TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

古処山へ 先輩と

2020年01月28日 | 山(県外)
ワンゲル同期会の翌日。
先輩と二人で古処山に登った。
先輩は熊本県の天草から来られていたが、天草・英彦山の往復は7~8時間かかるという。
私もそうだが、せっかくここまで来ているのだから、もう一山と考えたのだ。
実は、相談したわけではなかったが、二人とも英彦山にある四王寺滝行きも考えていた。
ところが、英彦山はすっぽりガスの中だったのでそれはあきらめた。

朝の英彦山 


古処山も同じような天気かも知れないが、とにかく登山口まで行ってみてその後の行動を決めようとなった。


はたして、古処林道の終点の登山口 この天気ならと身支度をする。


川に沿って原生林の中を登っていく。


「水船」 古処山城時代からある水場だそうだ。


ここから山頂は指呼の距離なのだが、せっかくなので屛山まで足を伸ばすことにした。


分岐を右へ そこはツゲの広大な原生林が広がっていた。






ツゲの白い花が咲いた頃はどんな景色になるのだろうか。
ツゲの林を抜けると苔むした石灰岩がゴロゴロ横たわる尾根道となった。




ほどなく屛山山頂


気温は3℃


来た道を引き返す。
苔むした岩 「魚岩」と勝手に命名し一人ご満悦。


これは苔むした木の根っ子 森の番人か。


素直に山頂に向かえばいいのに、「大将隠し岩」を目指す。せっかくだから何でも見てやろうと二人とも貪欲である。年はいっているが好奇心は旺盛。



雨に濡れた岩場を慎重に登っていく。


とにかく岩が滑る。3点確保で慎重に、慎重に。


緊張状態が続いたが、ついに到着、奥之院。


入口は狭いが中には入れそうだ。


二人ともギリギリ通過できた。


中からはこんな風に見える


見上げると


この奥の院までも、苦労して登ってきたのだが、さらに上に道が続いている。


慎重に、慎重に岩場を登っていく。


何だ?


「大将隠し」?


さらに上へ上へと登っていく。




山頂付近にたどり着いたのだがそこで迷ってしまった。
GPSは山頂付近にいることを示しているのに、「山頂」の標識を見つけることができないのだ。
そこいらで一番高そうなピークに登るも標識がない。





あきらめかけた頃、岩場群を過ぎたところにある広場で「古処山山頂」の標識を見付ける。




祠があったのでお参りをする。


御神体?


本日の豪華ランチは、道の駅「小石原」で買ったおこわ


昼食後は真っ直ぐ下山

途中で見付けた石仏


この石仏の頭は発泡スチロール?


よく見ると石だった。先ほどの祠の丸い御神体も風雨にさらされるとこのように風化した発泡スチロールのようになるのだろうか。


川沿いにどんどんと下っていく。
古処山往復だけなら片道30分の超楽勝コース。


大きな岩の上に何やら祀ってあった。


帰宅してから調べたら、大きな岩は「牛岩」で、祀ってあるのは「十一面観世音像」とある。
岩も写しておくべきだった… 残念。

そしてゴール



昨日の英彦山に続き、充実の山行となった。
一人だったら今回の屛山往復はなかったかも知れない。
一人の山、二人での山、そして大勢で登る山、
それぞれに味があって面白い。
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昔の仲間と英彦山に シャクナゲ荘に集う

2020年01月27日 | SUWV
昔の仲間が、英彦山に登ろうとシャクナゲ荘に集結した。
私たちの同期会は、年に2回、1月と7月に開催しているが、今回は、幹事のT福の提案で英彦山登山、そしてシャクナゲ荘に一泊ということになった。
同期のメンバーで温泉宿に泊まるのは実に38年ぶりのことである。
半年前から周到に準備し、この企画を成功させてくれた幹事のT福に感謝である。

はじめに英彦山登山、天気とメンバーの体力(勿論、私も)が心配されたのだが……

シャクナゲ荘を出発


宿のマイクロバスで、参道の中腹(神宮下)まで送ってもらう。銅の鳥居からの趣深い参道を歩けないのは残念だったが、脚力が温存できるのは正直ありがたかった。ましてや、午後3時以降は雨の予報で、早めの下山が必要とされているからだ。

いざ、参道を歩き始める。途中からだが、歴史を感じさせるこの参道は実に味がある。


いいね!


あっという間に奉幣殿に到着。元気な顔のうちに記念撮影ということになった。


すぐにはじまる急な登り。誰かが言った「石段の間隔が広すぎる!」


ほどなくして休憩 誰からも異議は出なかった。


杉の巨木の中、石段は続く。


木立の間から


ゆっくりだが確実に高度をあげた。行者堂の前で小休止。誰からも異議は出なかった。


すこぶる順調で、上宮下の広場へと降りていく。


そしてランチタイムの準備。


幹事からコッフェルとブスの応援依頼があっていたが、さすがに今の時代はガスコンロだろう。
ただ、私が持参したコッフェルは38年前のものだ(エバニュー製)。
皆さん手慣れたもので、あっという間に食事の準備ができた。さすが元ワンゲルと感心する。







小雨の降る中、山頂で記念撮影 まだまだみんな笑顔


さて下山 上宮前でも1枚


下山開始


中腹はすっぽり雲の中


ガスの中を降りていく かろうじて天気はもってくれている。


下りも順調で、お互いの近況などを話しているうちに奉幣殿が見えてきた。




降りてきた道を振り返る。杉の木立が霧でフェードアウトしていてなんとも幻想的である。


さらに参道を下る。


ウン?右手の小枝は梅?否! 桜だ。


バスに乗る前に花山商店に立ち寄る。前回、英彦山の古い地図をもらっていたのでそのお礼も兼ねて。

店の中


昔ながらの英彦山がらがら


寄り道をしたので、みんなを待たせてしまっていた。


次は宿泊編である。
まず、温泉で汗を流し


夕食前に反省会と称して4時過ぎから飲み始める。


これらも幹事が準備してくれたもの。
この後、T福の奥さん手作りのがめ煮や鳥の照り焼き、サラダが並び、みなさん異口同音に「宿の夕食はいらないね……」と。(写真を撮り忘れて申し訳ない……)



今年は還暦の年でもあった。お祝いにとT福は純米大吟醸を準備してくれていた。


夕食は宿のレストランで(上の「反省会」は部屋の居間)


そして再び部屋で反省会
実は夕食の30分ほどが酒なしで、4時過ぎから10時までずっと飲んでいたことになる。

別れの朝 最後までみんな笑顔だった。




そういえば38年前は佐賀の佐里温泉だったな。
学生時代はほとんどがテント泊で、みんなで温泉宿に泊まるのは初めてのことだった。
あの時はみんな口々に「ぜいたくしたね」と言っていた。

今は少しニュアンスがちがう。みんなが健康で笑顔で再会できることがなによりだ。
同期のS永とは、思い出の中でしか会えない。

昔の仲間で山に登ろうという、簡単そうで実は難しい企画を実現させてくれたT福に、そして集まった皆んなに感謝の気持ちでいっぱいだ。
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「天草の大江の宿…」へ

2020年01月11日 | 吉井勇
新年1月4日のことである。
鹿児島の用事に、今回は天草経由で行くことにした。
「白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿」と、吉井勇が詠んだ大江の天主堂を訪ねたかったからだ。
まず、長崎県の島原半島南端にある口之津港から熊本県の天草にある鬼池港に渡った。
年始で混んでいるかと思っていたら、豈図らんや、フェリーはガランとしていた。


(口之津港)




鬼池港近くの海岸




明治40年のことだが、吉井勇等「五人づれ」は長崎の茂木港から富岡港に上陸していたので、寄り道にはなるが、その「富岡港」を見に行くことにした。港を見るだけだったのだが…
小高い丘の上に何やら白い建物が見え、食指が動いた。もうこの地に来ることはないだろうと行ってみることにした。




そこは復元された富岡城だった。



本丸から見た富岡港



ちょっとのつもりが1時間以上も見学してしまった。

先を急がねばならないが下田温泉の近くにある「五足の靴文学遊歩道」は素通りするわけにはいかない。なぜならば、ここは吉井等が富岡港から大江まで歩いた当時の道が唯一残っているところだからだ。
「五足の靴」は吉井等5人が天草等を旅したときの紀行文であるが、当時(1907年)は今のような整備された道ではなく、荒磯伝いに峻険な山道32㎞を苦労して歩いた様子が書かれている。
現存する当時の道は約2.5㎞だが、そこに記念碑が建っている。






 寛・白秋・勇・杢太郎・萬里等がたどりし径ぞ五足の靴で  (濱名志松)



 天草の灘の没り日に悲しみし勇をおもひ白秋を恋ふ  (木俣修)


歩道入口に建つ写真入りの説明板



そして遊歩道の入口



駐車場全景


天草灘の青い水平線が見えるだけの何もない丘の上、そこに建つ文人等の足跡碑。そして当時のままの径。彼等が歩いたのは8月9日という。「五足の靴」には、その日がいかに暑かったか記した次の一文がある。

「汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉を溢れて頬に伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す…(以下略)」

炎天下に歩いてでも行きたかった大江の教会とはいかなるところか。



天草は大江だけのつもりだったが、寄り道寄り道で既に12時をまわってしまった。
昼食は吉井等が立ち寄った高浜でとることにした。(ここも寄り道になるのだが…)

高浜の海岸



きれいな海を眺めながらの本日のランチ


初めて使ったハンドルに取り付けられる簡易テーブル(これは手がフリーになるので便利)



そしてついに大江天主堂に到着








ガルニエ神父の像




そして、ありました!吉井勇先生の歌碑

歌碑と天主堂





白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿

吉井勇は数ある歌碑の中で、この天草の地に建つ歌碑を「人生の記念塔」と述懐している。
吉井勇が書いた「短歌風土記 土佐」に次の一文がある。

「この中(数ある歌碑)で人生の記念塔としての意味がはっきりしてゐるのは昭和三十年五月、じゃがたらお春の碑とほとんど同時に建てられた天草大江村の歌碑だと思ふ。それは今から五十年の昔、明治四十年の七月から八月にかけて三十日間、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、平野萬里等とともに九州に旅行、博多、唐津、平戸、長崎、天草、島原、阿蘇などを遍歴したときのことを数年後に回想してうたった、『白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿』といふ歌を刻んだもので、ちょうどその時長崎に来てゐた私は、茂木から富岡にゆく間の海が荒れてゐたので、除幕式には間に合わなかったが、その翌日にはやっと天草に渡って大江村へ往き、新しく建てられた歌碑の前に立って、そぞろに昔をしのぶことができたのであった。
天草の歌碑の前に立ってゐると五十年前の九州旅行の時のことをまざまざと思ひうかべることが出来るし、今またこの猪野々の歌碑の前に佇んでゐると、二十数年前のうらぶれた流離の姿がはっきりと目にうかんで来る。櫛風沐雨幾春秋とでも言はうか。私の前にあるは1箇の石の碑ではあるけれども、ぢっとそれを見てゐると、おのづからそれは声を発して、何ごとかを私に向かって語らうとする。」


除幕式のために再訪した時の歌も新たに歌碑となっている。


ともに往きし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島


何とも味わい深いしみじみとした歌である。私ごときが批評するのはおこがましいので木俣修氏の文章を借りることにする。
「老の悲哀と、人生を味解したものの諦観がその歌に色濃く匂うて来、近来いよいよ老境の滋味を示しはじめていた。」(木俣修「吉井勇研究」より)


教会の前にテント屋根の簡素なお土産物屋さんがあった。そこの店主(ご婦人)といろいろ話をする中で、この方がものすごく吉井について詳しいことが分かった。
「先生の歌碑のちょうど1番目と100番目にあたる歌碑です」とか、
「先生はこの位置(歌碑が建っている場所)に立たれ根引山(教会と反対方向にある山)の方を眺めながらこの歌を詠まれた」と。

私が「根引山?」と尋ねると、ガルニエ神父様が面倒を見られていた子部屋(孤児院)があった山だそうだ。
そして、「そのことはこの本にも書いてあります」と1冊の本を紹介してくださった。




「五足の靴と熊本・天草」(濱名志松)



そしてさらに、「帯は『しば先生』が書かれたものです」と。
「しば先生?」と聞き返すと、あの司馬遼太郎のことだった。
司馬遼太郎を「司馬先生」と呼ぶこのご婦人は何物?という疑問が生じた。

さらに詳しく伺ったところ、この方の義父が濱名志松氏で、濱名氏は郷土史家であり、「五足の靴」の文学史上の価値をいち早く認め、それを広く知らしめる活動をされた方ということがわかった。司馬遼太郎とも交流があったという。やり取りをした書簡等は「濱名志松五足の靴文学資料館」に残っているとのことだった。なお、その資料館こそがご婦人のご自宅だそうだ。

あらためて、午前中に立ち寄った「五足の靴文学遊歩道」の歌碑の写真を見てみると、確かに濱名志松の名が。




また、「寛・白秋・勇・杢太郎・萬里等がたどりし径ぞ五足の靴で」の歌は濱名氏御自らの作だった。


 最終目的の鹿児島着は夜遅くになってもかまわないので、さっそく資料館を訪ねようとしたが、あいにくその日は館長(ご主人)が留守で開いていないということだった。残念だが、またの機会によろしくということで別れた。
それにしても大収穫だった。吉井勇が健在だった頃の様子を知っている方が発見できたからだ。そしてその場で即買った「五足の靴と熊本・天草」(濱名志松)も、天草での吉井の足跡を調べる上で貴重なお土産となった。。


さらば大江天主堂 







牛深のハイヤ大橋




牛深からフェリーで鹿児島県の長島に渡る。
阿久根の海岸を走っているときれいな夕日を見ることができた。



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