聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ユダ 1:17 愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。
1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」
1:19 この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。
1:20 しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。
1:21 神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
1:22 疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。
1:23 ほかの人たちを火の中から引き出して助けなさい。また、ほかの人たちを用心しながら憐れみなさい。肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい。
1:24 あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、
1:25 わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。

終わりの時が近づけば近づくほど、不信人な者はますます不信人な生きへと進む。
反対に、信仰者はますます聖霊に導かれて、信仰の歩みを続けるべきである。
そうなると、ますます価値観や行動なども異なるものとなるだろう。
疑いを抱くものも大勢現れることであろう、けれども、そういう人たちを見捨てるのではなく、憐れみの心を持って、機会があれば助け出すよう求められているのだろう。
この世に生きている限り、その働きは続けていくべきである。
教会とは、そういう群れなのであろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ユダ 1:8 しかし、同じようにこの夢想家たちも、身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざけるのです。
1:9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
1:10 この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。
1:11 不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。
1:12 こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、
1:13 わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。
1:14 アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。
1:15 それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」
1:16 こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。

不信人な人たちは、おおよそ自分のことを棚に上げて、他人に対して批判の言葉を軽々しく浴びせる。
16節にもある通り、そういう人たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、己の利益のために人にこびへつらうような生き方をしているのだろう。
今の時代がこうなったのは、親の世代が悪いとか、社会の指導者たちが悪いと言うが、自分では何も動こうとはしなかったり、とにかく自分の欲しい物は、どのようにしてでも手に入れなければ気が済まず、後先考えずに行動する。
また、口では大きな事を言うが、思いついたことを他人にやらせようとするだけで、自分から行動することはない。極めて無責任なふるまいを行う。
なぜそうなるのかと言えば、自分が楽をしたいからであり、自分は傷つきたくないからであろう。
人の罪の姿とは、おおよそ、そのようなものである。
だからと言って、そのような人を見て、同じように批判していては、同類となってしまうだろう。
そこは大天使ミカエルのように、裁きを自分で下すような仕方で振舞うのではなく、主に委ねることが好ましいのであろう。
あるいは「主が正しい裁きをあなたに下されることでしょう」などと言った言葉を言わなくても、主はいつか必ずその人に業に対する報いをもたらされるのだから、それさえも言う必要はない。
我々のなすべきことは、自分自身の罪と向き合って、その罪のためにイエス様が十字架で死なれたことを思うだけである。
他人のことは他人の責任である。
人の裁きにまで人間には顕現がないことを覚え、主に委ねることでとどめておきたいものである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ユダ 1:1 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
1:3 愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。
1:4 なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。
1:5 あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。
1:6 一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。
1:7 ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。

主なる神様が、その一人子キリストを贖いの代価として十字架で捧げられ、我々人間を救おうとされたことは、驚くばかりの恵みである。
しかし、そのことを信じていながら、己の欲望や、みだらな思いにふけって時を無駄に費やしてしまうことは、大いなる反逆である。
キリストの恵みによって救われた者は、その救いに対して、どう応答するか、どのように生きていくかが日々問われている。
何もしないより、小さなことでも良いから、イエス様を証すること、人の助けとなること、神の御名があがめられることを少しずつでもいいから始めていきたいものである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨハネ 21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

イエス様と同じ時代に生きた弟子たちは、彼らが見たこと、聞いたことを、そのまま記録し、聖書として残されることとなっていった。
しかし、イエス様のなさったことを逐一、細かく書いたのではなく、必要と思われることを記録したのであろう。
それは、イエス様について知るべきことが十分に語られている、ということなのだろう。
我々は、神様のことについて、もっともっと知りたいと思うこともあるが、それはおおよそ、神のことではなく、自分の身の回りに起こることであったりする。
神について語られるべきことは、余すところなく語られており、聖書を読めば、神について知りうることは全て語られている、ということなのだろう。

ヘブル
1:1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

神のなさることは、我々の救いのために御子をお遣わしになったということ。
それが全てである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マタイ 23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

多くの人が、何か身の回りに悪いことが起こると、先祖の祟りなどではないかと考えることが多いかもしれない。
けれど、自分が犯した罪に対して、自分が責任を負う、というのが当然であるし、神の国でも同様のことが述べられていると言えるだろう。
自分の罪の責めは、いつか必ず自分自身が支払うことになる。
ただ、唯一、イエス様を信じるならば、その責めは、イエス様があの十字架で支払って下さる。
キリストを信じる信仰は、一人一人の罪の問題でもあり、一人一人とイエス様との関係でもある。
先祖は先祖、私は私。
自分自身の悔い改めを怠り、まるで先祖が悪いかのように考える事は、まさに無責任でしかない。
そのことを踏まえ、まずは自分自身を顧み、その上で、あのキリストの十字架が私のためであり、私の身代わりであり、本来の私の姿であったことを覚え、それゆえに赦された喜び、救われた者の平安を味わうものでありたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨハネ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

この世は邪悪に満ちており、今にも終末がやってきそうなほど混乱しているように見えるかもしれない。
一部の人は、もう早くこんな世は終わらせて、御国が到来するか、自分が召されることを願っている人もいるかもしれない。
けれど、主なる神様は、この世を創られ、世を愛されたのである。
もちろん、罪や悪を愛しているのではない。
ただ、この世に生きる我々を愛し、希望の光を見せ、どんな世であろうと、そこに生きる者に慰めと励ましを与えようとしておられるのであろう。
そうでなければ、イエス様が人の子として、この世に生まれてこられた意味がないからである。
むしろ、こんな世の中だからこそ、そこに生きることの喜びや感謝が見いだせたなら、どんなに幸いであろう。
自分から失望し、自分から世を見捨てるような生き方ではなく、イエス様がそうされたように、共に歩んでいくことを選んでいけたら幸いなのだろうと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ハガイ 2:20 同じ月の二十四日 主の言葉が再びハガイに臨んだ。
2:21 「ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす。
2:22 わたしは国々の王座を倒し 異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も 互いに味方の剣にかかって倒れる。
2:23 その日には、と万軍の主は言われる。わが僕、シェアルティエルの子ゼルバベルよ わたしはあなたを迎え入れる、と主は言われる。わたしはあなたをわたしの印章とする。わたしがあなたを選んだからだ」と 万軍の主は言われる。

同じ月の二十四日とは、直前の18節の日と同じであり、主の神殿の基が置かれた日である。
基、すなわち、基礎の部分だけであって、神殿が完成したわけでもない。
しかし、基礎が定まったなら、もはや、完成したも同然のごとく、事が行われていく。

キリスト教会の礎は、言うまでもなく、キリストの十字架と復活による救いの約束である。
これが行われた以上、もはや救いの全ては完成している。

ヨハネ 19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

現代の教会が目指すべきところがあるとするなら、理想の教会像などがあるわけでもなく、常にこの礎に立ち返ることである。
大きな教会も、小さな教会も、聖書のみ言葉に立ち返り、み言葉に語られた救いの約束に信頼するという基本を忘れないように歩んでいきたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ハガイ 2:10 ダレイオスの第二年九月二十四日、預言者ハガイに主の言葉が臨んだ。
2:11 「万軍の主はこう言われる。祭司たちに、律法について尋ねなさい。
2:12 『もし、だれかが、聖別された肉を衣の裾に入れて運んでいて、その裾がパン、煮物、ぶどう酒、油、そのほか何かの食物に触れたとする。これらのものは聖別されるだろうか』と。」祭司たちは答えて、「されない」と言った。
2:13 ハガイは言った。「もし、死体に触れて汚れた人が、これらのものの何かに触れたとする。これらのものは汚れるだろうか。」祭司たちは答えて、「汚れる」と言った。
2:14 ハガイは答えて言った。「わたしにとって、この民はまさにそのようだ。この国はまさにそのようだ、と主は言われる。彼らの手の業もすべてそのようだ。彼らがそこにおいてささげるものは汚れている。
2:15 今日この日から以後、よく心に留めよ。主の神殿の石を積み重ねる前に
2:16 お前たちはどんな状態であったか。人が二十エファの小麦の山に来ても 十エファしか得ず 五十バトのぶどう酒をくもうと酒ぶねに来ても 二十バトしか得なかった。
2:17 わたしは、お前たちを その手の働きの実もろとも 黒穂病と赤さび病と雹で撃ったが お前たちのうちだれひとり わたしに帰らなかった、と主は言われる。
2:18 この日以後、よく心に留めよ。この九月二十四日 主の神殿の基が置かれたこの日から、心に留めよ。
2:19 倉には、まだ種があるか。ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブは まだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。」

汚れ、災い、そして、豊かさ。
相互に無関係のようで、いろいろと複雑に絡み合っているのかもしれない。
神を敬えば、即、幸いだとか、豊かになれるだとか、それほど物事は単純ではないだろう。
けれど、長い目で見れば、どこかでつながっていくのかもしれない。
とにもかくにも、人は誠実に生きていくことを大事にしていくことだ。
そうすれば、必ず、周囲の人は、何等かの助けとなってくれるだろう。
そもそも、主なる神様は、私たちを祝福したいと願っているにも関わらず、我々の側のひねくれた心ゆえに、受け取れなくなっているだけなのだろう。

イザヤ59:1 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
59:2 むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。

自分の周囲の者をとやかく言う前に、まずは自分を顧みる事を心がけていきたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヨハネ 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

先週土曜日に意図せず、こちらの箇所を読んだ。
改めてこの箇所を読んでみて、イエス様の配慮というか、弟子たちを思う心を汲み取ることができる。
イエス様は、意固地になっているトマスに対し、すぐには現れず、八日たってから、改めて、トマスに対して声をかけておられる。
1週間の時が与えられたトマスは、彼なりに悩んだことだろうし、言い過ぎた自分を顧みる時間が持てたのではないだろうか。
それゆえに、28節のような言葉がトマスの口から出たのかもしれない。
イエス様はいつでも待っておられる。
悔い改めて、イエス様の恵みを素直に受け取ることができるように、配慮をされ、優しく導き、そして信仰者へと整えて下さるのだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ハガイ 2:1 七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。
2:2 「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。
2:3 お前たち、残った者のうち 誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。
2:4 今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと 主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると 万軍の主は言われる。
2:5 ここに、お前たちがエジプトを出たとき わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。
2:6 まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度 天と地を、海と陸地を揺り動かす。
2:7 諸国の民をことごとく揺り動かし 諸国のすべての民の財宝をもたらし この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。
2:8 銀はわたしのもの、金もわたしのものと 万軍の主は言われる。
2:9 この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると 万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と 万軍の主は言われる。

おおよそ、イスラエルの民にとって、エルサレムの回復と復興は、主なる神の栄光の現れと救いの完成の時であると考えているのかもしれない。
しかし、それは、あくまで象徴に過ぎない。
目に見える街や神殿などは、歴史が証明しているように、復興しても、また争いが起これば荒廃する。
そのような目に見えるモノに栄光を求めている限り、同じことが繰り返される。
聖書が語っている栄光とは、そのような地上的な限定的なものではなく、霊的、かつ永遠なるものである。
神の霊がお前たちの中にとどまっている、と主は仰せられる。
これが何より幸いな約束であり、栄光の現れである。

ローマ10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。

今日もこのみ言葉を口ずさみながら、主が御言葉と共におられることを感謝しつつ、栄光のうちを歩んでいきたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ