申命記15:12 同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。
15:13 自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たずに去らせてはならない。
15:14 あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい。
15:15 エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである。
15:16 もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、「わたしはあなたのもとから出て行きたくありません」と言うならば、
15:17 あなたは錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう。女奴隷の場合にも同様にせねばならない。
15:18 自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、厳しくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍も働いたからである。あなたの神、主はあなたの行うすべてのことを祝福される。
かつて、私の所属する教会では、7年後とに牧師が異動するシステムを採用していました。(今はそうではありませんが…)
もし、このような仕組みが、上述のような御言葉を根拠としていたとするならば、牧師は教会に売られてきた奴隷?なのでしょうか。
確かに牧師はキリストに仕え、教会に仕えて行くものですが、それを奴隷と表現することが適切なのかどうか…。
いずれにせよ、牧師が定期的に異動するというシステムは、教会にとって、良い意味での緊張感をもたらし、ある一定のメリットもあるのでしょうが、しかし、やはり、本来は、長くい続けることの方が好ましいものと思います。
その場合、耳をきりで戸に刺し通す?ほどの覚悟が必要でしょうけれど。
私も牧師のはしくれですが、私の場合は、「行け」と言われれば行き「来い」と言われれば来る、百人隊長の信仰に習う者でありたいと願っています。
マタイ8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
誰のために生き、誰に仕えているのか、いつでも主イエス様に聞きながら歩み続けていきたいものですね。
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