聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




日時:2006年10月1日
聖書箇所:出エジプト1章1節~2章10節

今週から、成長の単元が出エジプト記の学びに入ります。出エジプト記には、主なる神さまがエジプトの国で奴隷の民となっていたイスラエルを救うためにモーセを召し、彼を用いることで、奴隷からの解放、そして、神の契約の民としての歩みが始まっていきます。
そして、今回のテキストでは、神に選ばれたモーセの出生について取り上げられています。
当時の背景については、1章7~10節に記されている通り、エジプトの人口をしのぐほどにイスラエルの民が増えたということに危機感を抱いたエジプトの王パロが、イスラエルに新たに生まれてくる男の子の命を制限しようとしたということが伺えます。
なぜ幼子なのか、しかも、なぜ男の子だけなのか。
当然、反乱が起きる場合を想定し、成人男性の数が増えすぎないようにとの考えがあったからでしょう。
しかし、労働者の数を減らすわけにもいかないため、生まれてきた男の子の赤ちゃんだけを殺せとの命令は、少々あいまいな命令を含んだ政策であったのではないかと思うのです。
というのも、ヘブル人の助産婦の言い訳には、そのあいまいさをついた表現が見受けられるからです。

出エジプト1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

彼らの言い訳は、実に巧妙です。
というのも、パロの命令は「産み台の上を見て、もしも男の子なら・・・」と、実際に分娩の場面に立ち会った場合を想定しており、立ち会う前に出産してしまった場合には、この命令の範疇ではないと見て、自分達が行く前に生んでしまうと言って、生まれてしまったあとの男の子についてはどうすることもできないとの立場を表明しているのです。もちろん、本当は出産に立ち会っているのかもしれないのですが・・・。

さらに、このままではどうにもならないと考えたパロは、生まれてきた子どもについても、男の子はナイル川に放り込むようにと命じるのですが、どうしても自分の息子を殺すことはできなかったモーセの母親は、パロに命じられた通り、ナイル川にモーセを流しているのです。ただ、瀝青や樹脂で塗られたかごに入れてですが。
もちろん、モーセの母親は、こっそりとモーセを流したことでしょう。しかし、一応は、生まれた子どもをナイル川に流したことには違いないのです。

この辺りの解釈になると、少々屁理屈のように思えるかもしれないのですが、なんとかして、どうにかしてでも子ども達を助けたいと願うヘブルの人たちの愛情と、わずかなチャンスでもあれば、命じられたことに反していない程度に生きようとする彼らの知恵のようなものを見ることができるように思うのです。

もともと「生まれてきた男の子だけを殺せ」とのパロの命令自体、反乱は困るけれども、労働力は必要だし、ある程度の大人の男性は必要との身勝手な考えから発令されたものであるため、このようなチャンスが芽生えてきたのかもしれません。
しかし、その中で、生き続けることのできる可能性は、ほとんど無かったことでしょうし、ほとんど可能性が無い状態の中で救い出され、召されていったモーセこそ、主の御旨の中で選ばれた者であったということなのでしょう。

人間の強欲と自己中心の中で、神の召しにより、愛と知恵によって支えられ生まれたモーセ。
もちろんそれは、モーセだけに当てはまることではなく、今生かされている私達にも、神の必要があって生まれてきたのだということを覚えつつ、子ども達にも、生まれてきた喜びを感じ取ってもらいたいと願うものです。

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詩篇57:2 憐れんでください 神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし 災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします。
57:3 いと高き神を呼びます わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。
57:4 天から遣わしてください 神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。わたしを踏みにじる者の嘲りから わたしを救ってください。

鳥が生まれたばかりの雛を雨から守るように、主なる神さまは、私のことをお守り下さる。
そう信じてやまない。
それは、私を生かしたいから、私の命が大切な命だから。
そう信じてやまない。

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ルカ10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

本日は、聖書日課では、天使ミカエルの日となっています。
天使ミカエルとは、聖書中、名前の記されている天使の一人で、そういう意味では、とても貴重な存在であると言えるでしょう。
他に名前の知られている天使として有名なのは、マリアの受胎告知の際に現れた天使ガブリエルがいます。ガブリエルは、マリアに対し、イエス様の誕生という「喜びの知らせ」を告げる天使でした。
一方、ミカエルは、悪魔の勢力と闘う天使であり、しかも、それらに勝利する者として紹介されています。(黙示録12章7~12節)
しかし、ここで注目しなければならないことは、弟子達が主イエス様の御名を用いると、悪魔たちが彼らに屈服したということは、天において、天使たちの活躍により、天からサタンが落ちていったという事実です。
天から落ちていったということは、すなわち、まだこの地上においてウロウロしている可能性があるということ。
神の国の家族、聖なるお方の住まわれる場所、すなわち、教会においては、悪魔は退散していったとしても、尚、この世には悪魔達が潜んでいる。
それ故に、私達は、天使によるのではなく、全能の主なる神さまによる完全な悪魔に対する勝利の時を待ち望みたいと思います。
ヘブル人への手紙には、天使とは比べ物にならないほど、主イエス様の素晴らしさが記されていますが、神の御子なる主イエス様は、私達に完全なる勝利をもたらしてくださいます。それ故、主イエス様も「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と仰せられているのでしょう。
目に見える派手な業にばかりに捕らわれないで、神の御言葉に約束された真実な祝福に心を留めて歩まれますように。

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56:1 【指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。】
56:2 神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ
56:3 陥れようとする者が 絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ 多くの者がわたしに戦いを挑みます。
56:4 恐れをいだくとき わたしはあなたに依り頼みます。
56:5 神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が わたしに何をなしえましょう。
56:6 わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを謀り
56:7 待ち構えて争いを起こし 命を奪おうとして後をうかがいます。
56:8 彼らの逃れ場は偶像にすぎません。神よ、怒りを発し 諸国の民を屈服させてください。
56:9 あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。
56:10 神を呼べば、敵は必ず退き 神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。
56:11 神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。
56:12 神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。
56:13 神よ、あなたに誓ったとおり 感謝の献げ物をささげます。
56:14 あなたは死からわたしの魂を救い 突き落とされようとしたわたしの足を救い 命の光の中に 神の御前を歩かせてくださいます。

私たちのうちに、常に苦しみ、嘆きがある。しかし、それら苦しめる者は「人」である。もちろん、例外的に病気や災害などもあるが、踏みつけたり、虐げられたりするとき、そこに必ず敵と呼ばれる人がいる。
全ての人は罪を犯している。ならば、誰が私の味方になりうるだろうか。どんなに親しく、仲の良い者であっても、必ず罪の性質を持った人間である。もちろん、他人に対する私の存在もそうなりうる。
ダビデは、人は信用できないものであるということを知っている。だから、唯一絶対に裏切らないお方、神に信頼するのである。

5節直訳
私は神の中にあって御言葉を賛美し、神にあって信頼する。恐れることはない。肉が私に対して行うどんなことも。

11節直訳
私は神の中にあって御言葉を賛美し、主の中にあって御言葉を賛美する

神の中にある、中にいる、ということは、神様という枠組みの中に自分の身を置き、そこに生きることである。
堕落以前のアダムとエバは、神の創られた調和の取れた世界の中に身を置き、神の戒めに従い、神の約束に信頼して歩んでいたとき、幸いであった。

神の中に身を置き、御言葉を賛美するということは、主がお語りになられた戒めに従い、救いの約束の信頼し、救われた喜びに満たされて生きることに他ならない。
そして、そのような生き方を続けていくことこそ、本来の意味で「人が生きる」ということなのだろう。

人が私に何をなしえようか。
人の間に自分の身を置き、人の目を気にし、人に従い、人にこびへつらって生きるところに、真の平安はない。
しかし、神の中に身を置き、神の約束された救いの御言葉に信頼して歩むとき、そこには必ず平安がある。
なぜなら、神のなさることは、みな、人が行うことと全く反対だから。

6節直訳
人は私の言葉に攻撃を加え、悪を諮る。しかし、神は私の言葉を支え、善をもたらす。
7節直訳
人は身を隠して足跡を付けねらい、私の命を狙う。しかし、神は私たちに現れ、導き、命を与えようとする。

12節直訳
私は神にあって信頼する。それゆえ、人が私に対して行うどんなことも恐れない。
14節直訳
なぜなら、私の命を死から、私の足をつまずきから救い、命の光の中で、神の御前を歩ませてくださったからです。

人を恐れるな。ただ命の主、真の神に信頼せよ。

詩篇27篇4~6節
27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
27:6 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう

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かつて、親しくしていた者たちに命を狙われることになったダビデは、その心境をこのような表現で綴っています。

詩篇55:17 わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。
55:18 夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。
55:19 闘いを挑む多くの者のただ中から わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。
55:20 神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。神はいにしえからいまし 変わることはない。その神を畏れることなく
55:21 彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。
55:22 口は脂肪よりも滑らかに語るが 心には闘いの思いを抱き 言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。
55:23 あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。

自分の命を狙うものが、自分の敵であるならばまだしも、かつての親友であり、同胞であるという事実は、ダビデの心は激しく苦悶していたことでしょう。
20節の箇所には、「神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。」と記されており、主なる神様がダビデの祈りに耳を傾けて下さり、必ず、その祈りに応答してくださるはずだという信仰が言い表されていると言えます。
しかし、ダビデは、今は敵となっているかつての友に対して、即、神の裁きがもたらされることを願っていたわけではないようです。
というのも、この20節の表現は、少々わかりにくい表現となっていますが、おおよそ「神は私の声を聞いてくださり、いにしえから存在され、彼らに対して正当な裁きをもって応じて下さる方である。なぜなら、彼ら(敵)は、変わること(悔い改め)がなく、神を畏れようともしないからである。」という内容のものと思われます。つまり、もし仮に、わずかでも彼らが悔い改めるチャンスがあるならば、そのことが起こることを期待し、そうでないならば、神の裁きがもたらされることも止むを得ないだろうといったダビデの複雑な気持ちが表現されていると言えるのです。
このような気持ちは、主なる神さまの私たち人間に対する裁きを行われるときの心境に近いものと言えるでしょう。
願わくは、誰もかつての親友に裁きを受けさせたくはないはずです。
そんな苦悶と同時に、迫りくる危機、避けられることができないのならまさに、「やむを得ず」といった心境だったことでしょう。
最後にダビデは、自分自身に言い聞かせるような形で「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。」と記しています。
仮に、敵対するものが悔い改めて、関係が元通りに改善できなかったとしても、神のなさる正しい裁きによって、最善の結果へと導いてくださるに違いない、そんな心境であったことでしょう。
そう思うとき、主イエス様の十字架の犠牲によって成し遂げられた神の裁きの事実は、なんと偉大な愛の御業であろうかと思わされます。
主が成し遂げられた裁きと贖いの故に、完全に赦され、神様との関係が改善され、最善の結果がもたらされている事実に感謝いたします。

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詩篇54:1 【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
54:2 ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】
54:3 神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。
54:4 神よ、わたしの祈りを聞き この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
54:6 見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
54:7 わたしを陥れようとする者に災いを報い あなたのまことに従って 彼らを絶やしてください。
54:8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します。
54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

神の器として選ばれたダビデでしたが、そのことの故に、ねたみ、誹謗中傷、そして、迫害を受けることになっていきました。
それは、全ての人間が罪人であるが故に、避けることのできない悲劇なのかもしれません。
そんなダビデの生涯は、十字架に苦しまれた主イエス様を暗示していると言えるでしょう。神の御子、メシアなるキリスト。それ故に人々からねたまれ、誹謗中傷され、十字架に貼り付けにされ、殺されてしまう。
しかしそれは、人類の罪の故にそうなったというよりも、人類の罪を贖うために、神ご自身がご計画された救いの御業。なんと言う驚くべき出来事だろうと思います。

主は苦難から常に救い出してくださいます。

十字架の上で苦しまれた主イエス様こそ、真の救い主。
ハレルヤ!

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詩篇3:2 神を知らぬ者は心に言う「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
53:5 悪を行う者は知っているはずではないか パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 神を呼び求めることをしない者よ。
53:6 それゆえにこそ、大いに恐れるがよい かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を 神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。
53:7 どうか、イスラエルの救いが シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき ヤコブは喜び躍り イスラエルは喜び祝うであろう。

善を行う者はいない。ひとりもいない。

全くその通りです。私も含め。
だからこそ、こう祈るのでしょう。
「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。神が御自分の民、捕らわれ人を連れ帰るとき、ヤコブは喜び踊り、イスラエルは喜び祝うであろう。」と。
私には、自分を救いに至らしめることのできる力はありません。
ただ、イエス様の十字架の贖いと復活の御業こそ、私の救いであることを信じ感謝します。アーメン。



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日時:2006年9月24日
聖書箇所:歴代誌下34章

歴代誌下34:14 主の神殿に寄せられた献金が取り出されている間に、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけ、
34:15 書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、
34:16 シャファンはそれを王のもとに届け、また王に報告をした。「あなたの僕たちにゆだねられた工事はすべて進行しています。
34:17 彼らは主の神殿にあった献金を取り出して、監督と工事担当者の手に渡しました。」
34:18 更に書記官シャファンは王に、「祭司ヒルキヤがわたしに一つの書を渡しました」と告げ、王の前でその書を読み上げた。
34:19 王はその律法の言葉を聞くと、衣を裂いた。

ヨシヤ王の時代、歴代の王たちに見向きもさず、荒れるにまかせてきた神殿の整備が行われることになり、その際、偶然、律法の書が発見されます。
そして、ヨシヤによる偉大な宗教改革がなされていくのですが、この律法の書がどこから見つかったのかということについては詳しく触れられていません。
もしかしたら、案外よく見えるところに置かれたままになっていて、誰もそれに触れようとしなかっただけなのかもしれないのです。

昨日、いろいろと調べものをする必要があったため、教会の屋根裏部屋を探索していました。
数十年分のほこりをかぶった書類の山。確かに、触れるのも嫌になるくらい、そのまま捨ててしまおうかと思うほどです。
しかし、勇気を出して(笑)少しずつ紐解いていくと、なんとなんと、教会の初期の頃の貴重な資料が次から次へと出てきます。
地方にある一教会の屋根裏部屋ですら、これほど面白いものが出てくるのですから、教団本部の倉庫や、歴史のある教会の物置を探ってみたくなります。
そんな中、数十年も前の資料に書かれている事柄に注目してみると、現代の抱える問題と何ら変わりないことや、それに対し、あくまで、純粋な聖書信仰を持って取り組もうとしている姿勢がうかがえます。「衣を裂く」とまではいかなくても、はっきり言って、感動します。
様々な問題を抱え、悩み、格闘しながら、それでも宣教しようとする教会にあって、同じような悩みを抱え、信仰を持って立ち向かい、乗り越えてこられた諸先輩方の証を学ぶことは、大変有益なことであると思います。さらに遡って、宗教改革の時代、純粋な聖書信仰に従って行き続けたルターやその他の改革者たち、あるいは、もっと遡って、パウロや初代教会の時代、そして、本日のテキストで取り上げられているような、ヨシヤ王や多くの旧約の時代の預言者たち、そのいずれもが、純粋な聖書に対する信仰を守り続け、歩み続けてきたことを思うとき、私たちがなすべきことは、既に聖書に記されていると言えるでしょう。

歴代誌下34:29 そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を集めた。
34:30 王は、ユダのすべての人々、エルサレムの住民、祭司とレビ人、老いた者から若い者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。
34:31 それから、王は自分の場所に立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った。
34:32 王はエルサレムとベニヤミンにいるすべての者に誓わせた。エルサレムの住民は先祖の神、その神の契約に従って行動した。
34:33 ヨシヤはイスラエルの人々のすべての土地から忌むべきものを一掃し、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主に従う道からはずれることはなかった。

いつの時代も変わることのない命の言葉、聖書に聞き、聖書に従う者でありたいものですね。

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詩篇52:1 【指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。
52:2 エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき。】
52:3 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないが
52:4 お前の考えることは破滅をもたらす。舌は刃物のように鋭く、人を欺く。
52:5 お前は善よりも悪を 正しい言葉よりもうそを好み
52:6 人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。
52:7 神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き 命ある者の地から根こそぎにされる。
52:8 これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。
52:9 「見よ、この男は神を力と頼まず 自分の莫大な富に依り頼み 自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」
52:10 わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
52:11 あなたが計らってくださいますから とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い あなたの御名に。

ダビデが祭司アヒメレクのもとに身を寄せたことは、サムエル上21~22章のあたりに記されています。祭司アヒメレクは、ダビデこそ神がお選びになられた器であると認め、ダビデをかくまい、祭司しか食べることのできないパンを与え、さらに、ゴリアテの剣をも手渡します。
ところが、このことがきっかけとなり、サウルの怒りを招いたアヒメレクは、エドム人ドエグの手によって、祭司の町ノブに住む者すべて、幼子や乳飲み子に至るまで討ち殺されてしまうのです。なんとむごいことでしょう。
しかし、それが人間の本質ではないでしょうか。

ヤコブ4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。
4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、
4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。

どんな状況に置かれていても、神を信じ、神に祈り求め、神に近づこうとする者には、神自ら私たちに近づいてくださいます。
そのことを忘れずに、今日も主と共に歩めますように。

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詩篇51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。

この詩篇の表題には、ダビデがバテ・シェバのもとに行き、姦淫の罪を犯した時に歌われたものであるということが記されています。(詳細は2サムエル11~12章)
ダビデは、自分が犯してしまった罪の重大さを悟り、決して赦されない罪であることもよく理解していたようです。もはや、どうやって償うこともできない、忘れ去ることもできない、一生背負っていかなければならない罪の重さに、ダビデは、ただただ、神の憐れみを請い求めているのです。

詩篇51:16 神よ、わたしの救いの神よ 流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。
51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。

ダビデは神の御心を知る者でした。
そして、その御心とは「神はいけにえを好まれるのではなく、打ち砕かれた悔いる心を喜ばれるのだ」ということを。
王ともあろう者が悔い改めるということは、たいへん難しいことなのかもしれません。しかし、ダビデは、神さまの御前に悔い改めの祈りを捧げ、主の憐れみの故に、罪の赦しがもたらされることを願ったのです。
そして、それしか彼に生きる方法はなかったのでしょう。

詩篇51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。

私たちの生きる力も、神の憐れみによってもたらされる赦しの故に成り立つものであることを覚え、「打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心」で歩むことができますように祈ります。

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