聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ20:9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
20:10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
20:11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
20:12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

イエス様が語られたぶどう園のたとえを聞いた人達は「そんなことがあってはなりません。」と答えている。
このようなことがりっぱな犯罪であり、人として、道義的にあってはならないことだということは、頭では理解しているのである。
しかし、人間は、頭では理解していても、肉の欲の故にどうすることもできない現実があるのだ。
そして、それゆえに「あってはならないこと」が起きたのである。
それが
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
出来事であり、後に律法学者や祭司長らに殺されるイエス様が、その十字架の死によって真の救いを成し遂げられることを示しているのである。
人の思いでは「あってはならないこと」。
しかし、神の御心としては「なさなければならないこと」であったのかもしれない。

全ては、私たちを救うために、主ご自身が苦しまれたことを思う。

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ルカ20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
20:5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
20:6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
20:7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
20:8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

祭司長や律法学者たちは、神の国のことについて語られるイエス様に対して、それは「何の権威によるものか」また「その権威は誰に授けられたものか」と問いただそうとしました。
しかし、彼らのその問いかけは、「何の権威か」と問いながら「その権威は誰によるものか」と、自己矛盾していることが伺えます。
要するに、イエス様が神の御言葉を語られている事をもって、その権威は、自分達にこそふさわしいのであって、神の御言葉を語る権威を授けられた者であるという自負心を表すためだけの問いかけであると言えるのです。
彼らのこのような自己主張とは対照的に、イエス様はご自分の権威について、彼らの基準に応じて答えられるような仕方はなさらず、バプテスマのヨハネの権威について引き合いに出し、神の御言葉を語る権威が「天からのものか」あるいは「人からものものか」ということに注目を向けさせようとなさっています。
つまり、祭司長や律法学者たちの主張するところの権威とは、全て「人からのもの」それが誰から授けられたのか、誰に認められたのか、そういった、この世的なものであるということであり、一方で、イエス様の権威は全て「神からのもの」であり、誰からも授けられたり、認められたりする必要のない、神ご自身の御言葉であるということを示しているということなのです。
そういう意味で、私たちが聖書の御言葉を読み、それが神様から与えられた恵みの言葉であるということが、決して誰からも真偽を測られたりすることのない、神の権威によるものであるということを覚え、感謝なことは感謝なこととして、その喜びを表していくものでありたいものです。誰からも認められたり、制限されたりすることもなく。

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ルカ19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
19:47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

はじめて神戸にある聖書学院(併設の教会)を尋ねた時、その掲示板の横に
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
との御言葉が彫られたボードが掲げられていたのを見つけ、やはり、聖書学院というのは、すごいところだと思ったものです。
そして、数年後に自分もその聖書学院に入学し、毎日行われる礼拝と聖書の授業、そして、祈祷会など、それはそれはとても充実した日々を過ごすことができました。
卒業後は、なかなかそういう「聖書づけ」のような生活を送ることは難しいのかもしれませんが、それでも、あの頃の経験は、今の自分に大きな影響を与えていることは確かであると思います。
聖書には「教会は『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』」とは言っていないのです。まず、自分の住む家、家庭、そして、神の家族の交わりである教会、それらすべてを含む、私の日々の人生が「家」であることを覚えつつ、日々、祈りの生活が送れるようにしていきたいものです。

ちなみに、昨日は、その聖書学院の卒業式でした。
ことし卒業された学生たちも、きっと、そんな「祈りの家」を続けていくことでしょう。そのために私も祈ります。

主よ、私たち一人一人が主の住まわれる聖なる宮となり、祈りの家となりますように、弱い私たちを強め、導いてくださいますように。

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日時:2007年2月25日
聖書箇所:マタイ14章22~33節

成長のテキストは、今週から「主イエスとペテロ」というテーマに変わります。
ペテロの言動から、彼の性格や気質、そして信仰を学んでいくということになるでしょう。
興味深いのは、テーマのタイトルが「主イエスとペテロ」となっていることです。
つまり「ペテロ」についての学びではなく、「主イエスとペテロ」の関係を学ぶということなのでしょう。
本日の箇所では、湖の上を歩かれた主イエス様に対して、自分も水の上を歩けるよう命じてくださいとペテロが頼んだことが記されていますが、ペテロは、ただやみくもに水の上を歩けるようにお願いしたのではありません。水の上を歩いて、イエス様のもとに行こうと願ったのです。

マタイ14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

それは、「水の上を歩いてみたい」という好奇心によるような類のものではなく、純粋にイエス様のもとに近づきたい、イエス様のみそばに歩み寄らせていただきたいといった願いによるものでだったのでしょう。

もちろん、主イエス様から目を逸らしたとたん、恐れの故に、沈みかけてしまいましたけれども・・・。

何か驚くようなことができることが素晴らしいのではない、ただただ、主イエス様のみもとに近づき、主イエス様のようになりたい。
そんな信仰に学ばせていただきたいものです。

ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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イザヤ66:1 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。
66:2 これらはすべて、わたしの手が造りこれらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人わたしの言葉におののく人。

先日、教会学校で
2テモテ1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
という暗証聖句を覚えた子どもたち。
忘れた頃になってから、ふと「慎みってどういう意味?」と尋ねてきました。
「それはねぇ・・・」
子どもに「慎み」という言葉の意味を説明するのは、案外難しいものです。
ママ「幼稚園でお行儀よくするようにって言われるでしょう?ああいう感じかな?」
パパ「自分勝手なことばかり言って、でしゃばらないことかもね」
と応えましたが、後になって
「でも一番大切なことは、神様の御言葉に従うことだよ。」って教えてあげればよかったなあと思いました。

ヨハネ7:16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。

神の御前に慎み深く生きて行きたいものですね。

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ルカ19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

イエス様は、エルサレムの神殿に入城しようとされる時、その神殿を見て涙し、そして、嘆かれました。
これは、まさに、私たち人間の世界に対する神様の嘆きであると言えるでしょう。
戦争、不和、破壊、謀略、そして、強盗、殺人、強欲…。
全て、真の神を恐れぬ心から発するものです。

イエス様をこの世界に迎え入れましょう。
イエス様を私の心の中に迎え入れましょう。
そこには必ず平和と祈りがあります。

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ルカ19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19:38 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
19:39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

昨日からレントに入り、聖書日課は申命記をしばらくお休みし、イエス様のご受難を覚える箇所に変わります。
本日の箇所は、エルサレム神殿への入城を前に、子ろばをお求めになられた箇所が与えられています。
ここでの注目は、やはり「主がお入用なのです。」とのイエス様のお言葉でしょう。「入用」と訳された言葉も、もともとは「必要」という意味ですが、「必要」と訳さず「入用」と訳されているのは、実に素晴らしいことであると思います。「必要」ならば、なにかイエス様は、働きにおいて不足、欠乏を感じておられ、それを補うために子ろばをお求めになられたように思うのですが、「入用」と訳されたことで、子ろばにも役目を与えて下さる主イエス様の御業の素晴らしさを思うことができるからなのです。
つまり、これは私たちにも当てはまることのできる言葉であり、主イエス様は、ご自分の働きを進めていく上で、私たち人間の助けがなければ成立しないのではなく、私たちにも宣教の働きに携わらせて頂ける場を与えて下さるという意味で、「入用」と訳されていることを思うのです。
なんと幸いなことでしょう。こんなつまらない者にも、神の国の働きに携わらせて下さるのですから。
なお、「主がお入用なのです。」との御言葉には、翻訳には記されていませんが、本来「彼の」という言葉が付け加えられています。つまり「彼の主がお入用です。」という表現であり、子ろばの本当の主人はイエス様であり、その本当の主人のもとに返り、主人のもとで働くことができる喜び、これが、今日の私たちにも語りかけられる主の御言葉なのです。

「あなたの主が、あなたを用いようとしています。」

感謝して、主とともに歩んでまいりたいものです。

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ヨエル2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ断食し、泣き悲しんで。
2:13 衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。
2:14 あるいは、主が思い直されその後に祝福を残しあなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない。
2:15 シオンで角笛を吹き断食を布告し、聖会を召集せよ。
2:16 民を呼び集め、会衆を聖別し長老を集合させよ。幼子、乳飲み子を呼び集め花婿を控えの間から花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。
2:17 祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き主に仕える者は言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』となぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」
2:18 そのとき主は御自分の国を強く愛しその民を深く憐れまれた。

本日は、教会暦において「灰の水曜日」と呼ばれる日になります。すなわち、今日からレント(四旬節)に入り、イースターまでの40日間、イエス様が荒野で試練にあわれたのと同じように、主のご受難を覚えるための期間として定められています。
そして、イエス様のご受難を覚える上で、最も大切なことは、主イエス様がこの私のために十字架で死んで下さったこと、それによって救われたのであるということを覚えることであります。他の誰のためでもない、この私のために…。
イスラエルの民は、悔い改めを表すときに衣を裂いて、その気持ちを表したようですが、このヨエルの御言葉は、形式的な悔い改めではなく、心からの悔い改めを勧めるものです。形だけではない、口先だけでもない、真実な悔い改めに導かれ、真実な救いの喜びに与ることができますように。

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申命記15:19 牛や羊の雄の初子は、みなあなたの神、主に奉献しなければならない。牛の初子を仕事に使ってはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。

牛や羊などの家畜の初子を聖別すべきことは、旧約聖書の各所に語られています。
これは、捧げ物に関する基本的なこと、すなわち「最初に捧げる」ということを教えるものと言えるでしょう。
たとえば、私たちが神様に対して捧げ物をしようとするときも、収入の中から最初に捧げるための分を取り分けておき、感謝の応答として捧げるべきであり、収入の中から生活に必要なものを差し引いた残りを捧げるような仕方で捧げるべきではないということなのです。

2コリント9:1 聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。
9:2 わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。
9:3 わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。
9:4 そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。
9:5 そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。
9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
9:7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9:9 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。

神様の恵みは、私たちの感謝に先んじて備えられているものです。
ですから、神様への感謝の捧げ物は、まず最初に備えておくべきものであることを覚えたいものです。

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申命記15:12 同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。
15:13 自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たずに去らせてはならない。
15:14 あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい。
15:15 エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである。
15:16 もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、「わたしはあなたのもとから出て行きたくありません」と言うならば、
15:17 あなたは錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう。女奴隷の場合にも同様にせねばならない。
15:18 自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、厳しくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍も働いたからである。あなたの神、主はあなたの行うすべてのことを祝福される。

かつて、私の所属する教会では、7年後とに牧師が異動するシステムを採用していました。(今はそうではありませんが…)
もし、このような仕組みが、上述のような御言葉を根拠としていたとするならば、牧師は教会に売られてきた奴隷?なのでしょうか。
確かに牧師はキリストに仕え、教会に仕えて行くものですが、それを奴隷と表現することが適切なのかどうか…。
いずれにせよ、牧師が定期的に異動するというシステムは、教会にとって、良い意味での緊張感をもたらし、ある一定のメリットもあるのでしょうが、しかし、やはり、本来は、長くい続けることの方が好ましいものと思います。
その場合、耳をきりで戸に刺し通す?ほどの覚悟が必要でしょうけれど。

私も牧師のはしくれですが、私の場合は、「行け」と言われれば行き「来い」と言われれば来る、百人隊長の信仰に習う者でありたいと願っています。

マタイ8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

誰のために生き、誰に仕えているのか、いつでも主イエス様に聞きながら歩み続けていきたいものですね。

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