聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ14:3 イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。
14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

一人の女性がイエス様に高価な香油を注いだ時、そこにいた人たちは「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」とつぶやいているが、これこそ「心にもないことを言う」であり、同時に「できもしないことを言う」であると言えるだろう。

今年の教会の標語は「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」1ヨハネ3章18節であるが、口先だけの愛ではなく、本当の愛を示すことのできる者になりたいと願わされる。

ところで、今日の日課のテキストは、なぜ11節までなのだろうかと考えた。
きっと、3~9節までのことと無関係ではあるまい。
おそらく、香注ぎの出来事とユダの裏切りが関連しているということであろう。
つまり、イエス様は、高価な香油よりもはるかに値高い命を売り渡し、貧しい者たちの命を買い取られたお方であるということであろう。

イエス様は私たちには「思いもつかないこと」「できもしないこと」をなさったお方なのである。



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マルコ13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

主の時がいつ来るのか、それは誰にもわからないから、、いつも目を覚ましていないといけない。
もちろん、文字通り目を覚まし続けていることはできないけれど、いつも心の目をイエス様に向けておくことが大切であるということだろう。

信仰にも適度の緊張感が必要である。
でも、その緊張感は、真の平安をもたらすものである。

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マルコ13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

主イエス様は、世の終わりが近づくと、あちこちで戦争のうわさや、地震、飢餓などが起こると語っておられる。
今の時代は確かにその時の様子と似ているかもしれない。
しかし、これらのことが起こることは、福音が宣べ伝えられるために必要なことでもある。
様々な混乱の中、主に召された者たちは、そこでの証が求められている。
たとえ迫害されても、家族が引き裂かれようとも、あるいは、殺されても、最後まで耐え忍んで信仰の生涯を守り通したなら、同じ信仰を守り通したものたちと天の御国で再び会えるのだから。

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マルコ12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

律法学者たちは「メシアはダビデの子である」と主張していたが、その意味は、ダビデの子孫から再びイスラエルの王国を復興するような政治的なリーダーが現れるというものであったのだろう。
しかし、それでは「メシアがダビデの子である」以上、ダビデよりも劣ったものであるという印象がぬぐえないままであるし、常に「ダビデのように」という言葉がついて回ることになる。
しかし、主イエス様は、ダビデ自身も聖霊を受けて『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』言っているように明らかにダビデよりもメシアのほうが優れていることが述べられているのである。
主イエス様は、人としては、確かにダビデの子孫の一人としてこの世にお生まれになった。
しかし、その誕生は、聖霊によるものであり、処女マリアより、まだ結婚していない時に身ごもったというものであった。
このことは、このお方の誕生が、神の意思により、神の直接的な働きかけにより起きた出来事であり、普通の人間と同等に考えてはならない。
メシアなるイエス様は、全ての敵が屈服される時まで、常に神の右に座しておられる方。
今尚、その権威をお持ちのままのお方なのである。

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マルコ12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

かつて、イスラエルの人たちは、子孫が繁栄することが自分の生きた証であり、自分の命を継承していくことと考えていたようである。
しかし、その考え方の根本には、自分の子供は自分の分身のような存在であり、自分の所有物のように捉えられていたのかもしれない。
このあたりの考え方は、日本人の「家」を守る思想に似ているように思う。
個々の人格よりも、家の存続のほうが大事であり、家を守るために、多くの人々が個を犠牲にしてきたのではないだろうか。
もちろん、家、すなわち、家族や祖先をないがしろにしていいというわけではない。
むしろ、祖先がいたから、今の自分もいるわけで、そのことは否定することのできない事実である。
大事なことは、祖先と同じように子孫にも一人一人かけがえの無い存在であり、個々に命が与えられているという事実である。
どの命が重く、どの命にも主従関係のようなものはない、大切な命。

主イエス様は、その一人一人の命のために十字架で死に、三日目によみがえられたのである。

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マルコ12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

イエス様のところに送られたファリサイ派やヘロデ派の人たちと言うことは、ローマに対して快く思っていない者たちで、イスラエルの国家が独立することを熱望している者たちのほうが多勢であったはずである。
だから、彼らにしてみれば、本心としては、ローマに税金を納めないということを声高に主張したいはずであろう。
しかし、そうすれば、ローマに対する反逆という罪により、捕らえられてしまうはずである。
一方、もしイエス様が仰せられるように、イエス様がダビデの王国の復活をもたらすというメシアであるというのなら、堂々と、ローマに対する税など納めなくても良いと言うべきではないか、というのがファリサイ派やヘロデ派の人たちの考えであったということであろう。
これに対するイエス様の答えが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というものである。
皇帝が作り、世間に広めている貨幣は、皇帝のものを借りて一般の市民が利用しているということなら、それは皇帝に返すべし。
しかし、神が創られたものを我々が利用しているのならば、それは、神にお返しすべきであるということである。
この世界にある全てのものは、もともとは神様が創られたものなのだから、本来なら、全て神にお返ししなければならない。
しかし、この世の秩序もまた、神の許しと権威のもとに委ねられたものであるなら、我々はそれにも従わなければならない。
時に、難しい判断を強いられる時もあるけれど、定められた秩序を守り、平和を保つことも、神の御心にかなったことである。
何が本当に重要なことなのか、その時々で判断しながら、神にお返しする人生を歩んでいければと願うものである。

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マルコ12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

ぶどう園の経営を任された農夫たちは、あくまでぶどう園の持ち主からぶどう園の管理を任されているだけの身分に過ぎない。
それなのに、いつの間にか、自分たちが労苦を重ねたことで、あたかも、このぶどう園のオーナーでもあるかのように錯覚してしまう。

このようなことは、どこででも起こりうることである。

今、私も教会から遣わされて、農園(?)で働いている。
いくらその農園の経営責任を任されているとはいえ、この農園のオーナーは、教会の頭なるキリストに他ならない。
もし、それを忘れて、我が物顔のように振舞おうとするなら、それは、農園の跡取り息子を殺してしまった農夫たちと何ら代わりない。

教会の頭は、われらの主なるキリストである。
キリストの御心に従って、感謝しつつ、与えられた務めを全うできることを望む。

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サムエル下24:1 主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。
24:2 王は直属の軍の司令官ヨアブに命じた。「ダンからベエル・シェバに及ぶイスラエルの全部族の間を巡って民の数を調べよ。民の数を知りたい。」
24:3 ヨアブは王に言った。「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王御自身がそれを直接目にされますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか。」
24:4 しかし、ヨアブと軍の長たちに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブと軍の長たちはダビデの前を辞し、イスラエルの民を数えるために出発した。
24:5 彼らはヨルダン川を渡って、アロエルとガドの谷間の町から始め、更にヤゼルを目指し、
24:6 ギレアドに入って、ヘト人の地カデシュに至り、ダン・ヤアンからシドンに回った。
24:7 彼らはティルスの要塞に入り、ヒビ人、カナン人の町をことごとく巡ってユダのネゲブの、ベエル・シェバに至った。
24:8 彼らは九か月と二十日をかけて全国を巡った後、エルサレムに帰還した。
24:9 ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。
24:10 民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」
24:11 ダビデが朝起きると、神の言葉がダビデの預言者であり先見者であるガドに臨んでいた。
24:12 「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』と。」
24:13 ガドはダビデのもとに来て告げた。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三か月間敵に追われて逃げることか、三日間あなたの国に疫病が起こることか。よく考えて、わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」
24:14 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」
24:15 主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされた。ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。
24:16 御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その手を下ろせ。」主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた。
24:17 ダビデは、御使いが民を打つのを見て、主に言った。「御覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。」
24:18 その日ガドが来て、ダビデに告げた。「エブス人アラウナの麦打ち場に上り、そこに主のための祭壇を築きなさい。」
24:19 ダビデは主が命じられたガドの言葉に従い上って行った。
24:20 アラウナが見ると、王と家臣が彼の方に来るのが見えた。アラウナは出て行き、王の前で地にひれ伏して、
24:21 言った。「どのような理由で主君、王が僕のところにおいでになったのですか。」ダビデは言った。「お前の麦打ち場を譲ってもらいたい。主のために祭壇を築き、民から疫病を除きたい。」
24:22 アラウナは、「お受け取りください。主君、王の目に良いと映るままにいけにえをおささげください。御覧ください。焼き尽くしてささげる牛もおりますし、薪にする打穀機も、牛の軛もございます」と言って、
24:23 何もかも王に提供し、「あなたの神、主が王を喜ばれますように」と言った。
24:24 王はアラウナに言った。「いや、わたしは代価を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしの神、主にささげることはできない。」ダビデは麦打ち場と牛を銀五十シェケルで買い取り、
24:25 そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。

ダビデが行った人口調査は、神の御心に背くものであったというよりも、ダビデが己の力、偉大さを誇らんがために行った行動であるといえる。

成績、業績、成果、この世には、実に様々な数字に表せるデータがあるが、それはあくまで数字に過ぎない。
数字の中に取り込まれてしまっているが、その一つ一つに本来意味がある。
一つのもの、一つの売り上げ、そして、一人の人間。
それだけ多くの恵みを受けているということを知るためならば、その数を計ることも悪くは無い。
しかし、多くの場合、人間が自分の力を慢心するために用いられる。
イスラエルの国に、何十万人もの兵士がいたとして、それは全て、一人一人の人間であり、そこに、一つ一つの家族もあるはずである。
そして、それらの命を与えてくださるのも主なる神。
数字によって見えなくなってしまうところに、きちんと目を向けられるようになりたいものである。

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サムエル下22:1 ダビデは、主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に、次の言葉をもって主に歌をささげた。
22:2 主はわたしの岩、砦、逃れ場
22:3 わたしの神、大岩、避けどころわたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え不法から救ってくださる方。
22:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め敵から救われる。
22:5 死の波がわたしを囲み奈落の激流がわたしをおののかせ
22:6 陰府の縄がめぐり死の網が仕掛けられている。
22:7 苦難の中から主を呼び求めわたしの神を呼び求めるとその声は神殿に響き叫びは御耳に届く。
22:8 主の怒りに地は揺れ動き天の基は震え、揺らぐ。
22:9 御怒りに煙は噴き上がり御口の火は焼き尽くし、炭火となって燃えさかる。
22:10 主は天を傾けて降り密雲を足もとに従え
22:11 ケルビムを駆って飛び風の翼に乗って現れる。
22:12 周りに闇を置き暗い雨雲、立ち込める霧を幕屋とされる。
22:13 御前の輝きの中から炭火が燃え上がる。
22:14 主は天から雷鳴をとどろかせいと高き神は御声をあげられる。
22:15 主の矢は飛び交い稲妻は散乱する。
22:16 主の叱咤に海の底は姿を現し主の怒りの息に世界はその基を示す。
22:17 主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ大水の中から引き上げてくださる。
22:18 敵は力がありわたしを憎む者は勝ち誇っているがなお、主はわたしを救い出される。
22:19 彼らが攻め寄せる災いの日主はわたしの支えとなり
22:20 わたしを広い所に導き出し、助けとなり喜び迎えてくださる。
22:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。
22:22 わたしは主の道を守りわたしの神に背かない。
22:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き主の掟を遠ざけない。
22:24 わたしは主に対して無垢であろうとし罪から身を守る。
22:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目の前にわたしは清い。
22:26 あなたの慈しみに生きる人にあなたは慈しみを示し無垢な人には無垢に
22:27 清い人には清くふるまい心の曲がった者には策略を用いられる。
22:28 あなたは貧しい民を救い上げ御目は驕る者を引き下ろされる。
22:29 主よ、あなたはわたしのともし火主はわたしの闇を照らしてくださる。
22:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らしわたしの神によって、城壁を越える。
22:31 神の道は完全主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に主は盾となってくださる。
22:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
22:33 神はわたしの力ある砦わたしの道を完全にし
22:34 わたしの足を鹿のように速くし高い所に立たせ
22:35 手に戦いの技を教え腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。
22:36 あなたは救いの盾をわたしに授け自ら降り、わたしを強い者としてくださる。
22:37 わたしの足は大きく踏み出しくるぶしはよろめくことがない。
22:38 敵を追い、敵を絶やし滅ぼすまで引き返さず
22:39 彼らを餌食とし、打ち、再び立つことを許さない。彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。
22:40 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ刃向かう者を屈服させ
22:41 敵の首筋を踏ませてくださる。わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。
22:42 彼らは見回すが、助ける者は現れず主に向かって叫んでも答えはない。
22:43 わたしは彼らを地の塵のように砕き野の土くれのように踏みにじる。
22:44 あなたはわたしを民の争いから解き放ち国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え
22:45 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い敵の民は憐れみを乞う。
22:46 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。
22:47 主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ。
22:48 わたしのために報復してくださる神よ諸国の民をわたしの下においてください。
22:49 敵からわたしを救い刃向かう者よりも高く上げ不法の者から助け出してください。
22:50 主よ、国々の中でわたしはあなたに感謝をささげ御名をほめ歌う。
22:51 勝利を与えて王を大いなる者とし油注がれた人を、ダビデとその子孫をとこしえまで慈しみのうちにおかれる。

ダビデは、全ての敵とサウルの手から救い出された日に、このような神を賛美する歌を歌ったと記されている。
その内容は、おおむね、主なる神こそ、自分を救ってくれた救い主であるということであり、あらゆる敵と困難から救い出された感謝と賛美が記されている。
これらの賛美は、ダビデの置かれていた境遇を思いながら読むと、よくわかると思うが、ダビデは神が立てられた王としてのサウルを敬い、できることならば、サウルとの戦いを避けたいと思っていたのだろうと言える。
もちろん、ダビデ自身、サウルを敵とは思っていなかっただろう。
しかし、皮肉にも、自分の尊敬するサウル王から命を狙われるという、耐え難い試練を味わうことになっていったのである。
だから、ダビデの言葉の節々には、直接的にサウルが敵であるというような表現はなるべく避けているよう思われる。
もちろん、ダビデの命を脅かすものは、サウルのほかにもいたために、「敵」という表現も出てくるが、あくまでそれは、ダビデを憎む者たちというくくりの中で用いられている表現であるように思う。
そう考えると、ダビデにとっての「敵」とは、自分の命を狙うサウルや他の者たちというより、命を脅かすこと、死であったり、病であったり、危険な要素全てを含んだものであったのかもしれない。

そのように見ていくと、主イエス・キリストが、私たちのために、私たちの最後の敵である死と戦い、これに打ち勝って下さったという約束の意味も見えてくるのではないだろうか。

1コリント15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。

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サムエル下21:1 ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」
21:2 王はギブオン人を招いて言った。――ギブオン人はアモリ人の生き残りで、イスラエルの人々に属する者ではないが、イスラエルの人々は彼らと誓約を交わしていた。ところがサウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった。
21:3 ダビデはギブオン人に言った。「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろうか。」
21:4 ギブオン人はダビデに答えた。「サウルとその家のことで問題なのは金銀ではありません。イスラエルの人々をだれかれなく殺すというのでもありません。」ダビデは言った。「言ってくれれば何でもそのとおりにしよう。」
21:5 彼らは王に答えた。「わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、
21:6 あの男の子孫の中から七人をわたしたちに渡してください。わたしたちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらし者にします。」王は、「引き渡そう」と言った。
21:7 しかし、王はサウルの子ヨナタンの息子メフィボシェトを惜しんだ。ダビデとサウルの子ヨナタンとの間には主をさして立てた誓いがあったからである。
21:8 王はアヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子、アルモニとメフィボシェトと、サウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、
21:9 ギブオン人の手に渡した。ギブオンの人々は彼らを山で主の御前にさらした。七人は一度に処刑された。彼らが殺されたのは刈り入れの初め、大麦の収穫が始まるころであった。
21:10 アヤの娘リツパは粗布を取って岩の上に広げた。収穫の初めのころから、死者たちに雨が天から降り注ぐころまで、リツパは昼は空の鳥が死者の上にとまることを、夜は野の獣が襲うことを防いだ。
21:11 サウルの側女、アヤの子リツパのこの行いは王に報告された。
21:12 ダビデはギレアドのヤベシュの人々のところへ行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を受け取った。その遺骨はギレアドのヤベシュの人々がベト・シャンの広場から奪い取って来たもので、ペリシテ人がギルボアでサウルを討った日に、そこにさらしたものであった。
21:13 ダビデはそこからサウルの骨とその子ヨナタンの骨を運び、人々は今回さらされた者たちの骨を集め、
21:14 サウルとその子ヨナタンの骨と共にベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの国の祈りにこたえられた。
21:15 ペリシテ人は再びイスラエルと戦った。ダビデは家臣を率いて出陣し、ペリシテと戦ったが、ダビデは疲れていた。
21:16 ラファの子孫の一人イシュビ・ベノブは、三百シェケルの重さの青銅の槍を持ち、新しい帯を付けて、ダビデを討つ、と言った。
21:17 しかし、ツェルヤの子アビシャイは、ダビデを助けてこのペリシテ人を打ち殺した。それ以来、ダビデの家来たちはダビデに誓わせた。「以後、我々と共に戦いに出てはなりません。イスラエルの灯を消さぬよう心掛けてください。」
21:18 その後、ゴブの地で、再びペリシテ人との戦いがあった。このときは、フシャ人シベカイがラファの子孫の一人サフを打ち殺した。
21:19 ゴブで、またペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを打ち殺した。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。
21:20 別の戦いがガトでもあった。ラファの子孫で、手足の指が六本ずつ、合わせて二十四本ある巨人が出て来て、
21:21 イスラエルを辱めたが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を討ち取った。
21:22 これら四人はガトにいたラファの子孫で、ダビデとその家臣の手によって倒された。

イスラエルのうちに起こった飢饉の原因がサウルがかつてギブオン人たちに対して行った愚行にあったことを知ったダビデは、ギブオン人たちに対して、どんな償いをすべきか直接尋ね、サウルの子孫ら7名を彼らに差し出すことになった。
サウルの子孫にとっては、当然の報いなのかもしれないが、ダビデ同様、彼らにとっても迷惑な話である。
なぜなら、罪を犯したのはサウルであり、サウルの子孫には直接関係ない話であり、ましてや、ダビデにとっては、サウルの尻拭いをさせられる結果となっているのである。

こういうことは、いつの時代にも、どの国にでも起こりうることであろう。

そして、この類のことで最も大きな出来事こそ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの御業であると言えるのではないだろうか。
神様は、罪とは何の関係もないお方、主イエス様を私たち罪人の身代わりとして、十字架にいけにえとして捧げられたのである。
その尊い血の代価の故に、我々は罪赦され、永遠の命を約束されている。

ならば、私たちが他人の罪の少々の尻拭いをさせられたからといって、ぶつぶつと不平ばかり申し立てるのはやめようではないか。

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