聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ 11:11 その日が来れば、主は再び御手を下して御自分の民の残りの者を買い戻される。彼らはアッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた者である。
11:12 主は諸国の民に向かって旗印を掲げ地の四方の果てからイスラエルの追放されていた者を引き寄せユダの散らされていた者を集められる。
11:13 エフライムのねたみは取り去られユダの敵意は断たれる。エフライムはユダをねたまずユダはエフライムに敵対しない。
11:14 彼らは、西のペリシテを側面から襲い共に、東の民を略奪する。彼らはエドムとモアブを支配しアンモンの人々を服従させる。
11:15 主はエジプトの海の入り江を干上がらせ御手を大河の上に振って、強風を起こしそれを打って七つの流れとしサンダルのまま渡れるようにされる。
11:16 エジプトの地から上った日にイスラエルのために備えられたようにアッシリアに残されていたこの民の残りの者にも、広い道が備えられる。

全世界にちりじりにされていたイスラエルの民は、神の恵みに導きによって、再び呼び集められ、一つにされる、ということが約束されている。
イスラエルにとって、回復の時であり、それは喜ばしい救いの出来事と言えるだろう。
しかし、これらのことは、神がイスラエルの民を通して預言された救いの出来事の預言でもあり、単純に、全ての国民がイスラエルに集結する、というのではない。
集められるのは、主の御国である。
聖書のみ言葉が語られ、キリストのもとに召し集められ、そして、神と結ばれて一つ民となる、そのような約束こそ、ここで語られている事柄の本質であろう。
我々も、失われていた者、散らされていた者であり、イエス様の贖いの御業によって神に買い戻された者である。
イスラエルの民がエジプトを脱出し、バビロンから解放され、世界中に散らされたところから、残りの者たちが召し集められたように、我々も大いなる喜びを持って主の御前に立たせていただいているのである。


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イザヤ 11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。
11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。
11:4 弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
11:5 正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。
11:6 狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。
11:9 わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。
11:10 その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

救い主なるキリストは、我々と同じ人間として、この世に来られた。
しかも、その姿は、我々人間と全く同じ、一人のみどりごとしてお生まれになった。
なぜそのような仕方だったのかということを考えた時、全ての人と同じ、か弱い存在となられることで、弱く、小さな者たちの立場に立って物事を考え、行動することができるからなのだろう。
弱いものたち、小さな者たちの苦しみを理解することができるのは、同じ立場にある者だけであろう。
ならば、この世に公平な裁きをもやらすことができるのは、ひょっとすると、このような幼子たちなのかもしれない。
誰もが、弱く、小さい、幼子の頃があったはず。
その頃のことは、すっかり忘れてしまったが、心だけは、幼子のままでいたいものである。

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イザヤ 10:20 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
10:21 残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。
10:22 あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びは定められ、正義がみなぎる。
10:23 万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただ中で行われるからだ。
10:24 それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。
10:25 やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる。
10:26 万軍の主は、彼らに対して鞭を振るわれるかつて、オレブの岩でミディアン人を打たれたように。またエジプトでなされたように杖を海の上に伸ばされる。
10:27 その日が来ればあなたの肩から重荷は取り去られ首に置かれた軛は砕かれる。」
10:27 彼らはリンモンの前から上って
10:28 アヤトに着き、ミグロンを過ぎてミクマスに軍需品を配置した。
10:29 彼らは峠を越え、ゲバに露営した。ラマは震え、サウルのギブアは逃げ去った。
10:30 娘ガリムは叫び声をあげよ。ライシャは耳を傾け、アナトトは彼女に答えよ。
10:31 マドメナは逃げて行きゲビムの住民は避難した。
10:32 更に今日、彼らはノブに立ち娘シオンの山、エルサレムの丘に向かって進軍の手を振り上げる。
10:33 見よ、万軍の主なる神は斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。
10:34 主は森の茂みを鉄の斧で断ちレバノンの大木を切り倒される。

「残りのもの」という独特な表現で神の不思議な恵みの業が語られている。
普通、残り物と言えば、良いものを選び取ったあとの残りであったり、力のない者たちや取り残されたものたちといった意味で用いられることの多い言葉である。
しかし、神の裁きを受けた者たちを取り除いたあとの残りのものたちという意味では、逆に救いに選び取られた者たちという意味にもなるのである。
そんな「残りのもの」たちに、主なる神様は救いと平和を約束されるのである。

マタイ 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

次の日曜日の日課のみ言葉である。
まさに、ここで語られていることにつながる内容であると言えるだろう。
弱いもの、疲れた者、病んだ者、重荷を負う者であることの故、キリストと出会い、救いに導かれる。
感謝なことである。

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イザヤ 10:5 災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。
10:6 神を無視する国に向かってわたしはそれを遣わしわたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ野の土のように彼を踏みにじれ」と。
10:7 しかし、彼はそのように策を立てずその心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと多くの国を断ち尽くすこと。
10:8 彼は言う。「王たちは、すべて、わたしの役人ではないか。
10:9 カルノはカルケミシュと同じではないかハマトは必ずアルパドのようになりサマリアは必ずダマスコのようになる。
10:10 偶像を持つ国々エルサレムにもサマリアにもまさる像を持つ国々を既に手中に納めたように
10:11 そして、サマリアとその偶像にしたようにわたしは必ずエルサレムとその彫像に対して行う。」
10:12 主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。
10:13 なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い彼らの蓄えた物を略奪し力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。
10:14 わたしの手は、鳥の巣を奪うように諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるようにわたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなくくちばしを開いて鳴く者もなかった。」
10:15 斧がそれを振るう者に対して自分を誇りのこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。
10:16 それゆえ、万軍の主なる神は太った者の中に衰弱を送り主の栄光の下に炎を燃え上がらせ火のように燃えさせられる。
10:17 イスラエルの光である方は火となり聖なる方は炎となって一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。
10:18 森も牧場も魂から肉まで焼き尽くされくずおれて、倒れる。
10:19 森に残る木は数少なく幼子でもそれを書き留めうる。

神がイスラエルを懲らしめるために用いようとされたアッシリアは、神の命令に従わず、ことごく国を滅ぼし尽くすことを選択していった。
それは、アッシリア自身が驕り高ぶったことによるものであり、神が用いたのではなく、自分たちの力の大きさを示すためだけにその力を用いようとしたからである。

どんな道具も、用い方次第で、結果は異なる。
人も同じであり、どんなに有能で、有益な働きをなす者でも、その目的がどこにあり、おのが力を示すためだけに力を用いたり、自己都合を優先するような仕方でその力を用いても、神はそれを祝福しない。
神の御心に背いているのだから当然であろう。
戦争が良いのか悪いのかという問題は残るものの、どのように国を支配し、統治していくかという点では、神の御心に沿う仕方でのやり方があるのだろうと思う。
人々が神の御心に従って、互いに人を活かし、人がそれぞれに役割を担い、喜んで生きる、そんな世界になることを切に祈るものである。

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マタイ 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

今、この国を揺るがしている政治の問題は、国民すべてが疑念を抱く事態となっている。
国会での答弁を見ていても、嘘をついているか、ごまかしているとの印象はぬぐえないし、記憶がないとか記録がないといった言い訳を連発している。
そんな記憶力もなく記録する能力のない人に大事な仕事を任せておいても良いのだろうか。
上に立つものがこのような有様なら、国民がみな、人は平気で嘘をついて良いし、ごまかしていいし、都合が悪くなれば記憶が無いと言っておけば良いと思うようになって良いということを推奨するようなものだろう。
以前はムキになってしまったので、今回は丁寧に対応する、とのことだが、何のためか、自己保身のためではないか。
今こそ、この国の指導者から、聖書の言葉に耳を傾けていく必要があるのではないだろうか。
上に立つものが誠実な生き方を続けていれば、国民もみなそれに従っていくものであるのだから。

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イザヤ 8:23 先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

イザヤ書には、数多くのメシアに関する預言の言葉が記されているが、その中でも最も有名な預言の言葉の一つである。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれる。
権威がその子の肩にあり、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられ、ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがなく、王国は正義と恵みの業によって永遠に王国が立て上げられ、それによって、暗闇の中を歩んでいた民は光を見ることとなる。
これがメシア(救い主)なるキリストに関する預言であり、イエス・キリストの出現によってこれらの事がが実現したのである。
キリストによってもたらされた神の国は、この世の国とは異なり、目に見えるような形はなく、統治の仕方も独特であり、恵みにより、永遠の命の約束が与えられている。
ただ、それゆえに、キリストがこの世に一人のみどりごとしてお生まれになった時、人々はなかなかこの方を真のメシアとして受け入れがたかったのであろう。
全ての点で人間と同じようになられたお方だからこそ、見た目には普通の人と、何ら変わりない弱々しい人でしかなかったのである。
そして、遂に、十字架の死に至るまで、弱々しい人の姿のまま、罪に対する裁きを受けてくださったのである。
全ては、弱々しく、罪の清算を何一つ自力でできない私たちのために身代わりとなって下さったのである。
これが神のなさった救いの御業であり、我々にはできないことを全て神の御子キリストが成し遂げて下さったからこそ、我々は真の光を見、まことの喜びと平安を得ることができるのである。

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イザヤ 8:1 主はわたしに言われた。「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。
8:2 そのためにわたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカルヤを、信頼しうる証人として立てた。
8:3 わたしは女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。
8:4 この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。」
8:5 主は重ねてわたしに語られた。
8:6 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒みレツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。
8:7 それゆえ、見よ、主は大河の激流を彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし至るところで堤防を越え
8:8 ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼はインマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」
8:9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。
8:10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。
8:11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。
8:12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。
8:13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。
8:14 主は聖所にとっては、つまずきの石イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩エルサレムの住民にとっては仕掛け網となり、罠となられる。
8:15 多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ罠にかかって捕らえられる。
8:16 わたしは弟子たちと共に証しの書を守り、教えを封じておこう。
8:17 わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるがなおわたしは、彼に望みをかける。
8:18 見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。
8:19 人々は必ずあなたたちに言う。「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。
8:20 そして、教えと証しの書についてはなおのこと、「このような言葉にまじないの力はない」と言うであろう。
8:21 この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。
8:22 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。
8:23 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。

ユダの民にとって、ダマスコやイスラエルの同盟という事態は、大いに恐るべきことであったに違いない。
しかし、主なる神様は、イザヤを通して、どんなに強大な軍事力であろうと、主が一たび御手を動かせば、すぐにでもそれらを打ち倒すことができることを告げ、軍事力に頼るのではなく、神の御言葉により頼むように戒めるのである。

軍事力は、人間が用いることのできる最強の力である、と人間は信じている。
しかし、ここでの神のメッセージは、どんなに軍事力を誇ったとしても、マヘル・シャラル・ハシュ・バズの名のごとく、どんな軍事力でも速やかに取り除かれてしまう、ということなのだろう。
人は、人を殺すことはできるかもしれないが、生かすことはできない。
人を殺すも生かすもできる唯一のお方、神をあがめたい。

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イザヤ 7:18 その日が来れば主は口笛を吹いてエジプトの川の果てから蠅をアッシリアの地から蜂を呼ばれる。
7:19 彼らは一斉に飛んで来て深い谷間や岩の裂け目に宿りどの茨にも、どの牧場にも宿る。
7:20 その日には、わたしの主は大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。
7:21 その日が来れば人は子牛一頭、羊二匹の命を救いうるのみ。
7:22 しかし、それらは乳を豊かに出すようになり人は凝乳を食べることができるこの地に残った者は皆、凝乳と蜂蜜を食べる。
7:23 その日が来ればぶどうの木を千株も育てうるところ銀一千シェケルに値するところもすべて茨とおどろに覆われる。
7:24 茨とおどろがこの地を覆うので人は弓矢を持ってそこへ行かねばならない。
7:25 鍬で耕されていた山々にも人は茨とおどろを恐れて足を踏み入れずただ牛を放ち、羊が踏み歩くにまかせる。

主の裁きがなされると、地は荒廃し、茨やおどろに覆いつくされるだろうと語られている。
かつて、千株ものぶどうの木が生い茂っていたぶどう畑も、茨に覆われてしまうという。
いかにも荒廃した様子のように描かれているが、神が創られた自然という観点から言えば、特別に不思議な事でもない。
ただ、人間にとって都合が良いか悪いか、豊かな実りをもたらすかどうか、あるいは、人がその畑を整備し、維持管理できているかどうか、それだけの違いであろう。
つまり、荒廃とは、人の手が入らないため、人間の願うような収穫を得ることのできない状態、とも言える。

世界が荒廃している、と考えるのは、地が人間にとって豊であると思える産物をもたらしていないからであるが、そのために人が労して実りを得ようとしていないからなのかもしれない。
人は働かなければ実りを得られず、豊かにはなれない、ということなのだろう。
神から与えられた勤めを己のなすべき仕事として受け入れ、感謝し、誠実に実りをもたらしていくために額に汗を流し、労していけたら、と願う。

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イザヤ 7:1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
7:2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
7:3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、
7:4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
7:5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、
7:6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、
7:7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。
7:8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)
7:9 エフライムの頭はサマリア サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
7:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。
7:15 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。
7:16 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。
7:17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

ウジヤの孫アハズの時代に、アラムとイスラエルが同盟を組み、ユダに侵攻してきたことで、アハズは恐怖におののくことになる。
人はいつの時代でも、兄弟な軍事力の前に脅威を感じるもの、アハズもまた、強大な同盟軍の軍事力を畏れたのである。
そんなアハズに、主なる神様はイザヤを通して「主なる神にしるしを求めよ」と語られるのであるが、アハズは目の前の脅威にすっかり恐れおののいてしまい、神の御言葉に耳を傾けようとしなかったのである。
そこで、主なる神様は、この時代の王国はやがて滅び、その後、神のしるしとして、おとめが身ごもって男の子を生み、その名はインマヌエルと呼ばれるであろう、と告げられたのである。
まさに、イエス・キリスト誕生の預言である。

目の前の脅威におぼえるアハズにとって、これから生まれてくるだろう幼子に期待したところで、その子が成人する頃には、自分も生きているか分からないし、そんな約束に、どう頼れば良いのかとつぶやきたくなったかもしれない。
けれども、これが主なる神様の救いのご計画なのである。
強大な軍事力よりも、平和をもたらす救い主こそ、人が最もおそれるべきお方なのだ。

かつて、ローマの時代に、クリスチャンたちに対する迫害が激しくなり、多くの殉教者が出た。
しかし、迫害しても、なお、信仰を保ち続ける信徒たち、あるいは、増え続ける信徒たちを見て、ついに、ローマはキリスト教を公認することになっていくのである。
軍事力よりも、非暴力による抵抗を続けさせる信仰の力こそ恐るべきものと知らしめることとなったのだろう。

かつて強大な軍事力で日本に勝利したアメリカも、その後の日本の平和的・経済的な復興を見て、経済的には完全に負けたと言わしめた時代もあった。
戦争をするよりも、平和を維持することのほうが、より難しく、かつ、尊いからであろう。
真の平和をもたらすのは、キリストの十字架の贖いによる救いの約束のみである。
これが最も尊く、おそるべきことなのではないだろうか。

そのことを実現したイエス様の十字架と復活を、求めていこう。
あらゆる困難も苦痛も迫害も、全てを味わい尽くし、全てに勝利され、栄光となられたお方に、しるしを求めていこう。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

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イザヤ 6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよいよく聞け、しかし理解するなよく見よ、しかし悟るな、と。
6:10 この民の心をかたくなにし耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなくその心で理解することなく悔い改めていやされることのないために。」
6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく家々には人影もなく大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
6:13 なお、そこに十分の一が残るがそれも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

7月17日に、日本福音大阪教会にて、宗教改革500周年記念合同礼拝なるものが行われ、大勢の方が集い、共に礼拝にあずかることができた。
その中で、教会讃美歌235番を賛美した時、「聖なる万軍の主」と三回繰り返すところが分かりにくかったようで、途中から会衆の賛美が乱れてしまって、どこを歌っているのかわからなくなった人たちが続出した。
あまりなじみのない讃美歌だったために、多くの方々が歌詞よりも楽譜の方を注視していただろうし、「三回くりかえす」と記されているところが少しかすれていて「二回くりかえす」のように見えていたことも影響したかもしれない。
楽譜の右下に、きちんと歌詞の全部が記されていたので、ここを三回繰り返すということは、わかる人にはわかるし、そもそも聖書のイザヤ6章の歌であるということを知っているならば、ここは三回繰り返すのは当然でしょう、と言われるかもしれない。
けれど、それは知っている者の傲慢であり、不慣れな人にも参加しやすくしてもらうためには、もう一工夫、配慮が必要だったのでは?とも思う。
たとえば、少人数でも聖歌隊を置くとか。

いずれにしても、この讃美歌は、預言者イザヤが見た幻を歌ったものであり、今日の日課の箇所と結びついた素晴らしい賛美であることには違いない。
それだけに、きちんと唱和できれば、なお良かったなあと思う。
イザヤが見たセラフィムとは、どんな姿であったか。
また、それがどれほど力強い賛美の歌であったか。
神殿の敷居が揺れ動いたほどであるというのだから、相当な力強さであったことだろう。
そう思うだけに、余計に残念な出来事であったが、中にはきちんと三回繰り返して歌われた方もいらっしゃるだろうし、そもそも賛美したのは我々人間ではなくセラフィムなのだから、よしとしましょう。


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