デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




創世記 2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

詩篇 33:12 いかに幸いなことか 主を神とする国 主が嗣業として選ばれた民は。
33:13 主は天から見渡し 人の子らをひとりひとり御覧になり
33:14 御座を置かれた所から 地に住むすべての人に目を留められる。
33:15 人の心をすべて造られた主は 彼らの業をことごとく見分けられる。
33:16 王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。
33:17 馬は勝利をもたらすものとはならず 兵の数によって救われるのでもない。
33:18 見よ、主は御目を注がれる 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
33:19 彼らの魂を死から救い 飢えから救い、命を得させてくださる。
33:20 我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
33:21 我らの心は喜び 聖なる御名に依り頼む。
33:22 主よ、あなたの慈しみが 我らの上にあるように 主を待ち望む我らの上に。

1コリント 15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。



昨日行われた聖書の学び会は、参加者3名の小さな集まりで、毎週の礼拝も、ほぼその3名で守っている。
はっきり言ってしまえば「田舎の小さな教会」ということであるが、そんな田舎の小さな教会だからこそできる交わりもある。
昨日は、学びが終わったあと、帰りに近くの畑に寄って欲しいと言われて行ってみると、なんと露地栽培のイチゴ畑で好きなだけいちご狩りをして帰って良いという。
一昨日もたくさん収穫したばかりで、収穫や消費が追いつかない感じらしく、ありがたく頂くことにさせてもらったが、露地栽培のいちご狩りなんて、こんな贅沢なことはないのではないかと思うのだが、よくよく考えれば、人はこうやって土から取れる食べ物を食べ生きてきたのだ。
洗ってから食べるように言われたが、畑でもぎ取ってそのまま食べると実に美味しい。
もちろん、ここまでのいちごを実らせるまでに、土を耕したり、どれだけ多くの労力をつぎ込んできたかということは想像に難くない。
それでも、収穫の喜びを味わう事で、全ての労苦も昇華されていくのだ。

蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

畑で収穫したばかりのいちごは、本当に美味しいし、素晴らしい。
私たちの救いの出来事も、きっとそれ以上、言葉に言い表せないくらい素晴らしい出来事なのだろう。



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