goo

新しい社会に向けて

『3.11大震災』より

震災から3ヵ月が経った。正直なところ、何がどこまで解明され、今何が本当に必要とされているのか、未だに正確につかめていない。現場で起きている事象の複雑さは、想像を遥かに超えたところにあるのだろうし、それを把握せぬまま復興に向けた絵を描くということには、どうしても違和感が残る。被災された方々がすでに送っている日常と、そこで培われている数多くの知恵と勇気、そして東北を基盤に活動する優れた建築家たちが継続している活動を信じるからこそ、僕は東京での日常を、ごく当たり前に送りたいとも思う。そのうえでなお、都市や建築に携わる者としてどうしても記しておきたいことがふたつある。

ひとつは、シェアを前提とした都市計画ができないか、ということである。今回の津波が僕たちに突きつけたことのひとつは、いくら防波堤を高くしても、いくら家を頑強にしても、所詮限界があるという当たり前の事実であった。自然の脅威をハードによって防ぐという古典的な考えは、結果的に壊滅的な被災地と非被災地との残酷な線引きをもたらし、その両者の全く異なる様相が、二重に復興を困難にしている。もし仮に、海沿いの低地を共用の仕事場や食事の場などとしてシェアし、高台に最低限の財産を確保できるような拠点を持つという、ふたつの場所を家とするようなことが可能であったなら、被害が全くゼロにはできないにせよ、あの残酷な線引きは避けられたように思うし、また土地の所有関係の複雑さに振り回されることのない低地が、復興に向けての余地として残されることにもつながったと思う。このことは、戦後長く続いてきた社会資本の私有化と、その結果生み出された都市の均質化、つまり山間部であっても海辺であっても同じように区画された土地に家を建てるという制度の見直しを迫るものである。

もうひとつは、津波が内陸奥深くまで押し寄せることを前提に、その流れや引き波による瓦磯の影響が最小限になるような地点を、地形との関係性の中で定位し、そこに庁舎や、消防署、警察署、公民館などの公共施設を高層化して分散配置する、ということである。フット・プリントを可能な限り小さくして波の影響を最小限にし、避難所も兼ねることで、さらに小さな単位に分節された地域の拠り所とする。そうすれば、無傷のままであるとは言えないが、自治体の機能停止は最低限避けられたのではないか。つまり公共施設の概念を拡張し、中心と周縁といった地方都市の構造の見直しを図るというものである。

このふたつのことは、すでに多くの人が指摘していることかもしれない。リスクをゼロにするのではなく、可能な限り減らし、分散することを考える。自然をコントロールするのではなく、寄り添う方法を考える。そして土地の地勢や気候、あらゆる自然の振る舞いを理解したうえで、人や建築の集まり方をデザインする。考えてみれば当たり前のことであるし、それは建築家が本来備えていなくてはならない最も基本的な技術であるはずである。

この復興は、当然のことながら三陸のすべての街が、再び不安のない日常を取り戻すことを目標とするが、同時にがのプロセスの中で、都市に関わる者は、土木や都市や建築といった既成の枠組みを超えて改めてこの技術を習得し、ハードとソフトが有機的に連携した都市計画を構想するだけの知見を得なくてはならない。それは、この復興が僕たちに課した試練でもあるし、それを乗り越えて初めて僕たちは、日本の将来に希望を持つことができるのではないか。自らの職能への自戒も込めて、そう思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

情報と図書館

『図書館空間のデザイン』より

情報とは、時系列上に並べたときに最も先端にある知識と言い変えてもよい。既知のものとして認識され、整理され、体系化された知識のような普遍性は、未だ有していないものでもある。やがて知識の体系に組み入れられる可能性のあるものもあれば、一過性の知識の断片でしかないものも、あるいはある特定の人にとってのみ有益なものも、結果的には何の役にも立たないというものもある。情報とは知識としての評価が定まっていないものでもある。

私たちは、少々情報という言葉に惑わされてしまっている。研究の世界においても、ビジネスの世界においても、日常生活においても、情報は活動にとって重要なインプットである。しかし、情報の種が情報と成り得るのかどうかが問題なのである。

情報の種を情報の芽として萌芽させるのは、その人やその組織がすでにもっている知識と情報を嗅ぎ分ける感官である。貧しい土壌には、情報種は舞い降りてこない。たとえ舞い降りてきたとしても、情報の芽は萌芽しない。仮にそこで萌芽したとしても、大きな情報融合とはなりえない。

とすれば、いつ舞い降りてくるかわからないそのときを問題にする情報以前に、それ以前の知識の習得と感官の習熟させることの方が優先度の高い課題となる。そのように仮定してみると、次のようなことが考えられる。

 ・図書館の第一義的な価値は知識の集積にある。その知識には、古いものから新しいものまである。メディアの形式も問わない。古典的な知識には安定性と普遍性がある。一方、新しい知識には先見性がある。けれども、もしかすると新しい知識は題賠を含み、やがて淘汰され、消滅する可能性もある。

 ・媒体にはそれぞれの特質がある。知識を求めたならば、様々な方法で知識を得ることができる。それらが大量に、しかも整理された状態で用意されて、共時的に活用できる場所は、図書館をおいてほかにはない。

 ・本や媒体を介する資料には、作者の一人よがりではなく、編者・編集者などのハードルをクリアしたという安定感がある。また、本は読者本位にどこからでも読むこともできれば、急いでも、ゆっくりでも読むことができる。

 ・音声は、読むよりも理解がしやすい。これは、生成過程にまで及ぶ言語の特性に由来するものかもしれないが、知識は媒体ではなく生きた人間に帰属することを意味し、その場の臨場感も加わっている。プレゼンテーションのセミナーなどでは、聴くことの大部分は視覚によってもたらされるという指導を受けることからも、見当違いではないだろう。

 ・画像や映像は、「百聞は一見に如かず」の通り、目からの情報量は他の器官を通じて仕入れるものよりもはるかに多い。どんなに克明に言葉で説明したとしても、画像や映像を超える正確な説明が困難である。インターネットは、いまの情報を得ることに都合がよい。自分から発信することも可能である。しかも、文字も画像も映像も含めた様々な言語によって表現可能である。どのような手段に依るとしても、図書館において「情報」の提供はひとつの側面に過ぎない。「情報となる可能性のあること」を大雑把に捉えるとするならば、世の中の知識を時系列上に並べたとき、その先端にある一部分である。それが世の中にとって普遍的な有責性をもっものとなれば、やがて知識の総体のなかに組み入れられ、そうでないならば知識の底辺に埋もれていくだろう。それらを整理するのも図書館の役割であり、社会的な機能である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

新しい社会に向けて

『3.11大震災』より

震災から3ヵ月が経った。正直なところ、何がどこまで解明され、今何が本当に必要とされているのか、未だに正確につかめていない。現場で起きている事象の複雑さは、想像を遥かに超えたところにあるのだろうし、それを把握せぬまま復興に向けた絵を描くということには、どうしても違和感が残る。被災された方々がすでに送っている日常と、そこで培われている数多くの知恵と勇気、そして東北を基盤に活動する優れた建築家たちが継続している活動を信じるからこそ、僕は東京での日常を、ごく当たり前に送りたいとも思う。そのうえでなお、都市や建築に携わる者としてどうしても記しておきたいことがふたつある。

ひとつは、シェアを前提とした都市計画ができないか、ということである。今回の津波が僕たちに突きつけたことのひとつは、いくら防波堤を高くしても、いくら家を頑強にしても、所詮限界があるという当たり前の事実であった。自然の脅威をハードによって防ぐという古典的な考えは、結果的に壊滅的な被災地と非被災地との残酷な線引きをもたらし、その両者の全く異なる様相が、二重に復興を困難にしている。もし仮に、海沿いの低地を共用の仕事場や食事の場などとしてシェアし、高台に最低限の財産を確保できるような拠点を持つという、ふたつの場所を家とするようなことが可能であったなら、被害が全くゼロにはできないにせよ、あの残酷な線引きは避けられたように思うし、また土地の所有関係の複雑さに振り回されることのない低地が、復興に向けての余地として残されることにもつながったと思う。このことは、戦後長く続いてきた社会資本の私有化と、その結果生み出された都市の均質化、つまり山間部であっても海辺であっても同じように区画された土地に家を建てるという制度の見直しを迫るものである。

もうひとつは、津波が内陸奥深くまで押し寄せることを前提に、その流れや引き波による瓦磯の影響が最小限になるような地点を、地形との関係性の中で定位し、そこに庁舎や、消防署、警察署、公民館などの公共施設を高層化して分散配置する、ということである。フット・プリントを可能な限り小さくして波の影響を最小限にし、避難所も兼ねることで、さらに小さな単位に分節された地域の拠り所とする。そうすれば、無傷のままであるとは言えないが、自治体の機能停止は最低限避けられたのではないか。つまり公共施設の概念を拡張し、中心と周縁といった地方都市の構造の見直しを図るというものである。

このふたつのことは、すでに多くの人が指摘していることかもしれない。リスクをゼロにするのではなく、可能な限り減らし、分散することを考える。自然をコントロールするのではなく、寄り添う方法を考える。そして土地の地勢や気候、あらゆる自然の振る舞いを理解したうえで、人や建築の集まり方をデザインする。考えてみれば当たり前のことであるし、それは建築家が本来備えていなくてはならない最も基本的な技術であるはずである。

この復興は、当然のことながら三陸のすべての街が、再び不安のない日常を取り戻すことを目標とするが、同時にがのプロセスの中で、都市に関わる者は、土木や都市や建築といった既成の枠組みを超えて改めてこの技術を習得し、ハードとソフトが有機的に連携した都市計画を構想するだけの知見を得なくてはならない。それは、この復興が僕たちに課した試練でもあるし、それを乗り越えて初めて僕たちは、日本の将来に希望を持つことができるのではないか。自らの職能への自戒も込めて、そう思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

社会ライブラリのイメージを作っている

人間を観察する

 人間をどう観察するか。それは単純です。そのためには、課題を4つ出して、トータルでのやり方とローカルでのやり方をやって、どう解決するかです。

 あくまでも、30年です。だから、シナリオにならざるを得ないです。世の中の誰が見ていなくても、自分で生きていける。納得することはないけど。

ローカルのローカル

 環境塾のチューターからコメントが送られてきました。線が細すぎますよね。

 なぜ、それをやっているのか、歴史的にはどういう意味なのか。それの理論的な根拠は何なのか。なぜ、それが言えるのか、なぜ、それを言うのか。ということで、今日は考えることにしました。

 10年掛かって、13500冊を読んでいる人間に読み込むが足りないというのはどういうことですか。あなたみたいな細かいレベル、どうでもいいことをやっていることではなく、根源的なことをやらないと、私は気がすみません。

 ローカルでやる分と、グローバルで考える分と異なります。

道具を変えよう

 ハンズメッセでローディアのA5のGIANT PADを安売りしていたので、買ってきた。100枚以上あります。一日一枚で使っていきます。PROXYでも十分です。

 そして、まとめるのは五次元シートです。毎日を大切にしたい。全て、言葉にします。

 ローディアのジャイアントを運ぶのに、常時、バックを持ちます。これでまた、バックを買う口実ができました。メモではダメです。描くようにします。面倒な時はICレコーダーで入力します。頭の速度と合わせるときです。

 道具で少し改善させましょう。最大の道具は五次元シートです。

次元を上げていく

 チューターもこんな本があるだけではなく。それらから何を得たのかがポイントです。だから、最低でもブログとライブラリが必要です。

 こんな仕組みがあるだけではすまない世界になっていきます。図書館も集まって物から新しい次元のものを作っていきます。それゆえに、社会ライブラリになります。自己進化系です。

 例えば、ある物をまとめた人がいたら、キーワードと一緒に残します。本という形態でも、そうでなくてもいい。それを参照した人のコメントをつけて、メールで流します。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )