1コリント4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
4:3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
4:5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。
4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。
昨日、鉄道事故で犠牲になられた方の慰霊祭の様子が報道されていて、その中で、電車に乗り合わせて事故に遭われた方が「乗客を乗せて運んでいるのではなく、命を乗せて運んでいるということを忘れないで欲しい」と訴えておられた言葉が印象に残りました。
そう、私たちが電車に乗るとき、電車のみならず、どんな乗り物でも、そこに乗る際、すっかり命を預けて乗るのです。事故など起こることのないよう、安全運転を心がけて下さると、信頼して乗るのです。
しかし、乗る側の者にもマナーは求められます。
昨年の電車事故以来、各地の鉄道で働く人たちへの心無い嫌がらせが続いたことを思い起こします。
もちろん、命を預かる大事な仕事に従事しておられることには違いないのですが、では、その前に、その命を神様から預かっている私たちは、きちんとその責任を果たしているのでしょうか。誰もが他人を批判し、責め、時には、陥れようともする。それで、一体、誰を非難する資格があると言えるのでしょうか。
私たち一人一人が、まず神様の前で、己を吟味し、悔い改め、赦しを頂いていかなければ、神の御前において裁きの座につかされ、何一つなす術もなく、ただ、裁きの前にひれふすより他しかたないはずなのです。
自分が優れた者であると思いあがり、他者を平気で非難する者。パウロは、そういう人たちのことを「王様」と表現しています。まさに「裸の王様」です。
しかし、同時に、パウロは、どうせ王様になるなら、本当の意味での「王様」であって欲しいと語っています。すなわち、イエス・キリストの尊い血によって、一切の罪を赦され、神の子たる身分を与えられた真の意味での王様。
あなたは、自分の姿を認めようとせず、思いあがったまま生きようとする「裸の王様」で行きますか?それとも、神様の御前に、文字通り裸のままで進みでて、本当の意味での「神の子」「王様」として招かれることを願いますか?
私は、パウロの言葉に習いたいと思います。
1コリント4:9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。
4:10 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。
4:11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、
4:12 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、
4:13 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
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