デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




1コリント5:9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
5:10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
5:11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
5:12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
5:13 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」

この世において、不品行な者との接触を避けながら生きていこうとすることは、宣教の機会を失ってしまうことでもあります。
一方、兄弟と呼ばれる者で不品行を続けている者とは、すなわち、主イエス様を信じて受け入れていながらも、それに対して、納得の上で主イエス様に背いているということですから、そういう人たちとの交わりを避ける事はやむを得ないことなのかもしれません。
「自己責任」という言葉がありますが、イエス様を信じて受け入れた人がどのように生きていくかは、一人一人に委ねられた事柄。祝福も裁きもよく承知した上で、私なら、喜んで主と共に歩む人生を選びたいです。

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1コリント5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

パウロは、コリントの教会のクリスチャンたちの間に見られた不品行の罪について指摘しているが、実はそれが、彼らの高慢の罪から来ているものであるということを見抜いていたし、全ての不品行に増して、高慢の罪を注意するように戒めている。

わずかなパン種が、練り粉全体を膨らませることを知らないのか。

ここに用いられている「わずかな」という言葉は、「小さい」とも用いられる言葉で、ギリシャ語では「ミクロス」、つまり、ミクロの世界でしか見えないようなものであっても、それが全体に広がっていくことを注意すべきという事なのでしょう。
私のうちにも高慢の罪はあります。たとえそれが人前には見えないほどの小さな小さなミクロの存在であったとしても、やがて膨らんで、不品行に到るというのですから、パウロが言うように、その高慢のパン種を取り除き、パン種を入れない純粋で真実なパンでイエス様をお祝いできるようにしていきたいものです。
誰もがりっぱである必要はないし、誰もが麗しい味をしなくてもいい。
私は私であることが最高であると思い、私をお創りくださった方の意思に従って生きていきたいものです。

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1コリント4:14 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。
4:15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。
4:16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。
4:17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
4:18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。
4:19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。
4:20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。
4:21 あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。

「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。」
味わいのある言葉です。誰もが「教える人」や「指導する人」になりたがる。しかし、本当に求められているのは、一緒に話し合ったり、遊んだり、全ての面で生活を共にしていく人なのだろうと思います。
自分も一人の父親となってみて、子どもは「教える」だけではダメで、一緒にすることが大切なのだなあと思います。そういう事を通して、「人としての生き方」を伝えていくのでしょう。
そういう意味では、教会も同じなのでしょうね。

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1コリント4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
4:3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
4:5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。
4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。

昨日、鉄道事故で犠牲になられた方の慰霊祭の様子が報道されていて、その中で、電車に乗り合わせて事故に遭われた方が「乗客を乗せて運んでいるのではなく、命を乗せて運んでいるということを忘れないで欲しい」と訴えておられた言葉が印象に残りました。
そう、私たちが電車に乗るとき、電車のみならず、どんな乗り物でも、そこに乗る際、すっかり命を預けて乗るのです。事故など起こることのないよう、安全運転を心がけて下さると、信頼して乗るのです。

しかし、乗る側の者にもマナーは求められます。
昨年の電車事故以来、各地の鉄道で働く人たちへの心無い嫌がらせが続いたことを思い起こします。
もちろん、命を預かる大事な仕事に従事しておられることには違いないのですが、では、その前に、その命を神様から預かっている私たちは、きちんとその責任を果たしているのでしょうか。誰もが他人を批判し、責め、時には、陥れようともする。それで、一体、誰を非難する資格があると言えるのでしょうか。
私たち一人一人が、まず神様の前で、己を吟味し、悔い改め、赦しを頂いていかなければ、神の御前において裁きの座につかされ、何一つなす術もなく、ただ、裁きの前にひれふすより他しかたないはずなのです。
自分が優れた者であると思いあがり、他者を平気で非難する者。パウロは、そういう人たちのことを「王様」と表現しています。まさに「裸の王様」です。
しかし、同時に、パウロは、どうせ王様になるなら、本当の意味での「王様」であって欲しいと語っています。すなわち、イエス・キリストの尊い血によって、一切の罪を赦され、神の子たる身分を与えられた真の意味での王様。

あなたは、自分の姿を認めようとせず、思いあがったまま生きようとする「裸の王様」で行きますか?それとも、神様の御前に、文字通り裸のままで進みでて、本当の意味での「神の子」「王様」として招かれることを願いますか?

私は、パウロの言葉に習いたいと思います。

1コリント4:9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。
4:10 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。
4:11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、
4:12 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、
4:13 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。

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2テモテ4:6 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。
4:7 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
4:8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
4:9 ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。
4:10 デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。
4:11 ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。

本日は、教会歴において、使徒マルコの日となっています。
マルコという人物は、使徒ではありませんでしたが、使徒たちからたいへん信頼され、おそらく、もうまもなく殺されてしまうであろうことを察していたパウロがテモテに連れて来るようにお願いするほど、有用な人物だったのでしょう。
彼が記したとされるマルコの福音書も、実に明快な文書で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えようとしていることが伺えます。

マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

余計なことは一切記さずに、シンプルな表現で「神の子イエス・キリストの福音の初め。」を書き記す。それ故に、使徒たちにも信頼される者だったのでしょう。

振り返って、自分のことを思うと、なんと、余計な事の多いことかと思わされます。キリストの福音宣教と何の関係もないことに熱心になったり、自分自身を宣伝したり。
キリストの福音を宣べ伝えることがどれだけ素敵なことであり、それだけに専念できる事の幸いを覚えたいと思います。

イザヤ52:7 いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。

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1コリント3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

「私たちは神様が住まわれる聖なる神殿である。」
なんと言う幸いな約束でしょう。そして、それは、ただただ、主イエス様の尊い贖いの代価によって全ての罪赦された者であるからこそ成立する「神様の約束」なのです。
そして、その故に、私たちは何物によっても非難されたり、裁かれたりすることなく、永遠の赦しを頂いているのです。
何物にも非難されたり、裁かれたりしないということは、自分自身によっても裁かないということ。
私たち自身の手によって、自分自身を裁くことすらも、神様の御業を無にする行為でありますし、神様以上の存在になりあがろうとする恐ろしい罪であることを思います。

ローマ14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
14:10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

裁きに明け暮れるのではなく、赦しあい、愛し合い、感謝しつつ、主をほめたたえる1日でありますように。

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1コリント3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

お互いの間に、ねたみや争いが絶えないなら、あなたがたは、ただの人である。
パウロの言葉は痛烈です。でも、その通りだと思います。
肉の欲望、利己心など、それらの思いが神様に対する思いに優っている時、人は「ただの人」であり、私たちは、そこから解放されるために、主イエス様が命がけで救い出そうとしてくださったということを思う時、相変わらずねたみや争いの絶えない生活を続けていることを、イエス様に対して申し訳なく思います。

1コリント3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

イエス様の尊い血による御救いの約束、それは、他のどんな優れた人間の業など到底及びもしない、幸いな恵みの御業であることを思います。
この方以外、私を肉のしがらみから救い出してくれるものはないのです。

イースターから1週間経ちましたが、死の淵より救い出して下さるイエス様の贖いと復活の言葉を、改めて感謝し、あがめるものです。

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日時:2006年4月23日
聖書箇所:マタイ27章62節~28章15節

本日の成長のテキストでは、イエス様の復活の事実を恐れた者たちの隠ぺい工作というテーマで、ユダヤの指導者たちが口裏を合わせるために番兵たちに偽りの証言をさせようとしたことが取り上げられています。
成長の解説では、イエス様を信じていたはずの弟子たちが女たちの証言を信じようとせず、逆に、イエス様を信じていなかったユダヤの指導者たちがイエス様の復活を恐れて口裏を合わせようとしていたということが記されていますが、それほどに、イエス様の復活の出来事が真実であったということを示していると言えるでしょう。

2コリント1:18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
1:19 わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
1:20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

真実であることを、正々堂々と「アーメン。確かにそのとおりです。」と言える信仰者でありたいものですね。

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1コリント2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。

神様が私たちに託された、本当の「知恵」の言葉。それは、この世の知恵者たちには愚かとしか思えないような事なのかもしれない。しかし、それは「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」であると記されている通り、「私たちのために」そして「栄光をもたらすもの」であるということを思う時、だからこそ、この世の小さな者や弱い者たちをお選びになられるのだと思う。
なぜなら、自分の力で栄光を勝ち取っていくことのできる者には、このような神様の約束など必要と思わないだろうから。

1コリント2:12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。

合理的ではなく、利益追求でもなく、仕えるため、愛するために生きられた主イエス様の霊が、私に語りかけて下さる御言葉。
これを私もお伝えしなければ、と思う。

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1コリント2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

パウロは、コリントの町で宣教した時、優れた言葉や知恵を用いることなく、大胆にキリストの十字架の言葉を伝えたと記しています。
このことは、私たちに、大きな希望と勇気を与えてくれます。
というのも、イエス様のことを伝えようと思う時、なんとかして知ってもらいたい、理解してもらいたいと思う余り、ついつい、難しい言葉を用いようとしてしまうことがあるのですが、聖書が語るところの救いの約束は、以外にも単純な事柄であるということを思わされるからです。
「神は愛である。そして、その神があなたを愛しておられる。その証がイエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しと永遠の命の約束である。」
たったこれだけのことなのです。これだけの事を伝えるのに、どんな知恵や技法が必要なのでしょうか。
昨日、ある教会員の方といろいろお話ししました。クリスチャンをずっと続けていると、何をしたら良いのか、自分が何をすれば良いのかわからなくなる時がある。でも、私がここにいて、教会での奉仕をする理由は、イエス様がそれをせよとおおせられるから、ただそれだけの理由。もっとシンプルに生きて行きましょう、とお互いに励ましあいました。
難しく考えると、難しいものです。でもシンプルに考えると、信仰とは、きわめて単純な事柄なのだと思います。

私はイエス様を救い主と信じます。アーメン。

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