デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




申命記 34:1 モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、
34:3 ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。
34:4 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
34:5 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。
34:6 主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。
34:7 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。

詩篇 47:1  指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。
47:2 すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
47:3 主はいと高き神、畏るべき方 全地に君臨される偉大な王。
47:4 諸国の民を我らに従わせると宣言し 国々を我らの足もとに置かれた。
47:5 我らのために嗣業を選び 愛するヤコブの誇りとされた。
47:6 神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
47:7 歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。
47:8 神は、全地の王 ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
47:9 神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。
47:10 諸国の民から自由な人々が集められ アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。

ヨハネ 16:4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
16:5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。


モーセは、神が与えると約束された土地を目前に生涯を終えることとなった。どれほど残念な気持ちであったであろう。
しかも、彼は、120歳を迎えても、目はかすまず、活力も失せていなかったのに召されたのである。
どんなに健康でも、人は召される時は召されるものである。
しかし、モーセは約束された土地に入ることはできなかったが、天の御国に入れられたのである。
モーセは、神が与えて下さった人生を全うした、それが彼にとっても最善のことであった。
私たちもそれぞれに人生が与えられている。
他人のことを羨ましく思ったところで、私には他人の人生を生きることはできないし、そうする理由もない。

渡辺和子先生の「置かれた場所で咲きなさい」には次のような言葉が記されている。

「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。時間の使い方は、そのままいのちの使い方です。自らが咲く努力を忘れてはなりません。雨の日、風の日、どうしても咲けないときは根を下へ下へと伸ばしましょう。次に咲く花がより大きく、美しいものとなるように。」

自分は自分らしく生きればいいし、季節が違えば、無理に花を咲かせようとしなくても、じっと根を広げて行けば良い。
花の咲かない草だってたくさんあるけど、誰も文句も言わず、そこで自らの役割を全うし、神の栄光を現わしているのだから。

ローマ8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。



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