デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ書 49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために 母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主は
49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として ヤコブの諸部族を立ち上がらせ イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

詩篇 98:1  賛歌。 新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。
98:2 主は救いを示し 恵みの御業を諸国の民の目に現し
98:3 イスラエルの家に対する 慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た。
98:4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
98:5 琴に合わせてほめ歌え 琴に合わせ、楽の音に合わせて。
98:6 ラッパを吹き、角笛を響かせて 王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
98:7 とどろけ、海とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものよ。
98:8 潮よ、手を打ち鳴らし 山々よ、共に喜び歌え
98:9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き 諸国の民を公平に裁かれる。

使徒 10:1 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、
10:2 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。
10:3 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。
10:4 彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。
10:5 今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
10:6 その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」
10:7 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、
10:8 すべてのことを話してヤッファに送った。
10:9 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。
10:10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、
10:11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。
10:12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
10:13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。
10:14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
10:15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
10:16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
10:17 ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、
10:18 声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。
10:19 ペトロがなおも幻について考え込んでいると、"霊"がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。
10:20 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」
10:21 ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。
10:22 すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」
10:23 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。
10:24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。
10:25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
10:26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
10:27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、
10:28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。
10:29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」
10:30 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、
10:31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。
10:32 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』
10:33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。



イスラエルの人たちは、自分たちだけが神から律法の言葉を与えられた「選ばれた民」であると自負していたために、神の言葉を持たない異邦人らを蔑視し、「汚れた民」であると考えていたようである。
そのため、普段から交流を持つことをしなかったし、おそらく見下していたのであろう。
当たり前のことであるが、イスラエルの民も異邦人も同じ人間である。
何も変わらないし、どちらが優っているとか劣っているとかといったことがあるわけがない。
しかし、人間は自分たちと違う民族であったり、違う考えや文化を持つ人を蔑視するのである。
なぜだろう。
自分と同じ仲間、群れを作り、集団で行動した方が力があるし、安心できるからだろうか。
自分と同じ考え方を持つ人の中にいれば、とりあえず仲間外れにされることもないし、攻撃されることはないと考えるからであろうか。
いずれにしても、人はなぜか集団になろうとするし、自分たちが所属している集団のほうが優っていると考えるのである。
世の中で起きることは、数が多いほうが有利なケースが多いし、多数決で物事を決めることが民主的であると考えられているし、誰もそれが間違っているとは考えないかもしれない。
けれど、少数派のグループだからと言って、それが間違っているとも限らないし、少数派の意見も大切なものと言えるだろう。
神は、一人一人を創られた。
誰一人、不必要な人間などいない。
そして、主なる神様は、こんな小さな私のためにも命を捨てて「わたしはあなたを愛している」と語りかけて下さる。

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」

この言葉は、他者を蔑視するような私たちに対して語られている言葉であろう。
しかし、他の誰に対してでもなく、まず私自身にも向けて語られている言葉ではないだろうか。
私も神に愛された、大切な存在である。
自信をもち、誇りをもって生きよう。


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