パレスチナで、ロシアのカフカス地方で、そしてスーダンをはじめアフリカ各地で、紛争やテロは止むことを知らず、数え切れない無事の民が犠牲になっている。いったい、194 (2010年時点)を数える地球上の国家間に、あるいはそれを上回る多様なエスニック・グループ間に、紛争は不可避なのか。「ゲームとしての戦争]や「文明の衝突」が、爛熟した人類社会の宿命だと言うべきなのか。

イラクやアフガニスタンで今なお続く紛争やテロは、大国の武力介入がもたらした結果であることを私たちは知っている。パレスチナの紛争についても、間違いなく大国の歴史的責任を指摘することができる。そして、最も深刻な問題は、大国とりわけアメリカの力による介入政策が、本来、価値多元的本質を基礎に構築された「国際社会」の秩序原理を根こそぎ壊そうとしたことである。アフガニスタン、イラクヘの軍事介入は、20世紀の国際社会が営々と築き上げた平和と安全の秩序原理、すなわち国際連合憲章が定める国家主権原則と武力行使禁止原則、そして集団安全保障原則を踏みにじる行為であった。ブッシュ(Jr)政権を支えな「ネオコン」の対外政策には、世界における価値多元性・文化的多元性や「国際社会」の多元的構造を承認する思想や論理が本質的に欠如している。彼らは、「自由民主主義」を核とするアメリカ的価値観を絶対化し、これを世界に拡大する「明白な天命」を疑おうとしない。それは「アメリカ帝国」を求める思想と論理である。

しかし、「アメリカ帝国」は実現可能であるのか。それは地球上の人々にとって耐えうる政治空間となりうるのか。「秩序」をもたらしてこその「帝国」であるとすれば、イラクやアフガニスタンの事例に秩序を備えた「帝国」の可能性を見出すことはできない。「帝国」は多元的価値観や文化の共存の上に存在しうるものと考えれば、「ネオコン」の価値絶対主義は「帝国」の要件とも衝突する。何よりも、世界の大多数の人々は「アメリカ帝国」を欲していない。今日求められているのは、異なった価値観、異なった文化の存在を承認し、多元的価値観と多元的な文化のF共生」を保証する世界秩序である。

17世紀中葉のヨーロッパに生まれた「国際社会」は、本来、価値多元主義に基づく秩序であった。「均質な主権国家」という擬制は、反面、非政治的側面における価値の多元性の許容を意味したのである。しかし、「国際社会」はただちに平和や安定につながる仕組ではなかった。「国際社会」に展開する諸国家間の政治は「パワーをめぐる競争的闘争」であると定式化された。パワー・ポリティックスはパワーの偏在を生み、大国による小国支配に帰結する。また、パワー・ポリティックスは、パワーの衝突と、パワーの究極的発動である戦争を不可避とする。第一次世界大戦までの国際社会は、以上のような姿を繰り返した。

20世紀の国際社会は、パワー・ポリティックスの制御の仕組を考え出した。戦争の違法化と紛争の平和的解決の誓約、そしてこれを保障する集団安全保障体制である。2度目の世界大戦の後に設立された国際連合は、加盟国の主権の尊重と平等をうたうとともに、「武力による威嚇又は武力の行使」を全面的に禁止し、国際紛争の平和的・集団的解決を加盟国に義務付けた。これが平和と安全保障に関する20世紀国際社会の知恵であった。ところが、21世紀を迎えた世界において、20世紀国際社会が産み落とした平和と安全保障の基本原則が揺るがされているのである。

21世紀は「国際社会」を乗り越えるのか。それとも、「世界化した国際社会」に、平和と安全保障のための新たな21世紀的叡智を付け加えうるのか。

経済に始まり文化の領域に至るグローバル化が進行する中で、主権国家の枠組の有意性が問われている。他方、経済を中心とするグローバル化の進行は、逆説的ではあるが、地域の個性化あるいは自己主張の許容を必要としている。なぜなら、本来は多様な文化や価値観を持った諸地域の相互交流の拡大であるはずのグローバル化が、実際には経済活動の世界的な一元化のみならず、地域的な価値観や文化を排除する価値観や文化の均一化を伴って進行しているからである。「均一化」に埋没し、やがて「無」に陥らないためには、地域の個性化と、異なった価値観や文化の相互承認・相互理解と「共生」の思想が必要である。地球上の大部分では、地域的な政治権力(国家)が依然としてその役割を期待されていることを否定できない。一元的支配の枠組としての「帝国」の実現はむろんのこと、ネグリやハートの言うグローバルな民主化や市場経済化の結果として生まれる「脱中心的な世界秩序」としての「帝国」の展望も見えない。
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チューターからの推薦図書の扱い

チューターからの推薦図書の追加がありました。豊田市中央図書館で調査しました。社会ライブラリのあり方を考えさせられました。図書館を中核として、本の紹介だけでなく、内容の伝達などが必要になってくる。

それにしても、ローカルのローカルには色々な人がぶら下がっているものです。

◎はネット依頼済み、○は借り出し可能、△は入庫なしです。◎と○は水曜日に取りに行きます。金曜日の午前中までに処理予定。

【市民参加・市民活動・多主体協働系】

 ◎『地域協働の科学-まちの連携をマネジメントする-』(佐藤滋・早田宰編著、成文堂、2005年)
  318.8/サト/
  行政、市民、NPO、地域団体等の「地域協働」について、なかでもその進んだ形態である「パートナーシップ」を中心に、理論と実践的方法に関して、現場での社会実験を進めながらの共同研究の成果を取りまとめる。

 △『参加と協働のデザイン-NPO・行政・企業の役割を再考する-』(世古一穂編著、学芸出版社、2009年)

 △『コミュニティビジネス入門-地域市民の社会的事業-』(風見正三・山口浩平編著、学芸出版社、2009年)

 ◎『地域社会形成の思想と論理-参加・協働・自治-』(松野弘、ミネルヴァ書房、2004年)
  361.7/マツ/
  市民が地域社会の主体の立場から、市民的公共性を価値基盤としながら、地域社会形成のためにどのような役割を果たしていくべきかという基本的な視点を踏まえ、地域住民(市民)と行政による「協働」の可能性を検討する。

 ◎『市民参加と合意形成-都市と環境の計画づくり』(原科幸彦編著、学芸出版社、2005年)
  518.8/ハラ/
  「参加」が目標の時代は終わった。実効性ある市民参加とは、意思決定への反映! 「意味ある応答」を保証するための、「自由討議の場」「計画の推進」「評価」など幅広く検証し、あるべき改革の方向を示す。

 ◎『市民主体の環境政策(上)-条例・計画づくりからの参加-』(高橋秀行、公人社、2000年)
  519.1/タカ/1
 ◎『市民主体の環境政策(下)-多様性あって当然の参加手法-』(高橋秀行、公人社、2000年)
  519.1/タカ/2

 △『中部地方の市民参加型まちづくり行政のプラットフォームを求めて』((社)日本都市計画学会中部支部中部地方市民参加型まちづくり研究会、2001年)

 △『まちづくり市民事業-新しい公共による地域再生-』(佐藤滋編著、学芸出版社、2011年)

 ○『特区・地域再生のつくり方』(御園慎一郎・服部敦他編著、ぎょうせい、2008年)
  318.6/ミソ/
  地域のこだわりが日本を変える! 特区・地域再生で培われた知恵を、地域活性化に活かすべく、地域と国の特区・地域再生の担い手が実際の体験を基に解説。太田市「教育特区」、遠野市「どぶろく特区」など多数掲載。
【人口減少・コンパクトシティ系】

 ○『日本版コンパクトシティ-地域循環型社会の構築』(鈴木浩、学陽書房、2007年)
  518.8/スズ/
  「持続可能な都市」をいかに次世代に引き継ぐか? 2006年の「まちづくり三法」改正で注目される、人口減少・高齢社会に適応した“歩いて暮らせるコンパクトなまちづくり”の考え方・方策を提示。

 △『都市のクオリティ・ストック―土地利用・緑地・交通の統合戦略』(林 良嗣他、鹿島出版会、2009年)

 △『「都市縮小」の時代』(矢作弘、角川書店、2009年)

 △『人口減少時代の都市計画-まちづくりの制度と戦略』(大西隆他、学芸出版社、2011年)

 △『人口減少時代のおける土地利用戦略-都市周辺部の持続可能性を探る-』(川上光彦他+土地利用研究会、学芸出版社、2010年)

 ○『撤退の農村計画-過疎地域からはじまる戦略的再編』(林直樹・斉藤晋編著、学芸出版社、2010年)
  611.15/ハヤ/
  介 強制的な移転や放置には反対だが、すべてを維持するのは非現実的。生活と共同体、国土の保全を見据えた「選択的な撤退」について論じる。過疎集落の現実を直視した「もうひとつの提案」。

 ○『コンパクトシティの計画とデザイン』(海道清信、学芸出版社、2007年)
  518.8/カイ/
  欧米の最新の潮流と我が国の取り組み事例を踏まえて、「コンパクトシティとはなにか」「どのように計画・デザインするのか」についてまとめた書。実践的な「日本型コンパクトシティ」のあり方を提起する。
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新しい社会に向けて

『3.11大震災』より

震災から3ヵ月が経った。正直なところ、何がどこまで解明され、今何が本当に必要とされているのか、未だに正確につかめていない。現場で起きている事象の複雑さは、想像を遥かに超えたところにあるのだろうし、それを把握せぬまま復興に向けた絵を描くということには、どうしても違和感が残る。被災された方々がすでに送っている日常と、そこで培われている数多くの知恵と勇気、そして東北を基盤に活動する優れた建築家たちが継続している活動を信じるからこそ、僕は東京での日常を、ごく当たり前に送りたいとも思う。そのうえでなお、都市や建築に携わる者としてどうしても記しておきたいことがふたつある。

ひとつは、シェアを前提とした都市計画ができないか、ということである。今回の津波が僕たちに突きつけたことのひとつは、いくら防波堤を高くしても、いくら家を頑強にしても、所詮限界があるという当たり前の事実であった。自然の脅威をハードによって防ぐという古典的な考えは、結果的に壊滅的な被災地と非被災地との残酷な線引きをもたらし、その両者の全く異なる様相が、二重に復興を困難にしている。もし仮に、海沿いの低地を共用の仕事場や食事の場などとしてシェアし、高台に最低限の財産を確保できるような拠点を持つという、ふたつの場所を家とするようなことが可能であったなら、被害が全くゼロにはできないにせよ、あの残酷な線引きは避けられたように思うし、また土地の所有関係の複雑さに振り回されることのない低地が、復興に向けての余地として残されることにもつながったと思う。このことは、戦後長く続いてきた社会資本の私有化と、その結果生み出された都市の均質化、つまり山間部であっても海辺であっても同じように区画された土地に家を建てるという制度の見直しを迫るものである。

もうひとつは、津波が内陸奥深くまで押し寄せることを前提に、その流れや引き波による瓦磯の影響が最小限になるような地点を、地形との関係性の中で定位し、そこに庁舎や、消防署、警察署、公民館などの公共施設を高層化して分散配置する、ということである。フット・プリントを可能な限り小さくして波の影響を最小限にし、避難所も兼ねることで、さらに小さな単位に分節された地域の拠り所とする。そうすれば、無傷のままであるとは言えないが、自治体の機能停止は最低限避けられたのではないか。つまり公共施設の概念を拡張し、中心と周縁といった地方都市の構造の見直しを図るというものである。

このふたつのことは、すでに多くの人が指摘していることかもしれない。リスクをゼロにするのではなく、可能な限り減らし、分散することを考える。自然をコントロールするのではなく、寄り添う方法を考える。そして土地の地勢や気候、あらゆる自然の振る舞いを理解したうえで、人や建築の集まり方をデザインする。考えてみれば当たり前のことであるし、それは建築家が本来備えていなくてはならない最も基本的な技術であるはずである。

この復興は、当然のことながら三陸のすべての街が、再び不安のない日常を取り戻すことを目標とするが、同時にがのプロセスの中で、都市に関わる者は、土木や都市や建築といった既成の枠組みを超えて改めてこの技術を習得し、ハードとソフトが有機的に連携した都市計画を構想するだけの知見を得なくてはならない。それは、この復興が僕たちに課した試練でもあるし、それを乗り越えて初めて僕たちは、日本の将来に希望を持つことができるのではないか。自らの職能への自戒も込めて、そう思う。
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情報と図書館

『図書館空間のデザイン』より

情報とは、時系列上に並べたときに最も先端にある知識と言い変えてもよい。既知のものとして認識され、整理され、体系化された知識のような普遍性は、未だ有していないものでもある。やがて知識の体系に組み入れられる可能性のあるものもあれば、一過性の知識の断片でしかないものも、あるいはある特定の人にとってのみ有益なものも、結果的には何の役にも立たないというものもある。情報とは知識としての評価が定まっていないものでもある。

私たちは、少々情報という言葉に惑わされてしまっている。研究の世界においても、ビジネスの世界においても、日常生活においても、情報は活動にとって重要なインプットである。しかし、情報の種が情報と成り得るのかどうかが問題なのである。

情報の種を情報の芽として萌芽させるのは、その人やその組織がすでにもっている知識と情報を嗅ぎ分ける感官である。貧しい土壌には、情報種は舞い降りてこない。たとえ舞い降りてきたとしても、情報の芽は萌芽しない。仮にそこで萌芽したとしても、大きな情報融合とはなりえない。

とすれば、いつ舞い降りてくるかわからないそのときを問題にする情報以前に、それ以前の知識の習得と感官の習熟させることの方が優先度の高い課題となる。そのように仮定してみると、次のようなことが考えられる。

 ・図書館の第一義的な価値は知識の集積にある。その知識には、古いものから新しいものまである。メディアの形式も問わない。古典的な知識には安定性と普遍性がある。一方、新しい知識には先見性がある。けれども、もしかすると新しい知識は題賠を含み、やがて淘汰され、消滅する可能性もある。

 ・媒体にはそれぞれの特質がある。知識を求めたならば、様々な方法で知識を得ることができる。それらが大量に、しかも整理された状態で用意されて、共時的に活用できる場所は、図書館をおいてほかにはない。

 ・本や媒体を介する資料には、作者の一人よがりではなく、編者・編集者などのハードルをクリアしたという安定感がある。また、本は読者本位にどこからでも読むこともできれば、急いでも、ゆっくりでも読むことができる。

 ・音声は、読むよりも理解がしやすい。これは、生成過程にまで及ぶ言語の特性に由来するものかもしれないが、知識は媒体ではなく生きた人間に帰属することを意味し、その場の臨場感も加わっている。プレゼンテーションのセミナーなどでは、聴くことの大部分は視覚によってもたらされるという指導を受けることからも、見当違いではないだろう。

 ・画像や映像は、「百聞は一見に如かず」の通り、目からの情報量は他の器官を通じて仕入れるものよりもはるかに多い。どんなに克明に言葉で説明したとしても、画像や映像を超える正確な説明が困難である。インターネットは、いまの情報を得ることに都合がよい。自分から発信することも可能である。しかも、文字も画像も映像も含めた様々な言語によって表現可能である。どのような手段に依るとしても、図書館において「情報」の提供はひとつの側面に過ぎない。「情報となる可能性のあること」を大雑把に捉えるとするならば、世の中の知識を時系列上に並べたとき、その先端にある一部分である。それが世の中にとって普遍的な有責性をもっものとなれば、やがて知識の総体のなかに組み入れられ、そうでないならば知識の底辺に埋もれていくだろう。それらを整理するのも図書館の役割であり、社会的な機能である。
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新しい社会に向けて

『3.11大震災』より

震災から3ヵ月が経った。正直なところ、何がどこまで解明され、今何が本当に必要とされているのか、未だに正確につかめていない。現場で起きている事象の複雑さは、想像を遥かに超えたところにあるのだろうし、それを把握せぬまま復興に向けた絵を描くということには、どうしても違和感が残る。被災された方々がすでに送っている日常と、そこで培われている数多くの知恵と勇気、そして東北を基盤に活動する優れた建築家たちが継続している活動を信じるからこそ、僕は東京での日常を、ごく当たり前に送りたいとも思う。そのうえでなお、都市や建築に携わる者としてどうしても記しておきたいことがふたつある。

ひとつは、シェアを前提とした都市計画ができないか、ということである。今回の津波が僕たちに突きつけたことのひとつは、いくら防波堤を高くしても、いくら家を頑強にしても、所詮限界があるという当たり前の事実であった。自然の脅威をハードによって防ぐという古典的な考えは、結果的に壊滅的な被災地と非被災地との残酷な線引きをもたらし、その両者の全く異なる様相が、二重に復興を困難にしている。もし仮に、海沿いの低地を共用の仕事場や食事の場などとしてシェアし、高台に最低限の財産を確保できるような拠点を持つという、ふたつの場所を家とするようなことが可能であったなら、被害が全くゼロにはできないにせよ、あの残酷な線引きは避けられたように思うし、また土地の所有関係の複雑さに振り回されることのない低地が、復興に向けての余地として残されることにもつながったと思う。このことは、戦後長く続いてきた社会資本の私有化と、その結果生み出された都市の均質化、つまり山間部であっても海辺であっても同じように区画された土地に家を建てるという制度の見直しを迫るものである。

もうひとつは、津波が内陸奥深くまで押し寄せることを前提に、その流れや引き波による瓦磯の影響が最小限になるような地点を、地形との関係性の中で定位し、そこに庁舎や、消防署、警察署、公民館などの公共施設を高層化して分散配置する、ということである。フット・プリントを可能な限り小さくして波の影響を最小限にし、避難所も兼ねることで、さらに小さな単位に分節された地域の拠り所とする。そうすれば、無傷のままであるとは言えないが、自治体の機能停止は最低限避けられたのではないか。つまり公共施設の概念を拡張し、中心と周縁といった地方都市の構造の見直しを図るというものである。

このふたつのことは、すでに多くの人が指摘していることかもしれない。リスクをゼロにするのではなく、可能な限り減らし、分散することを考える。自然をコントロールするのではなく、寄り添う方法を考える。そして土地の地勢や気候、あらゆる自然の振る舞いを理解したうえで、人や建築の集まり方をデザインする。考えてみれば当たり前のことであるし、それは建築家が本来備えていなくてはならない最も基本的な技術であるはずである。

この復興は、当然のことながら三陸のすべての街が、再び不安のない日常を取り戻すことを目標とするが、同時にがのプロセスの中で、都市に関わる者は、土木や都市や建築といった既成の枠組みを超えて改めてこの技術を習得し、ハードとソフトが有機的に連携した都市計画を構想するだけの知見を得なくてはならない。それは、この復興が僕たちに課した試練でもあるし、それを乗り越えて初めて僕たちは、日本の将来に希望を持つことができるのではないか。自らの職能への自戒も込めて、そう思う。
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社会ライブラリのイメージを作っている

人間を観察する

 人間をどう観察するか。それは単純です。そのためには、課題を4つ出して、トータルでのやり方とローカルでのやり方をやって、どう解決するかです。

 あくまでも、30年です。だから、シナリオにならざるを得ないです。世の中の誰が見ていなくても、自分で生きていける。納得することはないけど。

ローカルのローカル

 環境塾のチューターからコメントが送られてきました。線が細すぎますよね。

 なぜ、それをやっているのか、歴史的にはどういう意味なのか。それの理論的な根拠は何なのか。なぜ、それが言えるのか、なぜ、それを言うのか。ということで、今日は考えることにしました。

 10年掛かって、13500冊を読んでいる人間に読み込むが足りないというのはどういうことですか。あなたみたいな細かいレベル、どうでもいいことをやっていることではなく、根源的なことをやらないと、私は気がすみません。

 ローカルでやる分と、グローバルで考える分と異なります。

道具を変えよう

 ハンズメッセでローディアのA5のGIANT PADを安売りしていたので、買ってきた。100枚以上あります。一日一枚で使っていきます。PROXYでも十分です。

 そして、まとめるのは五次元シートです。毎日を大切にしたい。全て、言葉にします。

 ローディアのジャイアントを運ぶのに、常時、バックを持ちます。これでまた、バックを買う口実ができました。メモではダメです。描くようにします。面倒な時はICレコーダーで入力します。頭の速度と合わせるときです。

 道具で少し改善させましょう。最大の道具は五次元シートです。

次元を上げていく

 チューターもこんな本があるだけではなく。それらから何を得たのかがポイントです。だから、最低でもブログとライブラリが必要です。

 こんな仕組みがあるだけではすまない世界になっていきます。図書館も集まって物から新しい次元のものを作っていきます。それゆえに、社会ライブラリになります。自己進化系です。

 例えば、ある物をまとめた人がいたら、キーワードと一緒に残します。本という形態でも、そうでなくてもいい。それを参照した人のコメントをつけて、メールで流します。
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