デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ書 42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。
42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。
42:7 見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
42:9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

詩篇 98:1  賛歌。 新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。
98:2 主は救いを示し 恵みの御業を諸国の民の目に現し
98:3 イスラエルの家に対する 慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た。
98:4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
98:5 琴に合わせてほめ歌え 琴に合わせ、楽の音に合わせて。
98:6 ラッパを吹き、角笛を響かせて 王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
98:7 とどろけ、海とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものよ。
98:8 潮よ、手を打ち鳴らし 山々よ、共に喜び歌え
98:9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き 諸国の民を公平に裁かれる。

使徒 10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
10:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
10:36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、
10:37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。
10:38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
10:39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、
10:40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。
10:41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。
10:42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
10:43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」


救いとは何か、ということを時々考える。
イエス様の十字架の贖いにより、すべての罪を赦されて、永遠の命を与えられて神の御国に入れて頂けること、そんなイメージであろうか。
しかし、それは聖書に精通したクリスチャンのもっている知識のようなもので、聖書のことをあまり知らない一般の方にとっては、なかなかなじみの薄いものであるだろうし、あまりピンとこないのではないかと思う。
もう少し普遍的な表現で、誰にでも分かりやすい言葉や表現がないものかと考えてみるが、なかなか良い表現が思い当たらない。
それほど「救い」と言う出来事が特別なことだからなのだろう。
しかし、こうしたことは、私たちだけに限ったことではなく、イエス様の弟子たちもそうであったに違いないし、彼らもまた、どういう言葉を用いて伝えて行けば良いか、考えながらイエス様の救いの御業について語っていたのであろう。
使徒10章の箇所には、律法の言葉を知らない異邦人へと宣教が拡がっていくきっかけとなった出来事が記されているが、ペテロの言葉にはそういった思惑がにじみ出ているようにも見える。

「神は人を分け隔てなさらない。
どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる
イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた
人々はイエスを木にかけて殺してしまったが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださった
 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対して
 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになった」

ペテロのこうした言葉には、難しい表現はない。
ただ、死者が復活したということについては、信じない人もいるかもしれないため、受け入れてもらえるかどうかは、その人次第のところもあるだろう。
ただ、神が私たちを受け入れて下さるといった言葉や、苦しんでいる人達を癒して下さるといった言葉は、多くの人々に受け入れてもらいやすい言葉であると言えるだろう。
多くの人に聞き入れてもらえるように、できるだけ分かりやすい言葉で、端的な表現で、イエス様の救いの御業をお伝えしていけたらと思う。



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