デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




出エジプト記 24:15 モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。
24:16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。
24:17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。
24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。

詩篇 47:1  指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。
47:2 すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
47:3 主はいと高き神、畏るべき方 全地に君臨される偉大な王。
47:4 諸国の民を我らに従わせると宣言し 国々を我らの足もとに置かれた。
47:5 我らのために嗣業を選び 愛するヤコブの誇りとされた。
47:6 神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
47:7 歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。
47:8 神は、全地の王 ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
47:9 神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。
47:10 諸国の民から自由な人々が集められ アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。

黙示録 1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
1:10 ある主の日のこと、わたしは"霊"に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」
1:12 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、
1:13 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
1:14 その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、
1:15 足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。
1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、
1:18 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。


聖書に記されている神様は、いつまでも黙っておられるお方ではなく、時が来れば、言葉を持って語りかけて下さるお方である。
言葉を語るということは、私たちと同じように神は人格をもっておられるということである。
というより、私たち人間が神に似せて創られたから、それぞれ人格を持ち、言葉を用いて他者と交流することができるのである。
人格を持たない神ならば、それはとても冷徹であるし、そもそもそのような存在は神とは言えないだろう。
そして神様は、私たちの祈りや呼びかけにも応えて下さる。
祈りが聞かれないと思う事もあるかもしれないが「今は時ではない」とか「あなたの思いと神の御心はことなる」という答えかもしれないが、神様が人格を持っておられるお方であるならば、少なくとも祈りの言葉は全て聞いておられるはずである。
人と人とが言葉を交わし、交流を深めていくことができた時、とても嬉しく感じられる。
神との交わりは、それ以上に幸いなものであるし、祝福を伴った交わりであることを覚えたい。
主なる神様は、誰よりも私たちを愛し、私たちを一人の「人」として認め、耳を傾けて下さるお方なのだから。


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