goo

ムハンマドの生涯

『図説 イスラム教の歴史』より イスラム教とコーラン

・預言者ムハンマドに関する資料

 イスラム教の創始者ムハンマドの生涯はよく知られているが、その生涯で起きた一つ一つの出来事を客観的に跡づけることは難しい。その最大の理由は同時代の外部資料がないことであり、ムハンマドの生涯について語ろうとするならば、預言者没後に書かれたイスラム教徒の文献に頼るしかない。

 異教徒がムハンマドについて言及している最古の文献としては六六〇年頃に書かれたアルメニア語の年代記があるが、アブラハムの宗旨を重視していたという記述はあるものの、それ以上の具体的な言及はない。そうなると信徒が書き残した文献を参照するしかないわけだが、神や天使といった超常的存在がしばしば介入し、奇蹟によって彩られた記述から史実を抽出することはたやすいことではない。

 イスラム教の文献の中で最古のものは、預言者が没してから約二〇年後に編纂されたと伝えられる啓典コーランであろう。しかし、ムハンマドという固有名詞が四度しか出てこないことからもわかるように、具体的な記述がコーランには乏しく、それだけで預言者の生涯を再構成することは難しい。

 コーラン以後に書き残された文献としては、ハディース(伝承)と預言者伝がある。ハディースについては後に触れることになるが、九世紀以降に書き残され、ハディース集に収録された預言者伝承が、どこまで古い時代まで遡るのか、という問題について、非イスラム教徒の学者の間では明確な結論は出ていない。また、ハディース集における記述はしばしば断片的であり、伝承同士が相互に矛盾することもあるので注意が必要である。

 預言者の生涯について語る場合に最も有益な資料となるのは預言者伝だろう。現存する預言者伝は、ハディース集が編纂される以前の八世紀にまで遡り、ハデイース集とは違い時代を追った歴史的な記述となっている。預言者への崇敬が前提となっている点は留意しなければならないが、次項では主に預言者伝に基づいてムハンマドの生涯について概略することにしたい。

・ムハンマドの前半生

 ムハンマドは五七〇年頃に父アブドゥッラーと母アーミナの子として誕生したとされるが、ムハンマド誕生時にはすでに父は亡くなっており、アーミナは、夫の父であるアブドゥルムッタリブ(没年不詳)に夫の子として認知してもらったという。ムハンマドの祖父アブドゥルムッタリブは、メッカを支配するクライシュ族のハーシム家に属していた。アラビア半島の主要都市の一つ、メッカは当時転換期にあったようである。この社会では多くの神々が信じられ、その偶像が崇められており、詩人やシャーマンが神やジン(精霊)といった超常的存在と人間を媒介する役割を演じていた。既に述べたようにアラビア半島に一神教の伝統が浸透しつつあった時代であったが、クライシュ族はメッカのカアバ神殿に神々の偶像奮集め、多くの利gMを得ていたという。また、農業が困難な地域であるため当初は遊牧に依拠する経済であったが、カアバ神殿への巡礼者が増えたことで市が立ったことがきっかけとなり、メッカの都市としての規模拡大と商業化が進んでいた。そのため、それまでは遊牧部族社会の中で庇護を受けていた寡婦や孤児らが、貨幣経済が浸透する中で経済的に困窮するようになっていた。ムハンマドはこのような宗教的、社会的、経済的な転換期にその生を受けたのである。

 幼くして母を亡くし孤児となったムハンマドは、机父の庇護下で育ち、祖父の死後は叔父のアブー・ターリブ(六一九年頃没)のもとでアブー・ターリブの息子アリーとともに養育されたという。若き日のムハンマドについては預言者伝も詳細を伝えておらず、隊商に参加したことや「正直者」と呼ばれていたことが知られる程度である。

 ムハンマドは二五歳頃に年上の女性商人ハディージャ(六一九年没)に結婚を申し込まれ、その後彼女との間に三男四女をもうけたという。幸福な結婚生活を営んでいたムハンマドに突然の転機が訪れたのは六一〇年頃であった。メッカ郊外のヒラー山の洞窟に寵もっていた際に突然天使ガブリエルが現れ、神の啓示を伝えたのである。その時に伝えられたとされる啓示がコーラン九六章一~五節「誦め、おまえの主の御名において、(森羅万象を)創造し給うた(主の御名において)、(つまり)彼は人間を凝血から創造し給うた。誦め。そしておまえの主は最も気前よき御方であり、筆によって(書くことを)教え給うた御方であり、(つまり)人間に彼(人間)の知らなかったことを教え給うた(御方である)」である。

 このような異常体験に恐怖したムハンマドはハディージャに助けを求めてとりすがるが、ハディージャに慰められ、彼女のいとこのキリスト教徒に諭されると、自分が預言者であることを自覚し、神のメッセージを人びとに伝えることを決意する。

 ムハンマドは啓示体験に基づいて、自分が神の使徒であること、神は唯一であり創造神であること、死後に来世が待ち受けていること、この世でのおこないに基づいて神の裁きがなされ、来世での行き先が決まることなどを人びとに伝えた。クライシュ族の多くはこのような主張を馬鹿げたことと嘲笑したが、ハディージャ、アリーといった身内だけでなくハーシム家以外の人びとも徐々に入信するようになっていった。すると中傷は迫害へと変わり、イスラム教徒の中から犠牲者も出た。六一九年頃におじアブー・ターリブ、妻ハディージャという有力な後ろ盾が相継いで没すると、預言者の身も危うくなった。このような状況下でムハンマドは、信徒集団全体でのメッカからの逃亡を決意する。

・ムハンマドの後半生

 クライシュ族による迫害が激化する中、ムハンマドはメッカ外での布教活動に力を入れていた。そこで改宗者を得ることに成功した都市が、後にマディーナ・アン=ナビー(預言者の町、いわゆるメディナ)と改称されることになるヤスリブであり、六二二年にムハンマドは信徒だちとともにこの都市に移住する。これがヒジュラ(聖遷)である。この段階で初めて、メッカからの移住者たち(ムハージルーン)-≪メヂィナでの改宗者たち(アンサール)から成る信徒たちの信仰共同体(ウンマ)が形成されたことになる。最初のモスクも建設され、イスラム教に基づく日常生活が営まれるようになった。また、メディナにはユダヤ教を信じる部族が複数存在しており、一神教徒の共同体と本格的に接触するようになったのもメディナ移住以降である。

 メッカ期のムハンマドたちは平和的な布教しかおこなわず、迫害にも耐えるのみであったが、「まことに信仰する者、そして移住し、神の道でする者、それらの者は神の御慈悲を期待できよう」(コーラン二章二一八節)など異教徒に対する聖戦を許容する啓示が下ったのもこの頃とされる。預言者は自ら兵を率いてメッカの多神教徒勢力と戦うことを決意し、その結果おこなわれた最初の大規模な戦闘が六二四年のパドルの戦いであった。この戦いに勝利したムハンマドはウフドの戦いでの苦戦も乗り越え、六二七年にはメディナに襲来したメッカ軍をざん壕を使った戦術で撃退した。これによりムハンマドはメッカの多神教徒に対して最終的に勝利し、六三〇年にはメッカの無血開城に成功する。クライシュ族の指導者アブー・スフヤーン(六五三年頃没、ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの父)をはじめ多神教徒はことごとくイスラム教に改宗し、ムハンマドはアラビア半島の覇権を掌握することになった。

 六三二年、預言者は信徒たちを引き連れメッカ巡礼を挙行した。その後メディナに戻ったムハンマドは病に倒れ、自宅で没しそこに埋葬された。彼の墓は現在では預言者モスクの一部となっている。

・ムハンマドを描くこと

 コーラン三章一四四節で「そしてムハンマドは一人の使徒にすぎず、かつて彼以前にも使徒たちが逝った」と明言されているように、預言者ムハンマドはただの死せる人間とされる。このことは、キリスト教徒が「神の子」イエスに寄せるほどの崇敬や思慕をムハンマドが集めていないことを意味するわけではない。数々の奇蹟に満ちたイエスの生涯とは違い、ムハンマドに関わる奇蹟として有名なものは、一二ページ上段右の図版で紹介した夜の旅・昇天や月が割れたという出来事くらいであり、イエスのようにたくさんの絵画や彫像が造られたわけでもない。イスラム教徒は、絵画などのヴィジュアル素材よりはむしろ文字資料や口承によってムハンマドに接してきた。そのため、キリスト教ではイエスが白人として描かれること自体が問題になり得るが、視覚的な印象が薄いムハンマドの場合にはそのような問題は起きにくい。

 また、生涯独身であったイエスや妻子を捨てて出家したブッダとは違い、ムハンマドは家庭人であり続け、預言者伝やハディース集は人間味溢れるエピソードに満ちている。男性信徒にとってのムハンマドはイエスらよりも身近で親しみやすい存在であり、自分が息子・夫・父として日常生活を送る上での模範になりやすかった。同じようにハディージャやアーイシャ(六七八年没)といった預言者の妻たちやファーティマなどの娘たちは、女性信徒には娘・妻・母としての模範と見なされた。

 二〇〇五年にデンマークの「ユランズ・ポステン」紙が、二〇一五年にはフランスの「シャルリー」エブド」紙がムハンマドの風刺画を掲載すると、世界中のイスラム教徒が激しく反発し大きな話題となった。イスラム教の教義上問題になるのは、ムハンマドの顔を描くことではなくムハンマドを侮辱したことである。預言者の冒涜は死刑が科されることもある重罪であるが、ムハンマドの顔を描くことは教義上のグレーソーンにあり、その扱いは曖昧だった。伝統的には、月が割れる奇蹟の挿絵に見られるように、預言者への敬意と偶像崇拝の忌避のために顔を描かないのが一般的であったが、しばしばムハンマドの顔は描かれ、近現代になっても顔を描く事例がないわけではない。二〇世紀以降になると映像化を試みる者も現れ、映像製作業界においては表現の手法や範囲が問題となっている。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« カード化・電... 平成で日本は... »
 
コメント
 
 
 
Unknown (無名)
2024-05-12 14:35:57
イスラム教を創設した当時のメッカって無政府だし強力な領主が存在しない、エンターテイメントを楽しめるゆとりも無いような社会だったんだよな。
 人道を無視して権力を宗教に集中させてイスラムによる苛政によらないと紀元前から歴史のある周辺地域を追い越せなかったんだよな。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。