goo

ベテルブルグの狂気

『ロシア・中央アジア』より ベテルブルグ

「2002年に出かけた。サミット前でコカコーラの工場を建てていた」

モスクワと100万人都市のグループの間にあって、サンクト・ペテルブルグは、面積がさほど大きくないにもかかわらず、500万人の人口をもつ唯一の都市である。この人口はレニングラードの名前を持っていた頃の人口の3倍である[市の名前は1991年に改名]。この街は皇帝の都として成立したが1918年に失墜し、今も完全に立ち上がってはいない。ただ、常に権威と自立性を失わなかった。この街は、あるときは権力をもち、あるときは権力に反抗し、ということを繰り返してきた。また、ヨーロッパに惹かれ、開放しようとしては失敗する、といったことを繰り返してきた。ペテルブルグはロシアの中で特別な位置を占めており、この街こそ、ロシア辺境都市の中で、中央に君臨する100年来の敵モスクワに対し、自立性をもち続けている唯一の記念すべき場所である。

ペテルブルグが成立したのは、皇帝の気まぐれゆえでも錯乱ゆえでもなく(もっとも、そう見えることは否めない)、ヨーロッパに生き、オランダを讃え、ロシアの将来が西にあり、また海辺にあるととらえた一人の君主が下した、理性ある選択なのである。そのために、皇帝はバルト海の巨大湖の出口にスウェーデン人を追放したのち、彼が領有する数少ない場所の1つであるそこを選んだ。

これはきわめて理に適った戦略的な決定といえる。ただしこの場所には魅力的なところはまったくなかった。ピョートル一世を非難するものは皆、この都市の否定的な側面ばかりを強調する。霧、湿地、寒さ、暗さなどである。「野蛮な獣が住みついた砂漠」(ヴォルテール)、「白っぽい空の下に広がる、粗野で陰僻な」地方(ゴーゴリ)などである。

ピョートル大帝は1703年の時点には、すでに沿岸の周辺に城塞を建てることを決意し、その建設を初めから監視した。ポルタヴァの勝利(1709年)により、この建設にはいっそう拍車がかかった。その頃から、彼は大規模な手段を講じて、ブーシキンの有名な比喩を借りれば「ヨーロッパに対して開かれた窓」を作ろうとした。この比喩の意味するところは、ロシアはヨーロッパではないということである。ピョートル大帝は、オランダ人に湿地の排水を行うように、フランス人ルブロン[フランスの建築家ジャン・バプティスト・アレクサンドル・ルブロン。 1679一1719年。]には街並みの見取り図を作るように。イタリア人たちには建設を行うように命じた。大帝は、スウューデン人、エストニア人、フィンランド人、さらにはトルコ人の囚人と流刑者を何千人も使って、ピロティの上に、石で1つの都市を作らせたが、そのためにほかの都市を石で建設することを禁じたほどである。1725年にピョートル大帝が死ぬ1年前からペテルブルグは公式の首都となっており、すでに7万5000人の人口を抱えていた。19世紀には、この都市の人口はモスクワの人口を超えていたが(当時はモスクワの人口は少なかったのである)、1914年には200万人だった人口も、1924年には70万人に減少した。2つの首都の人口増加を示すカーブは、それ以来、離れる一方である。ボルシェヴィキは、モスクワを安全「整備」しようとした際には、勇んで木造建築物を壊屋取引を禁止し、イコンを含むものを根こそぎ排除した。しかし今回は反対に、皇帝の都を宗教的に完全に修復し、第二次世界大戦で街が破壊されたのちにもこれを実践した。この破壊は、900日間にわたる包囲の間に行われたもので、街は占領されることはなかったが、ひどく損傷を受けた。こうした政策に、国家権力のその場所に対する奇妙なまでの尊敬の念と、偉大さと権力に対するある種の観念を垣間見ることができる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

西方に向けられた緊張

『ロシア・中央アジア』より バルト諸国、強固な独立

「愛知万博でリトアニア館に20回ぐらい、行った。興味深い国です」

ベラルーシとは違って、バルト諸国は1991年以前にも独立、いや歴史的な黄金時代さえ経験していた。これらの国々は、先の大戦。旧ソ連軍・ナチスの侵略、それに引き続く抑圧・政治犯の収容という苦々しい記憶を引きずっており、かなり早いうちに独立要求が公然と表明されていた。1988年以降、国歌と国旗が変更され、リトアニア議会が翌89年5月18日に共和国主権を宣言した。同年8月23日にベルリンの壁崩壊以前に、600kmにわたる人間の輪がタリンからリガを経てヴィリニュスに至るまで3つの民族を繋ぎ、ソ連に挑戦した。3つの共和国とも1990年の2月から5月の間に独立を宣言し、4月には共同市場を成立させた。ゴルバチョフは封鎖によってしか対抗することができなかったが、人々はゴルバチョフに、軍隊を使った暴力的な介入やヴィリニュス市民の死者をほとんど許さなかった(翌91年1月11日から13日)。これは、ゴルバチョフの本当の意味での失墜と、連邦の崩壊に大いに貢献した出来事である。これらの国々の独立は結局、現実には1991年8月のクーデター以降に回復されたのだが、バルト諸国は、独立国家共同体(CTS)の加入に全面的に、しかも猛烈に反対した。そして、自分たちは西ヨーロッパに属していることを執拗に示すため、モスクワに背を向け、ヨーロッパ連合への加盟を求めた。そして待った甲斐があって、95年7月12日に、これに加盟したのだった。

このような毅然たる態度は何十年来の不幸とフラストレーションによって説明されうる。しかしそれでも、そのことは自明というわけでもないし、障害がないというわけでもない。そのことは、独立の指導者を崇め奉った後、この3国の有権者たちは、危機的状況にひるんで、独立の指導者からかっての共産党エリートにあっさりと乗り替えてしまったことで証明される。裏切り、恩知らず、不安、保守主義、見知らぬものに対する恐れ、強力な隣国の機嫌を取りその仕返しを避けようという態度、さらには西側諸国は爪先でしか歩みよらないのに対し、通商を続けるためにロシアの好意を得ようという態度、彼らの振舞いには、おそらくこうしたことすべてが含まれている。こうしたことはまた、政府要人が世界の金融体制に興味本位に煽り立てられて、理性的というよりイデオロギー的に、しかも何の用心もなく、直ちに導入しなければならないと信じ込んでいた、野蛮で勇ましいだけの新自由主義による荒廃が同様に示している。あっという間に、大部分の住民は、自分たちはもう少しは「社会的な」ものをもち続けたいのだ、ということに気がついた。この明らかな回帰現象は、独立は自明であるとしても、その形態は権力者にはどうにとでもなるということ、かっての中枢機関の権力は破壊されてはおらず、その権力を強固にする最高の方法は、ブレーキのきかない資本主義の最も過激な形態を押しつけるぞ、と恫喝することであるということがわかる。

また、これら3つの国は、前体制には組み込まれていなかった管理職や政治的指導者を発掘するのに苦労していること、それに加えて、 800万人の人口のうちロシア人が今でも150万人残っていることにも言及しなければならない。かっての特権者リストの登録者は、ロシア人であれバルト人であれ、財政上のハンドルを握っており、春の森の中の空地のように花開いた銀行の大部分や、コルホーズ起源の農業会社や、さらには官僚の主要ポストを握っている。彼らが、自分のなおいっそうの保身のために部分的には経済危機を煽り立てたという可能性は排除し切れない。反対勢力も、とって代われる指導者を輩出するほどには十分構築されておらず、熟していない。戦利品に手が届かなかったのだ、さらに、1945年から49年の集団化によって奪われたすべての土地、家といった資産を、かっての所有者に回復することを主張したために、きわめて困難な状況に置かれることになった。確かに独立のおかげで、政治や行政の領域で熱意ある若者の数は増えたが、しかし彼らも旧体制の人々によって押しのけられ、改悛させられ、さもなければ環境省や観光省といった副次的な省庁のポストに追いやられはじめている。

もちろん公用語、国旗、道路標識、紋章といったなんらかの象徴的な印も必要であった。ロシアの最後の兵士が、1994年8月31日を最後にバルト三国を去った。もっともロシアは、ラトヴィアのスクルンダのレーダーのように、いくつかの機関を保持する権利を手に入れたが、それは、95年5月4日に施設の一部が見事に取り壊されてしまった
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

第4回環境塾で感じたこと

未唯へ

 ロバニエミの広告を一面で入っていました。人が集まらないのか。フィンエアー一機分を集めるつもりでしょう。

 12月に行くことを奥さんに言いました。寒いから行かないということです。その代わり、灯油サージ代と一人部屋追加分を出してもらうことにしました。

 本当に行かないのかな? 行けば楽しいのに。ラップランド図書館で半日滞在できる。サーメ人に会える。最北端のマクドナルドでハンバークを食べられる。

環境塾のメンバーの意識

 環境問題はいかに持続型社会を作るかです。今は、持続型にも循環型になっていないという、このままで行ったら危ないという感覚が合ってこそ、環境塾に参画しているはずです。

 チューターを含めた、ディスカッションで、メンバーの応募理由が分からなくなった。

 自分にとって何が課題なのか、何をしたいのかが見えてこない。女性は農村をどうしたらいいのか、というところで、観点は持っています。

 問題意識は単純なものでいい。レイチェルが感じた、このままでは「冬」の時代になるで十分です。

変わることは当たり前?

 日本を変えていくことは、震災で大きくピックアップされている。色々な道が提示されている。その時に、なぜ、変えるのかよりも、どのように変えるかが中心です。

 企業でさえ、変わろうとしている。変わらないトやっていかない。その感覚自体はまだまだ概念的です。過去の思考体験から脱却していない。

 幸いにも私は昨年のヒアリングで、販売店経営者の本音を聴くことができた。その先どうなるか分からない。お客様とつながることで、変革に対応できる。

 市民の方が、もっと多様な世界だから、いかに変えていくのかというのは大きな問題です。

役所はリーダーシップを取れるのか

 その時に、リーダーシップという前近代的なものない。創発でしか対応できない。それを持続する仕掛けが必要です。

 そういうものを自分以外に求める理由がわからない。自分からイメージを発信しないと、先が見えてきません。

チューターの危機意識

 チューターには危機意識はないみたいです。技術で解決しようとしています。答は多様なのに、言葉の定義を求めます。これは質問しやすいからでしょう。

 私は言葉の定義はしません。それぞれの人で中身は違ってきます。それらをいかに集めるかです。そういうロジックです。

 政策にしても、サイレントマジョリティという言葉でごまかしています。そういう人たちの発信してもらうこととそれを力にすることが必要です。それがコミュニティでのコラボレーションです。

法律の世界

 包装・リサイクル法の政策担当者にしても、すったもんだで作ったけど、どういう世界を求めたのかが分からない。ドイツがやっているから、作ったみたいです。

 結局、市町村も理解せずに、行っている。市町村の役人にとっては自分の仕事がどうなるかが最大の興味になっている。

 法律の主旨が分からないままです。その次に家電・リサイクル法ができて、クルマも対象になった。皆バラバラです。

 一人ひとりがどういうカタチにしたいのか。市民の問題ということを理解して、ディスカッションして作り上げていく。法律はカタチさえあればので、実質的なものはそこで作ればいい。Think Globally, Act Locallyの世界です。

私は組織は超えています

 私の中では、そういうことをやれないならば、そこまでの組織であり、そこまでの国であるということです。

 これは組織との葛藤と自分が生まれてきた理由から出てきた結論です。名古屋も碌なもんではない。上も下も考えていなし。

 考えるのは、自分のことだけです。

 自分の問題意識を植え付けるつもりはない。自分の問題意識で考えないと意味がない。

 そこで思い出すのは、去年の12月に富山の販売店の社長と6時間に亘り、行った議論そのものです。私は変えません。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )